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「生」と「死」が持つエネルギー

ACIDMANの「大切な綺麗ごと」

1年前の2018年3月2日。僕は嗚咽とともに泣いていた。

自分の分身が生まれたのだ。

今となれば、必死の思いで頑張った妻を見て、とか、

あまりに小さくてあまりに儚い命の尊さに感極まって…

という風に、涙の理由付けはどうとでもできる。
 
でも、実際はその瞬間、そんなことは微塵も考えていなかった。

というより、何も考えられなかった。

ただただ溢れる涙を止めることができず、ただただ愛する人の手を握るしかできない。
 
まるで、見えない強い力に、心の中をまっさらにされたような感覚だった。

ただ僕は、この特異な感覚を、過去に一度だけ味わっている。
 
母が天国に旅立った日のことだ。

その日も同じように、頭の中が真っ白になり、涙を止められない。

とにかく、愛する母の手を握ることしかできなかった。
 
生きることと、死ぬこと。

それは、真逆なことのように思える。というか、実際に相反することだ。

でも、そのどちらの場合も近しい人間にとっては、心が「真っ白に染まる」重大な出来事という意味では変わりがないと言える。
 
誰しも、誰かの死なんて経験したくない。

できることなら、ずっと平和で幸せな生活を送りたい、そう願っている。

でも、それは不可能だ。死があるから「幸せ」という感情も生まれる。
 
それを教えてくれたのが、ACIDMANという3ピースロックバンドだ。

音楽は自由で、何を歌ってもいい。

とにかく楽しいだけの内容はもちろん、たとえ誰かや何かを批判したり、糾弾したりする内容を歌ってもいいものだ。

もっと言うと、歌詞に載せて何かを歌う必要すらない。

何を表現してもいいからこそ、音楽のジャンルは多岐に渡っているし、僕自身も様々なジャンルの音楽を聴く。
 
そんな中でも、ACIDMANが歌うテーマは他とは大きく違う。

ACIDMANというバンドはデビューから20年以上、「生と死」が掲げる3つのテーマを源流とした思想を音でアウトプットしている。

…なんて偉そうに書いているけど、これはあくまで僕の解釈ですのであしからず。
 
さて、その3つのテーマとは、

①広大な宇宙には果てがない
まるで太平洋を泳ぐメダカのように当てもなく、生きる術もあるかどうかわからないような世界。そんな世界で、酸素や水などに恵まれた地球で生きているという奇跡。

②どんな人間であろうと必ず死ぬ
まぎれもなく本当に死ぬ。しかも、残酷なことにその瞬間がいつかはわからない。

③生きている奇跡と、必ず死ぬという事実が命を意味のあるものにする。

ということ。

何だか小難しい話のように聞こえるけれども、要は「いつか死ぬことを頭の片隅においておけば今を最大限楽しめるよね。だから楽しもうぜ」という考え方だ。
 
ACIDMANのライブに何度も足を運んでいるが、大木伸夫はMCで必ず次のような話をしている。

「俺たちはいつか必ず死にます。今日という日も二度とありません。ですからこの1分1秒がかけがえのないもの。悔いのない時間をともに過ごしましょう。」

彼らの活動の根幹には、このメッセージが常にあるのだろう。

何度も何度もこのメッセージを聞いてきた。

ただ、正直に言って毎日・毎時間をかけがえのないものとして生活できるかというと、多くの人はできないだろう。僕もできない。

ましてや子供の面倒を見ていると、ますます毎日が怒涛の日々となり、1分1秒なんて考えている暇なく過ぎていくもの。

「え?もうあれから1年?早すぎる…」ってのが正直なところだ。
 
となると、ACIDMANのメッセージはあくまで理想論や、少し乱暴な言い方かもしれないが、ただの綺麗ごとにも聞こえる。

実際、20代の頃はACIDMANが唱える「生と死への思想」に対して、少しばかり大仰な印象を抱いていたものだ。

「壮大なテーマすぎてピンとこない」という感じで、僕の心には刺さっていなかった。

ただ、実際はそうではなく「心に刺さっているのに気づいていない」状態だったのだと思う。
 
たとえ彼らのメッセージが理想論や綺麗ごとだったとしても、それの何が悪いのか。

彼らが発するメッセージは、「綺麗ごとでも何でもいいから、その事を音楽で思い出すきっかけになりたい」ということではないだろうか。

いや、この点に関しては「そうだ」と断言したい。
 
多くの人が大人になればなるほど、時間や経験の大切さを重視しなくなる。
 
だからこそ僕は、ACIDMANというバンドは

「大切だけど忙しくて忘れてしまいがちな『今を最大限に愛おしむこと』」

を、常に意識し続けさせてくれる存在である、と考えている。
 
毎日にゆとりがある人もない人も、
充実している人もしていない人も「今」は1回しかないわけで、

それを常に意識することで考え方や行動が変わってくる。

いや、ひょっとしたらそんなに大きくは変わらないかもしれない。

だけど、「今は一度きりだ」と意識をすること・知っておくことで、

ほんの少し毎日に楽しさを見つけられたり、心にゆとりができるかもしれない。

その程度のわずかな変化でも構わない。

その可能性があるならば、
理想論だろうと綺麗ごとだろうと頭に留めておくべきなんだ。
 
頭に留めておくことなんてできねーよ。すぐ忘れちゃうよ。

その気持ちは、すごくよくわかる。

でも、そんなときでもACIDMANの音楽を聴けば、すぐにこのことを思い出せる。

何となくでも「死」と「生」を意識しなおすことができるのだ。
 
そして、こんなメッセージを発信し続けているバンドが他にいないからこそ、彼らは唯一無二の存在として異才を放っているのではないだろうか。
 
気づけば、ACIDMANの音を初めて聴いてから約20年。

20年前とは日本や世界を取り巻く環境も大きく変わった。

携帯電話・ネットワークなどの技術が飛躍的に発展。街の景色もずいぶんと変わっている。

僕はといえば、すっかり大人になり家庭も持って、あの頃とは生活スタイルが全然違う。

そんな中、ACIDMANの音やテーマは、1stアルバム『創』の頃からほとんど変わっていない。

遺伝子・原子レベルで命について歌っているか
愛という感情を絡めて命について歌っているか

というような違いこそあるが、「生と死」に対して一貫した思いは変わらないままだ。
 
この「ブレない」ことと、変わり続ける音楽シーンに「媚びない」精神を保ち続けるということは簡単ではない。

ACIDMANは音楽で伝えたいことの源流に「人は死ぬ」ことがあるからこそ、「死ぬ気」でブレずに、媚びずに、現在も活動を続けられているのだと思う。
 
我が子の誕生と母の話に戻る。
 
それぞれ、「生と死」つまり「ポジティブとネガティブ」で、
方向こそ真逆だが、ベクトルの強さは同じ。

僕の心に突き刺さり、思考を止め、涙が止まらなくなったのだから。
 
その心に、スッと入り込んできたのが、『愛を両手に』という曲だった。
 
大木氏が祖母の死をきっかけに紡ぎ出した、
彼らにとってただひとつのストレートなラブソング。
 
僕の心にくっついて離れなかったのが、エンディングの

“真っ白に 真っ白に 染まれ”

という言葉。
 
人は死ぬし、新しい命もまた生まれる。

それはとてもとても悲しいことだけど、素晴らしいこと。
 
でも、普通の心では、そんな簡単に切り替えられない。

だからこそ、つらいことがあったときも
嬉しくてたまらないことがあったときも

心を「真っ白に染める」ことで、余計な感情を大量の涙とともに洗い流してリセットする。
 
そうすることで、次の一歩を踏み出すきっかけを作れるのではないか。
 
僕にはそのように聞こえ、ずっと引きずっていた悲しい過去が、生きる力に変わった。
 
そして、子供が生まれた時には、心をもう一度「真っ白に染める」ことで、毎日を最大限楽しもうという気持ちにしてくれた。
 
音楽にはいろんな力があると本気で信じているが、ここまで死生観について意識させるバンドは後にも先にも出てこないだろう。

ましてや、何億年という地球と宇宙の歴史のうち、たったの80年ほどにも満たない僕の人生で、ACIDMANというバンドに出会えた。
 
その奇跡を、一度きりのこの人生で、ずっと噛みしめていたい。
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