民俗女子の自由帳

~この世は不思議が多すぎる~

【伝説れぽーと】嘘かまことか? 「源義経=チンギス・ハン」伝説について調べてみた(アップデートVer.)

※こちらは2020年9月22にアップした『嘘かまことか? 「源義経=チンギス・ハン」伝説について調べてみた』のアップデート版になります。さらにおもしろい事実がわかったので最後に追記を加えました。

 

「源義経は実は生きていた。大陸に渡りチンギス・ハンとなった」

 

これってとても有名な伝説です。夢があっていいな~と思う一方で、ほんとなの? と疑う気持ちもありまして。今回は「義経=チンギス・ハン」伝説の謎に迫ってみることにします。

 

さて、この義経伝説ですが、調べてみると江戸時代からあったようです。それが全国的に広まったのが大正時代。小谷部全一郎という牧師兼教師の方が、大正12年に『成吉思汗ハ源義経也』という本を出したのが発端です。この本、さまざまな学者から猛反発を受けたにもかかわらず、一般大衆には大ヒット。ちょうどそのころ、日本は大陸進出を目指していたので世相とマッチしてしたんですね。で、この本の一部を抜き出しますと…… 

隻城子(ニコラエフスク)の市邑に、土俗の所謂義将軍の古碑と称するものあり、土人はこれを日本の武将の碑とも或は支那の将軍の碑とも傳ふ。居留日本人は一般にこれを義経の碑と称し、而して其の建てられたる市の公園を、我が居留民は現に之を義経公園と呼びて有名なるものなり。 

 うーん。はっきり「義経の墓」とされていたわけではないんですね。ただ、それっぽい伝説があるから、現地にいた日本人は義経の碑と呼んでいたと。

ちなみにこの碑、石でできた亀の背中に乗っていて、「大日本源義経墓」と彫られていたそうです。

また、上記にあるように、元はニコラエフスク(現在のウスリースク)にありましたが、その後、ハバロフスクの博物館に運ばれ、保管されたとか。それについての描写がこちらです。 

 ハバロフスク博物館にある、いわゆる義経の碑と称するものは白色を帯びたる花崗岩の一種なり。この石碑の表面には厚くセメントのしっくいを塗り、何物か彫刻しあるものを隠蔽せり。土人の言によれば大正10年日本軍がハバロフスク撤退後、過激派のなせることなりと。

 隠ぺいしたいなら漆喰塗らずに破壊しちゃったほうが早い気がするんですけど、どうなんでしょうね? それにこの石碑、ハバロフスクの博物館にまだ残っているんでしょうか?

……と、ここまで考えたところで、以前ハバロフスクの博物館でそれっぽいものを見て写真を撮ったことがあるのを思い出しました。データを探すと……もしかして、これですか⁉(確かに石碑の表面にセメントが塗られている!)

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 亀の後ろの説明文らしきものも撮影していたので、頑張って訳してみました。 

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『石の亀の記念碑  女真族のエスイクイ将軍は契丹を破るために大いなる貢献をしました。記念碑は1193年、ニコラエフスク(現在のウスリースク)の丘に建立されました。この記念碑は1895年に博物館に運ばれました』

 

うまく翻訳できない部分もあって、かなり大雑把な訳なんですが……。女真族と言えば、金という国を建てた北方民族。(のちに満州族と改名、このときは清を建国。映画『ラストエンペラー』の一族ですね)

 

さて、ここでウスリースクと女真族との関係が気になったので、さらにくわしく調べてみました。

  • ウスリースクの周辺は、耶懶完顔部(やらんかんがんぶ)という金の建国時から多大な功績を残した忠臣の一族がいた
  • 五代目皇帝、世宗(せそう)の時代には建国の忠臣を称える完顔忠神道碑(かんがんちゅうしんとうひ)なるものが建てられた

 もしかしてこの「忠神道碑」が、ハバロフスクの博物館に飾られている亀石の正体なのでは? 第一、勇猛果敢な忠臣一族がいた場所に、日本からどうにか逃げてきた義経がのこのこ行ったら返り討ちに遭ってしまいます。さらに、チンギスハンが亡くなったのは1227年なので、1193年に造られた亀石を義経(チンギス・ハン)の墓とするのは正直納得がいきません。

 

だんだん分が悪くなってきた「義経=チンギス・ハン」説ですが、伝説の元となったのは亀石だけではありません。実は、ウスリースクには義経が建てた城、蘇城(そじょう)なるものもあるんです。苦難の末、蘇った人物が建てた城だから「蘇城」と言うらしく……。ですがこの一帯、金代の城郭が数十基も残っている地域なんです。そのうちのひとつが「蘇城」と呼ばれていたのを都合よく当てはめたとしか思えません。

  

さらに、ウスリースクには義経の紋、笹竜胆(ささりんどう)によく似た紋章が伝わっているとか。ですが、それを言ったら菊の御紋とシュメール文明の紋章が似ているという話はどうなるんでしょう?(笑)問題はウスリースクの笹竜胆に似た紋にはどういう謂れがあるのか、ということなんですが、こちらは残念ながら調べてもよくわかりませんでした。

 

さて、話は亀石に戻ります。そもそもこの亀石、どうして石碑を背負わされているのか? 実はこれ、本名は贔屓(ひいき)と言って、竜が生んだ九匹の子どものうちの一匹なんです。重いものを背負うのが大好きで、石碑の台になっているのは亀趺(きふ)と呼ぶそう。亀は長寿の生き物とされたため、石碑に彫られた功績が永く後世に伝わるようにとの願いが込められているんです。元は中国の伝説から来ていて、日本に広まったのは江戸時代。つまり、義経が生きた時代、日本に亀趺は伝わっていなかったのです。大陸に渡ったから大陸風にした、という考えかたもあるのでしょうが、そんなにすぐに地元の風俗に馴染むものなのか、疑問が残ります。(特に、移民の歴史などを調べるとそう思ってしまいます)

 

――とまぁ、いろいろ考えてみましたが。私だって義経に恨みがあるわけじゃないんです。頭の中身がロマンとファンタジーで八割がた出来てるような人間なので、もし義経がチンギス・ハンだったら、なんて気持ちは当然あります。ですが、調べれば調べるほど「これはないな……」になってしまいました。チンギス・ハンについては先祖や生い立ちについてある程度わかっていますし、今さら義経説を唱えるのも愚か者の極み。

そう言えば、学生時代の担当教授が言っていましたね。 

「好きなものほど調べたらダメだ。夢が壊れるから」

 その言葉の意味を嫌と言うほど思い知らされた一件でした。

 

……さて、これ以降は追記です。この話を書いた数か月後、偽書(ぎしょ)に嵌りまして。偽書というのは「事実ではない内容を仮託したり、著者や書かれた時期などの由来が偽られている書物・文書のこと(wikipedia先生)」。で、そのとき「源義経=チンギス・ハン伝説」の発端を見つけましたので箇条書きでお知らせを。

  • 京都の医師、加藤謙斎(1669?~1724)が1717年に刊行した『鎌倉実記』という本に、「源義経は大陸に渡り、息子が金朝の将軍になった」という記述がある
  • 謙斎いわく、「『金史別本』という、金の歴史書に書いてあるもんね!」
  • だが、後世の人がいくら探しても『金史別本』なるものが見つからない
  • つまり謙斎の捏造? それとも本当にあったのが散逸した?
  • 結局真実はわからないまま。だが後世、『鎌倉実記』を読んだ小谷部全一郎が『成吉思汗ハ源義経也』を出版してしまった(ていうか、『鎌倉実記』には息子が金の将軍になったとは書いてあるけど、義経がチンギス・ハンになったとは書いてない! さらに話が膨らんでるよ!)

歴史の教科書に載っていた話が実は偽書からの引用だった、ということもあるので(たとえば慶安御触書とか。最近では載せてない教科書もあり)、学者さんは大変だなぁとつくづく思ってしまいました。反対に言えば偽書ってほんとにたくさんあるので、小説なんかのおもしろいネタになりそうです。