嵐を呼ぶ魔法科高校生   作:ゆうと00

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追憶編
第ー105話「みんなで沖縄にやって来たゾ」


 西暦2030年頃を境に始まった急激な寒冷化により、世界の食糧事情が大幅に悪化した。先進国は太陽光を用いた工場化農業のおかげでさほど影響は無かったが、急激な経済成長によって人口爆発を起こしていた新興工業国が受けた打撃は甚大なものだった。

 最も深刻な事態に直面したのは、不運にも寒冷化と砂漠化が重なった華北地域。彼らは伝統的な手段(越境植民。つまり不法入植)でそれを乗り切ろうとして、その対象であったロシアが武力で徹底抗戦。両国の対立はやがて国境を越えて広がり、食糧事情に端を発したエネルギー争奪戦との相乗効果によって、まさに傍観者が1人もいない“世界大戦”へと発展していった。

 第三次世界大戦。別名、20年世界群発戦争。

 2045年から2065年まで行われたこの戦争によって、世界の人口は大幅に減少した。世界の勢力図が大きく入れ替わるほどの戦争だったが、意外なことにこの戦争で熱核兵器が使われたことは1度も無かった。

 

 2046年に設立された“国際魔法協会”。

 放射性物質によって地球環境を回復不能までに汚染する兵器の使用を阻止することを目的に作られた国際機関。核兵器の使用を阻止するという目的に限り、魔法師は属する国のしがらみを離れて実力行使による紛争の介入が許される。

 これによって国際魔法協会は、大戦後の世界でも国際的な平和機関として名誉ある地位を占めるようになった。

 

 

 *         *         *

 

 

 ~西暦2092年8月4日~

 

 シートベルト着用のアナウンスに、司波深雪は『読本・現代史』というタイトルの魔法師向け教材の電子ファイルを閉じた。中学生になったばかりの彼女には少し難しすぎる内容だったが、むしろこれくらいの方が退屈しなくて良いのかもしれない。

 肘掛けにあるボタンを押すと、深雪の座るシートを覆う卵形の安全シールドの内側に南の島のリアルタイム映像が投影された。その鮮やかな緑と輝く海を見ていると、先程の教材にあった寒冷化がフィクションの出来事に思えてくるが、気候が元に戻った現代でもその時代の名残を見ることができる。例えば肌を露出するのを良しとしない服装マナーも、寒冷化が深刻だった時代の名残に他ならない。 

 

 と、映像の南の島がみるみる近づいていき、やがて彼女達を乗せた飛行機はほとんど振動することなく那覇空港へと着陸した。形式上の意味を持たないシートベルトを外して、深雪はカプセルシートのシールドを開いた。充分に距離を空けた他のシートでも客が荷物を纏めている中、彼女は同じくエグゼクティブクラスを利用する母親――深夜(みや)が来るのを待つ。

 おそらく階下のノーマルクラスでは、多くの客が互いの肘がぶつかり合うほどに狭い座席に押し込められているのだろう。見ず知らずの人とそんな至近距離で1時間も同席するなど、深雪の感覚からしたら耐えられない。

 

「…………」

 

 ノーマルシートのことを思い浮かべたところで、深雪の顔がムッとむくれた。

 現在そこには、彼女の兄――達也がいる。

 エグゼクティブクラスには通常のスタッフだけでなく、荒事専門の警備用乗務員も何か異変が無いか目を光らせている。ハイジャックや自爆テロなどの犯罪が発生するとすれば、警備が緩いノーマルクラスの方だ。達也がノーマルの席を選んだのは、深雪の“守護者(ガーディアン)”として万一の事態に備えるためだった。

 

 そういう役目を与えられている、というのは分かっている。

 自分の家が特殊である、という認識もある。

 だとしても、いや、だからこそ、

 

「――家族旅行なんだから、少しでも一緒にいたかったのに」

 

 深雪の口からポツリと漏れたその言葉は、紛れも無く彼女の本心だった。

 

 

 

 

 深雪達が今回滞在するのは、恩納瀬良垣(おんなせらがき)に最近購入したばかりの別荘だ。本当はホテルでも良かったのだが、人の多い場所が苦手である深夜を(おもんぱか)って、という理由で達也と深雪の父親である司波龍郎が急遽手配したものだった。

 それを聞いた深雪の感想は、相変わらずあの人は愛情をお金で購えると思っている、と冷ややかなものだった。彼女が父親に対して家族愛を向けられないのも、ひとえに彼が自分達や四葉家に隠すことなく堂々と愛人を作っているからだろう。

 もっとも、彼らにも同情の余地はある。元々先に付き合っていたのは今の愛人の方であり、彼の持つ規格外のサイオン保有量に目をつけた四葉家が、半ばむりやり深夜の婚約者に仕立て上げたのだそうだ。とはいえ、娘であり思春期特有の潔癖性を持ち合わせる深雪にとっては“愛人”というだけで父親を嫌う充分な理由になる。

 

 ――せっかくバカンスに来たのに、嫌なことを思い浮かべる必要は無いわね。

 

 軽く頭を振って先程までの思考を外に追いやりながら、深雪は深夜と共に到着ロビーの会員制ティーラウンジを出た。

 その入口にて、全員分の荷物を載せたカートを押す達也が2人を出迎えた。

 別に意地悪をしたくて、彼を別行動にしたのではない。エグゼクティブクラスの乗客は優先的に飛行機から降ろされ、荷物も優先的に返却される。とはいえ少しは待たなければならず、荷物が出てくる時間を考えると、ノーマルクラスの彼に取りに行ってもらう方が効率的なのである。そもそもこれ自体、達也の方から提案したものだ。

 とはいえ、それで深雪が納得できるかどうかは別問題である。

 

「お兄様! 長旅でお疲れでしょう、ここからは私がカートを押します!」

「いえ、自分は大丈夫ですので、どうぞお気になさらず」

 

 深雪の申し出に、達也は眉1つ動かさず丁寧な口調でそう答えた。彼を使用人として見るならば、その行動に何ら非難されるところは無い。

 しかしそんな彼に対し、深雪は唇を尖らせた。

 

「お兄様! なぜ私に対して敬語をお使いになるのですか! ここは実家ではないのですよ!」

「……ですが、どこに誰の目があるか分かりません。黒羽家の皆様も既に現地入りなさっていると聞きますし、自分が主人に対してタメ口を利いたとなれば――」

「達也」

 

 ピシャリと達也の言葉を遮ったのは、深雪の隣で2人の遣り取りを眺めていた深夜だった。

 

「確かにあなたの言うことも一理あるでしょう。しかしここには、それ以上に普通の方々が大勢います。そんな中で実の息子を使用人同然に扱っているとなれば、そちらの方が目立ってしまうと思うのですが」

「その通りです、お兄様! ガーディアンとしてのお務めを果たそうとするのならば、むしろ普通の家族のように振る舞うのが正しいのではないですか!?」

 

 深夜に続いてやたら気合いの入った深雪に説得され、今まで無表情だった達也の顔に困惑の色が浮かんだ。普段実家ではほとんど感情を露わにしない兄の姿に、そしてそれを引き出したのが自分であることに、深雪は場違いだと自覚しながらも嬉しさを感じずにはいられなかった。

 やがて達也は、フッと笑みを漏らしながら肩を竦めた。

 

「――分かったよ、深雪。これで宜しいですか、母上?」

「まだ固さが抜け切れていませんが、まぁ及第点としましょう」

「さぁお兄様、参りましょう!」

 

 弾かれたような勢いで深雪は達也の隣へと移動し、カートを押そうとする兄の腕を取って自らに引き寄せた。目を丸くする達也が深夜に視線を向けるが、彼女はニコリと笑って颯爽と歩き出していく。

 諦めたように溜息を吐く達也、そして満面の笑みでご機嫌なオーラを振りまく深雪が、母親の背中を追って1歩足を踏み出す――

 

「――――!」

 

 その瞬間、剣呑な雰囲気を察知した達也が鋭い目つきとなり、大勢の人々で行き交うロビーの向こう側にある壁際で観光客風の2人の男を見つけた。1人の男が息を切らしてもう1人の男に駆け寄り、険しい表情で二言三言会話を交わして再び駆けていく。

 頻りに周りの通行人を気にしているその姿は、誰かを捜索しているように思えた。しかし犯人を追う刑事にしては、その男達の纏う雰囲気に堅気(かたぎ)の印象は覚えない。

 

「どうかなさいましたか、お兄様?」

「……いや、何でもない。少し気になる奴らがいたものでね」

「あらまぁ、下手に巻き込まれない内にさっさと行きましょうか」

 

 若干震え声で尋ねる深雪に努めて優しい声色で答え、口調はのんびりしたものながらも目の奥に鋭い光を携える深夜の言葉に頷いて、達也はロビーを走り去っていく男2人を視界に捉えながらカートを押していった。

 

 

 

 

「いやぁ、まさかオンシーズンの沖縄にタダで旅行できるなんて、しんのすけが商店街の福引きで1等を当てたおかげだな!」

「しかもこの時期はいつも忙しくしてたあなたも、なぜか急に仕事が一段落ついて暇になったおかげで、こうして家族4人揃って旅行に行けるんだものねぇ!」

「パパもママも、なんでそんなに説明口調なの?」

 

 国内線の到着ロビーにて早口で長台詞を捲し立てるのは、アロハシャツを身に纏う野原ひろし・みさえ夫婦だった。沖縄なのになんでハワイの衣装を、と疑問に思う者もいるかもしれないが、彼らにとってはどちらも南国程度の認識しかないのである。

 むしろ2人に後ろをついて歩く小学2年生のひまわりにとっては、2人のはしゃぎっぷりの方がよほど目に余っていた。周りの通行人が2人に白い目を向けているが、はしゃぐのに夢中な2人がそれに気づく様子はまるで無い。

 

「それにしても、さすがに暑いなぁ。でもまぁ、やっぱ沖縄はこうでなくちゃ! 知ってるか、ひまわり? 昔はこの沖縄も、パパの腰の高さまで雪が積もってたときがあったんだぜ?」

「世界的な寒冷化の影響でしょ? 学校で習ったから知ってるよ」

「そっかぁ、やっぱひまわりは賢いなぁ! しんのすけも見習ってほしいぜ!」

「本当よねぇ! 一夜漬けの効率が良いせいかテストの成績は良いけど、やっぱり学校の勉強は知識として身につけてこそよねぇ!」

「今日のパパとママ、何だか凄く絡みづらいなぁ……」

 

 テンションが上がりまくる2人に反比例して、ひまわりは見るからにドン引きしていた。

 とはいえ、2人がここまで盛り上がるのも仕方ないのかもしれない。なにせ野原一家が今回沖縄にやって来たのは、地元の商店街の福引きでしんのすけが『高級リゾートホテル宿泊券付き沖縄旅行8泊9日の旅』を当てたためだ。観光シーズンの沖縄に交通費も宿泊費も無料で行け、しかもそのホテルが超豪華となればテンションも上がるというものだ。ちなみに飼い犬のシロは、隣のおばちゃんの家に預けてあるため今回は留守番である。

 しばらくそうして盛り上がっていた2人だったが、一頻り感情を解き放って満足したのかようやく平常運転に戻ったひろしが、ポケットに突っ込んでいた携帯端末を取り出してガイドブックのデータを呼び起こした。

 

「えーっと、ここからホテルまでどれくらいだっけ?」

「確か車で1時間くらいじゃなかった?」

「うへぇ、飛行機に乗った後に1時間も運転してたら疲れちまうぜ。自動運転のコミューターがあって助かったな」

「でもパパ、早く捕まえないとコミューターが来るまで待つことになるんじゃない?」

「おっと、そうだよな。だったら先に外に行って捕まえてくるぜ」

 

 ひろしがそう言って1歩足を踏み出した、そのとき、

 

「――いってぇ!」

 

 ロビーを走る2人組の男にぶつかり、ひろしは突き飛ばされて床に転がってしまった。

 しかし男達はひろしに謝るどころか、ギロリと睨んで舌打ちしてそのまま走り去ってしまう。

 

「ちょっと! そっちがぶつかってきたんだから謝りなさいよ!」

「パパ、大丈夫?」

「あぁ、ありがとなひまわり。怪我は特に無いから大丈夫だ」

 

 男達の背中にみさえが怒鳴り声をぶつける横で、ひろしが差し出されたひまわりの手を取って立ち上がる。

 

「やぁやぁ皆さん、随分賑やかですなぁ」

「あっ、お兄ちゃん」

 

 ひろし達と同じくアロハシャツ姿でリュックを背負う中学1年生のしんのすけがその場にやって来たのは、まさにそんなタイミングのことだった。

 

「いやぁ、とても立派なウンコだったから、思わず写真に撮っちゃったゾ。飛行機に乗ってたときは何ともなかったのに、降りた途端に催してくるのはなんでだろうね?」

「お兄ちゃん、そっちに変な男2人組が行かなかった?」

「おっ、そういえばさっき擦れ違ったゾ。どうしたの?」

「パパがそいつらとぶつかって突き飛ばされたのよ。しかも謝りもしないで行っちゃって」

 

 みさえの説明に、しんのすけは「それは大変でしたなぁ」と呑気な声で感想を返す。

 

「まぁまぁ。せっかくの旅行なんだから、いつまでもムラムラしても仕方ないゾ」

「それを言うなら“イライラ”な。――まぁ確かに、しんのすけの言う通りだな。せっかくの沖縄に来たんだ、楽しまなきゃ損だよな!」

「そうそう! 高級リゾートホテルがオラ達を待ってるゾ!」

 

 機嫌を戻したひろし達を引き連れて、しんのすけが先陣を切って空港ロビーを突き進む。

 そうして野原一家は、当初の予定通り“恩納村”にある高級リゾートホテルへと向かっていった。

 

 

 

 

「ふん、まさかトイレの中に逃げ込むとはな……」

「まぁ良いさ。“コレ”さえ手に入れば、俺達が世界を手にしたも同然だ」

 

 到着ロビーに隣接したトイレでは、2人組の男が個室の前で声を潜めてそんな会話を交わしていた。2人のうち片方の男の手にはスタンガンらしき物が握られ、そしてその個室の中では白衣を身に纏う別の男が便器に座りながらグッタリと項垂れている。

 どう見ても誘拐事件の現場だが、目撃者がいなければ事件に発展することは無い。空港という不特定多数の人々が出入りする場所にあるトイレを利用する者がいないというのは不自然だが、大陸系の古式魔法に精通する彼らの手に掛かれば特定の場所を短時間無人にすることなど容易い。

 

「さてと、さっさとずらかるか」

「あぁ、いつまでも魔法の効果が続くとは限らんからな」

 

 スタンガンらしき物を持つ男の呼び掛けに、もう片方の男が白衣の男の腕を肩に回して持ち上げた。そうして3人組となった男達が、そのままトイレから出ていこうとする。普通ならばそんなことをすれば目立って仕方ないが、魔法によって周りの人間が彼らから認識を逸らすようになっているため問題無い。

 よって男達は悠々とした足取りで、そのままトイレの出入口へと進んでいく。

 しかし、あと数歩までとなったそのとき、

 

「――――」

 

 その出入口を塞ぐように、1人の“美少女”が両足を肩幅に開いて立っていた。

 高級な絹糸のように煌びやかな金色の髪に、晴れやかな青空がそのまま閉じ込められたかのような碧い瞳。人形かホログラムかとばかりに整った容姿をしたその少女は、その華奢な体躯から見て年上に見積もっても中学生を超えないくらいの年齢だ。

 そんな美少女が男子トイレに入り、気を失った男を連れて行こうとする男2人組を眼前にして、まったく表情を揺らがせることなくまっすぐ彼らを見据えている。

 

「お嬢ちゃん、ここは男子トイレだぞ」

 

 男の1人が、ゆっくりと少女に近づく。

 その右手には、スタンガンらしき物。

 そして男が突然大きく足を踏み出し、右手に握る物を少女へと押しつけ――

 

「――――!」

 

 ようとしたその瞬間、少女も一気に男との距離を詰め、彼が伸ばした腕を避けてその内側へと入り込んだ。

 そして少女は男の左胸に掌底を叩き込んだ。しかもただ当てるのではなく、左胸に触れたところで一瞬動きを止めてから押し込む“裏当て”の技術を織り交ぜている。相手の筋肉の膨張を抑えてから攻撃を放つことで力がストレートに体の内部に伝わり、華奢な少女の掌底に大の男が苦悶の表情を浮かべる。

 その隙に少女の手が男の首筋に伸び、バチッと火花が散る音と共に男の意識が刈り取られた。

 それまでの動作に掛かった時間、およそ2秒。白衣の男を肩に抱えるもう片方の男が驚愕の表情を浮かべる中、少女はそのままの流れでその男の首筋へと手を伸ばす。

 

「ちっ!」

 

 しかし男は姿勢を低くしてそれを避け、それと同時に抱えてた白衣の男をタイル張りの床に転がすように捨てた。そうして白衣の男が完全に倒れ伏すよりも前に、男は少女に向かって駆け出して拳を振りかぶり――

 

「ぶべらっ!」

 

 目の前に展開された透明の障壁魔法に気づかず、顔面から思いっきり激突した男はそのままもんどり打って背中から崩れ落ちていった。その際に頭を強く打ったのか、男は呻くような声をあげるばかりで立ち上がれそうにない。

 

「終わりました」

 

 少女が出入口に向かって短くそう呼び掛けると、大柄な外国人男性4人が素早くトイレの中に入ってきた。そして内3人が床に転がる2人組の男と白衣の男をそれぞれ背負い、そして残る1人が少女に対して純粋な笑顔を向けて言い放つ。

 

「CADも持たずにこの手際とは……。さすがだな、シールズ准尉」

「はっ!」

 

 その褒め言葉に、リーナと呼ばれた少女は威勢の良い返事と共に敬礼をした。

 

 

 *         *         *

 

 

「いらっしゃいませ、皆様。お待ちしておりました」

 

 別荘に着いた深雪達を出迎えたのは、実年齢は30歳を過ぎているはずなのにどう見ても20歳過ぎにしか見えない顔立ちをした女性だった。

 彼女の名は、桜井穂波。彼女は深夜の“ガーディアン”であり、魔法資質を強化された調整体魔法師“桜”シリーズの第1世代だ。20年戦争の末期に研究所で作られ、生まれる前から四葉に買われた魔法師だが、普段はそんな生い立ちを感じさせない明るくさっぱりとした性格をしている。

 そして女性ということもあり、本来ガーディアンの仕事ではない深夜の身の回りの世話もしている。本人曰く「家政婦の方が性に合っている」らしく、今回も彼女の護衛を達也に任せて現地の情報収集や別荘の掃除などをしていたのである。

 

「麦茶を冷やしておりますよ。それともお茶を淹れましょうか?」

「ありがとう、せっかくだから麦茶をいただくわ」

「はい、畏まりました。深雪さん、達也くんも麦茶で宜しいですか?」

「ありがとうございます」

「お手数をお掛けします」

 

 そして桜井は四葉家の使用人の中でも珍しい、達也を深夜の息子として、そして深雪の兄として扱う存在だった。普通に考えれば当たり前のことだが、それだけ彼が身を置く環境が普通ではないことの証左である。

 とはいえ、今は彼女以外に四葉家の目は無い。深雪はこれ幸いと、ソファーに座る達也の隣に勢いよく腰を下ろした。そんな彼女に桜井は「あらあら」と笑みを漏らし、深夜は若干呆れたような目を向ける。

 

「お兄様! せっかくですし、少し散歩に出ませんか?」

「あぁ、それは良いな。徒歩だと万座毛(まんざもう)はさすがに遠いけど、ビーチ沿いの遊歩道をのんびり歩くだけでも気持ち良いだろう」

 

 達也が賛同したことで、深雪も嬉しそうに笑みを深めた。桜井も2人の遣り取りをニコニコと楽しそうに眺めている。

 しかしここで、深夜が正面のソファーから水を差す(少なくとも深雪はそう感じた)ことを口にした。

 

「深雪さん、散歩も良いですけど、あまり遅くならないように。――今夜は“パーティー”がありますので」

「……分かりました」

 

 深雪は努めて、声が尖らないよう注意して返事をした。

 

 

 

 

 恩納村は沖縄県の本島中央部に位置する、日本でも屈指のリゾート地である。東シナ海の海岸に沿って走る国道沿いには多くの大型リゾートホテルが立ち並び、地元の漁業協同組合によって保全されるサンゴ礁が見所だ。

 そんな恩納村だが、21世紀半ば頃までは総面積の3割近くを米軍基地が占めていた。しかし第三次大戦の激化によって米軍がハワイに引き上げたことで、一部が民間委譲されたうえで現在は国防軍が引き継いでいる。また戦争時は国境最前線だったために村の大きな収入源でもあった観光業が大きく悪化、リゾートホテルも次々と廃業を強いられた。

 そうして大きな傷を残して戦争が終結した頃、とあるリゾート運営会社が真っ先に恩納村に乗り込んだ。荒れ果てた元ホテルの空き地を整備して、豊富なレジャーやショッピング施設を取り揃える高級路線の総合リゾートホテルを立ち上げると、瞬く間に日本全国だけでなく世界からも多くの富裕層が集まる人気ホテルへと成長した。その格式の高さからサミットの会場に選ばれるほどであり、周辺に次々とホテルが立ち並び観光業が復興した現在でも大きな存在感を放っている。

 

「そこの君、あそこの飾りが曲がっているから直すように」

「はいっ!」

「空調の温度が少し高いから、1度か2度下げるように。いくら夏とはいえ、客人はそれなりに着飾るからな」

「承知しました!」

 

 そんなリゾートホテルの敷地内にあるパーティーホールでは、今日の夜に行われるパーティーの主宰者である男性が会場を走り回るスタッフに次々と指示を出していた。そのキビキビとした動きからは、今日のパーティーを絶対に成功させてやるという熱意をひしひしと感じる。

 今日は身内や親しい者のみを集めた小規模なもので、本来ここまで気合いを入れる必要は無いはずだ。しかし彼にとっては今日の招待客の中にいる人物こそが、それこそ仕事上の得意先よりも重要な存在だった。もっとも彼の場合、単純にパーティーで相手をもてなすこと自体が1つの趣味と化しているという見方もあるが。

 

 一通り会場を見渡して順調に準備が進んでいることを確認すると、男は息抜きのためにホールを離れて敷地内の散策を始めた。緻密に計算された植物やオブジェの配置により、開放的でありながら建物ごとのプライバシーが守られた遊歩道は、彼にとってこのホテルを自分達の宿泊地とする大きな理由の1つである。

 彼が目指すのは、ホテルのフロント近くにある喫茶店。そこでコーヒーと軽く摘める物でも頼もうかと向かっていた、まさにそのとき、

 

「おぉっ! これがオラ達が泊まるホテルですかぁ!」

「すっごーい! 本当にこんな高そうな所にタダで泊まれるの!?」

「中にプールとか映画館もあるし、ショッピングモールかってくらいにお店もあるみたいよ」

「おいおいマジか、ホテルの中だけで何日も遊べそうじゃねぇか」

 

 富裕層が利用するホテルにしては随分と騒がしい家族に、彼はガバッというオノマトペでも付きそうな勢いでそちらへと振り向いた。

 しかし家族を見つめる彼の表情は、けっして迷惑そうなものではなかった。

 彼の顔に浮かぶ感情を一言で表すなら、おそらく“驚愕”になるだろう。

 

「……な、なんで“彼ら”がこんな所に!? まさか、ここに泊まるというのか!?」

 

 喫茶店へ向かっていた彼は踵を返し、そのまま早歩きで先程歩いたルートを逆走し始めた。そしてポケットから携帯端末を取り出すと、焦りで指が震えるのを抑えながら電話を掛ける。

 

「私だ! 今すぐこのホテルの宿泊名簿を調べろ、大至急だ! ――あぁ、そうだ! 純粋なバカンスだったから私も完全に失念していたよ! まさかこのホテルに“彼ら”が来ることになるなんてなぁ!」

 

 その男――黒羽貢は、もはやパーティーの準備どころではなくなっていた。


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