第9話 初陣
安定、一定、そして持続。その制御。感情の波は凪いでいる。ただただ静かな戦意を乗せる。
怨鬼・裕子が手すりをぶん投げた。深桜は瞬時に屈んで駆け出す。静かに低姿勢。かつ、素早く。飛んできた鉄の塊をセラが裏拳で弾き、瑞奈は不安そうに、友季はベンチに座って煙草を吹かしていた。結界のふちに激突した柵は容易くひしゃげ、深桜は一気に懐へ。霊力を込めたボディブローが怨鬼・裕子の脇腹を打つ。
ガンッ、という鈍い音。それから返ってくる鉛を殴ったような感触。手が痺れるが痛覚は意図的に遮断できる。
(霊力の圧が高いな。だけど、全身ってわけじゃない)
ずず、と怨鬼・裕子の右腕が膨らんだ。それは筒状のものへ変わり、大砲になる。深桜はその右腕に絡みついて肩に足をかけてゴキン、と脱臼させた。ぶら下がった砲口から暴発気味に霊力の塊が吐き出される。打ち上げられた鬼と深桜。空中で深桜は相手の首に腕を回して全力で締め上げた。受肉した怨霊は総じてその生き物にとっての弱点を破壊されると消える。呼吸の阻害は、決して無駄な攻撃ではない。
と、怨鬼が深桜の左足を掴む。
「っ、」
ぐんっ、と視界がスライド。力任せの投擲。深桜は風を切って吹っ飛び、倉庫に激突した。トタンの屋根を突き破って内部の棚を派手に巻き込んで転がった。咄嗟に頭を庇い、胎児のような姿勢で勢いを殺したが思うように力が入らない。左肩が外れ、何とか立ち上がった深桜は壁に左半身を打ち付けて強引に関節をはめた。到底十三歳の少年ができる真似ではない。普通なら、仮に意識を保っていられても痛みで大泣きだ。そして、そもそも大人であろうとも一般人なら最初の手すりに直撃し肉片になっている。
咳き込むと込み上げてきた胃液が口に広がり、吐き出す。けれどそれは血液だった。口元を拭って、天井の穴を見上げ、直後に怨鬼・裕子が着地。適当な棚を掴んで放り投げてきた。面積が広いそれの回避は諦め、深桜は防御。霊力で前面をカバーして防ぎ、最小限のダメージにとどめる。激しい衝撃に耐えるもノックバック。何かないかと深桜は必死に考え、脇の消火器を見つけた。これだ。
深桜は消火器を掴んで霊力で強化した腕力で投げつけた。そして即座に銃を抜いて撃つ。弾丸は消火器の外殻を破壊して中身の消火剤をぶちまけた。鬼が鬱陶しそうに腕を払い、深桜は右腕に乗せた霊力をぶつけんと踏み込んだ。
迷いのない、真っ直ぐな正拳突き。それが弾け、鬼が磁石に引っ張られるようにして真後ろへ。倉庫の鉄扉を凹ませて、畳み掛けるように深桜は左右の拳を打ち付ける。乱れ打ちとも言える、けれども一発一発が確実に内臓を破壊するために繰り出される一撃。鬼は喀血し、とうとう扉が弾け飛んだ。
「仮想とはいえ二十年。無駄ではないね」
友季の目には霊力や霊気が見えていた。元々の能力ではない。自分の中の鬼を認め、従えているからこそ身についた能力だ。強化されたその目は、地平線に消える地点まで克明に見える。十キロ以上先のネズミをはっきりと認識できるし、ヘリに乗れば肉眼で地上の家の一軒一軒の生活を覗ける。
「深桜様が優勢ですね。もっとも、あの程度の怨鬼ゆえでしょうが」
「うん。最初は想定外とはいえ、母親と戦わせ度胸試しを考えたがね。やはり欲が絡む鬼は強かったから。ありがとうね、セラ」
「いえ」
そうは言っても、と瑞奈は内心焦っていた。深桜は出血し、ボロボロだ。感じ取れる霊力の気配からして、確かにダメージが加算されている。治癒速度も低下しているかもしれない。
その事実を深桜は認識していた。邪視に込めている霊力を解けば、恐らく気を失う。この忌まわしい呪いが深桜の意識を、死を弾き、繋ぎ止めているのだ。
何でもいいが、とにかく早くとどめを刺さねば。裕子自身の肉体が壊れる可能性まである。基本的に霊魂などは受肉から時間が経つと、個人差はあるが鬼と肉体の結びつきが強くなりシンクロし始める。そうなると、鬼の傷が鬼が消えた後も残るのだ。端的にいえば、長期間放置された怨鬼を殺した場合、宿主も死ぬ。
人助けなんてしない。捜査だからやる。探偵だからやる。──仕事だから、全うする。
それがプロだ。
──僕は人助けなんてしない。
乱打が尾を引くダメージになっている怨鬼・裕子は唸り、右腕の大砲に霊力を流し込んで圧縮した。
回数こそ少ないが致命打をもらっている深桜は静かに呼吸を整えて、右手に霊力を込める。
両者が睨み合い、深桜の邪視がぼう、と光を放ち、
砲撃。
放たれた霊力砲を筒先から軌道を読んでいた深桜は緩急をつけた加速で斜め前方へ踏み込んで回避し、呆気に取られたように慌てて霊力を再装填している怨鬼・裕子に拳を叩き込んだ。
〈
「歯を、食いしばれ!!」
ドムッ、という確かな手応え。巻き起こった衝撃波が土を捲り上げ、怨鬼・裕子は滑り台を粉砕して反対側の納に突っ込んだ。粉々に爆散した納の中で、鬼が恨めしそうにこちらを睨むが、どうすることもできずに消えた。
「はぁっ……はぁ……はぁ……」
ズキン、と右目が……右目が、
「力を使いすぎたな、深桜。だが初陣にしては悪くなかった。ゆっくり休め」
傍に来ていた友季がそう言って、深桜のヘアピンを付け直す。右目を隠した彼は電源が落ちたように頽れ、友季がそれを抱きとめた。
「セラ、担いでてくれるかな」
「はい」
あとは友季の仕事だ。
用心のため銃を抜いて、全裸の裕子に近づいて適当に持っていた毛布をザックから取り出してかけてやる。漂う鬼の残滓はまだある。人型の形代を手に、裕子の髪を抜いて載せ、丸めた。するとそこに残滓が吸い込まれ、小さな怨鬼が形を成す。けれど、その攻撃性はもうない。当たり前だ。宿主が意識を失っているのだから、同調することで増幅される感情がないのだ。ゼロになにを掛けたって、答えはゼロ。そういうことだ。
「完全に消えたくなければ素直に答えろ」
「退魔師め」
「違う。探偵だ。……中学で起きたテロ、知っているだろう」
「知っているとも。彼氏……と思っていただけで、実際は弄んでいた男が死んだことに随分悲しんでいたからな」
醜悪な顔に笑みを浮かべる鬼。恐らくは裕子自身も遊びで付き合っていたのだろう。もしくは察していたから、心のどこかで笑っていたのだ。だから自分自身である鬼も笑うのだ。
「あの日、なぜ休んだ。理由を言え」
「この娘はその日、売春……いわゆる援助交際とやらをしていたんだ」
「パパ活だろう。ボヤイターだろうね。理由がわかってよかった。それからまだあるぞ。次に一つ、叔母からの指示でパパ活をしていたのだろうが、その叔母自身はどこだ。家に行ってもいなかったが」
「やつ自身なら出ていった。元々独身主義らしくてな。頼る祖父母も死んでいるからこの娘を押し付けられたんだ。パパ活? とやらをしている間に出ていったのだろうさ」
そんな大人が世には大勢のさばっている。食い物にされる子供が哀れだ。後で
「何を企む、探偵」
「その子の幸せを、というよりお前の幸せを。あいにく私は人間は大半を嫌っていてね。けれどそれはお前自身にも都合がいいし、その子の幸せはお前も望んでいるはずだ」
「…………そうとも。私はこの娘には幸せになってほしい。だから肉体を借りた。この娘の軛を断ち切るためにな」
「人間より鬼の方が人道的だな。……まあいい。最後の一つを聞く」
友季は真っ直ぐに鬼を見て、問う。
「誰の指示で深桜を突き落としたんだ」
「……風間周子だ。真の悪党。生き残りというのは、あいつだろうな。あのあとこいつは笑っていたのではない。罪悪感が押し潰し、少し壊れていたんだ」
「よくわかった。……その子の中で、ゆっくり対話しろ。なるべく穏当に。人間は脆い」
「約束しよう。この娘の幸福を、私の幸せを心から願う探偵よ」
鬼が──
夜が去り、友季は通話。
「頻繁に済まない。大丈夫かな……休憩中? 警官が? 探偵だって真面目に働いているのに。……まあいいや。なるべく迅速に近藤裕子というあの中学の生徒を保護してほしい。テロリストが狙っている可能性がある。うん。あー……えっと、公園が……。仕方ないだろう、鬼と戦えばそうなる。うん。ありがとう」
通話を切った。程なくして遠くからサイレンの音。友季はさっさと車に戻り、全員でその場を離れた。
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