最新記事 2009年10月07日

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義経=チンギスハン伝説

 最近、チンギスハンの墓が発見されるかもしれないという興味深いニュースを読みました。チンギスハンの陵墓の所在は長い間世界史の謎とされてきましたが、中国大連在住のチンギスハン34代末裔とされる80歳の女性が「チンギスハン陵墓が四川省カンゼ・チベット族自治州にあることは、末裔一族のみに伝わる秘密であった」と発表し、現地調査でも証言と一致する洞窟が確認されました。今回は、「義経=チンギスハン伝説」についてお話します。

  チンギスハン(1162年頃? – 1227年)は、一代で大小さまざまな集団に分かれてお互いに抗争していたモンゴルの遊牧民諸部族を統一し、中国北部、中央アジア、イランなどを次々に征服してモンゴル帝国を築き上げました。他方、源義経(1159年-1189)は、兄の頼朝の平氏打倒の挙兵時に馳せ参じ、その軍事的才能を発揮して、源平合戦の最大の功労者となりますが、その後頼朝と対立し岩手県の衣川館で自害したとされています。

 ところが、時代が下り大正時代になり、、義経は衣川の戦いでは死なず、北海道、樺太と渡りチンギスハンとなったという「義経=チンギスハン伝説」が生まれました。

(肯定的な検証)

義経とチンギスハンの年令はほぼ一致している。

チンギスハンの別名を「クロー」というが、これは九郎判官のことではないか。

(否定的な検証)

義経は小柄だったが、チンギスハンは堂々たる体格だった。

チンギスハンの妹の存在をどう解釈するか。

 

 もしチンギスハンの陵墓が本当に発見されたならDNA鑑定等によって日本人だったかどうかは判明し、伝説は科学的に検証されます。では、伝説は非科学的で意味がないのでしょうか?わたしはそうは思いません。伝説とは科学的な仮説とは違い、ひとびとの夢やロマンがこめられた言い伝えのことです。義経はその最期があまりにも悲劇的だったがために「判官びいき」の国民性とあいまって「伝説」が生まれたのでしょう。英雄は死んだ後もひとびとの記憶とともに生き続けるのです。