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仕事終わり、私の足が向かう先は行きつけの居酒屋。 ガラッと引き戸をスライドさせれば、『いらっしゃいませー!』と良く通る声に迎えられる。 ガヤガヤと賑やかな店内。 料理の匂いがあちこちから漂ってきて、周りからは楽しそうな喋り声や店員さんの声が飛び交う。 そんな店内をぐるりと見回して目的の人物を探していれば、視界の端に片手を上げてこちらに向かってひらひらと振っているのが見えた。 パッとそちらに視線を向ければ、一番奥のテーブル席に座っている人物が、ゆるりと口元を緩めて片手を上げている。
…金曜日の夜というのは、どうしても飲食店は混んでしまうわけで。 これだけ人がいると、わりと目立つ彼を見つけるのにも少し苦労する。 そんな事を考えながらその人物に向かってゆっくりと足を進めてそのテーブルにたどり着けば、頬杖をついて私を眺めている彼がゆっくりと口を開いた。
「オツカレ」
いつもと同じ声のトーン。 耳に付けたピアスをゆらりと揺らし、小さく微笑まれる。 相変わらずいつ見ても絵になる人だと思う。 ほんと中学の頃から変わらない。
「若狭くんもお疲れ様。ごめんね、遅くなって」
「気にすんな。そんな待ってねえし」
そう言う彼の目の前には、数本の焼き鳥の串や、半分残っただし巻き玉子の乗ったお皿があるわけで。 そしてその手には、3分の1くらい残ったビール。 ちらりと自分の腕時計を見れば、約束の時間を30分程過ぎている。 一応事前に連絡はしたけれど、思ってたより遅くなったらしい。 テーブルの上の料理を見る限り、彼はおそらく約束の時間よりも早く来ていたみたいで、さらに申し訳なさが増す。 なのでもう一度謝罪を口にすれば、『そのくらいの時間、待たせた内に入んねーよ』とさらっと当たり前のようにフォローをしてくれた。 …容姿だけでも充分イケメンなのに、こういう言動までスマートにできてしまうの本当にさすがだと思う。
「とりあえず何飲む?」
「うーん、ビールで」
「ん、了解」
そう言った若狭くんは、近くを通りかかった店員さんに声をかける。 私より若めの可愛らしい女の子の店員さんがパッと振り向いてメモを取り出し、『ビール2つ』と伝える若狭くんの注文にペンを走らせる。 おそらく自分の分と私の分。 そして女の子は注文を繰り返し、最後に若狭くんの顔をちらりと見た。 …少し頬を赤らめているように見えたのは、きっと気のせいではない。 うん、分かる。 とてもよく分かるよ。 彼、イケメンだよね、顔も良いし声も良い。 気は効くし、言動もスマートでパッと見たらモテ要素しかないよね。 でもね、昔は結構ヤンチャしてたんだよ、バチバチの元ヤンなんだよ。 わりと容赦なく人を蹴ったり、殴ったりしてたんだよ。 今の見た目からは想像つかないかもしれないけれど。
そんな事を考えながら一連の流れを眺めつつ、着ているコートを脱いでイスに座る私。 すると『ん、』という声と共に、目の前に差し出されるおしぼり。 すごくナチュラルにスマートな対応。 『ありがと』そう言って受け取り、手を拭きながら思う。 バチバチに不良をしてた昔の彼を知っている私からしたら、今みたいに女の子の理想を詰め込んだような容姿と言動をする若狭くんを見ると、昔から付き合いのある私でも少なからずときめいてしまう時がある。
そんな気持ちで若狭くんを眺めていれば、パチリと目が合う。
「何?」
「いや、何も」
「なんだそれ」
そう言って緩く笑う姿でさえ様になるのだから、イケメンはズルい。 ビールを飲んでいようが、焼き鳥を食べていようが、その人物の立ち振る舞いや容姿が完璧であればあるほど絵になる。 若狭くんは、確実にその対象に当てはまるわけで。 一体、今までどのくらいの女の子を虜にしてきたのだろうと思わずにはいられない。 そして今まで一体どのくらいの女の子を泣かせてきたのだろう。 ほんと、この人は罪な男だと思う。
…でもそういえば、何故か若狭くんにはずっと彼女がいない。 絶対モテるのに、というか学生時代も実際モテていたのに。 あの年頃の女の子って少しワルイ感じの男の子に惹かれるもので、関東を二分するほどの実力を持っていた若狭くんに、恋心を抱く女の子はおそらく少なくはなかった。 なのに、女の子と付き合う姿を私は見た事がない気がする。 でもまあ、あの頃の若狭くんは仲間や友達とつるんでいる方が楽しそうに見えたし、色恋沙汰にはそれほど興味がなかっただけなのかもしれないけれど。 それか、単に私が気が付いていないだけなのか、もしくは女の子に興味がないのか。 …こんなに綺麗な顔をしておいて女の子に興味がないだなんて、世のモテない男を全て敵に回す事にはなるだろうけれど。
「若狭くんって、なんで彼女作らないの?」
3分の1ほど残っていたビールグラスを煽り、綺麗に飲み干した彼にそう問いかける。 胸の中で生まれた疑問は、気がついたら口をついて出ていた。 テーブルにコトンとグラスが置かれ、瞳を微かに細めた若狭くんと視線がぶつかる。
「いらねえから」
さらっとなんの気なしに告げられたその台詞は、確実に世のモテない男を全て敵に回す事になるもので。 「うわ……、聞かなきゃよかった」
やはりイケメンは言う事が違う。 ゲンナリしながらそう言えば、このタイミングで先程注文を取った女の子の店員さんがビールを持って来てくれた。 『お待たせ致しました』という台詞と共に、テーブルに置かれる二つのビール。
若狭くんの空のビールグラスを手にした店員さんは、立ち去る前に若狭くんに向かってちらりと視線を向ける。 確実に見てる、頬を染めて見てる。 イケメンだよね、綺麗な顔立ちしてるよね、分かるよ。 だけど一方の若狭くんは女の子のそんな視線にも気付かず、今度はだし巻き玉子に箸を運んでいた。 …結構分かりやすい程に視線を向けられているというのに、マイペースすぎるこの態度。 若狭くん、女の子の好意にわりと鈍感……、というかもしかしなくてもそこまで興味がないのかもしれない。 その女の子の店員さんも若狭くんと全く視線が合わず、少し残念そうな顔をしながら立ち去って行ってしまった。 ……ああなるほど、彼を好きになった女の子は、こんなふうに泣かされていくという事か。 変に期待を持たせるよりかは全然いいとは思うけれど、ちょっと可哀想だなと思ってしまうのはきっと私と彼女が同性だから。
そんな事を考えながら店員さんに向けていた視線をゆっくりと元に戻せば、ビールグラスを手にした若狭くんが視界に広がる。 …あ、そっか、私の飲み物が来たからか。 そして冷えた自分のグラスを手に持ち、差し出されている彼のグラスにコツンとぶつけた。
「お疲れさま、乾杯」
「乾杯」
グラスのぶつかる高い音を聞きながら、ビールに口を付けてそのまま喉へと流し込む。 独特の苦味、喉を潤す炭酸、鼻から抜けるアルコールの匂い。 うん、仕事終わりのお酒って、ほんとに美味しい。 一杯目のビールに舌鼓を打っていれば、若狭くんがふっと小さく笑った気配がした。
「オマエ、ほんといい顔するよな」
口元を緩めて頬杖を付きながら私に視線を向けるその姿は、とても柔らかい雰囲気を纏っている。
「だって、仕事終わりの一杯って最高だよ?アルコールが疲れた身体に染み渡る」
「それは同感」
「だよね」
学生時代とはまるで変わった会話内容。 だけど今も昔も変わらない、私達のこの関係性。 飾らずに素のままに話せて接する事ができる、唯一の人。 世間一般で言えば多分、友達、昔のツレ、腐れ縁、呼び方は色々とある。 付かず離れず、会う頻度もバラバラ、連絡もそこまで頻繁ではない。 なのに不思議な事に、10年近くも関係が続いているのだから、ほんと人生って分からないものだと思う。
『そういや、話戻すけど』そう告げた若狭くんは、テーブルの上にある焼き鳥に手を伸ばして私に視線を向ける。
「オマエは彼氏、作んねえの?」
焼き鳥が若狭くんの口の中へと消えていく。 おそらく私が先程彼にした『若狭くんって、なんで彼女作らないの?』という質問に対しての、質問返し。
ビールグラスを手にして、半分程喉へと流し込んでからテーブルに置く。
「私はいいの。今は男を見る目を養う時期だから」
「あー。そういやオマエ、壊滅的に男運悪かったよな」
「…ちょっと、若狭くん。それ笑いながら言う事じゃないからね?」
焼き鳥を頬張りながら薄く笑みを浮かべる若狭くんに、じとりと目を向けるけれど、相変わらず彼は気にする素振りもなく次の焼き鳥に手を伸ばした。 …まあ男運がないのは本当の事だから、否定はできないのだけれど。
会話の流れで脳裏を過ぎりそうになる過去の男達。 小さく頭を振って、思い出す前に再びビールの入ったグラスを煽った。 喉を鳴らして、残ったものを一気に流し込む。 アルコールの味に、少しだけ頭がくらりとした。
「若狭くんなんて引く手数多なんだから、選び放題なのに。さっきの女の店員さんも若狭くんに見とれてたよ」
「へえ」
テーブルに空になったグラスを置いてそう言葉を続けるけれど、若狭くんはまるで興味がないというように、パラパラとメニュー表をめくり始める。 『次、何飲む?』さらりと変えられた話題と、目の前に広げられたドリンクメニュー。 ドリンクの名前を順番に視界に映していき、少し悩んだ後『ハイボールにしようかな』と口にすれば、『ん、了解』と返ってくる。
「あ、それとモロキュウ。あと唐揚げ」
「チョイスがまさに酒好きのつまみだな」
「美味しいからいいの」
私がそう言えば、若狭くんはゆるりと口元を緩めながら『確かにな』と続ける。 ハイボールといったら唐揚げでしょ、モロキュウはあっさりしてて箸が進むし、嫌いな人もそういないはず。 そんな持論を頭の中で展開しながら、広げられたメニュー表を閉じる。 それと同時に若狭くんが近くを通った店員さんを呼び止め、先程私が口にしたものを頼んでいく。
そして店員さんが注文した品を確認するように復唱して去って行った後、彼の瞳がゆっくりと私へと向けられる。
「オマエのそういう飾らないところ、オレ結構好きだワ」
「…急に持ち上げるね」
「いや、本心な」
「それは……、うん、ありがとう」
「どういたしまして」
ふっと息を吐いて微笑むその顔は、とてつもなく絵になるわけで。 あ、ほら隣のテーブルにいる女の子が若狭くんを見て頬を赤らめてる。 そのくらい若狭くんの優しいその顔は、人の目を惹き付ける。 それは彼と付き合いの長い私でさえも、思わず乙女心が擽られる感覚にさせられる程で。 なんだかちょっと、むず痒い。
お互い大人になってからもこうやって飲みに来たり、ザリの後ろに乗せてもらって一緒に走ったりする事はある。 それは買い食いしたり、ニケツしてた学生だった昔とそう変わらない。 だけど年齢を重ねるにつれ、若狭くんは落ち着いた大人の男の人になっていって。 そんな彼の言動に、私は度々年甲斐もなくときめきそうになってしまうわけで。 何度も言うけれど、ほんとに彼はズルい人だと思う。 若狭くん自身はいつも余裕たっぷりで表情をあまり変えないのに対して、私は先程彼が口にした『好きだワ』という台詞に少しばかり動揺してしまったのだから。 この人は日常会話のように、さらっと女の子が喜ぶ言葉をくれる。 とてもできた大人。 そういうところも、若狭くんをズルいと呼ぶ理由の一つではあるけれど。
そして若狭くんによってときめきかけた自分の胸から意識を逸らすように、私は少し違う話題を口にする。
「でも私だって、可愛げ出す時だってあるよ。気になる男の人の前では特に」
そう言った途端、若狭くんの瞳がスッと細められ、私を射抜くように見つめてきた。 ほんの少しだけ変化したその雰囲気に、思わず小さく息を呑む。 するとちょうどその時、店員さんが先程頼んだドリンクと料理を持って来てくれた。 私が頼んだハイボール、モロキュウ、唐揚げ、そして若狭くんが頼んだビールがテーブルに並べられる。 揚げ立ての唐揚げはその匂いだけで食欲が沸いてくるけれど、それに手を付ける前に若狭くんはその唇を動かした。
「例えば?」
「え、」
「好きなヤツの前で、どう可愛げ出すワケ?」
「……それは、可愛げあるメニューを、選ぶとか」
「どんなやつ?」
考える間を与えないかのように、次から次へと質問をしてくる若狭くん。 いつもと少しだけ違う雰囲気のように感じるのは、お酒のせいなのだろうか。
「…カルーアミルク、とか」
「ん、可愛い。他は?」
「……デザートなら、…バニラアイス、とか」
「可愛いな。それから?」
「それ、から……」
適当に言ってしまった一言に、しれっと返される『可愛い』という言葉。 完全に不意打ちだったその言葉は、私の頬にゆっくりと熱を集めているような……気がする。 …ううん、いやお酒だ、きっとお酒を飲んでいるせい。 そうに決まってる。 可愛いだなんて、今までに若狭くん以外の男性からも言われる事はあったわけで。 そしてそれはほぼ社交辞令みたいなものだったし。 だから彼の言った『可愛い』もそういった類のものに決まっている。 ……まあ、私達の関係に今更社交辞令なんて必要ないというのは、私が一番分かっているはずなのだけれど。 無理矢理にでもそう結論付けてしまうのは、目の前にいる若狭くんの事を、一人の男性として意識してしまいそうになるから。
……顔、赤くなっていないといいけど。
「…それから、今日は帰りたくないって、言ってみたり…して」
「……へえ」
そう言った若狭くんは、スッと目を細めてうっすらと口角を上げた。 どことなく余裕ありげに笑っているその顔は、胸の内に一体どのような感情を隠しているのか。 余裕なく言葉を紡ぐ私と、笑みすら浮かべている若狭くん。 対極的にも見えるそれが少し悔しい。 先程勢いで口にしてしまった言葉は、言わない方がよかったものだったのかもしれない。 小さな後悔に苛まれていれば、若狭くんがビールを煽るのが見えた。 そして、テーブルに置かれるグラス。 ゆらりと、黄色い液体が揺れるのが見えた。
「それ、今オレに言って」
「…え、」
「『今日は帰りたくない』って」
「な、なん、で」
「オレ、オマエにそういう可愛い甘え方された事ねえし」
それは、だって、若狭くんは彼氏でもなんでもないから。 ……そう言いたいのに、何故か言わせないような雰囲気と空気を感じるのはおそらく気のせいではない。 アルコールのせいか、彼の瞳がいつもより艶っぽく見えて、色気を感じてしまう。 揺れるピアスも、さらりとした長めの髪も、どろりとした甘さを纏う瞳も。 目に見えるものすべて、彼を形作るものすべてが、いつもとは違う。 ……心音が、乱れる。 頬に集まる熱は、きっとお酒のせい。 そう言い聞かせながらも、それは冷めるどころか上昇しているような気がする。
周りから聞こえてくるはずの賑やかな喋り声や、店員さんの声などすべてが一瞬にして遮断される。 目の前にいる若狭くんと私だけが切り離されたような、そんな感じ。 普段は、若狭くんと一緒にいてもこんな感覚にはならないというのに。 いつもみたいに雑談して、仕事の愚痴を言って、お互いの近況を話して、気持ち良い程にお酒を飲んで、解散。 そんな夜を想像していたのに。 今夜はどうしたというのか、何ひとつとしていつも通りではない気がする。 おかしい、何故だろう。 ……ああそっか、酔ってるからだ。 もしかして結構飲みすぎたのかも、だからいつもと違う感覚になっているのかもしれない。 そう落とし所を作ろうとするのだけれど、感覚的にまだ酔ってないというのは流石に分かる。 だって思い返してみても、まだ2杯しか頼んでいないわけで。 ビールとハイボール、これだけで酔っただなんて言えない。 …ダメだ、これじゃアルコールのせいになんて到底できるわけない。
いつもとは違う艶やかで色めいた空気。 どこか慣れなくて、普通でいるのが難しくなって、むず痒さを感じる。 彼と付き合いの長い私でさえこんな気持ちにさせられるのだから、初対面の女の子相手なら一体どうなっているのだろうか。 本当に、ズルい人。 ……女たらしとは、まさに今の彼の事を言うのではないかと思う。
「…若狭くん」
「ん、」
「そういう事、他の女の子に言わない方がいいよ。絶対勘違いするから」
私だからいいけど、耐性のない他の女の子に言ったものなら、きっと勘違いをして期待する。 綺麗な顔でそんな甘い台詞を言われたら、大抵の女の子はきっとときめきを抑えられないだろうから。 だけど若狭くんは、さらに続けてくる。
「他の女相手になんて言わねえよ。で、オマエは勘違いしてくれねえワケ? 」
窘めるように言った私の台詞は、彼のその台詞によって上書きされた。 いつもとは少し違う、甘さを溶け込ませた瞳が私をじっと見つめる。 それはまるで、私に勘違いしてほしいと言っているようにも聞こえてしまって。 …まさか、そんな事、あるはずない。 思わず流されそうになるこの雰囲気、危険すぎる。
「若狭くん酔ってるでしょ?ほら、お水飲む?」
とにかく話題を変えなきゃ。 そんな気持ちで、水の入ったグラスを若狭くんの前にコトンと置く。 少しぬるくなった水が、たぷんと揺れた。
「水は飲む」
彼のその声と共に、グラスから手を離そうとした私の手が彼の長い指に遮られ、グラスごと包むように掴まれた。 反射的にびくりと震える肩。 驚いて若狭くんを見れば、口角を上げてとても楽しそうにこちらを見ている。 ぬるくなった水が視界の端で揺れた。
「か、からかわないでよ」
「からかってねえけど?」
「はなして、」
「ヤダ」
「な、んなの今日、調子狂う」
彼の長くて細い指が、私の手をすっぽりと包む。 綺麗なだけじゃなくて、少しごつごつしていて、そういうところから異性を感じてしまう。 ……ああやっぱり、私もちょっと酔っているのかもしれない。 いつもなら、普段なら、こんな事は感じないはずなのに。 初めて見た彼の、どろりとした甘い瞳と、その色香に当てられてしまったのか。 そして、乱れる自分の心音と、冷めやらない頬の熱。 全部現実で、全部自分の身に起こっている事。
「なあ、」
「…な、なに?」
グラスごと手を掴まれたまま、若狭くんの声が私を呼ぶ。 逸らしていた視線を再び彼に向ければ、熱に濡れた瞳が私を真っ直ぐに射抜いた。 思わず、息を呑む。
「今日、帰したくねえんだけど」
いつもより低いトーンの声。 友達としての声じゃなくて、男の人の声。 響くような甘さを纏った声と台詞、そして濡れた瞳。 ……こんな若狭くん、私は知らない。 全部、初めて見る。 友達として保たれていた一線を踏み越えてしまったような、そんな声と瞳。
息の仕方を忘れそうになるくらい、彼に見入ってしまった。
「…わか、」
「オマエが言わねえから、オレが言ってみた」
そう言ってふっと息を吐き出しながら、動揺して固まる私を見てゆっくり笑う。 冗談なのか、そうではないのか。 彼の態度はどっちつかずでよく分からない。 グラスごと掴まれた手は、未だにそのままなわけだし。
そう思っていれば、するりと彼の指が私の手の甲を撫でた。 ゆっくり何度も、行き来する。 優しく落とされていく温もりに、私の心音はさらに乱れていくわけで。 …本当に、今日の若狭くんは何がしたいのか。 彼の行動や言葉が、私の胸を甘く色濃く染めていく。 そして手の甲を撫でていた指が、ゆっくりゆと上へ、服の袖を掻き分けて上へと滑る感覚に、流石に肩が跳ねた。 ぞくりと、甘い痺れが身体を走る。 反射的にグラスから手を離し、彼の指を跳ね除けて若狭くんを見た。
ゆるりと笑うその表情は、一体何を考えているのか。
「……タチ悪いって」
「何が?」
「そういうの、今のとかさっきの台詞とか。本命にやったら一発で落ちるやつだからね」
「じゃあ落ちた?」
「え、」
「落ちた?」
うっすらと笑みを浮かべたままの彼の心が読めない。 頬杖を付きながら私を真っ直ぐに見つめるその瞳は、未だにどろりと甘い色のまま。 乱れてなかなか元に戻らない心音を感じながら、彼に触られていた手を握り締める。
「それは、冗談…なんだよね?」
「オレ、今日一度も冗談言ってねえんだワ」
彼のその台詞に、今日一番鼓動が高鳴って心音が乱れた。 喉がきゅうっと詰まる。 真っ直ぐに私を見る彼から、目が離せなくなる。
ゆるりと笑う彼、動揺する私。 今日のが全部、冗談じゃなかったなら。 それはつまり、それは………。
「逃げんなよ。まあ、逃がさねえケドな」
不敵に笑う若狭くんのその顔は、昔『白豹』の異名で恐れられた頃の彼を彷彿とさせるもので。 昔、幾度となく目にしたその顔。 ……まるで、甘い毒牙にじわりじわりと侵食されていくような感覚。 一度噛み付かれてしまえば、逃れられない。 そしてそれは、私の気づかない内に深く根強く。 いつからなのかは分からないけれど、白豹に目を付けられていた時点で、私に逃げ場なんてない。 きっと逃げても逃げても、その甘ったるい瞳が私を追いかける。
友達としての境界線は、目の前の白豹によって綺麗な程見事に噛み砕かれた。
ワカはお酒強そうなイメージある。