幸福な水槽
その中で、私は溺れている。
田中壱が中等部時代の江川樟美との絶縁を悔やみながら樟美に甘やかされたり押し倒されたりする話。
いちくすって調べてもほとんどなにも出てこなかったので書きました。
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――わたしたちふたりは、シュッツエンゲルのけいやくをむすびます
――これからは、しあわせなときも、こんなんなときも
――すこやかなときも、やめるときも
――おたがいをそんちょうし、いつくしみ、ささえあうことをちかいます
橙の教室、ふたりきりの世界で、あなただけがどうしようもなく白い。
あなたは微笑んでいる。笑っている。嬉しそうに、楽しそうに。あるいはなにかを求めるように。
好奇心から始まったはずの秘め事は、いつの間にかたしかな実在を持ってそこに在る。あなたは仔猫が親猫に戯れつくように身を寄せてくる。腕を掴み、肩に額を擦りつけ、あるいは頬を寄せ、少しずつ、その全身でこの腕を包み込むように。その感触が堪らなく擽ったくて、応えるように顔を寄せる。近寄りすぎた距離にはほとんどなにもなくて、目と目がもっとも純粋に結ばれる。榛色がかったあなたの瞳。きれい。それ以外の感情は要らなくて、ただそれだけが裡にある。きれい。真白い顔。銀砂を散らしたかのようにきらきらと輝いている。赤、青。緑。混じり気のない純白は、だけど全ての光が混じってできているらしい。習ったばかりの知識が頭に浮かんで、まさにその通りだと思う。
榛色が閉じられて、視界がすべて白で染まる。ほんの少し上げられた顔はなにかを催促するかのようで、事実、求めているものがある。あるいは、求められているのかもしれない。吐く息さえ白く染まるような錯覚の中、少しずつ顔を寄せていく。黒に染まる視界の中、交わりは一瞬で、白い視界の中、あなたはつまらなさそうな目をしている。もっとっもっとせがむように、唇を寄せてくる。交じる、混じる、混ざる。交わりは混じり合いになって交雑していく。欲求は際限を知らず、もどかしく互いを求めるうちに境界は揺らぎ、白い声を重ねる。白。白はあらゆるものを受け入れる。それは全てが混ざったあとにあるのだから。
真白い熱に浮かされながら、あなたの榛色の瞳が見つめている。それを認めて交わりが終わったことを意識する。すぅすぅとあなたが息をしている。それを見つめている。見つめている。いつまでも、いつまでも。
見つめている。
あるいは、
――暗転。
■
田中壱が穏やかな午睡から目覚めたとき、真っ先に見つけたのはルームメイトである江川樟美の寝顔であった。やわらかな、春のある日のことである。壱の記憶では眠りについたときはひとりきりだったから、同じように春の陽気にあてられた樟美が、あとから壱のベッドに潜り込んできたのだろう。すぅすぅと穏やかな寝息を立てる少女のあどけない姿を見て、壱は眉を寄せた。自分のベッドで寝ればいいのに。
しばらく、樟美の寝顔を見つめる。ひとりようのベッドはふたりで使うには窮屈で、壱は樟美を起こさないように身動きができない。触れる熱も、吐く息さえも樟美の安寧を脅かしてしまいそうで、命を持たぬ人形のように壱は息を止める。
ああ、いっそ本当に人形だったなら、よかったのに。
そうだったなら、きっと――樟美の無防備な顔を眺めながら、幾度となく自らを焼いてきた悔恨を思う。
「んぅ……いっちゃん……」
樟美の呟きに心臓が跳ねる。その夢の中に自分がいることを理解して、どうして、と自らに問う。嬉しくてどうしようもない、樟美が自分を夢に見て穏やかな顔をしていることが。苦しくてたまらない、そんな幸福に自分がいることが。赦されていると勘違いしそうになる。赦しを与えるのが誰かも、わかってはいないのに。
春の陽が、樟美の姿を照らし出している。きらきらと樟美の周りが光っているかのように錯覚する。まるで銀砂を散らしたかのよう。どこかで抱いた気がする感慨を思い出して、気がつけば、唇が動いていた。
――くすみ
応えるように声を出して名前を呼んでしまって、すぐに後悔した。壱の声が耳に入ったのだろうか、樟美はもぞもぞと体を動かす。脅かしたくないものを脅かしてしまう、侵したくないものを侵してしまう。求めるものはいつだって手のひらから滑り落ちて、いつも足元ばかり眺めている。
前を見れば、あるいは救われたものもあったかもしれないのに。
やがて樟美の榛色の瞳が開かれる。まだどこか夢の中なのだろうか、開かれた目はだけどどこかぼうとしていて、どこにも焦点を結んではいなかった。まるでなにも知らない幼子のよう。いつか満ちる苦しみも孤独も葛藤もなく、母の腕の中という絶対の安心につつまれている。
「樟美、おはよう」
そんな樟美の顔を間近に見続ける苦しみに耐えられなくて、壱はそう声をかけた。声は、ふるえていなかっただろうか。それだけがただ気がかりだった。毎朝のように抱く逡巡は、いつでも壱の心を締めつける。
樟美のぼやけていた目が像を結ぶ。それは壱の姿だ。赤子のようだった顔に表情が満ちる。ふにゃりと、樟美は笑った。樟美の腕が壱の背中に伸ばされる。いつもはどこかひやりとしている体が、寝起きだからだろうか、どこかあたたかい。じゃれつくようなその仕草に、壱の体はかたく歪んでいく。「おはよう」樟美の耳元で、もう一度だけそう囁く。あなたはもう目覚めるべきなのだと告げるように。
「……おはよう、いっちゃん」
壱から体を離し、樟美はそう応える。顔に斜めにかかった銀の髪を優しく指先で退ける。そのままそのほおの稜線を撫でそうになって、壱ははたと手を止めた。中途半端な中空で止まった手をブリキの人形のようなぎごちなさで握り込み、体を起こす。ざりざりと体の中でなにかが鳴っているような気がした。樟美と同室になってからの一年と少し、絶え間なく壱の中で鳴り続けるなにかだった。
中等部時代の軋轢を超えたあと、同室希望を出したのは樟美だった。もともと、樟美が特別寮に移る前から同室だったふたりだ。希望は壱が思うよりもずっとあっけなく受理されて、ふたりが高等部に上がる頃にはそれまでの離別が夢のように壱の部屋に樟美は戻ってきた。喜びがないわけではなかった。たとえ離れ離れになったとしても、壱が樟美を思わなかったときなどなかったのだから。嬉しくないはずもなかった。ただひとり過ごしていた苦悩と後悔の日々の中で、幾度となく見た夢だったのだから。
だが、同時に。
触れ得ぬからこそ美しい夢も、たしかにこの世にはあるということを、壱はこの得られた夢の中で実感していた。
壱に続くように体を起こした樟美の、寝乱れた髪を手櫛で梳く。さらさらとした感触が指先を伝って、くらくらするような酩酊感に壱は襲われる。上等の糸を織り込んでも、きっとこうはならないだろうと思わせる樟美の髪の感触は、清けき光のように壱の感情を透かし出す。永遠のような数瞬の中、樟美が心地よさそうに目を細める。樟美はこうして髪を梳かれるのが好きらしかった。いけない、このままだとまた眠ってしまうかもしれない。心地よさが眠気を誘ったのだろうか、またうとうとと船を漕ぎ出した樟美を見て、壱はそんなことを思った。
ああ、だけど、それもまたいいのかもしれない。窓の向こうには、うららかな春の陽気に満ちている。樟美でなくても、得難い穏やかさには眠気を催すだろう。このまま樟美とふたり、寄り添うように眠り続けられたらどれほどいいだろう。それこそ、なにも知らなかったあの頃のように。ああ、だけど。
「今日は天葉様のところに行かなくていいの?」
彼女たちが所属するレギオン、アールヴへイムに完全な非番は珍しい。百合ヶ丘女学院が誇る外征旗艦レギオンであるアールヴヘイムは、たとえその責務を果たしていないときでも、研鑽を怠ることは許されない。激化するヒュージとの絶滅戦争の中、息継ぎのように与えられた休息の日はは、だからこそ大切なひとと過ごすべきだと、壱は考えている。
たとえば、樟美であれば……彼女の「姉」の、天葉のような、相手と。
「今日は、姉様は依奈様とお出掛けしてるから……いっちゃんと、一緒にいる」
壱の言葉に、樟美はどこか目を丸くして、そう応えた。そうか、たしかに依奈もそんなことを言っていた気がする。聞かされていた「姉」のスケジュールを思い出し、だから自分は特にやることもなく自室で「姉」から貰ったデザインの参考書を読んでいて……思わず、ベッドに潜り込んだのだった。
「じゃあ、どこかに出かける? 私もとくに予定はないし……そういえば梨璃さんが新しい猫カフェを開拓したって言ってたっけ。行ってみる?」
なぜか最近猫カフェマップを作成することに血道を上げていた同級生の熱弁を思い出しながら、猫好きな樟美には、ここでぼんやりしているよりもずっと楽しいだろうとそう提案する。
「ねこ……」
「うん、猫」
「うぅん……」
「『可愛い猫ちゃんがいっぱいいるんですよ!』って梨璃さんが熱弁してたから、きっと楽しいんじゃないかしら」
「うん、でも……今日は、いい」
「えっ」
ふるふると首を振る樟美に、壱はじゃあどうしようかと首を捻る。陽は中天を少し過ぎたくらいで、休日はまだ半日残っている。壱ひとりであればそれこそデザインの勉強の続きでもしていればいいが、樟美がいるとなると話が変わってしまう。まさか樟美を放っておいて、自分だけそうしているわけにもいかない。
壱がそうして逡巡している間に、樟美はなにかを決心したかのように頷いていた。きゅうと膝の上の手のひらを握りしめ、ガバリを顔を上げて壱を見つめる。
「それより! いっちゃん、えぇと、」
「ん? どうしたの?」
「え、えいっ」
ふわりと、気がつけば壱は樟美に抱きしめられていた。優しく、労わるように、樟美は壱の頭を自身の胸元に導いたのだった。ふたりの7 cmの身長差は座っていても壱にわずか無理な姿勢を強いたが、樟美の体から漂う甘い花のような香りで頭の中がいっぱいになって、それ以外のことを考えられなくなっていた。
「く、樟美!? どうしたの急に!」
「その、こうしたら落ち着くかなって……」
「と、とにかく離して! だいじょうぶだから!」
「ほんとう?」
「本当!」
「それなら……」
渋々といった様子で、樟美は壱の訴えを受け入れてくれたようだった。樟美の腕の中から解放されて、ほっと壱は息をする。どきどきと心臓が跳ねていて、まるで自らを責めているかのようだ。
「で? どうしてこんなことをしたの? 素直に答えなさい」
「えっと、いっちゃん、うなされてたから、その、どうかしたのかなって」
「うなされてた? 私が?」
壱の問いに、樟美は小さく頷く。寮室に戻ってきた直後、樟美は寝ている壱を起こさないように漫画を読んで過ごしていたが、やがて壱がうなされだし、気になって隣に寄り添っているうちに眠ってしまったとのことだった。
どうして? とは問わなかった。樟美に壱がうなされていた理由を答えられるはずもなかったからだ。……夢見が悪かっただろうか? たしかになにか夢を見ていた気もするが、もう既に壱の頭からどんな夢だったかは抜け落ちていた。
「いや、それなら起こしてくれればよかったのに……」
「でも、添い寝するといいって、聞いたこと、あったから……」
「誰に聞いたのよそんなこと」
「亜羅椰ちゃん」
「あの問題児!」
樟美にそんな偏った知識を植えつけた問題児にはあとで説教をするとして、壱は痛む頭を逸る心臓を抑えるように息を吐いた。相変わらず、樟美は突拍子もないことをしてくれる。
「大丈夫よ、別に悩んでることなんてないし……ちょっと夢見が悪かっただけ。もうそれも覚えてないし」
「でも……」
なおも食い下がる樟美に、どこか不審なものを壱は感じた。そこまで深刻そうにうなされていただろうか? 部屋にカメラがあるわけでもなし、眠っているときのことなんてわかりようもなかった。
「いっちゃん、わたしにしてほしいこと、なにか、ない?」
してほしいこと? 樟美に?
そう訊かれても、なにも思い浮かばなかった。壱が樟美に望むことは、もうすでに全て叶ってしまっている。これ以上を望むことを、壱は己に禁じていた。樟美と笑い合えるいまの日々は、かつて願った夢の中なのだ。夢の中で、更なる夢を見るものが、どれほどいるだろう。少なくとも、壱はそれを自身に許すことができなかった。すでにもう、この両手には過ぎた毎日なのだから。
だが、こうして言い出した樟美が譲らないことも、壱は経験的に知っていた。樟美は、意外と頑固なのだ。
「じゃあ、そうね……」
ちらりと壱は時計を見る。そういえば、昼前から眠ってしまったから、お昼をまだ食べていなかった。
「お昼ご飯、作ってくれない?」
「うん……!」
鼻歌を歌いながらキッチンに立つ樟美の後ろ姿を見ながら、壱は満足そうに頷いた。樟美にとってそれが、一番求められて嬉しいことだと、壱は知っていたからだ。
その日、壱は樟美の作ってくれた昼食を取り、ふたりで図書館で借りてきたつまらない映画を流し見て、夕食はまた樟美の手料理を食べた。それはなんてことのない一日だったし、ひどく穏やかな休日の風景だった。
ただ、樟美の作ってくれた手料理はどこか、罪の味がした。
■
罪と罰、その所在について、ずっと考えている。
あるいは、願っている。
子どもの頃の樟美は、いまのような引っ込み思案ではなかったように、壱は感じている。たしかに、月詩や自分のように率先的に前に立ってみんなを引っ張っていくタイプではなかったけれど、どちらかといえば自分の好き嫌いははっきりと伝えていたし、それで喧嘩になったことも何度かあった。たわいもない、子どもの喧嘩だ。プリンの取り合いだとか、お気に入りのおもちゃの取り合いとか、そんな程度の、翌日になれば忘れてしまうささやかな喧嘩ともいえない喧嘩。そんなことを繰り返しながら、それでもふたりは離れずに同じ時を過ごしていた。
――いちがね、くすみのこと、まもってあげるわ!
そんな約束をしたことさえあった。子どもの頃の、たわいもない口約束だった。壱は樟美を「妹」のように想っていたから、そんな約束を交わしたのかもしれない。姉と妹。百合ヶ丘女学院において、特別な意味を持つ言葉。幼稚舎にあっても、それは変わらない。そう、だからこそ。
――わたしたちふたりは、シュッツエンゲルのけいやくをむすびます
――これからは、しあわせなときも、こんなんなときも
――すこやかなときも、やめるときも
――おたがいをそんちょうし、いつくしみ、ささえあうことをちかいます
交わした幼い契約は、あまりにも、重く。意味を持っていた、はずだった。
子どもの「ごっこ」遊びと言えばそれまでかもしれない。だが少なくとも、壱はそれを信じていた。幼さ故の純真さによって。
だから。
――たすけて、いっちゃん
――……ごめん、なさい
――……!
傷つけた、約束を破った、その罪には罰を。罰とはすなわち、償いを。罪に見合った、償いを。
人生を歪めた、その罪を、しかしどうすれば償えると、言うのだろう?
ある日のことである。
「で? いつまでそうしてるわけ?」
「だから私そういうの苦手なんですって!」
アールヴヘイム控室の入り口で、田中壱は番匠谷依奈にそう叫んだ。
LGアールヴヘイム控室は他のレギオンの控室とは違った意味で混沌を呈している。当然のことだが、レギオンとは個性も性格も比較的バラバラな少女たちの集まりである。当然、趣味のものはそれぞれ違う。その上控室はリリィとしての倫理と道徳の範囲内で、各自が好きなものを置いていいことになっている。ところで依奈は現風紀委員長であり、百合ヶ丘女学院倫理道徳研究会のメンバーである。すなわち彼女のすることは風紀と倫理と道徳に適うことであると言って過言ではなかった。過言であってほしいと壱は切に願っているが。
LGアールヴヘイム控室には依奈が持ち込んだ巨大水槽が鎮座し、その中で悠然と彼女のペットたちが泳いでいる。百合ヶ丘女学院広しといえども、いくつもの水槽が堂々と置かれているレギオン控室を、壱は他に知らなかった。
壱の言う「そういうの」――にょろにょろと動くそれは、壱の姉(シュッツエンゲル)である依奈が飼っているペットのニョロ、アネクテンスという種類の肺魚だ。基本的に、壱はにょろにょろした生き物全般が苦手だ。蛇はもちろんのこと、同じように細長いウツボや、それこそいま目の前で依奈が可愛がっているアネクテンスも大の苦手である。できれば近寄りたくないが、アールヴヘイム控室に依奈が水槽を置いているせいでほぼ毎日顔を合わさざるを得なくなっている。同じく蛇が苦手な弥宙とふたりで必死の抵抗を試み、一度は取りやめさせたものの、いつの間にか置かれていたという事情がある。それでも普段使っている部屋ではなく、控室扱いの隣の部屋に置いたあたり、本人としては譲歩したつもりなのかもしれない。いつか訓練のときどさくさ紛れに殴ってやろうと壱と弥宙が思っていることを、依奈は知らない。
「なんでよ、かわいいでしょ?」
「わかって仰ってますよね」
「こんなにかわいいのに……」
「依奈様だって、犬、苦手じゃないですか」
「犬は……なにを考えているのかわからないもの、突然噛みついてくるかもしれないし」
わんわん、ってね。手を組んで犬を作りながら、依奈は吠えてみせる。依奈のそういう軽薄な部分が、壱はあまり好きではなかった。不真面目、とは違うその軽やかさは、壱にはない部分だ。
正しくあれ、と教えられて生きてきた。だからこそ、姉のような軽薄さには嫉妬めいた嫌悪感があった。自分にない部分を嫉妬めいて嫌うとき、ひとはそれを自身に求めているのだ、というどこかで聞いた話を、壱は無視することにしている。
壱の生家は代々政府高官や政治家を多く輩出する名家だ。堅物とさえ称されるその性格は、実家での教育によるものだと、自分でもわかっていた。正しくあれ。他者を導き、誰かの代表として立つものとして。一人娘である壱は、その薫陶をなによりの教条として自らの裡に刻み込んでいた。
正しさとはなにか、そんなものさえ教えられていないのに。
しかし正しく在らねばならぬと、壱は信じているのだ。
「……魚類とかのほうがよっぽどわからないと思いますけど」
壱の物言いに、依奈はやれやれと肩をすくめた。その仕草が、なにもわかっていないのねえと言っているように見えて、壱の胸の中にわずか苛立ちが芽生える。そもそもいきなり呼びつけられて苦手なにょろにょろした生き物の世話を見させられているのだから、もう少し気遣ってくれてもいいじゃないか。
依奈のことを、壱は尊敬している。一時期は依奈に劣等感めいた対抗意識を抱いていた時期もあったが、依奈とともに戦い、彼女のことを知るうちに、その感情も少しずつ抑えられてきている。それになにより、自分がリリィとしてどうあるべきか、それを壱は依奈から学んでいた。戦闘スタイルだけでなく、仲間を想うその気持ちを。だからこそシュッツエンゲルの申し出も受けたし、リリィとしては認めている。とはいえ、個人として……趣味だとか、そういう部分に関しては理解できない部分も多い。それこそ、そのにょろにょろした生き物を好むようなところは。
「たしかに、犬と比べれば魚のほうが考えていることはわからないかもね。でも、わからないということ自体は、犬よりも確信が持てるでしょ」
「どういう意味ですか」
「だからね……全くわからない、ということがわかるじゃない。中途半端に理解できてしまうから、逆にわからない部分で悩んでしまうのよ。なにもわからない、ということが信じられれば、そのことで悩むことはないってこと」
「それは……詭弁じゃないですか」
わからない、ということがわかったとして、それが信じられたとして、結局なにもわからないのだから助けにはならない。たしかに、思いもよらないことが起きたときに受け入れやすくなるかもしれないが、起きた後に受け入れても仕方ない。起きてしまったことは、とりかえしのつかないことなのだから。神ならぬ人間には、少なくとも過去を変える力はない。それこそ、万能の力と思われている魔法だって出来はしない奇跡だ。
だからこそ、ひとは起きたことを背負って生きていかないといけないのだから。
「詭弁……そうね、あなたがそう思うのなら。それでいいのかもね」
「なにを仰りたいんですか」
「詭弁でも、救われる命はあるし、それが目的なら詭弁でもいい。いつも言ってるでしょう? 司令塔として、なにを目的とするかは見失うなって」
「それは……でも、わたしは……」
依奈の言うことも、壱は理解できた。ただしそれは理屈として、だ。刻み込まれた教条は簡単に覆らない。覆られないからこそ、教条であるのだ。
視線を落とし、唸り出した壱に、依奈はため息を吐いた。呆れと、親愛が半々のため息だった。自身を見つめる目が、慈しみに満ちていることを、視線を落としていた壱は気づかなかったが。
「まあなにより、犬は噛むからね」
「……いや、あるんですか、噛まれたこと」
「あるわ」
「……それが理由じゃないんですか」
「まあそうかもね。ニョロは噛みつかないし」
しれっとそんなことを宣う姉に、壱は思わず痛み出した頭を押さえた。真面目に聞いて損した気分だった。ニョロはいい子ね〜どっかのわんちゃんとは大違い。そんなことをにょろにょろした生物に囁きながら愛でる「姉」の姿に、壱は帰りたくてたまらなくなった。そもそも、呼び出してきたのは依奈のほうであるのに、いきなり意味不明な問答を始められて疲れ果てていた。もうこれ以上話しかけてこないなら帰ろうとしたとき、
「それで、いつまでそうしてるのよ」
依奈から、思いかけず真剣な声が投げられた。壱は踵を返そうとしていた足を止める。
「だから、あんまり近づきたくないですよ……」
「そうじゃなくて……ハァ、せっかく人がアドバイスしてるんだから、もっと素直に聞けばいいのに」
「アドバイス?」
「そう、シュッツエンゲル……姉としての人生相談ね」
「別に、いまは相談したいことなんてありませんけど」
そう応えたのは、紛れもなく壱の本心だった。
だから、依奈が続けた言葉は、全く壱の想像外で。
「樟美とのことよ」
「は」
思わず、声が漏れていた。なにを言ってるんだろうかこの人は。特にこれといって問題はないはずじゃないか。樟美も、天葉様と、しあわせそうに、笑っている。
水槽を見つめていた依奈が、壱に向き直る。その表情は、ひどく真剣で真摯なもので。
「――だからね、壱。大事なのは信じることよ。どんなことでも、信じられなければ、ないのと同じなんだから。まずはそれから始めてみたら?」
その言葉は、どこか懇願のように必死なものに、壱には聞こえた。
「よく、わかりません」
「……そう、ならいいわ」
絞り出すように呟いた壱の言葉に、依奈はそれ以上の言葉を投げようとはしなかった。ただ先程よりどこか沈んだ様子で、自身のペットを見つめたまま、口をつぐんでいた。視線を向けられたことさえ関せずというように、にょろにょろとしたその生き物は、どこに行くでもなく水槽の中で浮かんでいた。肺魚、であるその生き物は、魚のはずなのに肺で呼吸をする。いつまでも肺呼吸ができないと、水中で溺れてしまうらしい。生きる場所を間違えていないだろうか。そんなことを、壱はふと思う。
「……失礼します」
話したいことは終わったのだろう。そう判断して去り際に言葉が、ひどく負け惜しみのように思えたのは、何故だろう?
扉の向こうに見えた番匠谷依奈の顔が、ひどく悲しそうに歪んでいたことを、壱は見なかったことにした。
信じている、というならば。壱はずっと信じていることがある。
罪と罰。
その所在について、壱は確信めいた信仰を抱いている。
樟美を傷つけ、守りきれなかった罪は、ここにあるのだと。
永遠の罰を。
赦しなど、与えられないことを。
壱は信じ、償い続けるのだ。
■
新学期が始まり、壱は今年も学級委員長を務めることになっていた。適材適所、というものだろう。幸い、今年はそれほど大きく椿組のメンバーも変わらなかったから、壱としてもやりやすい一年になるだろうと思っていた。担任である吉阪先生に集めるように頼まれたプリントの整理がひと段落したとき、既に陽は斜めになり教室は橙に焼かれていた。
しばしの間だけ、その橙の教室を眺める。壱はこの時間が好きだった。大正時代から数えて百年以上、もちろん無数の建て替えを繰り返してきた教室にその面影はないが、しかし連綿と続いていた歴史の息遣いのようなものが、この時間にはよく感じ取れるように壱は思うのだ。
頼まれていた回収は終わったし、あとはこれを先生に届けるだけ。ほんの少しだけ、この時間を楽しんでもいいだろう……そんなことを、壱が思っていたとき。
静寂を破るように、教室の前扉が開いた。思わず壱が扉に視線を向けると、そこには見知った少女が立っていた。
「樟美?」
「いっちゃん、よかった、まだいた……」
樟美にしては珍しく、息を切らすようにして教室に入ってくると、壱の前、空いている椅子に座った。なにか用でもあったのかしら。そんなことを思いながら樟美に向き合ったとき、その瞳が浮かべている彩が、いつもとは違うことに、気がついた。
「わたしたち、二年生になったね」
「……ええ、そうね」
どこか尋常ではない樟美の様子に、壱は慎重に言葉を返す。その樟美の様子を、壱は見たことがあった。壱と絶縁することになった、あの夜。浮かべていた、あの空気。
探るような目は、なにを求めているのだろう。
「……いっちゃんは、シルトを作るの?」
「どうかしら。もちろんいい子がいればいいかなって思ってるけど。こればっかりは相手がいることだから。……樟美は?」
「わたしは、作らない」
想像していた以上に強い言葉と目が返ってきて、壱は一瞬だけ息を止めた。ノルン、あるいはノルニル。百合ヶ丘女学院で最も望まれる姉妹の在り方。少なくとも、壱は当然のようにその関係を作ろうとしていた。依奈と自分ともうひとり。自分が依奈に学んだように、あるいは誰かを導くべきだと。
なるほどだからだろうか。壱は諦観のような理解をした。天葉と樟美、ふたりのあとのもうひとりをきっと欲していないのだろう。どうしても百合ヶ丘女学院のリリィとしての思考が先に来る壱や依奈達生え抜きと違って、天葉はそういったことにこだわらない。樟美も、同じ幼稚舎から学ぶ生え抜きなのだから、嫌というほどシュッツエンゲル制度の必要性は刷り込まれているはずなのに、堂々とそう言い切れるほど天葉との絆が強いことを表していた。それは壱が望んだ樟美の幸福であるはずで、だから壱はそれ以上のことを考えなかった。
「でも、シルトを作るとなるとアールヴヘイムに入ってもらうことになるから、すこし難しいかもしれないわね」
「うん、そう、でも……」
壱の言葉に、どこか安心したかのような言葉を呟きながら、樟美の纏う雰囲気は変わらなかった。樟美……? 壱がそう呼びかけようとしたとき、
「ねえ、いっちゃん、覚えてる? ふたりで昔、してたこと」
心臓が、強く跳ねる。覚えている。記憶より先に、体が。夕焼けの教室。榛色の瞳。真白い肌。初等部のときに交わしていた、幼い口づけ。ふたりが秘め事めいてしていたこと。
樟美に押し倒されたのだ、ということに気がついたとき、壱は既に抵抗の意志を失っていた。きれいだったのだ。床に押し倒され、見上げた樟美の姿が。あまりにも。夕焼けに橙に焼かれて、きらきらと輝く樟美の姿が。
「あ……」
きっかけはなんだっただろう。それもまた、「ごっこ遊び」の延長であったことは、間違いがない。義姉妹の関係は、ひどく曖昧で繊細だ。時には「そういう関係」になることもある。常に命の危機に晒されるリリィ達にとって、初めはそうでなかったはずの関係が、複雑に絡み合い変化していくことは、なにもおかしなことではない。だけど、あの頃のふたりは、きっと、そんなことは理解できなくて。
だから理由はきっと、ただの好奇心だ。そうすると、なにがいいのだろうという好奇心。気がつけば幼いふたりは口づけを交わしていた。幼さ故に名前をつけられなかった感覚は、しかし幼さ故に歯止めが効かずに、幾度も。もっともっとと求めるように。
だが、それだけだ。そこにはそれ以上のなにかはなかったはずだ。幼い日々に交わしていた、少しだけ行き過ぎた思い出でしかない。どうしていまそんな話をするのだろうか。
疑問に思ったのは一瞬で、答えに行き着いたのは、ほとんど偶然のようなものだった。
「もしかして、私がシルトを作る未来でも見た?」
こくりと、樟美が頷く。その幼い仕草に、壱は苦虫を噛み潰したような感情に襲われて、しかしそれを表情には出さすにただ笑ってみせた。私がシルトを作ったら自分を置いていってしまうとでも思ったのだろうか。もしかしたらその相手と出逢うのは、今夜のことなのかもしれない。それで慌ててきたのだろう。その出逢いをなくすために。そんなことを、いつまでも続けるつもりなのだろうか。あと二年、時間は随分とあるのに。それにたとえシルトを作ったとして、樟美から離れるつもりはない――そんなことを伝えようとして、
「ねえ、いっちゃん、わたし、いっちゃんのこと、責めてないよ……」
樟美の言葉に、壱は息を止めた。
ぽつり、呟くと同時、樟美のほおの稜線を涙が落ちた。一度決壊し流れ落ちた感情の雫は、とめどなく零れ落ちてくる。
「だから、いなくならないで……わたしをおいていかないで……」
「樟美……」
「あのとき、いっちゃん、ずっと寝言で、わたしに謝ってて、そんなことないって、言いたくて……」
あのとき、とは、ついこの間の非番の日だろうか。だからか、と壱は納得した。あのときの樟美の不審そうな気遣いの、その理由。それを理解して、壱はそんな気持ちにさせていた己を恥じた。
「どうしたら、いっちゃんはわたしのこと……信じてくれる?」
――だからね、壱。大事なのは信じることよ。どんなことでも、信じられなければ、ないのと同じなんだから。まずはそれから始めてみたら?
「……ははっ」
思わず、そんな乾いた笑いが漏れた。どれほどあの人は私のことを見て、理解しているのだろう。壱に必要なものを、本人でさえ意識できず、あるいは、見ようとしていないものを見せつけるのだろう。本当に苦手だ、あのひとのそういうところが。
そうだ、田中壱は信じていない。江川樟美が向けてくれる微笑みを、想いを。
あのとき、守りたいものを守れなかったこと。救いたかった相手を救えなかったこと。感情よりも、正しさを取ったこと。
壱はいまだ葛藤の中にある。樟美に頼られるたび、樟美に微笑んでもらうたび、ざりざりとした葛藤のただ中に壱は投げ込まれる。なにより樟美を傷つけ、歪めたのは自分だというのに、どうしてその笑顔を正面から受け取れるだろう。その権利が、自分にあると錯覚できるだろう。少なくとも、壱はそれを認められなかった。彼女の裡に刻まれた正しさが、罪には罰をと叫んでいた。償いの前に救いなどありはしないと主張していた。
だから守らなければならないと思っていた。あらゆる苦しみから、樟美を。いつだって樟美がまたあの苦境に陥らないように。孤独にならないように。そう、ただそのために生きると決めた、決めたはずなのに。
そう、そうだ。壱はあの頃から変わっていない。変わらず求めているものがある。
田中壱は、江川樟美を、求めている。
それをきっと、ひとは恋と呼ぶのだ。
樟美へ償わなければならないという感情と、樟美を浅ましくも求める恋心の間で壱は葛藤している。樟美に与えられるものを、拒絶する自分と求める自分。だがそれはどちらも行き止まりの感情だ。償いとは、無私の奉公とは、本来自身の納得のために行うことである。赦しを与えるべきは、壱自身なのだ。そうさせるだけのなにかを、壱は自身の中に見出していない。目的を忘れてはいけない、そう依奈からは教えられていたはずなのに。いつまで守れば、壱の償いは終わったことになるのだろう?
それは、永遠以外にあり得ない。
あるいは、壱がそれを手放すだけのなにかがなければ、贖罪の旅は終わらないのだ。
「樟美、私は……」
「わたしもすき、だよ、いっちゃん。だから、だから……」
つぶやかれた言葉が、壱の心臓を串刺しにしていく。
その言葉の真意を、しかし壱は訊ねない。信じていないからだ。その言葉の意味を。あるいは信じているからだ。江川樟美の最愛のひとは天野天葉であることを。
樟美の苦境を救い、樟美の孤独を癒し、裏切られた樟美の心を癒した天葉であるべきだと、そう、信じているからだ。
どちらかに決着をつけなければならない。恋か、償いか。そのふたつを、矛盾なく両立できるほど、壱は器用ではなかったのだから。
信じろと、姉は言った。償いなど終わったのだと、いや、もとからそんなものはなかったのだと、そう依奈は告げていた。
夕焼けに照らされる樟美の白が、かつてあった蜜月を思い出させる。
白はなにもかもを受け入れる。
悔恨も、葛藤も、逡巡も、あるいは、罪と罰も。あらゆるものが混ざり合った先にあるのが白であるのだから。
そんな都合のいい救いがあっていいのだろうか。壱は想う。信じる。そんなものがあるはずはないと。
正しくあれ、と教えられてきた。罪には罰を、罰には償いを。いまだ壱は償いきれていない。少なくとも、本人にとって。どうすれば償えるのかも、わからないのだから。
自罰的な思考の陥穽の中で、壱はどこにも行けずに立ち尽くしている。
恩讐の彼方に、あるいは幸福などありはしないと祈りながら。
幸福に満ちた水槽の中、息もできずに生き続ける。
それ以外ないのだと、壱は樟美の涙も拭えず、ただひたすら思い続けていた。
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