断章 禁忌を犯した日
間話 兄弟の鬼
酷く頭が痛む。月乃天花はその激痛こそが、己に肉体の主導権がある証拠だと認識した。
「くそっ」
怨禍が肉体を使っている間の出来事ははっきりと覚えている。ただ体が動かせないだけで、自分のことのように見聞きし、臭いを感じるからだ。苦痛も快楽も感じる。禁忌の鬼は、怨鬼をも飲み込み、そこを通して天花の肉体を使って好き勝手している。
何人もの人間が殺された。一体、どれほど人を喰ったか。あの異様な肉の味……。生臭い、内臓。どろどろした舌触り。糞尿が詰まった腸を啜るあの感じ。
「おぉぉぇぇええええええっ!! おえぇっ、……あ、ぁ……ぐ……っぅ……」
大量に吐き出す吐瀉物。そこには、婚約指輪が混じっていた。
──どうかしたか小僧。具合でも悪いのか。
「いや。……随分、世俗的だと思っただけだ」
「悪いか」
怨禍の口が天花の左手に現れた。ぎょろりと金色の単眼が睨みつけてくる。
「ありえんな。なぜ私がまた支配されるのだ。契約は履行されているはずだ。お前、何をした」
「知るか。ただ……俺の魂とハートってのが、随分と大きな価値を持ってるんじゃないのか」
「くだらん。貴様ら程度の心臓と魂がこの私を抑留すると? 殊更にありえんな。しかし……なるほど、ここは墓場か」
見下ろす夜景。部屋にいるのは全裸の若い女。怨禍がうまい口で乗せ、連れてきた女子大生だ。彼氏持ちで、その上で怨禍は彼氏へ連絡させて別れさせた。最悪だ。畜生。
ナメラスジの終着点。人外たちの行き着く果てで、終の住処で、そして墓だ。
墓標のように佇む、秋津で二番目に高い人工物。高さ九八八メートルの裡辺ピラー。その煌々とした青い輝きは、まるで誘蛾灯のように煌めく。それこそナメラスジをゆく人外たちにとって、目印になるように。
「ここはどこだったか」
「記憶にないか。教えてやる。ここは
「わかってて……わかってて俺に、初恋の人を寝取るように仕向けたのか!」
女は天花の初恋の子だ。小学生の頃転校した子で、気づけば記憶から消えていた。そして、怨禍が聞き出した名前や思い出で、天花は思い出したのだ。感じる快楽を我慢しようとした。肉体を奪還し、逃げようとしたが無理だった。
俺は、また……またしても大切な人を傷つけた。
「ごめん……
女へ謝罪し、自分の財布からその中身を全ておく。怨禍がセレブのご婦人から手にした金だ。世俗的故に世渡りがうまい。あっという間に大金を稼ぐ。
「次はどうやってお前の魂を削ろうな。くっく、そうだな。お前が一番好きな女を犯すというのは? お前の肉体で、他ならぬこの私が」
「ふざけるな。それは禁じただろうが」
「ああ。だが、不当なほどに自由を奪われる。私にも考えがあることをゆめゆめ忘れんことだな。……お前の肉体は居心地が悪い。最悪だな。元の力の一割も出せん」
禁忌の鬼、冥王怨禍。怨みと、災禍を司る鬼神。七大冥王の中に力の序列はない。あるのなら、とっくに王は一人だ。七人全てが同等の力を持つ。けれど宿す力、求めるものが決定的に違う。
怨禍はその名の通りのものを望み、与える。だからこそ選んだ。自分の中の怨嗟を、それを代行する力に適していたから。
絶対に、あいつだけは奪わせない。
「どうなのだろうな。お前に罪悪感はないのか、小僧」
「なんのことだ」
ホテルを出てレンタカーに乗り込んだ天花に、怨禍が笑う。
「お前、弟を愛しているんだろう? 女として」
「………………」
眉間に刻まれるしわ。今でも覚えている弟の顔。可愛かった。とても。とても。好きだった。抱きしめて、一緒に眠って、彼が気付かないよう何度もキスをした。
弟は男として生きている。だから、そうあるべき理想の兄として振る舞った。けれど他ならない自分が一番女々しかった。彼への思慕を捨てられず、あまつさえ女として見ていた。彼を誰よりも傷つけ、冒涜し、呪っていたのは兄である自分だった。
「お前は父を目指すと言われることなど、気にもせんだろう。その程度には、あの夫婦に愛想を尽かしていたのだから。私は小僧、お前の全てを知っている。当然だ。お前の怨鬼を完全に喰い、飲み込んだのだから。お前自身と、お前の認めたくない全てを知っているとも」
そうだ。怨禍はある意味では天花自身の鬼だ。これは、こいつは天花そのものなのだ。
「お前は弟を愛するあまり、犯そうとまで考えていた。そして実行した。睡眠薬を盛ったこともあったな。可哀想に。哀れな弟よ。気持ちよかったか、弟の体は。眠る弟を犯したお前は、さぞ幸せだったろう。なんども言っていた。好きだ、可愛い、深桜、愛していると。だがお前の弟は泣き出した。そうとも、」
あの日、十二歳の誕生日。弟は起きたのだ。そして、こう言った。
「僕は兄さん以外なんて、みんな嫌いだ。なんで僕は、男なんだろう。なんで僕に、兄さんと同じ血が流れてるんだろう。なんで僕は、女じゃないのかな」
と。
彼は起きていたが、気付かなかった。ただ、男である自分を憎悪して泣いていた。決して報われぬ恋心が彼を呪っていた。恐らくはあれが、あの思いこそが深桜の怨鬼なのだ。
何度も、囁いた。愛していると。俺と暮らそうと。けれど弟にはひびかなかった。弟の鬼には──髪を伸ばし、女性的な肉体に変化していた彼女には届かなかったのだ。
女として生きたい。赤の他人として天花と接し、結ばれたい。
それが、弟の本音。だからこそそれを認めたくない彼は、男であることに固執し、兄を兄として慕っていたのだ。
「愉快だな。お前も、弟も。事実は小説よりも奇なり。よく言ったものだ」
鬼が嗤う。嗤い続ける。
天花はその瞬間、その肉体の主導権を失った。
「さて、私の番だな。安心しろ、充分遊んだ。お前との契約を果たそうぞ。なあ、小僧」
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