第8話 心の中の自分

 バーチャル訓練というものがある。

 極めて高額なバーチャルヘッドギアによる仮想空間への没入と、その中で行う訓練のことだ。脳に直接情報を送っているため、それを体験している者にとっては現実そのもの。痛みのフィードバックも当然再現され、死の恐怖と戦うこともできる。秋津皇国軍が世界に名だたる勇猛な兵士を持ち、小国でありながら幾つもの大国のど真ん中に位置しつつも中立を維持できる理由だ。

 その最強の兵士を量産するバーチャル技術は極秘で、最高のクリアランスがなければ窺い知ることはできない。ゆえに、バーチャルヘッドギアは一般には出回らず、VRゲームはまだ存在しないのだ。

 しかしどういうツテなのか、友季はそのヘッドギアを持っていたのだ。

 深桜は仮想現実の世界へ飛び込み、その中で脳が耐えうる限りの体感時間の変動を行って二十年近い訓練を行なった。

 肉体的には霊薬が加速させたこともあって体力がついてきており、少し筋肉質にもなっているが、病気のおかげかなかなか筋肉がつかない。これについて友季は「仕方ないし、とりあえず霊力も使ってみようか」ということを言って、仮想空間で霊力の制御を少し練習していた。

 ただ、ヘッドギアが脳に与えるダメージは極めて大きい。限度を超えた使用は寿命を大きく削る。累計訓練期間を超えた場合、どんなにスパンをおいても再使用は禁じられており、これは立派な法案でも定義されていた。

 深桜は現在、あとは心構えをどうするかという課題と向き合っていた。肉体的にも技量的にも、既にそこらのチンピラには絶対に負けないし、掠ることなく一方的に制圧できると断言できる。最も同じ怪奇探偵が相手ではまだまだだろうが、だとしても徒手格闘自体はセンスのなさを二十年近い時間の中で補っていた。格上相手でも、食いつけるくらいの力はある。

 変貌したのが母だったから突然手が止まったものの、だが、次は止まらない。自分の手で打ち倒す。それがせめてもの償いだ。

 車が棚田樹町の東端へ。そこは団地街で、低賃金の家庭向けのものだった。深桜は経済的には恵まれていたので一戸建てで暮らしていたが、多くは集合住宅で暮らすものだ。少なくとも瑞奈もそうだったし、彼の義兄である治もそうだった。友季とセラも、一時期安い団地で暮らしていたのだ。

 特別収入で人を見下すことはない。だが、何かにつけて金の話題を出す奴は嫌いだ。いい意味でも悪い意味でも、金を理由になにかを正当化する奴は大嫌いなのだ。

 深桜は団地の公園で瑞奈といた。友季とセラが近藤裕子を呼んでくると言ったのだ。そして恐らくは戦闘になる、と言っているし、深桜もそう思っている。車の中でそのプランを練ったのだ。これは仕事であると同時に、深桜の復讐でもある。

 団地全体を覆う結界は瑞奈にはまだ荷が重いし、かといって特定の限定された狭域結界も同じように難しい。適度な大きさで結界を張れるのはこの小さな公園のみだ。それでもこの規模の結界を日に何度も、完全に近い状態で展開できるのはかなりの力量だとわかる。

「私が初めて自分の中の鬼と向き合ったのは、八歳の頃だったの」

 唐突に瑞奈がそう言った。

「深桜くんから守ってもらった日、私は自分の体が嫌になって自殺しようとした。そのとき、私の中の鬼が囁いてきた。私はその鬼の言葉を必死に理解しようとして、もがいて、……深桜くんがそうしてくれたように、立ちむかって行った。私の中の鬼は、他ならない私自身だった。だから私は、十三歳でもこうして色々術を扱えるの」

 誰もが心の中に鬼を持つ。

 それはあるとき、何らかの方向へ感情が突き抜けた時語りかけてくるのだ。それを受け入れれば大きな力を手にし、逃げれば何も変わらず、そして全否定してしまえば苛烈に牙を剥き、肉体を乗っ取って、母のような化け物に──怨鬼えんきになる。

 瑞奈の歳に似合わぬ術の能力は、鬼を克服し受け入れたが故のものだったのだろうか。

 ふと深桜は思い出す。

 小学生の頃の自殺未遂は、冗談でやったわけではない。本気で死ぬつもりだった。けれど何かが囁くことはなかった。

 もしかしたら人によって、特定の感情の方向が違うのかもしれない。大半は恐怖や怒り、憎しみ、悲しみが振り切った時という前提条件であるのだろうが、深桜はそれらを一通りかなりのレベルで経験してきたが、何かが囁くことはなかった。

 自分の中の鬼。深桜のそれは、果たして何なのか。何を突きつけてくるのか。

 いや……いる。鬼はいる。

 兄が、兄だった禁忌の鬼こそ、深桜が生んだ鬼だ。本来なら深桜がそうすることを代行する。あれは、別の肉体で顕現した深桜の中の鬼なのだ。

「あ……」

 出入り可能な友季が入ってきた。それから瑞奈に「一人通してもらえるかな」と指示。その理由は分かりきっている。セラに連れられて入ってきたのは、近藤裕子だった。ニット地のセーターに丈の短いホットパンツ。髪は学校が消えたことをいいことに金髪に染めていた。

「つ、月乃……」

「久しぶりですね。僕を階段から突き落としたこと覚えてます?」

 指摘されたことに、彼女は怯えた顔をする。そうして周りを見て、ここだけが夜であることに気づいた。

「な、なに……リンチ? 復讐ってこと?」

「うん。同時に、先輩から聞きたいこともあるんですよ。でも先輩、その前に一つ」

 深桜は右目に熱をこめながら問う。

「僕は四月の下旬、一週間意識が戻りませんでした。あなたに突き落とされたせいで。その上で聞きますが、その一週間ずっと笑顔だったって本当ですか」

「…………」

「なるほどね。言う勇気はないんですか。人殺しを、未遂で終わったとはいえ実行には移せるのに。もういいです。あとはあなたの心に聞きます」

 髪が自然と浮かび、深桜は裕子の目を邪視で睨みつけた。

「あ────」

 唐突に、今までの人生の膨大な記憶が彼女の中に流れ込んできた。自分の人生、その過程における周りの人々の本音。それは、本来鬼が見せるものだが……深桜の邪視は、その鬼に発現を促し強制的に励起させる力がある。

 母を睨んだのは予定外だったが、裕子を呪うことは既に決めていた。その上で、もし少しでも反省しているのならやめようとも思っていた。

 狂ったように走り回り、壁に頭を打ち付けて自傷し、血まみれの頭を押さえてのたうち回る。海老反りに体が持ち上がって、さながら媚薬もののアダルトビデオの行き過ぎた絶頂シーンのように激しく跳ね回る。スカートが捲れ、股間が尿と排便で汚れ、ぼたぼた液体が……恐らくは愛液溢れ出している。

 通常、鬼は急速な精神攻撃をしない。徐々に精神を蚕食していき、そして蝕もうとする。けれど深桜の目はそれを許さない。鬼に促進を、被呪者に反省を促す邪視の呪い。人にとっては耐え難いものを次々見せつけていき、精神崩壊、最悪ショック死させるようなものである。

 深桜はヘアピンを──兄が、中学の入学祝いに買ってくれた、大切な青いツユクサをあしらった──を留める。けれど隠すのは左目。余計なものを遮断し、右目で戦う。紫紺の瞳が闇の輝きを帯び、深桜は拳銃を抜かず構えを取る。

 膨れ上がる怨嗟。徐々に、そして加速度的に。

「どうして、みんな、わたしより、かわいいんだ……」



 近藤裕子は幼い頃、子役だった。可愛い子役として八歳まで活躍。しかし、図に乗った父の記者会見での「今時の子、みんな馬鹿でしょ。親子揃って馬鹿。だから落ちぶれるんです」という発言。そのせいで、全部が終わった。

 バッシングに耐えられず母が投身自殺。父は酒に溺れ、現在は入院。叔母の家で虐げられながら暮らしている。狭苦しい団地の隅で。

 どいつもこいつも、見た目だ。

 私だって、可愛いんだ。評価されるべきだ。なのにどうして、男のあいつの方が──!

〈貴様は可愛くも何ともない。自らの醜さから逃げて逃げて、それで美人になりたい? 甘えるな。ハリボテの美など何の役にも立たん。お前が失脚したのは父のせいではない。お前自身の高慢と勘違いだ。……私を見るがいい〉

 心の中に浮かぶ、醜悪な鬼。

〈これが真の貴様だ〉

 到底、受け入れられない。そんなはずがない。

 違う、違う、違う──みんな、みんなより可愛い。そうでなくては、もう何も残らないじゃないか。

〈私が嫌いか?〉

 ああ、大っ嫌い。あんたなんか、死んじゃえ。

〈そうか。わかった。なら、私を殺そう〉



 ぼこぼこと膨れ上がる肉体。衣類を突き抜けて肥大化した怨鬼は二メートルに達し、傍らにあったブランコを区切っていた手すりを引き抜く。

 深桜は深呼吸。やれる。この程度なら・・・・・・

「滅葬する」

 深桜はそう言って、短く呼気を吐き捨てた。

 さあ、あとはただただ呪い合うだけだ。

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