帝高陽之苗裔兮朕皇考曰伯庸━━『楚辞』離騒
堯命羿仰射十日、中其九日、日中九烏皆死、墮其羽翼、故留其一日也━━『楚辞章句』王逸
かつて誰もが朕と言い、羿は九つの太陽を落とした。
ハロー、エヴリワン。
朕は、ヘブライ語聖書とギリシャ語聖書と『チェンソーマン』大好きなムスリム・ヒストール、よろしく!
この記事は『チェンソーマン』のネタバレを含みます。
『チェンソーマン』は男女平等やLGBTを踏まえた「スティグマ」が描かれている。朕はLGBTは生まれつきなので神に誓って全部いいことだと思います。ソドムとゴモラ?知るか!しかし、老害な斎藤環は、藤本タツキに敬意を払わず、ステレオタイプな「アンチスティグマ」を振りかざし、『ルックバック』『チェンソーマン』を侮辱した。
『ルックバック』に描かれていたのは、ステレオタイプの統合失調症ではない。【絵を描いていた挫折した男。絵をパクられた妄想の男】だ。それが斎藤環のせいで【誰でもよかった】【絵と無関係に凶器を振り回す男】、要するに統合失調症の男に歪められた。斎藤環は「ステレオタイプを描く漫画家」というステレオタイプな偏見を煽り、良い漫画を検閲した。私は斎藤環の記事が、無名の精神科医の文章に見える。修正版が「ステレオタイプな統合失調症」なのは、異論の少ないところだろう。斎藤環は医者ではなく、「戦前の検閲」をこなした。政府が新聞統制(1938‐1942)により1200の新聞が55に減らし、人々から表現の自由を奪ったように。このクサレ脳ミソ(※)が!
※修正でより悪化した『ジョジョの奇妙な冒険』のセリフ。
紙媒体での出版に際しては、アンチスティグマのための配慮を強く求めたいのである。━━斎藤環
問題なのは、斎藤環が『チェンソーマン』を読まずにスティグマを否定していること。斎藤環は藤本タツキに何の敬意も払っていない。『チェンソーマン』は、マキマを支配の悪魔としながら、マキマに片方だけ聖痕を穿たせる。そしてデンジがマキマの血肉を「人の子の血肉」として愛から食べ、デンジは次代の支配の悪魔ナユタを抱きしめる。マキマは「糞女」「魔女」であり、世界各国から危険視されている罪深い悪魔だった。が、デンジはマキマの罪を裁いて攻撃しなかった。デンジは性欲に忠実な少年だが、マキマへの愛は性欲や恋愛ではなかった。藤本タツキはインタビューで「マキマはキを切られてママ」になると言っている。デンジの愛は、母への愛。マザコンとは言わないで。
スティグマに絡むこと。藤本タツキは『ファイアパンチ』で、日本国憲法第13条(人権条文)のオリジン、『アメリカ独立宣言』のパロディを行っている。「女性は尊いが、男と同じような人権はない。常識だ」と。これは独立に関与したトマス・ペインの『常識』と、独立宣言で平等で権利があるのは「All men(全ての男)」で、女が含まれていないことの示唆。『チェンソーマン』では引き続き13条と独立宣言を発展させて描いている。『チェンソーマン』13話。銃の悪魔が13年前(1984年)の金曜日に現れる。銃の悪魔は、13番目の菩薩、金星の菩薩、虚空蔵菩薩と思しき存在だ。虚空蔵菩薩は、真言宗の祖たる空海を悟らせた何か。空海はそれを「明星」と書いた。別名を明星天子と言う。虚空蔵菩薩は13と結びつけられ、十三詣りの習慣がある。不吉な十三と明星は、容易に「明星天使」だったサタン(ルシファー)を連想させる。作中のマキマ宅に『失楽園』サタンの絵がある。『ルックバック』の背景に『チェンソーマン』から「明星」が二度も引用される。背景を見て。
13条の人権問題。『ルックバック』『チェンソーマン』は太陽が描かれない。和の文化は、イザナギの左目から生じた太陽神アマテラスにならって、全て「左が上、右が下」で並べられる。「左上右下」の神々、雅楽、祭り、政治、和の衣食住。けれど、本当の「権利」は権や利ではなく、「右=正義」だ。イヤホンや靴や靴下の「R」が「right」。イヤホンや靴や靴下に「権」と書いてあったらキモいよね。西洋や中東やインドでは「右=正義。左=邪悪」。この右左観がナチュラル・ローを通じて193ヵ国の共通のルール、マナー、モラルとなった。人として最低限の文化的生活は「右善左悪」。けれど日本は太陽も文化すべても左で、「権利」で右の正義を否定する。日本の日は、非正規のヒ。朝日の日は、非正義のヒ。毎日の日は、非平等のヒ。笑えねェ。
聖痕が権利を正す。日本の権利は、英語「right」から造られた誤訳だ。日本語に権利という言葉はなかった。権利は日本の文化と無関係なので、権利を「日本」と主張するだけの背景はない。権利は役に立っていない。たとえば、「air🌬」は「吹き。吹く(話す)」。エアは空気ではなく、話していい「吹き」。しかし、日本人はすぐ【空気読んで黙れよ】と表現の自由権を否定し、その犯罪のストッパーがない。権利に限らず、空気や表現や自由も誤訳で造語。だから犯罪を止められない。本来のrightは「正義。正に。右」と日常的に使われる。Rightは「Yes, I do.」より使われる肯定の返事。Rightはよく使う語尾。しかし、権利や人権では「正義、肯定、語尾、右」のすべてに使えない。これらの問題を正すのが「マキマの聖痕」。作中、一度だけ「太陽」の文字がマキマと共に描かれる。また、マキマは日の丸が共に描かれる。マキマは左の太陽に結びつけられ、マキマの聖痕は左手だけに穿たれる。『チェンソーマン』正義なき左の太陽を攻撃せず、愛で正す物語。
月の犬。背景を見て。『チェンソーマン』は太陽が一度も描かれない。主役デンジは重要なシーンで満月に結びつけられ、マキマから犬扱いされている。北欧神話の太陽は、女神ではなく罰された人間ソール。そして、神々の黄昏に「月の犬」というフェンリルが、太陽を食べる。しかし太陽は娘がいて、再び陽は巡る。マキマが太陽ソール役、デンジがマーナガルム役、ナユタが太陽の娘役。雅楽もまた太陽と月の二つで表される。太陽を表す左方舞(インド・中央アジア・中国)は、「左三つ巴」を通じ赤色・金色・龍に結びつけれる。月を表す「右方舞(モンゴル・朝鮮)」は、「右二つ巴」を通じて緑色・銀色・鳳凰に結びつけれる。錬金術では太陽を食べる獅子のシンボルがある。これらはユングの言う「マンダラ」に絡む話だ。真理の扉を開かなきゃ。
もう一度。『チェンソーマン』は男女平等やLGBTを踏まえた「スティグマ」が描かれている。キリストは「アダムの子」と言われる。アダムは「男性と女性の“彼ら”を祝福された名前(創世記5:3)」。聖書原文のアダムは男ではなく両性。エローヒームは神でなく「神々(※)」で、一人称は「我ら」、その似姿は「アダム、男性、女性」。天地人を創る「我ら」は男ではなく女でもない。だから作中、デンジ(天使)とパワー(能天使)は「ワシらが創った」と言い、エローヒームは男性と女性の両面があると暗示されている。また、デンジの父は死んでいる。作中、父なる神や男の神につながる表現はない。デンジは釘を打たれて磔にされ、タンポポ(受難のシンボル)のある地獄に落ちてから帰還する。また、クァンシは同性愛者。これはエヴァに勝ったな。
※「エローヒーム(אֱלֹהִים)」は複数形だが、単数形扱いの文法。つまり「壱神々/A Gods」。いわゆる創造の七日間に出てくるのは「壱神々」だけで、神や主や主は出てこない。聖書に関して、創造主や創造神は誤り。いわゆる『旧約聖書』に「壱神々」は2500回以上出てくるが、「父なる神」は3回しか出てこない。
足を洗う。老害な斎藤環は、男女平等、異性愛と同性愛の平等をもたらす「スティグマ」を否定している。朕はムスリムだが、バチカンのパパ・フランチェスコが同性愛者を「神があなたを創造した」と受け入れる態度に心を打たれる。人類の大多数は保守的で神を信じている。保守的な人々に「同性愛者と異性愛者は平等」という足がかりが要る。それが、両性のエローヒームと両性のアダム、「アダムの子」の聖痕だ。フランチェスコはムスリムやコプトやヒンズーや男女の区別なく洗足式を行う。 今はムスリムやカトリックが「同性愛を認め、男女平等を広め、世界に平和をもたらそう」としている時代。斎藤環が『ルックバック』と『チェンソーマン』とスティグマを侮辱し、「同性愛を拒み、男女平等を壊し、世界に混沌をもたらそう」とするのは、老害としか言いようがない。足を洗え。
世界に年号はない。聖書やコーランは敬語がない。聖なる側は、人を「家(宀+豕、屋根の下の豚)」、豚小屋に入れない。豚小屋な家と違い、西洋や中東に「兄弟」「姉妹」の年齢差別はない。「年上」「年下」の年齢差別もない。スクールに「先生」「先輩後輩」の年齢差別はない。世界は「民(目を突かれた奴隷)」がいない。「大臣」という威張り語もない。「教皇」「法王」の皇王もいない。「教会」「宗教」「教育」の教え語もない。「心理学」「学者」「学校」の学ぶ語もない。斎藤環は偽スティグマを振りかざし、平成という薄い天皇時代、差別を評価している。現代社会は、帝臣民や兄弟姉妹や目上目下のタテがない平等な世界だ。斎藤環は、スティグマなしでどうやって「タテ社会でない平等社会」を具体的に提示できるのか?
スティグマは【科をつくる学び】と女性を侮辱しない。
スティグマは【学んで科をつくれ】と女性を馬鹿にしない。
スティグマは人を「家(宀+豕、屋根の下の豚)」に入れない。
スティグマが平等なシスターを姉妹に引き裂いたことはない。
スティグマが平等なブラザーを兄弟に引き裂いたことはない。
スティグマが平等なシブリングを兄弟姉妹に引き裂いたことはない。
スティグマは人と民を差別する「民(目を突かれた奴隷)」がない。
スティグマから民主主義という奴隷主義が生まれたことはない。
スティグマが国と民族で差別する「国民」を造ったことはない。
スティグマが帝臣民で差別する「国民」を造ったことはない。
スティグマが市町村で差別する「市民」を造ったことはない。
スティグマが先生先生で差別する「教育」を造ったことはない。
スティグマが先輩後輩で差別する「学校」を造ったことはない。
スティグマが尊敬謙譲で差別する「敬語」を造ったことはない。
知識。スティグマは「正しい知識と情報を知らせるきっかけ」だ。世界は兄弟姉妹、先生、先輩後輩などの年齢差別の豚小屋(家)がない。天皇や大臣のお上もなく、国民や庶民という下々の奴隷(民)もない。サイエンスは【知識】で、女が男に媚びる侮辱用語「科をつくる」じゃない。斎藤環は「科をつくる」の女性差別に無自覚で「科学」「学科」「科目」「精神科医」を振りかざす。スクールやスカラーは《暇》で、学校や学者の《学》ではない。サイカラジィは「息(生)言」で心理学ではない。斎藤環は「紙媒体での出版に際しては、アンチスティグマのための配慮を強く求めたい」で、嘘だらけの紙媒体の維持を強く求める老害だ。聖痕ある人の子の肉を食べ、人の子の血を飲まなければ、平等に生きられない。斎藤タマキは生きてないクセにイキんなよ。キを切ってタマにしてやろうか!
『チェンソーマン』では弾を撃った野郎はタマを撃たれるべきだという名言がある。そして最強のタマ大会が開催される。だから「ステレオタイプ」の弾を撃った斎藤タマもタマを撃たれるべきだろう。オリンピックを休止して「斎藤環のキンタマ蹴り大会」を開こう。キンコンカンコーン!
タマが縮む冗談はともかく、ライトは「権利」でなく、フリーは「自由」でなく、サイエンスは「科学」でなく、リリジャンは「宗教」でなく、デモクラシーは「民主主義」ではない。これらは全文字誤訳で、造られた言葉だ。藤本タツキはジョージ・オーウェルの『1984年』「ニュースピーク」「ビッグ・ブラザー」は、『哲学字彙』の【1884年】【和製漢語】【日本の兄】をモデルにしたものととらえ、作品を描いている。オーウェルのオセアニアは「right」「free」「equal」「democracy」「religion」「science」「justice」などの言葉や内容が失われた世界。該当するのは日本しかない。だから藤本タツキは作中13話、13年前の「1984年」、憲法13条の自由と正義(権利)、13番目の虚空蔵菩薩、明星天子(ルシファー)を描いている。虚空の悪魔は、空ろゆえに早川アキを乗っ取る。
近現代を切り拓いたのはイスラムではなく、クリスチャンのジョン・ロック(1632〜1704年)だ。彼は、アダムにかこつけた絶対王政を懇切丁寧に否定し、「男の王、男の父、男尊女卑」の力を大いに削いだ。素晴らしい!それでアメリカ独立やフランス革命の流れが起きた。近代化はアダムまたはローマ法によって「強い父を削り、男の帝王を廃止し、臣民(大臣と国民)を廃止すること」だ。老害なる斎藤環は「強い父を立て、男の天皇を立て、大臣と国民を確立する反近代ジャパン」に疑問を抱かない。アダムなしにどうやって、男の天皇や男の父を弱め、大臣や国民の差別用語を廃止するのか?斎藤環は答えられないだろう。
日本人が「大臣」にすり替えてるのは「小立(minister)」。ミニ(小さい)とスター(立つ者)。これはイエス・キリストが偉くなりたいなら、みんなの「小立(奉仕者)」になりなさいと言ったことに由来する。ミニスターが日本国憲法第15条「すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」の由来。西洋では省庁ではなく「小立(ministry)」が公務組織だ。日本の大臣と省庁は「お上」気分で「下々」の国民を見下す傾向がある。それは大臣や省庁が「小立」でないからだ。斎藤環はスティグマなしにどうやって「大臣」「省庁」のお上を批判するのか?
斎藤環はスティグマを否定し、平成天皇を称え、省庁と大臣のお上を認め、奴隷由来の民を認める。タマキは「帝臣民を支持する/平等を支持する」「省庁と大臣を支持する/公務員を理解する」という二重思考の狂人だ。『1984年』ディストピアの住人タマキは『チェンソーマン』の1984年と13条に対する答え━━マキマの聖痕すら、ステレオタイプのスティグマでせせら笑うだけなのだ。
ナチュラル・ロー。聖書を度外視ししても、ネイチャーは《生》だ。《生》は自然と関係ない。ネイチャーは「自ずから然り」という、「まあまあ、なあなあ」のムラやマチやクニを生んだ覚えはない。ネイチャーは軽い天、丸い地、人を「生む者」だ。「ナチュラル・ロー(生ながらの法)」は兄弟姉妹や帝臣民や尊敬謙譲の上下の和を生まなかった。ネイチャーは姉なる日を生まなかった。ネイチャーは海なる弟を生まなかった。ネイチャーは恥なる妹を生まなかった。ネイチャーは昼子を捨てる兄を生まなかった。日本人は和や自然や恥や敬語を振りかざすけれども、そんなもの、ネイチャーは生んだ覚えはない。ナチュラル・ローは自然や和や恥や敬語という差別のはじまりを認知しない。
日本は“日”そのものが左で姉で、右なる正義と平等に敵対している。だから、藤本タツキは『ルックバック』『チェンソーマン』に太陽を描かないし、『ファイアパンチ』は氷河期の世界だ。斎藤環はヒトとクニの根幹、「クリエイター」「ナチュラル・ロー」が欠落し、その空虚を埋める聖痕も否定している。斎藤環という老木がもたらすのは「まあまあ、なあなあ」の自然、恥、和、敬語、科のカオスと上下関係だけだ。老木は伐採しなきゃ!
斎藤環という子どもを食べる老木が「両性のアダムの子」の肉を食べ、血を飲む日が来るかは知らない。だがタマキが思考停止してようと、兄弟姉妹の中華や朝鮮半島も目まぐるしく動いている。寄らば大樹のカゲと言うけれど、老木タマキに寄って、その下でタテ社会を築きたくない。朕たちに要るのは平等なヨコの国だ。ポチタ、ちょっと仕事してくれ。ドォルンドォルン。