日本人の源流を探す旅の出発点は、沖縄本島の具志頭村港川での“港川人”の発見であった。
そして旅の終わりもまた、その沖縄本島を含む、南西諸島を訪ねることとしたい。
それは、この旅の中で幾つもの課題が出来たからである。
1)琉球民族がどのように形成されたか。アイヌとの近縁性は事実か。
2)農学の佐藤洋一郎がいうように、熱帯ジャポニカは「海上の道」を伝って渡来したのか。
3)神話学が説く「古栽培民(芋などを主とする原始的な農耕民)」の渡来ルートは?。
4)日本語の語彙の多くがオーストロネシア語由来と言うが、オーストロネシア語を使う民族集団の
大規模な渡来があったのか。
柳田国男が説いた「海上の道」が本当に機能し、以上のような疑問に答えうるのか、南西諸島に
その痕跡を訪ねよう。
「海上の道」はあったか?-
南西諸島の地域別の歴史-
この項は、纏まった文献や解説がなく困っていたが、意外にもweb上に優れた論文が発表されていた。
小田静夫氏の「琉球弧の考古学 -南西諸島におけるヒト・モノの交流史-」と木下尚子氏の論文「貝交易の語る琉球史-発掘調査でわかったこと-」の二つである。
まず、小田静夫氏の「琉球弧の考古学
-南西諸島におけるヒト・モノの交流史-」をテキストとし、参照、引用させていただいた。詳しくは、下記のwebをご覧ください。)
http://www.ao.jpn.org/kuroshio/hitomono/
まず、次のランドサットの写真から、地政学的に俯瞰してみたい。

南西諸島とは、この写真で明らかなように、ユーラシア大陸の東端の比較的浅瀬に浮かぶ島々である。その更に東は、深い海溝となって沈んでいる。
したがって、氷河時代の特に寒い時期には何度も陸化し、台湾島を介して大陸と繋がっていたことは疑いない。その陸橋を伝って、3万2千年前に山下洞人が、1万8千年前に港川人が沖縄島にやって来たのであろう。
港川人の形態が、ジャワ島のワジャク人に近似し、且つ進化の延長線上に縄文人が位置することから、日本人の南方起源説や二重構造モデルが出来たことは、すでに説明して来た。
不思議なことに、人骨が出土するのに、彼らが
使っていたはずの石器や骨角器などの考古学的
資料がこれまで確認されていなかった。
しかし、山下洞穴の出土資料を再調査したとこ
ろ、礫器1点・敲石(たたきいし)2点など旧石器遺
物の可能性が指摘されるに至っている。
小田静夫(敬称略。以下同様)によると、この
地域の旧石器文化は右図のように展開していた
ようである。 |
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トカラ海峡を境に、九州では既に詳しく調べたナイフ形石器やその後の細石刃の文化が、南西諸島の中部地域と南部地域は、東南アジア、南中国、台湾島などの南方地域との関連で捉えられる「不定形剥片石器文化」が展開していた。
ただし、これは旧石器時代の話で、冒頭の諸課題に応えられる時代の話ではない。
その後の歴史は、北部・中部・南部のそれぞれの地域で、様々である。
沖縄県の埋蔵文化財センター発行の「いにしえ紀行」に記載の年表を改変して纏めると次のようになる。

まず北部の島々は、旧石器時代以来、一貫して南九州の文化圏に属し、九州の土器文化をストレートに受け入れ、西日本の文化と歩みを共にした。(したがって年表も本土の中に含めている。)
一方、中部の奄美や沖縄地域に、縄文文化が伝わるのは大幅に遅れた。上表の灰色の部分は歴史の空白部分である。
1975年、沖縄本島中部の渡具知東原(トグチアガリバル)遺跡で、中九州の曾畑式土器が発見され、さらにその下から爪形文土器が出土した。しかも爪形文土器が出土した層は、アカホヤ火山灰層の上層からの発見であった。
すなわち、この時、7000年前ごろ?(旧年代観で6000年前ごろ)、中部地域に九州の縄文文化が伝播したと考えられる。そして歴史の空白は停まり、本土の鎌倉時代近くまで続く、長い「貝塚時代」が始まる。
その後、本土が弥生時代に入り、水田稲作農耕が発展しても、沖縄で同時代、稲作が行われた形跡はない。(沖縄で稲作が導入されたのは、ずっと後のグスク時代に入ってからである。)
おそらく、南九州がシラスという火山灰や火砕流の噴出物の土壌であるため、水田稲作に適さず、稲作文化の南下を阻んでいたうえに、沖縄自体が珊瑚礁の土壌で、ここも稲作には適さなかったからであろう。
むしろ、石器の中に木の実などを摺り潰す道具(石皿、磨石)が多くあり、植物質食糧をよく調理していたことが看取されることから、ヤマイモのような根栽類の「栽培農耕」があった可能性が指摘されている。
また佐々木高明は、「日本史誕生」(p351)のなかで、
--おそらく、この種のイモ類とアワなどを主作物とする、焼畑(畑作)農耕と漁撈とが組み合わされた生業の類型が、南島の基層文化の中に早くから定着していたと考えられる。・・・貝塚時代の前期から後期にかけて、アワや陸稲などの穀類の重要性が次第に大きくなっていったのではないか---
このように記述している。この陸稲という記述が、かすかに熱帯ジャポニカの栽培の可能性を暗示している。
九州の稲作文化を受け入れなかった沖縄諸島は、その後も生業形態を変えず、すなわち貝塚時代のまま、その後の存立基盤を、次に検討する“貝輪原料の供給基地”という南洋島的特性の方に置くようになる。
したがって、この地域は、本土で言えば縄文前期から平安末期までの長期に亘って、漁労、狩猟の原始生業形態を続け、12世紀ごろに突然、群雄割拠の戦国時代・グスク時代に入る、すなわち一足飛びに中世となり、琉球王国へと飛躍してゆくことになる。
南部地域、すなわち宮古・八重山諸島では、ピンザアブ洞穴から2万6,7千年前の、子供を含む数個体の化石人骨が出土し、旧石器時代に人がいたことが確認されているが、その後、空白の時代が長期間続く。
実は宮古島と沖縄諸島との間は290kmも離れ、「宮古凹地」とよばれる無島海域が広がっている。そのため中部地域と南部地域はお互いに望見することが出来ず、往来が断絶されていたからであろうか。
この南部地域(先島地域とも言われる)に新石器時代が訪れるのは、約4000年前のことである。
波照間島で下田原貝塚という遺跡が発掘されている。出土した土器は、紀元前1800~1300年前ごろの、胎土の粗い、丸底の八重山式土器で、一方、石器のほうは、刃部だけを磨いた局部磨研石器で、台湾の巨石文化期のものと類似するとの見方がある。
石器類が耕作用とみられることから、当時、すでに漁撈と共に、イモやアワを主作物とする畑作農耕が行われていた可能性がある。
この南部地域は、その後不思議な動きをする。新石器時代後期といわれる紀元前後のころから、
折角持った土器文化を忘れ(捨て?)、また「無
土器文化」に逆戻りする。これは、この地域の衰
退を意味するわけではない。
周りの珊瑚礁の海から得られる豊富な食料資
源に支えられ、人口は増加し集落の規模は拡大
しているのである。
土器を使わなくなった彼らは、いわゆる「ストーン
ボイリング」と呼ばれる調理用の石蒸し方法を多
用し、その遺構も残している。
また、石斧に加え貝斧というシャコガイから作っ
た特殊な道具を使ってる。
これはフィリッピン方面との繋がりが指摘されて
いる。(右図参照。貝斧拡大サンプル)
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このように南部地域は、考古学的資料からは、10世紀ごろまで南方の文化が卓越していたとみられ、北部、中部と違って、本土の文化の影響は受けなかった。
また、民族集団としても、縄文人や弥生人との交流がなく、むしろ台湾やフィリピンなど南方との繋がりを感じさせる。
この南方の文化は、神話の研究で課題として残した、「古栽培民」の文化であろうと思われるが、そうだとしても、本土への伝播はどういう経路を取ったのであろうか。
この南部地域が、北部・中部の地域と一体化するのは、与那國までグスク
が築かれるようになるグスク時代においてである。
貝輪交易の供給基地として発展
(この項は、
熊本大学文学部・教授
木下尚子氏の論文「貝交易の語る琉球史─発掘調査でわかったこと」
をテキストとし、参照、引用させていただきました。詳しくは、下記のwebをご覧ください。)
http://homepage3.nifty.com/okinawakyoukai/kennkyuukai/146kai/146kai-1.htm
弥生、古墳時代を通じて、中部地域の沖縄諸島は貴重な貝輪の原料となる、ゴホウラやイモガイなどの産出地であり、供給地であった。

まさに木下尚子(敬称略。以下同様)が言うように
「沖縄では先史時代以来、貝交易が連綿と続いて、これが沖縄の古代史の大きな特徴となっている」。
それは右の図から明らかなように、弥
生時代、古墳時代を通じて南海産の貝
輪が日本列島を中心にいわば必需品で
あり、一部は朝鮮南部の王族に届けら
れるなど、根強い需要が持続したからで
ある。
弥生時代の北部九州の出土状況を見
ると、鏡や武器が副葬され、貴金属や
玉類で着飾った人物は、政治的権力者
であり、貝輪を嵌めて埋葬されていた少
数の人たちは、儀礼にかかわる祭司
者、宗教者であったのではないかと考え
られている。
木下によると、さらに弥生末からは本
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土の台頭してきた地方豪族が、好んでこの南海産の貝輪をつかったことから、古墳時代のヤマト王権もこの風習を継続したと言う。
問題は、縄文時代を含めれば数千年に及ぶ貝の交易が、琉球人の形成にどう関わったかである。この点に関しても、木下尚子は極めて興味深い指摘をしている。すなわち、
貝の交易は、“分業体制”で行われていたと言
う。
弥生時代、需要者は勿論、北部九州の祭祀
者層であったが、交易運搬に当たったのは、西
北九州弥生人であったという。西北九州人が海
上輸送能力に優れていたのか、言語面などで
北部九州人より意思疎通がうまくいく歴史的背
景があったのか、何らかの理由があってのこと
であろう。
西北九州人は夏の台風シーズンを避け、北
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風の吹く(すなわち順風の中を)秋から冬に沖縄島にやって来た。そして、暖かい島で冬を過ごし南風とともに黒潮に乗って西北九州に帰っていった。なんとも優雅な交易である。
木下は九州や琉球列島の弥生時代の遺跡から、以上のような事が想像できると言う。たとえば、沖縄諸島、奄美諸島、トカラ列島に点々と残された箱式石棺墓は、西北九州沿岸部の弥生人が好んで使った棺であり、貝の運搬の途中で落命したような仲間をみんなで葬ったものだろうという。
西北九州弥生人が冬の間、沖縄諸島に留まったり、そこに墓を造ったり、また琉球人と共同作業も考えられるから、当然、遺伝子の交流があったと考えて間違いないだろう。
その後、この貝の道は次第に合理化され、西北九州を経由しない、有明海・佐賀平野経由のルートが開発される(上図 黄色のルート)。そうなると交易に携わる人も変化し、西北九州人から肥後、薩摩の人々が中心になり、種子島人や奄美諸島人の役割も増大する。
当然、南九州人と奄美・沖縄諸島人との遺伝子交流も頻繁になったに違いない。
木下はその後の貝交易を含め、次の表のように纏めている。
(第4部08項-HLA遺伝子から見た民族集団の近縁度で、徳永勝士が、
大陸系の新しい遺伝子が沖縄集団に流入したと指摘しているのに対し、筆者は否定的な意見を述べたが、上の表のように7~9世紀、唐との活発な貝交易があったならば当然、遺伝子の流入もあったであろう。ここに訂正しておきたい。)
以上、考古学的側面や文化・経済の側面から南西諸島について調べてきたが、西北九州人や南九州人が、沖縄諸島まで南下してきたことは確実となり、本土人と琉球人の均質化が進んだものと思われる。
しかし神話や言語から推測された南方からの、イモ栽培や雑穀栽培の文化の伝播や、大量の語彙をもたらすような文化の流入の痕跡を見出すことは出来ないでいる。
原アイヌ人が一気に南下した?-不思議なGm遺伝子の分布-
第1部08項でも検討したGm遺伝子の頻度について、もう一度確認しよう。

台湾の原住民、高砂族は、Gm遺伝子afb1b3を76%も保持している。afb1b3は南方アジア系民族の標識遺伝子であり、高砂族がインドネシア系の言語を使うこととも、きっちりと符合する。
それに対し、台湾から僅か100kmあまりしか離れていない与那國島をはじめ、宮古、石垣の住人は、ほとんど、その遺伝子を持っていない。
この信じられないような、断崖絶壁とでもいうような遺伝子頻度の格差の存在を説明するには、上述の考古学的知見から、10世紀ごろまでインドネシア系の言語を使う南方系の集団がいたが、グスク構築期に沖縄本島などから、強力な豪族が南下し、先住民を駆逐した。
こう説明するほか説明のしようがない。(それでも、afb1b3遺伝子が中部地域の半分に過ぎないという、低さの説明には不十分であるが。)
あえてそのafb1b3遺伝子の低さを説明する仮説を作るとすれば、4000年前ごろ、南部地域に新石器時代をもたらしたのは、南九州の縄文人か南西諸島北部の縄文人で、彼らが南部地域まで南下して住するようになった。その後も近隣の高砂族などと交流することなく現在に至った、というものだ。(この場合、南九州の縄文人と東日本の縄文人は人類学的には、同一と考えてよいほど縄文人は均一であった、ということでなければならない。一般的なアイヌ・琉球人同系論の立場の人は、そのように考えているのであろうか。)
あるいはもっと大胆に、丁度4000年前ごろに起こったと、以前から筆者が指摘して来た、東日本人の1万人規模での西日本地区への南下、そのうちの一団が南西諸島、それも南部地域まで一気に南下したとする。すなわち、東日本縄文人(原アイヌ人)が南西諸島全域に、且つその最南端まで移動した、そしてその後、その人たちに被さるように、弥生人や古墳人が南西諸島中部地域まで進出した。
こういう仮説を置けば、Gm遺伝子の不思議な分布も、アイヌ・琉球人同系説も無理なく説明することが出来る。
しかしこういう仮説で、遺伝子の分布はうまく説明できても、文化面からの知見、すなわちグスク時代以前までは南方の文化が卓越していたと言う事実との整合性がない。
アイヌ民族と琉球人の系統論-同系説と異系説-
日本列島の南端と北端に居住する沖縄の人々とアイヌの人々が、形態的に似通っているということは、明治のお雇い外国人医師、東京医学校のベルツも認めていた。この「アイヌ沖縄同系論」は、
遺伝子からはどのように考えられるのか。
人類進化学の斎藤成也は、尾本恵市との共同研究成果として、次のグラフを提示する。
(この近縁図のブーツストラップ法による確率=85%)
この簡素に纏められた近縁図から、アイヌ人が他の集団から離れているが、沖縄人と結びついて一つのグループを形成していることが分かる。斉藤成也はこれを次のように説明している。
--アイヌ人が独特な遺伝的特徴を濃く残しているのに対して、遠い過去には共通性の高かった沖縄人が、弥生時代以降の九州からの移住によって、本土人と遺伝的にずっと近くなった、ということを示唆している。さらに本土人の位置そのものが、韓国人を代表とするアジアの人類集団からの影響を強く受けていることを示している。--と。
さらに斎藤はアイヌ沖縄同系論の立場に立って、日本列島の集団が、かなり複雑な時間的発展をしたと、次図のような展開を考えている。

筆者の日本人形成の詳細図は、この斎藤の図に啓発されたものである。
一方、ミトコンドリアDNAの分析からアイヌ沖縄異系論を支持するのは、宝来聡である。
宝来は日本の3集団(本土日本人、アイヌ人、琉球人)と韓国人、中国人の合計293人のmtDNA482塩基(Dループ領域といわれる)の配列を決定し、分析した。
その結果、293人から207種類のmtDNA配列のタイプが観察された。このうちの189タイプは、それぞれの集団に固有のものであった。つまりタイプの大部分、90%以上が一つの集団でのみ観察され、他の集団ではみられないという結果になった。
(これはmtDNAが、遺伝子の概念からいうと、極めて早い速度で変化し、したがって多様性を持つものだということを示していると、筆者は理解する。)
残りの18タイプだけが集団間で共通してみられるもので、このうち14タイプは2集団間で共通であり、4タイプは3集団にまたがって共通に見られた。これを図示したのが次の図である。

この図は宝来の原図から筆者が改変して作成したものである。
琉球人を例に見てみよう。琉球人と線で結ばれた集団は、本土日本人と韓国人のみである。アイヌ人とは結ばれていない。すなわち、琉球人とアイヌ人とに共通するmtDNAのタイプがない、共通する母親はいなかった、ということになる。
本土日本人との関係で言うと、3つのタイプで共通し、本土日本人、琉球人それぞれ8%ぐらいの人が共通のmtDNAを持っているということになる。
これらの結果は、アイヌ沖縄同系論を否定するものである。筆者もこの結果を肯定的に捉えている。
以上、思った以上に“琉球人”には苦戦を強いられた。しかもいろいろ逍遥したものの、最初に掲げた課題の解決には程遠かった。特に日本語の語彙にオーストロネシア語が80%も混じっている、という崎山理の主張の根拠を見つけ出すことは出来なかった。
「日本人の源流を探して」と題して研究してきた日本人の起源について、これで一応、草稿を完了したい。沖縄の検討を加えた、筆者の日本人の成立モデル完成図は次のとおりである。

今後は、第1部のように、時間をかけずに仕上げたため、いろいろ説明不足であったものを手直ししたり、これまでの検討で知識不足を感じたところや、自分の知識が既に時代遅れになっているところなどを改訂したいと思っている。
これまで以上にこのHPを訪問いただき、ご感想やご意見をいただければ有難いと思っております。