サッダーム・フセイン元大統領の死刑執行

【バグダッド30日共同】1982年、イラク中部ドジャイルでイスラム教シーア派住民を虐殺した「人道に対する罪」で死刑が確定していたサダム・フセイン元大統領(69)に対して、絞首刑による死刑が30日午前6時(日本時間正午)ごろ執行された。国営テレビが発表した。判決確定からわずか4日。約四半世紀にわたり同国を恐怖で支配し、2003年のイラク戦争で政権の座を追われた独裁者は、犯罪者として生涯を閉じた。

裁判の公正さを疑問視し、死刑に強く反対していた欧州諸国や国際人権団体などから批判が噴出するのは確実。元大統領を支持するスンニ派の武装勢力が、現政府の中枢を占めるシーア派やクルド人への攻撃を活発化させ、さらなる治安悪化につながる可能性がある。

元大統領に厳しく弾圧されたシーア派やクルド人が中枢を占める現在のマリキ政権には、死刑執行でスンニ派への元大統領の影響力を排除、旧政権時代との決別を内外に印象付ける狙いがある。

KYODO NEWSより引用

この裁判と刑の執行は、当然の結露なんだろーが、米国主導なのがども嫌な感じだ。
東京裁判と同じ匂いがする。

このイラクの独裁者の刑は、シーア派弾圧・虐殺が直接の罪だというが、元々それをネタにした逮捕劇ではなかった。ありもしない大量破壊兵器をぶっつぶせと侵攻し、9.11テロの元凶とサッダームは繋がっていて後ろ盾だからコイツを締め上げればアルカイダのボスも捕まえられるとブッシュが叫んでいたのだ。

 そして、あの9.11テロを超える犠牲者を米軍は出しながら未だイラクから撤兵できない。
治安、政情ともに不安定なイラクの安定化と自らの間違いを覆い隠す為に、判決から僅か4日という早さで絞首刑にした。

サッダームの言い分は、殆ど検証されていない。
シーア派に対する弾圧というが宗教対立にどっちが正しいというのは無いだろう。
そもそも信じるカタチが違うモノにどうやって判定が出来るのか?
虐殺はあったのだろうが、それは全てサッダームのせいなのだろうか?
 また、逆にシーア派は従順に何もしなかったのか?

だいたい、イスラムの世界のことをキリスト教の価値観で判断すること自体に問題があると思う。

この裁判の本当の評価は、まだまだ先にならないと出来ないと思う。
これからイスラム世界がどうなっていくのか、イラクはどうなるのか、米国はどうするのか、サッダームの処刑で全てが終わったことにしたいブッシュに騙されてはいけない。

じっくりと忘れず、見つめ続けなければいけない。
米国の押しつけの正義がまたひとつの過ちを犯したことを。

◆サッダーム・フセイン略歴 権力と失墜

サッダーム・フセイン元大統領は1937年4月28日、イラク北部のティクリート近郊のアル・アウジャ村で生まれた。アラブ諸国でアラブ民族主義が高まった1950年代に思春期を過ごし、1955年にバグダッドでバアス党に入党した。

1959年にアブドゥルカリーム・カーセム首相の暗殺計画に参加したが、逮捕を逃れてシリアとエジプトに逃亡。亡命中の欠席裁判で死刑判決を受けた。

亡命中にエジプト・カイロで法律を学んだ。1963年にバアス党がイラクの政権を握ると、サッダームは帰国し党の要職につく。この第一次バアス党政権が1964年に失墜すると、サッダームは逮捕投獄されるが、獄中で党幹部となり、1967年に脱獄。1968年のバアス党と軍のクーデターでアフマド・ハサン・アル・バクルが全権を掌握し、大統領になると、サッダームは最高意思決定機関・革命指導評議会(RCC)の副議長に就任。1973年からは国軍司令官を兼ねる。1979年7月には党内クーデターを成功させ、アル・バクル大統領を引退させた後、自ら大統領に就任。政府内パージを敢行し、数百人を処刑したとされる。

大統領就任後は反体制派やイスラム教シーア派を激しく弾圧。政教分離の世俗的な、個人崇拝の政治文化を強制する。イラン革命翌年の1980年9月にはイランの石油資源や輸出要路をめぐってイランを奇襲攻撃。イラクは米欧ソの支援を受けるが、イランの徹底抗戦にあって、イラン・イラク戦争は88年に停戦した。

イラン・イラク戦争停戦から2年後の1990年8月、サッダームはクウェートを侵攻・占領。米国の猛反発を受け、翌1991年の湾岸戦争で敗退。米国主導の国際社会と国連は、イラクに経済制裁を科す。

2001年9月11日の米同時多発テロを契機として、米ブッシュ政権は国際テロ組織アルカイダとイラクを関連づけた主張を次第に展開。02年にはイラクが大量破壊兵器を保有・開発していると主張し、03年3月20日にイラク侵攻を開始。4月9日にバグダッドは陥落し、サッダーム・フセイン政権は崩壊。5月2日にはブッシュ大統領が大規模戦闘終結を宣言したが、激しい戦闘はその後も続いている。

03年7月22日には、サッダームの息子ウダイとクサイが米軍の銃撃で死亡。サッダーム本人は同年12月13日、故郷ティクリート南郊の民家地下に潜伏しているところを、米軍に拘束される。身体検査を受ける映像などが公開された。

04年7月にイラク特別法廷の初公判が開かれ、05年7月に人道に対する罪で起訴された(イラン中部ドゥジャイル村で1982年に起きた暗殺未遂事件を機にしたシーア派住民148人の虐殺に関与した罪、およびクルド人18万人余を殺害した「アンファル作戦」を命令した罪)。

06年11月5日、特別法廷はサッダームをドゥジャイル虐殺について有罪と判断し(クルド人虐殺については審理中だった)、絞首刑による死刑判決を下した。翌月26日にイラク高等法廷が控訴を棄却したため、死刑が確定。同日に記者会見した高等法廷控訴院のシャヒーン裁判官は、執行日については「12月27日から30日以内に、行政府が決定する」と説明した。

サッダーム・フセインと政権幹部の裁判は、弁護士が殺害され、判事が相次いで辞任あるいは交代したのをはじめ、イラク政府による干渉が指摘されるなど、その進行や手法、公平性を疑問視する声もイラク内外から挙がっている。

法廷でサッダームは自らを「元イラク大統領」ではなく、今でも「イラクの大統領」だと名乗り、特別法廷の正当性を否定。裁判は戦勝国・米国が仕組んだ「茶番」だと非難し続けた。死刑判決が下された11月5日に獄中で書いたとされる手紙では、「自分の魂を神への犠牲として捧げる。神が望まれるなら、殉教者と共に私の魂も天国へ送って下さるだろう」「(私を)殉教者として下されば、神はこの従順な魂に栄光をもたらして下さる」と書き、自分の死が「殉教」となることを期待する様子をうかがわせた。

手紙ではさらに「私を忠実で正直で親切で賢い」人間だったと「覚えていてくれる国民」に対して、「憎しみを抱かないように。憎しみを抱くと、人間は公平ではいられなくなる。憎しみは人を盲目にし、判断力を失わせ、バランスのとれた的確な選択ができなくなる」と呼びかけ、特に「私たちを攻撃した国々の人たちを憎まないように。その国々の指導者たちと国民たちは違うのだと、区別するように」と書いている。



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