鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇の政治は、「天皇中心」すぎて上手くいかず、後醍醐天皇と一緒に幕府を倒した足利尊氏が後醍醐天皇のもとを離れて京都に幕府を開いたね。
たろう
第3代将軍の足利義満が京都の「室町」に引越しをしたから、「室町幕府」と呼ばれるようになったんだったね。
室町幕府について分からなかったら まずはココを読もう!
歴史を漫画で勉強しよう!「室町幕府」シンプルな漫画と説明でサクッと読める! 「元げん」が日本を攻めてきて、日本を守りきった鎌倉幕府だけれど、御家人ごけにんに十分な「御恩ごおん」をあげられなかったことで「幕府ば...足利尊氏が征夷大将軍になって室町幕府をひらいたのが1338年。
それから237年後の1575年には、
全国で「戦国大名」と呼ばれる武将たちが戦いあう時代になった よ。
これが戦国時代。
237年の間に、世の中がガラリと変わってしまったわけだけど、一体何があったのかな?
yumineko
このページでは、
「なぜ戦国大名が登場するのか」、「なぜ全国で戦いが起きるようになったのか」「室町幕府はどうしてしまったのか」というポイントを抑えながら、戦国時代について詳しく解説するよ!
6年生が戦国時代で
つまづきがちなのはココ!!
戦国時代、ココがピンとこない!
- 「戦国大名」ってどういうこと?
どこから登場したの? - なぜ戦国大名は全国で戦いを始めたの?
- 室町幕府はどうしてしまったの?
それでは、早速解説していくよ!
その後の室町幕府
のぼりつめた足利義満
足利尊氏の孫にあたる足利義満は、室町幕府の3代将軍。
義満は将軍(征夷大将軍)になっただけでなく、朝廷でもトップの太政大臣にもなったスゴイ人だったんだ。
くまごろう
太政大臣は朝廷でのトップ。つまり、今で言う内閣総理大臣のイメージだよ。
yumineko
足利義満のスゴさは、歴史人物図鑑のページで詳しく解説しているので、興味があったらぜひ読んでみてね。
足利義満が亡くなってしまった後
征夷大将軍にもなって、太政大臣にまでなって、まさに「怖いものなし」状態だった足利義満だけど、1408年に51歳で突然亡くなってしまったんだ。
義満の息子の足利義持は9歳の頃から将軍になっていたけど、実際は義満が政治を自分の思い通りにやってしまっていて、義持はすっかり義満のパワーに埋もれてしまっていたんだ。
でも義満が亡くなったので、やっと義持が政治を動かす番になったよ。
「俺は皆んなの意見を聞くぜ!」
義持は、義満みたいな「力で
皆を押さえつける」やり方はいいとは思っていなかったので、
管領(室町幕府の将軍をサポートする1番偉い役)や
有力守護(将軍から任命されて各国を任された守護のうち、力をつけていった者たちのこと)たちの意見をちゃんと大切にする政治のやり方に直したんだ。
くまごろう
義持は、家来のところまで自分がわざわざ訪問して よく話を聴いたりしていたんだって。
「次の将軍は君たちに任せる!」
そんな中、義持は自分の息子に将軍の座をゆずるんだけど、その息子は2年後に亡くなってしまったんだ。
仕方なく しばらくは義持が引き続き将軍としての仕事をしていたけど、義持もその3年後に亡くなってしまったよ。
くまごろう
それが義持は、
「次の将軍は管領以下のみんなで相談して決めてくれ」と言い残して亡くなってしまったんだよ。
なぜ義持は「皆で決めてくれ」なんて言ったの?
義持は「将軍が力で皆を押さえつける」政治のやり方は良くないと考える人だったよね。
義持が次の将軍を選んでも、結局 守護や管領たちが納得したのでなければ上手くいかないと考えたんだ。
だから、それなら守護や管領たちが納得いく人を選んでもらおう、と考えたと言われているよ。
そんなこと言われても・・よし、くじ引きだ!
結局、次の将軍は義持の4人の弟の中から
「くじ引き」で選ばれたんだよ。
くじ引きで選ぶなんて有り得るの??
今の感覚でいうと、「くじ引き」というとなんとなく「運任せ」というイメージがあるよね。
でも、この頃は「くじ引き」というのは占いと同じように「神様の考えに任せる」というイメージなんだ。
「神様が選んだ人」ということであれば、誰かが不満に思うことも防げるという考えで くじ引きをしたんだね。
くじ引きは、八幡宮で行われたよ。
でも、なかなかの暴君※だった・・・
※暴君というのは、人々を苦しめるリーダーのこと。
そうやって選ばれたのが足利義教。
義教は義持がせっかく「皆の意見を大切にしよう」と考えて戻した政治のやり方を、また「俺の思い通りにする!」と、自分の思い通りにならない人をつぎつぎ力で無理やり押さえていく政治のやり方をしてしまったんだ。
たとえば、自分の気に入っている人を無理やり出世させたり、逆に気に入らない守護大名を殺してしまって土地を取り上げたり・・
義教のやり方に反発して延暦寺ではたくさんの僧がみずから火をつけて自殺してしまったりしたんだ。
しかも、その事を話題にした庶民のことまで捕まえて殺してしまったり・・・
そして、とうとう1441年に
赤松満祐
今度は自分も殺されてしまうのでは?だったら、こちらからやってやる!!
と不安に思った播磨(現在の兵庫県南西部)の守護赤松満祐に暗殺されてしまったよ。
「守護に将軍が暗殺されてしまう」なんて、それまでは考えられないことだったんだ。
それくらい、幕府の権威(人々が、みずから従おうと思わせる力のこと)がなくなってしまっていたということだね。
くまごろう
こんな具合に、どんどん将軍が亡くなったり殺されてしまったり、いわゆる「世継ぎ争い(だれが将軍になるのか争うということ)」で幕府はすっかりバタバタになってしまったんだ。
最大のバタバタ「応仁の乱」
こうして義教が暗殺されてしまったあとも、「誰が将軍になるのか」を争って、将軍家だけでなく 管領をしていた有力な一族も巻き込んで1467年に戦いが始まったよ。
この戦いは、なんと11年も続いたんだ。
この応仁の乱では、各国の守護たちも戦いに加わるために京都へかけつけたりしていたんだけど、そうすると守護たちの国元(守護として任されていた国のこと)は守護代という「代わりの人」に任せきりになってしまっていたんだ。
そうやって守護が留守をしているスキに、守護代や国人(その国で力を持つようになった武士のこと)がどんどん力を持つようになったよ。
そして、実力で自分よりも偉い人の地位を奪うものまで出てきた んだ。
こうして自分よりも身分が上の人のことも、
「実力で倒してしまう」という
「下克上」という時代がやってきたんだ。
そして「幕府を中心に、各国を守護がおさめる」というやり方に関係なく、「実力で国を支配する」という強者たちが登場した んだよ。
これが「戦国大名」なんだ。
たろう
鎌倉幕府の時も、誰が将軍になるかでバタバタしていた時に、朝廷に攻められてしまったりしたよね・・
戦国大名って?
たろう
今までにも守護大名というのもいたよね。
戦国大名と守護大名はどう違うの?
そもそも「大名」ってどういう意味??
「大名」というのは、
「大きな名田」を持っていることを意味するんだ。
「名田」というのは、「自分の名前を冠した田」のこと。つまり、
「自分名義の田」のことだね。
守護大名とは
守護大名は、幕府の将軍に命令されて、各国に「守護」という役職としておかれた人が、その国で力をつけて「大名」になったということだね。
戦国大名とは
それに対して、戦国大名は「自分の力」でその国で力をつけて「大名」になった人たちだね。
くまごろう
応仁の乱で「守護」が留守にしている間に、守護の代わりをしていた人や、国人と呼ばれる地元で力をつけていった人たちが
「幕府とは関係なく、実力で国を支配するぞー!」となったということだね。
たろう
そうやって「自分より身分が上の人」でも「実力」で倒してしまうことを「下克上」というんだね。
もちろん、もともと有力守護だったものが さらに力をつけてそのまま戦国大名となっているパターンもあるよ。
戦国大名になるパターン3つ
①有力な守護がそのまま力をつけて戦国大名に(守護パワーアップタイプ)
②守護代だったものが、守護を押しのけて戦国大名に(下克上タイプ)
③国人などの地元の強い武士がのし上がって戦国大名に(のしあがりタイプ)
6年生で習う有力な戦国大名の紹介
くまごろう
1560年ごろ、戦国大名が登場したころの勢力図(誰がどこを支配しているのかわかる図のこと)だよ。
【尾張国】織田信長
尾張国(現在の愛知県西部)の守護代だった織田氏の出身だよ。
一族の争いに勝って、尾張を統一したんだ。
【尾張国】豊臣秀吉
秀吉は尾張国の農民の子供として生まれたよ。
織田信長に仕えて出世したんだ。
豊臣秀吉の活躍は、この先の学習で詳しく解説するよ。
【駿河国】今川義元
足利氏の一門(一族ということ)で、代々駿河の守護をつとめてきたよ。
桶狭間の戦いで、織田信長に破られてしまうんだ。
【甲斐国】武田信玄・武田勝頼
武田信玄は
清和源氏の
支流(本家から分かれた家系のこと)で、鎌倉時代から甲斐国の守護をしてきたよ。
武田勝頼は信玄の息子で、この後説明する
長篠の戦いで織田信長や徳川家康と戦って破られてしまうよ。
【三河国】徳川家康
もとは三河国の(現在の愛知県東部)土豪(特定の土地を支配していた小豪族のこと)だった松平氏だったよ。
6歳の時に今川義元の人質になったんだ。
人質って??誘拐されたの?
戦国時代では、自分の国を守ったり、逆に他の国を攻めたりするために、ある国同士で「同盟」を結ぶことがあったんだ。
つまり、「お互い協力しよう」と約束することだね。
でも、もしかしたら急に約束を破って攻めてきたり、裏切られるかもしれないよね。
なので、「約束を守るよ」ということを証明するために、お互い「男の子」を人質として相手に送ることがよくあったんだ。
これを「人質」というよ。別に連れ去られたわけではないんだね。
もし約束を破れば、その男の子は殺されてしまうので、お互い約束を守るようになるというわけだね。
今川家の人質になった家康は、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に敗れると、今度は織田信長と同盟を結んだんだ。
その後の活躍は、もう少し先の江戸時代で詳しく解説するよ。
なぜ戦国大名は全国で戦うようになったの?
戦国大名たちは、それぞれ力をつけていくと、自分の国だけではなく まとまった地域を支配するようになっていったんだ。
そのうち、「他の戦国大名に負けてたまるか!」と競い合うようになっていったんだよ。
くまごろう
「他の戦国大名と差をつける」のにピッタリなのが、「天皇や将軍から認められる」こと。
だから、戦国大名たちは朝廷や幕府がある京都にむかって勢力を伸ばしていったんだ。
そうすると、どうしてもお互いどこかでぶつかり始めるよね。
今川義元vs織田信長
1560年に駿河・遠江・三河を支配していた今川義元が、織田信長の尾張国に攻め込んできたんだ。
この時の戦いが「桶狭間の戦い」だよ。
結果は、織田信長の勝利。
今川義元の人質だった徳川家康(この時の名前は松平元康)と織田信長は同盟を結んだし、今度は美濃国(現在の岐阜県南部)まで力を伸ばすんだ。
そしてとうとう
と考えるようになったんだ。
くまごろう
この「日本を統一する」ことを
「全国統一」ともいうよ。
こういうワケだった!
- 「力で国を支配するようになった」のが戦国大名!
- 戦国大名はどんどん力をつけて、支配する国を広げていった
- 桶狭間の戦いで勝った織田信長は、「日本を武力で統一しよう!」と考えた
室町幕府はどうなってしまったの?
幕府では、「だれが将軍になるのか」でバタバタしていたよね。
そんな中、将軍の座争いをしていた足利義昭が、織田信長の強さを聞きつけて助けを求めに来るんだ。
おかげさまで晴れて将軍になれた義昭は信長に「
管領か副将軍にならないか?」とすすめるんだけど、信長はこれを拒否。
くまごろう
信長の目標は「全国統一」だったからね。
幕府の中での出世には興味がなかったんだ。
信長が邪魔になってきてしまった・・
いざ将軍になった義昭だけど、自分の思い通りの政治をするには今度は信長の存在が邪魔になってきてしまったんだ。
そこで、武田信玄に信長をやっつけてもらおうとするよ。
でもそんな中、信玄は病気で亡くなってしまうんだ。
すかさず信長は義昭を京都から追放したよ。
こうして、室町幕府は滅びてしまったんだ。
こういうワケだった!
- 将軍争いをしているうちに、戦国大名が力をつけた!
- 織田信長の力を借りて足利義昭が将軍に!
- 将軍になったら信長が邪魔になってしまった!
- 信長を倒そうとしたけど、逆に追放されてしまった!(室町幕府滅亡)
織田信長の時代へ!!
室町幕府を滅ぼすと、越前(現在の北海道)の朝倉氏と近江(現在の滋賀県)の浅井氏もほろぼして、いよいよ残りは武田軍だけになったよ。
こうして始まったのが1575年の長篠の戦い。
織田信長と徳川家康の同盟軍と、武田信玄の息子の武田勝頼の戦いだよ。
くまごろう
この戦いでは、信長は鉄砲隊を上手に使ったんだ。
これが勝敗を決めたよ。
信長の鉄砲隊とは?
ポルトガル人から伝わった火縄銃は、一度弾を打つと その度に火薬や弾をこめなおさなければいけない仕組みなんだ。
つまり、「つづけて打つことができない」ので、弾をこめている間に反撃をされてしまうよね。
そこで信長は、鉄砲隊を何隊かに分ける方法を考えたんだ。
この時の戦いでは、3000挺の鉄砲を用意したんだけど、それを1000挺ずつの3グループにわけて、1つのグループが打っている間に残りの2つのグループが弾の準備をして、相手に反撃のスキを与えずに済んだんだ。
こうしてとうとう敵を全て倒した信長は、1576年に京都の近くの安土山に安土城を築いた よ。
たろう
これから全国を統一していくために、まずは自分の拠点となる城を作ったんだね。
くまごろう
こうして信長が安土城を築いたのを境に、この先は「
安土桃山時代」と呼ばれるようになるよ。
6年生はココを押さえればOK!
まとめ
年表をチェック!
1408年 足利義満が亡くなる
1428年 くじ引きで足利義教が将軍になる
1441年 赤松満祐に足利義教が暗殺される(嘉吉の乱)
1467年〜1477年 応仁の乱
1543年 ポルトガル人が種子島に漂着し、日本に鉄砲が伝わる
1549年 松平竹千代(のちの徳川家康)が今川家の人質になる
1560年 桶狭間の戦い(織田信長vs今川義元)今川軍が敗れる。
1562年 徳川家康と織田信長が同盟を結ぶ
1567年 織田信長が美濃を攻略。岐阜へうつる。
1568年 織田信長が足利義昭を助けて京都へ入る
1573年 織田信長が足利義昭を京都から追放(室町幕府滅亡)
1575年 長篠の戦い(織田信長・徳川家康vs武田勝頼)武田軍が敗れる
1576年 織田信長が安土山に城を築く
室町幕府まとめ
※赤いキーワードは必ず覚えよう!
- 室町幕府では将軍の座を争ってもめるようになった。
- 将軍の座を争って戦った応仁の乱は11年続いた。
- 各国では力で国を支配するようになった戦国大名が登場した。
- 織田信長は桶狭間の戦いで今川軍を倒し、力を伸ばしていった
- 将軍の座を争っていた足利義昭が織田信長に助けを求めた
- 将軍になった足利義昭は武田信玄に織田信長を倒すよう命令した
- 武田信玄が病気で亡くなり、織田信長は足利義昭を京都から追放した(室町幕府滅亡)
- 織田信長と徳川家康の同盟軍が、長篠の戦いで武田勝頼を倒した
- 織田信長が安土山に安土城を築いた(安土桃山時代のスタート)
yumineko
次は安土桃山時代の織田信長の活躍について解説するよ!
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2児の母。2019年の長女の高校受験時、訳あって塾には行かずに自宅学習のみで挑戦することになり、教科書をイチから一緒に読み直しながら勉強を見た結果、偏差値20上昇。志望校にトップ10位内で合格を果たす。 勉強をみるにあたって感じたのは、教科書の説明には子供には分かりづらい部分が多く、子供にイメージしやすく噛み砕いて説明するのがとても有効だということ。 同じように教科書の内容が分かりづらいと感じている子供たちのヒントになれば、との思いで「教科書を分かりやすく通訳するサイト」創設。