物部世真古嶋戸物部【天物部等二十五部人同帶兵杖天降供奉】@kodaizine·Nov 19, 2018素晴らしい特集、「やまとんちゅ」とは誰か “マッチョ”な弥生人 その正体は!?|NHK NEWS WEB https://www3.nhk.or.jp/news/web_tokushu/2018_1114.html… "弥生時代、女王・卑弥呼が治めた「邪馬台国」があったという説もある九州北部。ことし8月、長崎県佐世保市の離島、高島で古代史の研究者を驚かせるものが発掘されました。"117
物部世真古嶋戸物部【天物部等二十五部人同帶兵杖天降供奉】@kodaizine·Nov 19, 2018"それは、下半身に比べ上半身が異常に太く、驚くほど“マッチョ”な体型をしていた弥生時代の人骨です。“マッチョ”な理由を探ってみると、古代人たちの知られざる営みが見えてきました。~一般的な弥生人の骨と比べ、異常に太く、しかも、上腕骨や鎖骨など上半身の骨が特別に発達した不思議な体型です。"11
物部世真古嶋戸物部【天物部等二十五部人同帶兵杖天降供奉】@kodaizine·Nov 19, 2018"海部さんは、一般的な弥生人との違いを詳しく調べました。一般的な弥生人の男性の平均身長が推定162.6センチで、ヒョロッとしていたのに対し、高島の弥生人は、それより4センチほど低いものの、筋骨隆々で、胸や腕、首などが異常に発達していたことがわかりました。"12
物部世真古嶋戸物部【天物部等二十五部人同帶兵杖天降供奉】@kodaizine·Nov 19, 2018"詳しく調べると、こうしたマッチョ体型の弥生人の人骨は、高島以外にも、長崎県の平戸や五島、そして熊本県の天草など、九州西北部の複数の島から見つかっていたことがわかりました。~どうしてそんなマッチョ体型になったのか。~足立准教授は、彼らが“舟のこぎ手”だったと推測しています。"11
物部世真古嶋戸物部【天物部等二十五部人同帶兵杖天降供奉】@kodaizine·Nov 19, 2018"「この集団は、“貝の交易”をやっていた、つまり貝の運び屋だったんじゃないか」(海部さん)“貝の交易”とは何かを知るために、福岡県飯塚市にある飯塚市歴史資料館を訪ねました。ここには、弥生時代の遺跡から発掘されたものが展示されています。"11
物部世真古嶋戸物部【天物部等二十五部人同帶兵杖天降供奉】@kodaizine·Nov 19, 2018"銅鏡や祭器などの宝物が数多く並ぶ中、ひときわ目立っていたのが白い腕輪です。「貝輪」と呼ばれる装飾品で、当時の権力者が身につけていたとされています。この貝輪、弥生文化が花開いた佐賀や福岡など九州北部の各地で出土しています。"12
物部世真古嶋戸物部【天物部等二十五部人同帶兵杖天降供奉】@kodaizine·Nov 19, 2018"使われているのは「ゴホウラ」という巻き貝。九州近海ではなく、沖縄や奄美大島など南の海だけに生息しています。1000km以上の距離を、誰がどうやって運んできたのか、これまで大きな謎でした。~これは、~弥生時代の舟のイメージです。帆がなく、人のこぐ力だけで動かしていたとみられています。"12
物部世真古嶋戸物部【天物部等二十五部人同帶兵杖天降供奉】@kodaizine·Nov 19, 2018"「2000年前に、沖縄から舟をこいで九州まで貝を運んでいた集団がいたわけですね。今回の発見で、そうした運び屋たちの顔が少しずつ見えてきました」(海部さん)~弥生時代の貝の交易について~沖縄では、九州との交易のためとみられるゴホウラ貝の「集積所」の跡が見つかっています。"12
物部世真古嶋戸物部【天物部等二十五部人同帶兵杖天降供奉】@kodaizine·Nov 19, 2018"こうしたことを踏まえて、木下教授は、赤い線で示した貝の交易ルートが存在したのではないか、九州北部の権力者に依頼されて島の人たちが海を渡り、こうした交易拠点をつないでいたのではないかと推測しています。~貝輪は、当時の社会を成り立たせるために不可欠だったと木下教授は言います。"11
物部世真古嶋戸物部【天物部等二十五部人同帶兵杖天降供奉】@kodaizine·Nov 19, 2018"遠い南の海から運ばれてくる貝輪は、庶民には手が届かない極めて貴重なものです。~「権威の象徴」として~「九州北部の弥生人は、貝輪がどうしてもほしいので、高島の人たちに米などの農作物を渡し、一種の経済的な契約をして、沖縄まで貝を取りに行かせていたのではないか」"12
物部世真古嶋戸物部【天物部等二十五部人同帶兵杖天降供奉】@kodaizine·Nov 19, 2018"これまで、人類学や考古学の分野でも、骨を一つ一つCTスキャンなどで分析する研究はあまりされてこなかったと言います。今回使われたスポーツ科学やDNA解析といった最新科学で、今まで分からなかった歴史が明らかになっていくことを期待したいと思います。"13
物部世真古嶋戸物部【天物部等二十五部人同帶兵杖天降供奉】@kodaizine·Nov 19, 2018画像を見ると明らかに琉球の人は北部九州人と交易している。では、琉球人は彼らのことを何と呼んでいたのだろう? 【古代】最新科学が明らかにする古代ロマン “マッチョ”な弥生人 その正体は!? 長崎 http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1542397410/…114
物部世真古嶋戸物部【天物部等二十五部人同帶兵杖天降供奉】@kodaizine·Nov 19, 2018「倭国大乱(弥生時代後期)」→「九州の貝交易衰退」か? 琉球(沖縄)の歴史3 https://academy6.5ch.net/test/read.cgi/history/1222002935/… "弥生時代後期,九州の貝交易は一旦衰退します。"11
物部世真古嶋戸物部【天物部等二十五部人同帶兵杖天降供奉】@kodaizine·Nov 19, 2018"その後西日本各地に台頭した有力者層が南海産貝輪を好んで使用したことから,この習俗が弥生時代終末期の西日本に復活し,続く古墳時代にはヤマト政権がこれを同様に継承します。"11
物部世真古嶋戸物部【天物部等二十五部人同帶兵杖天降供奉】@kodaizine·Nov 19, 2018"5世紀から6世紀には,九州の豪族を介してゴホウラ,イモガイなどが朝鮮半島南部の複数の王族に届けられ,腕輪や馬具などの素材になりました。古墳時代の貝交易は,こうして結局7世紀まで続きます。 "11
物部世真古嶋戸物部【天物部等二十五部人同帶兵杖天降供奉】@kodaizine·Nov 19, 2018弥生時代に謎のマッチョ!骨から探る古代ミステリー - NHK クローズアップ現代+ https://nhk.or.jp/gendai/articles/4187/index.html?1538037926… "ちょっと待ってください!学校で習った弥生人と言えば、内陸で稲作を営む、しょうゆ顔の人々。ところが、弥生人の中には、海と関わりがある、特別にマッチョな集団も一部にいたらしいんです"nhk.or.jp弥生時代に謎のマッチョ!骨から探る古代ミステリー - NHK クローズアップ現代+2018年9月26日(水)放送。先月、長崎県佐世保市の離島で、異様に骨が太い“マッチョな弥生人”の骨格が見つかった。発掘を行った人類学者の海部陽介さん(国立科学博物館)によると、このマッチョな人骨は西北九州の離島で数々見つかっていて、一般的に知られている農耕民の弥生人とは“全く異なる集団”の可能性があると指摘。彼らはいったい何者なのか。「考古学」「スポーツ科学」「海洋学」などの専門家たちが…12
物部世真古嶋戸物部【天物部等二十五部人同帶兵杖天降供奉】@kodaizine·Nov 19, 2018"日常的に強く腕を回していたと推測されるマッチョな弥生人。その暮らしとは?謎を解く鍵は骨が見つかった長崎から遠く離れた場所にありました。鹿児島の南端にある神社の境内に、マッチョな弥生人につながる痕跡があるというのです。"11
物部世真古嶋戸物部【天物部等二十五部人同帶兵杖天降供奉】@kodaizine·Nov 19, 2018"須玖式土器は、九州北部に広がった弥生時代の土器。マッチョな弥生人が発掘された長崎の島でも見つかっています。それが今の熊本にあたる地域ではほとんど出土せず、一足飛びに九州の南端鹿児島で見つかっているのです。"12
物部世真古嶋戸物部【天物部等二十五部人同帶兵杖天降供奉】@kodaizine"マッチョな弥生人たちは、野を越え山を越え、土器を運んだのでしょうか?鹿児島県立埋蔵文化財センター堂込秀人所長「我々が陸路が便利だと思ってるから、それは誤解ですよね。昔は陸は山ですから、陸を行くより舟で渡った方がずっと速いわけですよね。」"11:38 AM · Nov 19, 2018·Twitter Web Client1 Like
物部世真古嶋戸物部【天物部等二十五部人同帶兵杖天降供奉】@kodaizine·Nov 19, 2018Replying to @kodaizine"つまり、鹿児島で見つかった土器は、当時、九州北部から南の鹿児島まで舟で移動していた人がいたことを示す証拠だというのです。~これまでに分かったマッチョな弥生人の謎を整理してみたいと思います。まず、発見されたのは、西北九州の沿岸部や離島です。"11
物部世真古嶋戸物部【天物部等二十五部人同帶兵杖天降供奉】@kodaizine·Nov 19, 2018"共通するのは、海のそばということです。九州北部にしかないはずの土器が、南端の鹿児島で離れて見つかったことから、舟をこいで移動したのではないかと見られているんです。"11
物部世真古嶋戸物部【天物部等二十五部人同帶兵杖天降供奉】@kodaizine·Nov 19, 2018"しかも、その太い骨から、日常的に強い力で舟をこいでいたことが考えられます。ちなみに、才木さんのように、大人になったあとに筋肉を鍛えても、骨自体はそれほど太くはならないんですよね。だからマッチョな弥生人は、子どものころから舟をこいでいたと考えられるんです"11
物部世真古嶋戸物部【天物部等二十五部人同帶兵杖天降供奉】@kodaizine·Nov 19, 2018"今から2,000年前の弥生時代。貴重な装飾品・貝輪の材料「ゴホウラ」を求め、九州からはるか南の沖縄まで舟をこいで渡った人々がいました。木下教授はこれを、原始的な経済活動の始まりだったと見ています。"11
物部世真古嶋戸物部【天物部等二十五部人同帶兵杖天降供奉】@kodaizine·Nov 19, 2018"九州北部の権力者が農作物などと引き替えに、マッチョな人々に「ゴホウラ」を運ばせ、富の象徴である貝輪を作らせた。それを身につけることで自らの権威をアピールしたのだと。"11
物部世真古嶋戸物部【天物部等二十五部人同帶兵杖天降供奉】@kodaizine·Nov 19, 2018"熊本大学木下尚子教授「経済的な動機が加わって、人が生活圏以外のところまで行ってしまう行為は、弥生時代から始まっていると思います。ただそれは、まったく日本の歴史の中に残らないんですね。1,000年以上の、人の交流があったのに残らないんですね。」"11
物部世真古嶋戸物部【天物部等二十五部人同帶兵杖天降供奉】@kodaizine·Nov 19, 2018"マッチョな弥生人たちによる貝の交易は歴史書にも記されることなく、ひっそりと消えていきました。そして、マッチョな骨の人々も、やがて姿を消しました。彼らの営みは、現代の私たちが経済と呼ぶ活動の始まりだったのかも知れません。"12
物部世真古嶋戸物部【天物部等二十五部人同帶兵杖天降供奉】@kodaizine·Nov 20, 2018通説ヤマトこと奈良周辺、少なくない?ヤマトンチュではないの? 海上の道,琉球人 http://geocities.jp/ikoh12/honnronn5/005_06kamigaminosisonn_ryuukyuujinn1.html… "右の図から明らかなように、弥生時代、古墳時代を通じて南海産の貝輪が日本列島を中心にいわば必需品であり、一部は朝鮮南部の王族に届けられるなど、根強い需要が持続した"11
物部世真古嶋戸物部【天物部等二十五部人同帶兵杖天降供奉】@kodaizine·Nov 20, 2018"弥生末からは本土の台頭してきた地方豪族が、好んでこの南海産の貝輪をつかったことから、古墳時代のヤマト王権もこの風習を継続したと言う。問題は、縄文時代を含めれば数千年に及ぶ貝の交易が、琉球人の形成にどう関わったかである。"11
物部世真古嶋戸物部【天物部等二十五部人同帶兵杖天降供奉】@kodaizine·Nov 20, 2018"弥生時代、需要者は勿論、北部九州~であったが、交易運搬に当たったのは、西北九州弥生人であったという。西北九州人が海上輸送能力に優れていたのか、言語面などで 北部九州人より意思疎通がうまくいく歴史的背景があったのか、何らかの理由があってのことであろう。"11
物部世真古嶋戸物部【天物部等二十五部人同帶兵杖天降供奉】@kodaizine·Nov 20, 2018"西北九州人は夏の台風シーズンを避け、北風の吹く(すなわち順風の中を)秋から冬に沖縄島にやって来た。そして、暖かい島で冬を過ごし南風とともに黒潮に乗って西北九州に帰っていった。なんとも優雅な交易である。"11
物部世真古嶋戸物部【天物部等二十五部人同帶兵杖天降供奉】@kodaizine·Nov 20, 2018"沖縄諸島、奄美諸島、トカラ列島に点々と残された箱式石棺墓は、西北九州沿岸部の弥生人が好んで使った棺であり、貝の運搬の途中で落命したような仲間をみんなで葬ったものだろうという。"11
物部世真古嶋戸物部【天物部等二十五部人同帶兵杖天降供奉】@kodaizine·Nov 20, 2018"その後、この貝の道は次第に合理化され、西北九州を経由しない、有明海・佐賀平野経由のルートが開発される(上図 黄色のルート)。そうなると交易に携わる人も変化し、西北九州人から肥後、薩摩の人々が中心になり、種子島人や奄美諸島人の役割も増大する。"11
物部世真古嶋戸物部【天物部等二十五部人同帶兵杖天降供奉】@kodaizine·Nov 20, 2018"アイヌ人が独特な遺伝的特徴を濃く残しているのに対して、遠い過去には共通性の高かった沖縄人が、弥生時代以降の九州からの移住によって、本土人と遺伝的にずっと近くなった、ということを示唆している。" 「交易対象」→「ヤマト人」11
物部世真古嶋戸物部【天物部等二十五部人同帶兵杖天降供奉】@kodaizine·Nov 20, 2018この図を見て気づいたんだけど、いわゆる「東鯷国」と「奈良」周辺、というか「関西」地域が空白地域のような…?これも銅鐸圏、国の違い?11
物部世真古嶋戸物部【天物部等二十五部人同帶兵杖天降供奉】@kodaizine·Nov 20, 2018https://blogs.yahoo.co.jp/rqugandokoro/32938736.html… "ゴホウラ貝輪は、形態変化を遂げながら北部九州に広まり、その後近畿地方へと伝播していることが考古学上でも判明している。その原因の一つに社会的変動があったことを推定する説は少なくはない。"11
物部世真古嶋戸物部【天物部等二十五部人同帶兵杖天降供奉】@kodaizine·Nov 20, 2018https://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/56583794.html… "「北部九州で見つかった戦傷人骨は、ほとんどが渡来系弥生人の骨で占められている」とも指摘する。出土した人骨を見る限り、渡来系弥生人どうしが争った形跡だけが目立つのだ。"11
物部世真古嶋戸物部【天物部等二十五部人同帶兵杖天降供奉】@kodaizine·Nov 20, 2018沖縄の歴史INDEX http://rca.open.ed.jp/history/story/hisindex1.html… "縄文早期と縄文前期は九州との交流が深かった時代、縄文中期は奄美諸島や沖縄諸島の独自の文化が発生した時代、縄文後期は再び九州との交流が盛んに~、縄文晩期は集落が形成され、九州との活発な交流があった時代といえます。"11
物部世真古嶋戸物部【天物部等二十五部人同帶兵杖天降供奉】@kodaizine·Nov 20, 2018"弥生時代に相当する遺跡は海岸砂丘地に多く、出土品から九州や中国と交易していたことが分かります。貝輪(かいわ)の原材料となったゴホウラ貝などは、九州へ移出されたものの代表的なものでしょう。九州からは弥生土器が持ちこまれたほか、箱式石棺墓などによる埋葬法が伝わっています。"112
物部世真古嶋戸物部【天物部等二十五部人同帶兵杖天降供奉】@kodaizine·Nov 20, 2018http://city.amagasaki.hyogo.jp/manabu/104ama_tano/2018toku.html… "白銅製釧(兵庫県指定文化財)~この腕輪は、南海産の巻貝を材料にした貝輪をモデルにしてつくられています。弥生時代の北部九州では、南海産の巻貝を使用した貝輪(腕輪)の文化があり、その後素材が貝から青銅へとかわって近畿地方に伝わりました。"11
物部世真古嶋戸物部【天物部等二十五部人同帶兵杖天降供奉】@kodaizine·Nov 20, 2018"今回は、北部九州の貝輪文化を紹介し、田能遺跡の腕輪を含めても10遺跡しか出土例がない近畿地方の貴重な弥生時代の腕輪を展示します。"11
物部世真古嶋戸物部【天物部等二十五部人同帶兵杖天降供奉】@kodaizine·Nov 20, 2018考古資料にみる日本・沖縄 https://pref.okinawa.jp/edu/maizo/bunkakesho/chosa/maizo/tanto/documents/kokopdf.pdf…111
物部世真古嶋戸物部【天物部等二十五部人同帶兵杖天降供奉】@kodaizine·Nov 20, 2018"産地別にみると~九州系陶磁器と、~関西系陶器がありますが、近世全体を通じて最も多く出土するものは肥前産の製品です。~京・信楽に代表される関西系陶器はほとんどが18世紀以降"11
物部世真古嶋戸物部【天物部等二十五部人同帶兵杖天降供奉】@kodaizine·Nov 20, 2018"集落の陶磁器は肥前産と薩摩産が多く、首里城でみられた関西系陶器はほとんど出土しません。肥前は日用食器が17世紀頃から登場しますが、18世紀以降になると減少していきます。薩摩は首里城と同じく18世紀後半以降の日用食器が確認されますが、量的にはそれほど多くありません。"2