頭がいいということ
教育制度に関して、こんな案が出ているようです。
学校週6日制:平日授業を軽減 文科省検討- 毎日jp(毎日新聞)
・・・週休6日制かと思ったら週6日制。逆でびっくりしました。
平日の授業は抑えるようですけれど、やっぱり授業量は全体として増えてしまうようです。
理由としては、「学力を上げるため」だそうですけれど、私としては何で「学力なんか上げなきゃいけないの?」と大変疑問です。
正直言って、これはなかなかよろしくない作戦です。
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例えば「頭がいい」という言葉は、学力が良い場合に多く使われています。
このような意味で社会に浸透しているこの「頭がいい」という言葉こそ、私たちの「学力偏重」の文化の象徴と言えます。
さて、当然、頭の機能ってそれだけではないですよね。
例えば、わかりやすい例で言えば、音楽や絵画などの芸術方面です。これは脳のすさまじい想像力があってはじめて成せる技です。
変わった例えで言えば、「足が速い人」も「頭がいい」と私は思っています。
体格や筋肉量が同じような人であっても、足が速い人と遅い人がいますよね。同じ一人の選手を見ていても昔の自分と体格がほとんど変わらなくてもタイムが良くなることもありますよね。
これは結局、身体を動かしているのが他ならぬ「脳」だからです。
脳が全身に無数にある筋肉細胞をどのように協調して動かすのが良いかを、訓練を通して学んでいくからタイムが良くなるのです。組織のリーダーが変われば部下が同じでもチームの動きが変わることがあるのと同じです。
だから、私は「足が速い人」も「頭がいい」と思うのです。(もちろん、足が速くなるためには身体作りも大事ですので、「身体も頭もいい人」が正確かもしれません)
このように頭の機能は無尽蔵で無限の可能性を秘めているものです。
その中で「学力」なんてほんの一部の機能でしか無いんです。
それなのに「頭がいい」と言って「学力」ばかり重視するのは、たとえるなら、スポーツの中で「テニス」だけ評価の対象にするようなものです。陸上も水泳もサッカーもウィンタースポーツも全部捨てて、「テニス」選手だけ認めるようなものです。
もちろん「テニス」のレベルは上がるでしょうけれど、その分本来「最速のスプリンター」になるはずの人や「フリーキックの達人」になるはずだった人たちはその日の目を見ること無く消えていくことでしょう。
「学力」を重視するということは、そんな他の「可能性」と引き換えなんです。
それは、人には色んな形があるのに、同じ枠にはめようとする、はまらなければ削ってでもはめてやる、そんな行為なんです。
本当にそれでいいんでしょうか?
そこまでしてやる意味がどこにあるんでしょうか?
人の形を削ってまで、いったいどこに向かっているんでしょうか?
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以前行われていた授業時間を減らした「ゆとり教育」は失敗だったとよく言われます。
ですが、その失敗の理由は「学力が下がったから」なんだそうです。
これはおかしいですよね。
だって実質上、「学力」の基準で見ることを抑えて、他の可能性を伸ばすための政策なのに、「学力」の基準で見るのは反則ですよね。
結局、教育がいくら「ゆとり」になっても、依然として大学入試が学力重視であったり、就職が学歴重視であったりと、社会の方が変わらなかったから――社会の方に「ゆとり」がなかったから――失敗したと判断されただけなんですよ。
教育と社会は密接に繋がっているのですから、教育(の一部)だけいくら「ゆとり」になっても上手くいくはずがありません。
それを失敗したと判定するほど卑怯なことは無いと思います。
そこにきて、今回の「逆ゆとり」政策です。
今度は社会の方の伝統の「逆ゆとり」の精神が、教育側に降ってきたという形になります。
調子に乗って、社会の方の「ゆとり」がもっともっとなくなっていくのではないかと心配です。
人のための社会であって、社会のための人ではないのにね。
P.S.
そもそも、「逆ゆとり」にすると社会の方にも不利益がいっぱい出ると思うんですよね。
だって、そんなことしたって、日本の産業が蘇るとか、そんなはずはないのでー。
ということで、その辺の話をまたするかもです。