【南風原・南城】1944年12月11日、県営鉄道(軽便鉄道)の列車が大里村(現南城市)の稲嶺駅に向けて走行中に大爆発し、乗っていた鉄道職員や女学生、兵士たちの命を奪った。犠牲者は200人以上との証言もある。那覇市の糸数禧子(よしこ)さん(91)は当時、爆発を起こす列車から命からがら逃げ出して一命を取り留めた。糸数さんの両手には深いやけどの痕が残り、戦後も数十年間、両手を隠し人前に出ることを避けていた。糸数さんは「事故で私の青春時代はなくなった」と語る。
大爆発のあった日、糸数さんは私立昭和女学校の同級生4、5人と一緒に、帰宅のため那覇駅から列車に乗った。列車の1両目にガソリンの入ったドラム缶、2両目に医療品など衛生品が積まれた。糸数さんら女学生は2両目に乗った。古波蔵駅で連結した後部の6車両には、嘉手納駅や古波蔵駅から乗車した第24師団(山部隊)の兵士ら約200人が乗り、弾薬も積まれた。2両目の屋根の上に兵士数人も乗っていた。
午後3時半ごろ、列車が南風原の喜屋武駅から坂道をゆっくりと上って稲嶺駅へ向かう途中、機関室から出た火の粉が1両目のドラム缶に引火した。その後、積載された弾薬にも引火し、大爆発が起きた。さらに日本軍が線路周辺に野積みにしていた弾薬にも飛び火し、現場周辺は火の海となった。糸数さんは「炎が上がり、すぐに貨車から飛び降りた」と振り返る。その後、友人を引っ張り無我夢中で列車から離れた。一緒に乗っていた同級生1人は亡くなった。
爆発現場から100メートル離れた、旧南風原村神里で爆発を目撃した大城吉永さん(84)=南風原町=は「ごう音と同時に、きのこ雲のような大きな黒煙が空に上がった。壕の中に隠れたが、一晩中爆発音が聞こえた」と当時の様子を振り返る。集落のガジュマルには飛び散った肉片や医療用のガーゼなどが付着していたという。
第32軍はこの事故について住民にかん口令を敷いた。沖縄戦研究者の吉浜忍元沖縄国際大学教授は「長勇参謀長は、この事故を国軍創設以来初の不祥事であるとした。県民からの信頼を失わないよう、軍としては不祥事を公にしたくなかったのでは」と指摘。「沖縄戦までに至る経緯の中で重要な事故だ。現場に説明板を設置するなど、県民に広く歴史を伝える必要がある」と強調した。(金城実倫)