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まず最初に自分の立場表明をしておくと、僕はNEEDY GIRL OVERDOSEというゲーム
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にかなりはまっている人間です。
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ですので、ゲーム自体に対しては肯定的なバイアスが入っていますし、逆にゲームを批判するこの記事については否定的なバイアスがかかっています。
そのバイアスを知った上で、今回の記事は読んでいただけると幸いです。
「精神疾患」にも色々あるのに、全て一緒くたにすることへの違和感
上記の記事を読んで、僕がまず思ったことは、「精神疾患の当事者」という肩書きでこの記事が書かれた事への違和感です。
例えばこの記事では著者の双極性障害という病名が告白されていますが、ゲーム内の描写を見る限り、このゲームの登場人物であるあめちゃんは、双極性障害と言うより境界性人格障害であるように思えます。
といってももちろんこれは素人からみた憶測に過ぎず、実際はあめちゃんを診断した精神科医しかそういう診断名を付けることはできないわけで、いずれにせよ著者が「同じ精神疾患の当事者」として勝手に共感したとしても、実際は全く別の悩みをあめちゃんが抱えているという可能性だった多々あるわけですね。
他にも統合失調症や発達障害、あるいは薬物精神病など、一口に「精神疾患」といってもその内容は全く異なってくるでしょう。僕は一応うつ病と発達障害の当事者ですが、同じ精神疾患だからといって統合失調症とか薬物精神病とかに対する見解を求められても、正直部外者の一市民としての見解しか答えられません。
そういった多種多様な病気を「精神疾患」という一カテゴリに納めようとするのは、端的に言えば社会の福祉や医療制度の都合でしか無いわけで、そこで「精神疾患だからこうなんだろ」という風なことを言い切ってしまうのは、まさしく筆者が批判しているスティグマに当たるんじゃないか。この記事を読んで最初に僕が覚えた違和感は、そこでした。
「やみ度0エンド」は「ハッピーエンド」として描かれなければいけないのか?
この記事の筆者は、やみ度0になったとき、あめちゃんが配信を止めてしまうエンドに到達することについて、以下の様に批判しています。
そんな手応えのあるゲームプレイだが、痛烈な違和感を持ったのはいくつかの結末だった。私は彼女にはなるべく健康に“インターネットエンジェル ”になってほしいと思ってプレイしていた。ところが「やみ度」が0になると彼女は配信者をやめてしまい、びっくりするような結末になるのだ。「生きるためには、精神の負荷も必要だと思います」というウィンドウがあらわれ諭してきて、ゲームオーバーになってしまう。
納得がいかない。配信者をやめるのはわかる。しかし本作でいうところのやみ度とやらが0の状態で精神の負荷がないというのはいかがなものか。寛解への軌跡がない。精神疾患を帯びていない人たちにも存在する心の痛みを否定するものだし、明るく生きる人たちの生き様をも否定している。
このような観点にはゲーム作者のにゃるら氏も自覚的で、ゲーム発売当初に次のようなツイートをしているわけです。
ただ、じゃあ「やみ度0エンド」が本当にハッピーエンドなのか?一応全エンド到達した僕から言わせてもらうと、とてもそうは思えないわけです。
ゲームを進めていって分かるのは、あめちゃんというのがとても「歪んだ人間」であることなんですね。最後に到達するエンドをみればそれは一目瞭然だし、そこまで行かなくても「アンチを叩いて満足した配信の直後に別の配信者にアンチコメをしにいく」、「宣伝費を払って宣伝して欲しいと行ってきた会社の商品を侮辱する」といった振る舞いをみれば、精神疾患とか関係なく、まともに社会に適合できない人間であることは明らかなわけです。
そんな彼女がやみ度0になって配信を止めたとして、その後幸せに暮らせるか?僕はそうは思わないんですね。それこそ短期アルバイトに就いては辞めを繰り返し、最終的には中年引きこもりとなる、そんあ結末しか見えません*1。
「寛解への軌跡がない」描写こそがリアルな人だって居るでしょう
筆者は「寛解への軌跡がない。」という点を批判します。これは、もしあめちゃんが、うつ病や双極性障害、あるいは統合失調症といった「病気・障害がわかりやすい」精神疾患として描かれているなら、確かに妥当な批判だと思います。
しかしあめちゃんの抱えている問題って、そういう「病気・障害の問題」というよりは、どっちかというと「人格の問題」なわけです。となると、もしあめちゃんが「寛解」に至るとしたら、上記で挙げたような問題行動をしない、まともな人格になって、それこそ「明るく生きる人たち」のように自分の人格を改造しなくてはならないわけです。
しかし、そうやって自分の人格や性格を改造することまで、果たして精神医療はできるのでしょうか?仮にできたとして、本当にそこまですべきなんでしょうか?
少なくともそういった問いに対する答えは、まだ精神医学全体や、更に言えば社会全体は出せていないでしょう。とすれば、そこで安易に「人格のゆがみ?そんなの精神医学で矯正すれば楽になるんだからそうすべきだ」と断言するよりは、そこで「安易に答えは出せないよね」と踏みとどまる、にゃるら氏の態度の方が、僕には誠実に思えます。
「治らなくてもいいんじゃないか」というメッセージも、また一つの誠実な向き合い方では
そして、このゲームはそういった既存の精神医学の有効性に対して疑問を持つ立場から、むしろR.D.レインのような「反精神医学」に近い立場を取るわけですね。
NEEDY GIRL OVERDOSEと反精神医学の関係については
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という記事が考察しているのでそちらも参照してほしいのですが。
簡単に言うと「精神病を治して社会に適合させるよう人間を改造するなんていうのは、社会による人間への弾圧だ。そうでなく、精神病を抱えた人が、それを抱えたままのびのびと生きられるとう、社会を変革していかなければならない」というのが、反精神医学の立場です。
このような思想は、特に既存の社会や体制に反対する運動が盛んだった1960年代から70年代に栄えました。そしてそれら思想の元に起きた運動によって、それまで「精神病者は治るまで病院に監禁しておけ」という考えが大勢を占めていただった精神医学に、「精神病者も社会の中で生活するようにしよう」という考えが生まれてきたわけです。
ただその一方で、反精神医学という考えにも限界があるわけです。そもそも社会を変えるなんてこと自体、そう簡単にできるものではありませんし、更に言えば「精神医学は悪!」という考えに凝り固まった故に、普通に薬物療法とかをすれば病状が改善するはずだった患者にも薬物療法を行わず、結果として病状を悪化させるみたいなこともありました。
上記のような反省を元に、現代の精神医学においては概ね「反精神医学という考えは、良い面もあったが全体としては否定されるべき」という風に考えられているわけです。*2
ただ一方でにゃるら氏は、現代っ子らしく「社会変革」というような夢は持っていないでしょう。彼がむしろ描いているのは「既存の社会とは違う場所(このゲームにおいては「インターネット」)で、社会に抑圧されずに生きる」という夢なわけです。
このNEEDY GIRL OVERDOSEというゲームは、確かにぱっと見アイロニーと戯画化ばっかりで、全てを馬鹿にしてるゲームのように映るかもしれませんが、そのバックボーンには、こういう、インターネットが大衆化する前からインターネットに入り浸っていた人が、インターネットに持っていた理想があるんじゃないかと、僕はそう解釈するわけですね。
そして、その理想から、敢えてにゃるら氏は「寛解への軌跡」を描かず、むしろ「治らなくていいんじゃないのか」と言う態度を取っている訳です。
それは、確かに既存の精神医学の考え方とは違うものかもしれませんが、しかしそれもそれで、一つの誠実な「精神疾患への向き合い方」だと、僕は思うのです。
ロマンティックなメンヘラは存在するか?
ただ一方で、そのような考えに基づくが故に、「精神疾患」というものの描き方にバイアスがかかっているのではないかと問われれば、それは否定できません。
ほかにも考えられないバッドエンドがあった。精神疾患で使用される薬物について偏見を助長させる描写だ。あめちゃんに軽い処方箋ドラッグを与えているとそのうちにエスカレートしてイリーガルなドラッグが登場し、さらに与え続けると「LSDのやり過ぎで向こう側の世界にいってしまう」ものすらある。
これがただ過激さをあおるテンションで平然と描かれている。毒性の低い薬品から始まり、使い続けると毒性の高い薬品があらわれていくことなど、ゲートウェイドラッグという反論の多い不確かな理論をそのまま運用している危険性があり、精神疾患を負う者が精神安定剤を飲まざるを得ないことへの無理解を生みうる。
ゲートウェイドラッグ理論の正否は、専門家でない僕には分からないので保留しておきますが、薬物に対する描き方っていうのは確かにちょっと問題があって、なにより「薬物を使えばこの世を超越することができる」というような描き方は、確かに問題だなーと思うわけです。
ただこれは、どっちかというとにゃるら氏が意図してそういう描き方をしているというよりは、にゃるら氏が自分の筆力や演出力を過小評価していたからなのかなーと思ったりもするわけです。
例えば、LSDをあめちゃんが接種した後、その感想についてあめちゃんが書いたと思われる「たいけんき」という内容の文章が読めるんですね。これ、本来は「あーヤク中ってこういう文章書くよねー」みたいな、そんなしょーもない文章で良かったはずなんですよ。
ところが、これが実に読んでいて面白いし、引き込まれる文章なんですね。それを読んでると「こういう体験ができるんなら、自分も薬物体験してみたいな」と思ってしまう程度には。
もちろん実際は、薬物を摂取しても大半の人はしょーもない文章しか書けません。このLSD体験記が素晴らしいのは、LSDのおかげというよりは、あめちゃん≓にゃるら氏の文章力がすごいからでしかないわけです。
上記のようなことはゲーム全般に言えて、実際事実だけを取り出すとそんなに憧れる要素も無いしょうもないことなのに、にゃるら氏の文章力や演出力にかかると極めて特異でキラキラした体験であるように見え、「自分もそういう破滅的な体験をしてみたい」と思わせてしまう作用は、確かにこのゲームにはあるわけです。だから、そこの影響力には確かに注意しなきゃならないなと思ったりはするわけです。太宰や坂口に憧れ睡眠薬を乱用したりする若者が出ることに注意するのと同程度には。
「君の病気は治らない」という歌詞が絶望になる人もいれば希望になる人も居る
ただ、そういう面を差し置いたとしても、「治らなくてもいいんじゃないか」というメッセージを敢えて伝えるということは、僕はそんなに悪いとは思えないのです。
このNEEDY GIRL OVERDOSEというゲームをやっているとき、ずっと僕の頭の中でBGMとなっている曲がありました。それはアーバンギャルドの『ももいろクロニクル』という曲です。
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君の病気は治らない だけど僕らは生きてく
君の病気は治らない だけど僕らは生きてく
君の病気は治らない だけど僕らは生きてく
君の病気は治らない だけど僕らは生きてく
アーバンギャルドというバンドも、このNEEDY GIRL OVERDOSEというゲームと同じように、リストカットとかいうようなメンヘラのことを沢山歌っていて、まさしく上記の記事の筆者が聴いたら「けしからん!」と怒るような、そういう曲ばっかりを書いているバンドです。
でも、精神疾患を抱いている人の中には、むしろ「精神疾患は治るから安心して!」というようなきちんとしたメッセージよりも、むしろこういう、ちょっと自分たちのことを茶化しながら、しかし真っ直ぐ向き合ってくれる、こういうバンドの曲に救われる人だっているわけです。そしてそれは、このNEEDY GIRL OVERDOSEというゲームにも言えます。
もちろんだからと言って、「精神疾患は治るから安心して!」というようなきちんとしたメッセージが無意味とは言いません。そういうメッセージこそが必要な人もいるでしょう。僕だって、もしリアルで「私メンタル病んで悩んでるの」と問いかけられれば、その人がどういう状態かを見て、心療内科を勧めた後、その人のタイプによってどちらの言葉を投げかけるか決めますし、多くの場合「精神疾患は治るから安心して!」というようなきちんとしたメッセージを伝えるでしょう。
(ただ現実問題、そうやって心療内科を勧めても、初診は2ヶ月先だったりするわけで、こういうゲームの精神疾患の描き方を問題視するなら、まずそういう心療内科にきちんと罹ることができる体制を作れよと思ったりもするが)
精神疾患に効く万能薬というものがない以上、重要なのは、自分に合い、自分を癒やしてくれる多様な表現に接することができる環境を作ることなのだと思います。もちろん、そのメッセージそれぞれに対する批判もまた、あって然るべきだし、それを受けて表現を変えるということもありでしょう*3。しかし「こういう表現は精神医学の標準的な考え方から違うから表現しては駄目」と一概に言い切ってしまうことには、僕は反対です。上記のような記事は、そのような、表面だけを見た一律な批判であるように、思えてなりません。