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春がいっぱい

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2022.03.29

『スラム街の悲しい目をした犬』

豊田道倫

 目の前の悲しい目をした犬がずっとこっちを見ている。放し飼いがあたりまえの街のど真ん中で。私も未知の国、未知の街に流れて来て、なぜか、まだ生きている。何でだ。犬の尻尾が極端に短いのは喧嘩で噛みちぎられたのか。悲しい目をしている理由はきっと、永遠にわからない。見つめ合ってる時はわかった気はしたけど。側に置いてある私の缶コーヒーを狙っているのか、八十円のブラックコーヒー。泥水かと思うくらい不味かった。こんなもの犬畜生に幾らでもくれてやる。
 ようやくありつけた住み込みの仕事を三週間やって、終えて、また、この街に戻って来た。定宿の安宿にボストンバッグだけ置いて、また外に出た。なるべくあの狭くて暗くて空気の悪い、死臭がする部屋には居たくなかった。できるだけ酔っぱらって意識も言語も失くして五感を麻痺させてから部屋に戻れたらと思うが、最近酒を飲む体力が失くなったのか、あまり飲めなくなってしまった。どこか内臓が悪いのかもしれない。いっそこのまま血反吐を吐いて死ねたらと思うが、まだ身体や心の奥底にある炎は小さいながらも消えようとはしていないようだ。

 この街はこの国で最大のドヤ街でありスラム街だと聞いてやって来たが、実際には来る前に描いていたイメージとはかなり違っていた。どうやら福祉ビジネスが横行していて、割と誰でもたやすく生活保護受給者となり、最低限の生活費と寝床は確保されている。ただ、生活保護の全額から諸々の手続きを代行したり世話してくれる機関がピンハネしているらしい。いや、それをピンハネか手数料と呼ぶのかはお互いの信頼度による認識の違いだろう。薄く手広くピンハネして稼ぐのはどの国のボスやマフィア、博打の胴元も同じだ。がめつくやると反感を持たれ返り血を浴びてしまう。あくまでもジェントルマンとして弱者から金を吸い取るのが連中の流儀である。日本一のドヤ街でありスラム街とされるこの街の奇妙な静けさと穏やかさは、もはや悪なのか偽善なのか真心なのか見分けがつかない巨大なものに完全に支配されているゆえだとは思う。どうしようもなく皮膚で感じた私の確かな実感であった。

 暗くなっても宿に戻る気になれなくてふらふら歩いていた。この街の特色として、いまどき赤線が公然と平然に営業していることは有名であるが、私のような人種はお客として入れないことになっているらしい。そもそも今はコロナで時短で夜は早々と店を閉めている。また、その街のルールを完璧に守る所作も統制されていて、裏には暴力装置をちらつかせる組織があるのだろうか。
 かと思えば、さっき道端でパンを売っている女がいた。品がありそうな人だった。自分が勤めているパン工房のものだろうか。労りなのか、小商いなのか。わからないまま、女の顔を盗み見しながら通り過ぎた。

 緩やかな坂を上ると目の前に団地が建ち並ぶ。何棟もある団地だが見事に人の暮らしの気配がしないのはなぜだろうか。ゴーストタウンではない。下に居住する人間には段違いの人の姿は見えないのだろうかとさえ思う。ドヤ街以上の静けさは、空気としては上質ではあるが、どこか殺伐としていて不気味な瞬間に包まれていた。
 団地街を遠くに眺めながら、昨日見た夢のことを思い出していた。山へハイキングに行く電車の中で見かけた顔があった。 私が子供の頃、小学校か中学校で教わった男性教師で隣に座っていた妻らしき女性の顔にも見覚えがあった。二人共、当時同じ学校で教えていたのだろうか。ただ、教師の名前といつ教わっていたのかが思い出せない。明朗快活で逞しかった当時の若い男性教師は今や初老となり、要職に就いているのだろうか。威厳と昔は見えなかった人を疑うような姑息で狡猾な影があった。今、私が名乗り出ても私のことなんて覚えていないだろうし、そもそもこんな異国で会うなんておかしい。どうせ夢だろう、と思っていたら急にしんどくなって目が覚めて慌てて水を飲んだ。こんな時、自分も死に向かっているんだなと気付かされる。
 あてずっぽうに歩いていたが、いつの間にか大きな公園の端のホテル街を歩いていた。中年女性の立ちんぼが何人かいる。彼女らが商売をしている目印は抱えているのが赤いハンドバッグと聞いた。確かに薄暗闇の中でも赤い色ははっきりと見える。いや、見えるというよりは感じると言うべきか。女の顔が見えなくても。何らかのルールがこういう悪所にはあるにせよ、スラム街や赤線のような統制され監視されているような息苦しさはこの辺りにはなく、どこか自由を感じた。ここに潜んでいるものが、まだ私には見えないからか。こういう場所に来ると女を抱きたいと言うより、ただただ女に抱かれたいと思う。恋人や妻でも友達でも何でもない金で買った女の肉の塊に自分の全てを抱かれたい。その女でしか抱けないやり方で。

 ふと、声がした。
 甘くて優しく懐しい声は、もう何十年も会っていない、会うことは出来ない母親の声によく似ていた。自分を捨てたけど、自分を一番愛してくれた人。もしや、と思うくらい声はそっくりだった。
「黒んぼさん、遊んでいかないの?」
震えながら、私はゆっくりと、後ろを振り返った。

 
 

豊田道倫

とよたみちのり

1970年生まれ。1995年にTIME BOMBからパラダイス・ガラージ名義でCDデビュー。以後、ソロ名義含めて多くのアルバムを発表。単行本は2冊発表。

今年2月14日にシングル『戦火の中を-2022』をデジタルリリース。

配信リンク→ https://linkco.re/axq1vvAZ
MV→ https://youtu.be/dDZGWtGgp78

photo by 倉科直弘