専門家の話が分からない、一般人の気持ちが分からない
何でもいいのですけれど、あなたがすっごく詳しいこと、専門にしていること、特に仕事にできるぐらいのこと、何か専門的な話を誰かそれを全く知らない人に教えなきゃいけない時。
そんな経験、きっと誰しもあると思うんです。
そんな時、どうです?
うまく説明できました?
・・・恥ずかしながら、私はいつもうまくできないんです。
なぜって、そもそも普通の人がどれぐらいそのことについて知っているかさっぱり分からないからです。
一度専門家になってしまうと、専門知識が無い状況というのがもはや想像できないんです。
そうですね、例えば、野球を全く知らない人に野球のルールを説明する状況を考えてみて下さい。
あなたがとりあえずまずこう説明したとします。
「野球っていうスポーツのルールはね、大まかな流れとしては、ボールをピッチャーが投げて、それをバッターが打って、そのボールが取られない内にバッターがベースを回って一周できたら一点取れるんだけど――」
すると相手が口をはさみます。
「ボールって何?ピッチャーって何?バッターって?ベースって??全然分からないんだけど・・・」
あなたは内心「え、そこからなの!?」って愕然とすることでしょう。
そして、一体どれだけ時間と労力をかけたらその説明が終わるのか想像できず、途方に暮れるに違いありません。
そう、何かを説明するというのはこれだけ難しいことなのです。
野球のルールならまだしも、スクイズとかさらに高度な概念を説明する状況であったとしたら、もう大変です。
専門用語・専門概念の壁
逆に私たちが何かの専門家の説明を聞く場面もありますよね。
しかし、頑張って話を聞いていても、正直言うとよく分からない、そんなことが少なくないのが現実ではないでしょうか。
テレビで経済討論している人たちが何を言ってるのかさっぱり分からない。
政治家の議論が何を言っているのかさっぱり分からない。
有名コンサルタントの語る経営学の話がさっぱり分からない。
裁判の判決の理由がさっぱり分からない。
医者が言ってる病気の説明がさっぱり分からない。
ノーベル賞受賞した科学理論の説明がさっぱり分からない。
原発事故の原因の説明がさっぱり分からない。
コンピューターやスマートフォンなどの新しい機能の説明がさっぱり分からない。
哲学者が書いている文章の意味がさっぱり分からない。
オタクの人たちが語るアニメの話やアイドルの話がさっぱり分からない。
宗教。
歴史。
音楽。
絵画。
などなど何でもかんでも。
もちろん、どの分野で引っかかるかは人それぞれだと思いますが、誰しも全ての分野に精通することは不可能ですから、どこかできっとこのような経験をしたことがあるはずです。
専門家の話って、難しいですよね?
結局、専門知識を教える側にとっても、教わる側にとっても、問題になるのが専門用語・専門概念の壁です。
専門家は専門家の中で、数々の専門用語や専門的な概念を生み出します。専門用語を使うことで俗語とは違う厳密な意味を持たせたり、全く新たな意味を持たせたりすることができます。
専門的な概念は、それそのものが専門研究の成果でもあり、また次のステップへの礎となります。
専門家にとって、専門用語や専門概念は、専門家が専門家であるために不可欠なものであるのですが、同時にそれらを知らない一般人との距離が開くことになります。
この距離を埋める作業が「教育」や「説明」なのですけれど、当然ですが、距離が開けば開くほど、その難易度は上がり、時間や労力をどんどん要するようになるのです。
つまり、専門分野が発展していけば発展していくほど、その教育・習得は難しくなります。
専門家と一般人が憎みあう社会
多分、私たちの社会は現代に至り、高度に専門分化されすぎてしまったのでしょう。
色んな分野において、それぞれの溝が開いていっているように思えます。
教育にかかる労力に耐えかねて専門家が叫びます。
「そりゃねぇ、こっちだって教えてあげないって言うんじゃないんだけど、さすがにこんな基礎レベルのことも知らないようじゃ、やってらんないよ。こっちも自分の仕事もあるんだから大変なんだよ。パンピーはパンピーなんだから、バカなの自覚して、まず自分でもちゃんと勉強しろよな!」
習得にかかる労力に耐えかねて一般人が叫びます。
「あのさー、プロなら、もうちょっと分かりやすく説明してよ。あんた達の説明が下手だから全然わかんないんじゃない。ま、どうせ、やましいことでもあるから難しい話して煙に撒こうとしてるだけなんでしょ?こっちが素人だと思って傲慢だよね」
ちょっと大げさに書きましたけれど、どうでしょう。
このようないがみ合いは決して少なくないのではないでしょうか。
お互いにこのような自体を望んでいたわけではないでしょう。
ただ、その心の距離が気づかない内に空きすぎてしまったのではないでしょうか。
下手をすると、お互いに相手を罵倒することで溜飲を下げる、そんな雰囲気だって感じます。
⇩図にするとこんな感じです。
こんなことではお互いが分かり合うのは夢のまた夢なんです。
声が届く距離でつなぐ
このような専門教育の話に限りませんが、私は人の声が届く距離というのは限度があると思うんです。
距離と言っても物理的距離ではありません。むしろ物理的距離は電話やインターネットなど様々な技術の発展でかなり解消されてきています。
そうではなくて、先ほどから書いているように、心の声の届く距離についてです。
あまりにも社会における立ち位置や視点が違い過ぎると、コミュニケーションは簡単では無いのです。
もちろん同じ人間という共通点を手がかりに最低限のコミュニケーションを取ることはできるかもしれませんが、専門分野という深く潜らないといけないテーマについては、そうはいきません。
遠すぎる距離から、どんなに大声を出しても届かない限度というものがあるのです。
それなら、できることは1つです。
それは、声が届く距離で短くつなぐことです。
偉い先生はそのすぐ下のレベルの人たちに教えます。
その偉い先生の話を聞いた人はまたすぐ下のレベルの人たちに教えます。
その人たちがまたその下の人たちに・・・
と、バケツリレーのようにつなぐのです。
こうすれば、いつかは一般人のレベルまで到達します。
⇩図
専門的知識も、ある程度専門用語が分かっていて専門概念が分かっている人たちに次のステップを教えるのは比較的簡単です。
例えば新人さんが入ってきた時は一番大変ですが、ある程度仕事に慣れた後輩に教えるのはスムーズですよね。
いちいち説明しなくても大体の専門用語が通じて高度な問題についても十分にコミュニケーションができます。
これは心の距離が近いからです。
一方、2年目の人など、最近まで新人さんであった人なら、新人が「どんなところがわからないのか」「どんなところで勘違いしやすいか」などを覚えているので、案外、中途半端に上の方の人が教えるより、新人さんにうまく基本を習得させることができたりします。
これも心の距離が近いからなんです。
このように心の距離が近ければ、教えるのも楽だし、教わるのも楽になります。
専門的知識が容易に得られることで教わる方にメリットがあるのはもちろんですが、教える方にもメリットがあります。
誰かに何かを教える経験がある方は分かると思うのですけれど、「教える」という作業はそれだけでかなり勉強になります。
「分かっていたつもり」のことが、いざ「教える」となった時に、説明が途中で詰まってしまったり、教わる側の素朴な疑問に答えられなかったり、「中途半端にしか分かっていなかった」ことが判明することがしばしばあります。
教える方も教えることにより、自分の知識をなぞり、復習し、補強することができるのです。
物理で言う作用・反作用のようなもので、教えることで返ってくる力があるのです。
(これを受けて、教えることができるようになって初めてその知識を習得したと言える、と言う人までいます)
声の届く距離で教育をつないでいくというのは、遠かった専門家と一般人の距離を埋めることができるだけでなく、全体の教育効果の向上にもつながる力を秘めているのです。
そして、長い距離を複数の人で分割するため、一人あたりの教育にかける労力も少なくて済むことになります。
正確性のジレンマ
一般の人に何か専門分野の基礎的な話をする時に、すっごく偉い先生が話をしたりしますよね。
いわゆる「この分野の第一人者」みたいな人。
何か専門的なニュースが起きたら、テレビでもそんな人がよく引っ張りだされます。
でも、私はひっかかってしまうのです。
確かにその人は、その専門分野についてはよく知っているかもしれません。ニュースの内容だって完全に理解できているでしょう。
ですが、そんなに偉い人は、「一般の人がどれぐらい分かっているか」はよく知らないのじゃないでしょうか。
それを知らずに、一般の人が分かる解説をするのは、案外、難しいことのはずです。
もちろんそれができるプレゼン能力を持った有能な方も居るでしょう。ですが、そんな人ばかりでもないはずです。
だから、もうちょっと「一般に近いレベルの人」が解説した方が分かりやすい説明ができるのではないか、私はついついそう思ってしまうのです。
しかし、実際には話はそう簡単ではありません。
近距離バケツリレー教育には弱点があるからです。
それは、正確性に欠けることです。
考えてみれば、それもそのはず。
バケツリレーは結局のところ「伝言ゲーム」です。
「伝言ゲーム」やってみたことがある人は御存知の通り、最初の人の単語が最後の人とまるで違ってたりするんですよね。それはもう「バナナ」が「雪だるま」に変わってもおかしくないぐらいです。
だから、バケツリレー型の教育では、途中のステップで教えている内容に、最上層の人たちが聞いたら卒倒するような間違った内容が含まれていることも少なくありません。
だいたいは正しく教えることができでも、一部どうしてもノイズのように間違った知識も送り込まれるのです。
多くの専門分野、特に学問を標しているような分野は、その分野の真理を探求するため日々努力していますから、「正確性」にどうしてもこだわる性格があります。
だから、自分の分野の言説に誤りが含まれているのを見た時に、「断固糾弾!」という反応する方も少なくありません。
そんな理由から、やっぱり第一人者の人の「正確な解説」が選ばれるのも、実際には仕方の無いところなのでしょう。
第一人者のする「正確だけど分かりにくい説明」がいいか。
中級者のする「分かりやすいけど勘違いも混在しうる説明」がいいか。
そんなジレンマがここにはあるのです。
私個人的には、どうやったって「誤解」は生じるのだから、大まかにでも多くの人に伝わるのもいいのじゃないかなぁと思うのですけれど、ここは意見が分かれるところかもしれません。
足りないリレーの中継ぎ陣
そして、リレー教育をするにあたって、もうひとつ問題があると感じています。
それは、ハッキリした証拠があるわけではなく、体感なのですが、リレーの中継ぎにあたる中級者の層が薄いのではないか、ということです。
どの分野を見ても、専門家集団と、そこから遠く離れた大量の一般人がいるばかりで、間にはせいぜいアマチュアのマニアやオタクの人たちがチョロチョロいる程度の印象なのです。
要するに、すごく詳しい人と、全然知らない人に二分されがちなんですね。
仮説ですが、その理由を私はこのように考えています。
①みんな一つのことを極める傾向がある
多くの人は仕事が一種類で、しかも活動時間の大部分をその仕事に費やします。
「何かを勉強すること=その専門家になること」
つまり、
「やるならトコトンやる」
になってしまっているために、中間層で留まる人が少なく、専門家と一般人の間の層が居ないのではないでしょうか。
②一つのことを極めないと生きていけない
①の理由になりますが、中間層は、当たり前ですが専門家としては半人前なので、その専門分野における競争力が低くなります。すると、その分野で収入を得ることが難しく、生きていくために、その分野を一人前になるまで極めるか、他の分野を一人前になるまで極めるかの選択を迫られることになります。
つまり、どっちにしても何かの分野で一人前にならないといけません。
もちろん、何かの分野を半人前で抱えたまま、他の分野を一人前になるのは大変です。多くの場合、結局生きていくために一つのことを極めることになるでしょう。
このために、半人前の分野をいくつか抱えるのはもちろん、半人前の分野を一つでも持つことが難しくなっています。
だから、中間層があまり居なくなるのではないでしょうか。
③中間層はつぶされる
先ほどの「正確性にこだわる」の話に近いのですが、中間層はあくまで中級者ですから、一般人よりは知識を持っているとしても、「分かっていないところ」や「勘違いしているところ」がしばしば出てきます。
すると、上のレベルの人たちからは、「適当なこと言うな」とか「おいおい、それ間違ってるんですけど?」などと、ツッコミを受けやすくなります。
しかも一見して「ちょっと聞きかじった程度の奴が一般人に偉そうに語っている」ように見えるので、叩きがいもひとしおです。
実際に私の周りにもそういう人はやっぱりいますし、私も油断するとそういうことを言ってしまっていたりします。
みんな専門分野にはプライドがあるので、ついつい鼻をあかしてやりたくなってしまうのが人情なのでしょう。
さらに言えば、専門分野は専門家にとっては飯の種ですから、競争相手になりそうな後続を早めに叩き潰しておくという面も無いとは言えない現実もあるでしょう。
ともかくも、このように叩かれるとなれば、中間層が仮に居たとしても、一般の人たちに特に大声で説明すること無く、ひっそりと過ごしていく可能性も高いはずです。
この結果、実質上の中間層が薄くなるのではないでしょうか。
⇩図
中間層が少ないとなると、リレーの効果は激減します。
理想的なリレーは、ピラミッド型に、一人が複数人を教えることで大勢の一般人にも知識を分け与えるものなのですが、途中にクビレがある形状では、そこでその伝播能力がかなり弱くなってしまいます。
すると結局のところ、本来の目的であるはずの一般人への教育が損なわれてしまいます。
「不正確かつ少数の人」にしか伝わらない、ということであれば、こんなリレー形式が採用する必要はありません。
だから、結局、昔ながらの「えらーい先生が難しい話をしてくれる」という長距離教育のままになってしまうのも、仕方がないところなのかもしれません。
専門家と一般人の間の溝を超えるために
専門分野の発展は日進月歩です。
それ自体は喜ばしいことですが、半面、これは一般人と専門家との距離がどんどん離れてしまうことを意味します。
これを仕方がないとしてあきらめる意見もあるでしょう。
しかし、原発事故問題を代表として、特定の専門分野の課題が社会全体の問題につながることがしばしばあります。
このような時に、専門家と一般人の間に大きな溝があると、専門家が保身のため一般人の意見を無視する危険性、一般人が専門知識の欠如のため誤った判断をしてしまう危険性があるのは間違いの無いことで、ただでさえ難しい問題が更に泥沼化してしまうのは私たちがこの数年実感しているところではないでしょうか。
平時なら「専門家にお任せ」でもいいかもしれません。
ですが、非常事態ではそうはいかないのではないでしょうか。
誰しもその判断に責任を持つ必要がある、そんな時はきっとあるのです。
だから、私たちは専門教育について今こそ考えなおすべきではないかと、私は思うのです。
私は思います。
あなたが一般人の分野では、「それを学ぼうとする意欲」を持たないといけません。
あなたが専門家の分野では、「それを教えようとする意欲」を持たないといけません。
そして、長すぎる専門家と一般人の間のギャップを埋めるために、中間層を育てないといけません。
社会全体で、誰しもが様々なことを学べる環境を作らないといけません。
生活を気にせずとも、様々なことを習得できる余裕を確保しないといけません。
専門家集団も後続の意欲を挫かず温かく見守る寛容な精神が必要です。
どれもとても難しいことだと思います。
ですが、これは社会問題を解決するために前提となる課題で、これ自体がそもそも社会問題なのです。
そして、これには誰しも無関係でいられません。
こればかりは、専門家が居ない、みんなに関係する問題だからです。
P.S.
ちなみに、この話に関連しつつ、しかも私がつい最近書いた2つの記事をあわせたような記事をみかけてビックリ。
(似てる私の記事はこの2つ)
ただ、今回の記事で書いたように、専門化してしまえば、伝えることの難しさは理系も文系も一緒だと思うのですけれど。。。