GHQ戦略:戦後朝鮮人による主な事件
民団と朝鮮総連の前身であるGHQの指導で作られた在日朝鮮人連盟は「朝鮮進駐軍」と名乗り、他方、日本共産党の尖兵として、武生事件では裁判所や検察庁を焼き討ちをするなど、終戦後の混乱が続く日本国内各地で暴行・略奪・窃盗・官公署への横暴な態度と不当な要求・建築物の不法占拠・汽車、電車、バスなどの不法乗車・人民裁判などを引き起こした。(ウィキペディアより)
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f104djkomatuさん 2011/12/5 23:52:06
襲撃は今に始まった事ではありません。小沢一郎=父親(朝鮮人)+母親(朝鮮人)父・小沢佐重喜(オザワサエキ)戦中、東京市下谷区御徒町で自称弁護士として北朝鮮の工作員として活動。北朝鮮の工作員として北朝鮮独立開放のために日本で活動。
父親は浅草の香具師(麻薬売人)で、その56歳のときの三男として東京下谷に生まれた。小沢一郎の母・荒木ミチは、韓国済州島の朝鮮労働党員で、コーリアン売春宿の女将だった。母親(通名)荒木ミチは内縁で、父親の籍は入っていない。
小沢一郎には、二人の実姉のスミ子、則子がいるが、養女というかたちになっている。その頃に浅草の泥棒市で日本人の戸籍を手に入れた。
「日本人は動物にも劣る民族といっても過言ではない」「日本人はもともと民度が劣るから、君達韓国人の優秀な民族の血を日本人に入れない限り、他人やアジアに寄生して生きる害虫日本人が増えるだけだ」とこのように言っています。(註1)
朝鮮人は徒党を組んで他を襲撃する事に手慣れています。
(画像)元気にんじん氏の記事より借入
(註1)私は、これは、2009年12月12日小沢一郎氏(当時民主党幹事長)が韓国ソウル私立国民大学日本語研究所学生ら300名を対象に講演した時の内容の一部だと思っていましたが、ユーチューブで確認しましたら、そこの部分は何故か無い。確か当時のユーチューブにはあったはずですが・・・。尚、西村眞悟氏が小沢一郎氏の言動としてそのように申していた事は今回調べて初めて知りました。
彼等は中国属国700年の歴史で時の覇者に従属するという『事大主義』思考が遺伝子として脳幹奥深くまで刻まれており、他方、道徳・倫理とか恩義や情けとは無縁の民族なんです。魯迅の言う「打落水狗」(水に落ちた犬は打て)どころではないんです。
典型的例 『和夫一家殺害事件 敗戦直後の朝鮮の状況』
朝鮮で和夫夫婦は行き場のない孤児たちを育て、家族のように愛し、自ら喜んで彼らの父、母を称した。そして優秀な子は東京帝国大学まで留学させたんです。処が、天皇の無条件降伏を宣言した1945年8月15日、自分たちが育てた朝鮮人孤児たちにより、凄惨に殺害されたんですね。(『親日派のための弁明』 金完燮 著より)
(↓クリック)
「在日一世」による戦後、当時の日本人に対して犯した主な事件一覧
特徴としては、一人ではおとなしいが、徒党を組むと暴れまくる。
暴動に日本共産党が直接一枚からんでいたケースも幾つかある。
■大阿仁村事件(1945年10月22日)
秋田県北秋田郡阿仁合町(現在の阿仁町)の阿仁鉱山で働いていた朝鮮人12名は、1945年10月22日午前9時頃、約16キロ山奥の同郡大阿仁町(現在の阿仁町)の集落へ行き、共同管理の栗林に侵入し、栗を拾っていた所を村人に発見され、注意したところ乱闘となり、村人3名が重傷を負った。
午後1時になると、約40名の朝鮮人が来襲したので、警察と警防団は直ちに現場に急行し鎮圧した。
新聞報道の記事 1945年10月23日付 秋田魁新報 (註1)
中国人労務者の実態については、221ページで触れたが、終戦直後の八月二十日の夜約八○○人の中国人労務者が、戦勝国民としての生活権擁護を理由に海岸通の三井倉庫に侵入し、米・砂糖などを強奪して以来毎夜のごとく倉庫を襲い、あげくの果てには水上署ならびに警察部外事課に乱入のうえ暴力を揮うに至った。
しかし、この中国人労務者問題はまもなく解決し第三国人問題は日本人・朝鮮人・台湾人による混成犯罪者集団対策にしぼられ、特に三者相互間の角逐に発する抗争は、治安上最も重視しなければならない問題となった。(註1)
■生田警察署襲撃事件(1945年12月24日、1946年1月9日)
捜査員らが脱出に成功した一方で、暴徒によって署内の警察電話線が切断されたため、警察署は外部との連絡手段を絶たれてしまった。その後、事件を聞きつけた連合国軍部隊(当時日本は連合国軍の占領下)によって暴動が鎮圧された。
■生田警察署襲撃事件 2回目 1946年1月9日
■直江津駅リンチ殺人事件(1945年12月29日)
そこで列車の窓ガラスを叩き割り無理やり乗車しようとしたところ、ある男性の乗客(当時29歳のセールスマン)に阻まれたため、已む無くデッキにぶら下がり次の直江津駅まで行く破目になった。
列車が直江津駅に到着すると、3人組は自分たちを阻んだ男性に対して、「乗降口から乗れないので仕方なくガラスを壊して乗ろうとしたのに何故妨害した」と詰め寄った。 男性に「窓から乗り込むという方法はない」と反論されたため、「(自分たち)朝鮮人に向かって生意気だ!ホームに降りろ!殺してやる!」と叫び、その男性を直江津駅のホームに引きずり降ろした。 3人組は駅の備品であるパイプやスコップを持ち出して男性に襲い掛かり、メッタ打ちにした。男性は頭や左眼などに十数か所の傷を負い、絶命した。
警察が緊急配備したところ、直江津の病院で傷の手当てをしていた3人組を突き止めた。そして容疑を認めたため、殺人犯として緊急逮捕した。犯人の朝鮮人3人は殺人の容疑で検事局に送られたが、まもなく逃走し行方知れずになったため、司法で裁かれることはなかった。(ウィキペディアより)
■富坂警察署襲撃事件(1946年1月3日)
1945年12月30日、警視庁富坂警察署は管内で発生していた連続拳銃強盗事件の容疑者として在日朝鮮人3人を逮捕した。翌1946年1月2日、容疑者のひとりを富坂警察署へ護送して取り調べた後、署内の留置場に留置した。
1月3日正午、春日町交差点において多くの不審者を乗せたトラック2台が富坂警察署方面へ向かうのを、交通整理にあたっていた警察官が発見、直ちに署に連絡した。連絡を受けてまもなく、例のトラックが富坂警察署に到着、警察官の制止を振り切って約80人の朝鮮人が署内に乱入し、留置中の在日朝鮮人の即時釈放を要求した。在日朝鮮人たちは留置場を探し始め、これを阻止しようとした警察官に対して殴る蹴るの暴行を加えて負傷者を続出させた。(ウィキペディアより)
■長崎警察署襲撃事件(1946年5月13日)
1946年5月13日午前10時30分、280人の警官隊が一斉取締を開始し、日本人150人、朝鮮人26人、中国人6人を検挙、長崎警察署に連行した。その直後、在日本朝鮮人連盟や中国人団体が長崎警察署に押しかけ、被疑者の即時釈放を要求したが、署長は取調前の釈放はできないと拒否した。
■富山駅前派出所襲撃事件(1946年8月5日)
■坂町事件(1946年9月22日)
1946年9月22日午前0時50分頃、村上警察署の署員8人が坂町駅に赴き、ヤミ米の取締に当たった。署員が現れるや、約50人の朝鮮人・中国人は一斉に姿をかくした。警察官がホーム上に置き去りにされたヤミ米を押収しようとすると、「殴れ!」「叩け!」の叫び声を合図に襲いかかって来た。警察官が応戦している最中に列車が到着し、列車内から朝鮮人20人が下車し加勢、警察官に暴行を加えた後、発車間際の列車に乗り込み逃走した。
■新潟日報社襲撃事件(1946年9月26日~29日)
1946年9月26日、在日本朝鮮人連盟などの朝鮮人16人が新潟日報社を訪れ、新潟日報社と読売新聞社の両社に対して、「坂町事件の報道に誤りがあると認め、ラジオ放送を通じて新潟県民に誤報であったという声明を出せ」と要求した。両社は「即答はできない」として、29日まで猶予してもらうことになった。
そして、同年12月20日に皇居前広場で「朝鮮人生活権擁護全国大会」を開催した。1946年(昭和21年)12月20日の全国大会では、約1万人の朝鮮人が結集した。日本共産党の徳田球一も出席しており、徳田球一の演説の後、生活権擁護の決議文を採択し、午後1時頃に集会は一旦終了した。
午後1時30分、「朝鮮人虐殺政策絶対反対」「吉田内閣は日本の敵だ」といったプラカードを掲げてデモ行進を開始。午後2時頃に首相官邸前に差し掛かると、突如警察官の制止を無視して官邸正門前に殺到した。警官隊は侵入を阻止するため門を閉鎖しようとしたが、デモ隊は投石やプラカードを振り回すなどして暴れ、遂に首相官邸に侵入した。
この事件で、警察官23人が重軽傷を負い、拳銃2丁が奪い取られた。(ウィキペディアより)
■尾花沢派出所襲撃事件(1947年10月20日)
山形県警察部では、ヤミ米の断固取り締まりを実施していたが、在日朝鮮人たちは捜査の網をかいくぐり、ヤミ米を出荷していた。1947年10月20日、朝鮮人7人は警察によるヤミ米摘発の鬱憤を晴らすべく、派出所の襲撃を計画し、午後3時頃に楯岡警察署(現在の村山警察署)の尾花沢派出所に乗り込んだ。警察官が不在だったため、派出所内の器物を破壊し、門標を取り外した後引き揚げた。
■阪神教育事件(1948年4月23日~25日)
1948年(昭和23年)4月14日から4月26日にかけて大阪府と兵庫県で発生した在日朝鮮人と日本共産党による民族教育闘争、大規模テロ、逮捕監禁・騒乱事件で、日本国憲法下で唯一の非常事態宣言が布告された。
1948年4月23日9時、大阪府大阪城前の大手前公園で、朝鮮人学校弾圧反対人民大会が開催された。集会には在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人など7000人余が集結した。16人の代表が選出され、大阪府庁舎で大阪府知事との交渉を行うことになった。
12時30分、大阪府庁知事室において、副知事(知事は当日不在だった)と朝鮮人代表者16人との交渉が始まったが、合意には至らなかった。 15時、在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人など7000人余の中から、シュプレヒコールが起こった。50人余の青年が行動隊を編成し、スクラムを組んで大阪府庁前の阻止線を突破した。
15時30分、行動隊に続いて、在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人など7000人余も大阪府庁に暴力で突入し、3階までの廊下を暴力で占拠した。副知事は警察官の誘導により、戦時中に作られていた地下道を通って脱出した。
17時ごろ、群衆は知事室になだれ込み、ドアや調度品を破壊するといった行動に出る。(中略)
その後、在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人らは、武装警官隊と乱闘となり、在日朝鮮人のうち1人が死亡、20人が負傷した。警官側の負傷者は、それを上回る31人だった。179人が騒擾罪で検挙された。
4月25日、朝連や日本人約300人が南警察署に押しかけ、逮捕者の釈放を要求した。警官隊は、約300人に向けて威嚇射撃を行い追い返した。
4月26日、朝連は大阪東成区や旭区などで「朝鮮人学校弾圧反対人民大会」を開催した。
15時40分、別室に待機していた大阪軍政部のクレーグ大佐が、交渉の中止と、大手前公園に集結していた在日朝鮮人2万人の解散を指示した。
在日朝鮮人1600人のデモ隊が再び大阪府庁に向かい、武装警官隊の阻止線で投石を開始する暴力行為を行った。武装警官隊は消防車に放水をさせ、デモ隊に突入し拳銃で発砲した。当時16歳であった在日朝鮮人金太一が死亡した。(ウィキペディアより)
(以下の事件の概略は後日追記します)
評定河原事件(1948年10月11日~12日)
宇部事件(1948年12月9日)
益田事件(1949年1月25日)
枝川事件(1949年4月6~13日)
高田ドブロク事件(1949年4月7日~11日)
本郷村事件(1949年6月2日~11日)
下関事件(1949年8月20日)
台東会館事件(1950年3月20日)
連島町事件(1950年8月15日)
第二神戸事件(1950年11月20~27日)
四日市事件(1951年1月23日)
王子事件(1951年3月7日)
神奈川事件(1951年6月13日)
下里村役場事件(1951年10月22日)
福岡事件(1951年11月21日)
東成警察署催涙ガス投擲事件(1951年12月1日)
半田一宮事件(1951年12月3日~11日)
軍需品製造工場襲撃事件(1951年12月16日)
日野事件(1951年12月18日)
木造地区警察署襲撃事件(1952年2月21日~23日)
姫路事件(1952年2月28日)
八坂神社事件(1952年3月1日)
宇治事件(1952年3月13日)
多奈川町事件(1952年3月26日~30日)
田川事件(1952年4月19日)
岡山事件(1952年4月24日~5月30日)
血のメーデー事件(1952年5月1日)
上郡事件(1952年5月8日)
大村収容所脱走企図事件(1952年5月12日~25日、11月9日~12日)
広島地裁事件(1952年5月13日)
高田派出所襲撃事件(1952年5月26日)
奈良警察官宅襲撃事件(1952年5月31日)
万来町事件(1952年5月31日~6月5日)
島津三条工場事件(1952年6月10日)
醒ヶ井村事件(1952年6月13日)
葺合*長田事件(1952年6月24日)
吹田*枚方事件(1952年6月24日~25日)
新宿駅事件(1952年6月25日)
大須事件(1952年7月7日)
舞鶴事件(1952年7月8日)
五所川原税務署襲撃事件(1952年11月19日~26日)
(註1)
韓国特有の国民性は、一体どこからやって来るのか=中国メディア
2017/4/9(日)サーチナ 「無恥自己卑下型で横柄」
(註2)
日本の歴史 戦後 在日朝鮮人が起こした事件 ◎
(参考)
(一部抜粋)
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