yumineko
安土桃山時代のうち、豊臣秀吉の活躍について、かんたんな言葉と漫画で小学生にもわかりやすく解説するよ!
前回のおさらい
全国統一にむけて安土城を築いた信長は、自由な商売ができるようにしたり、関所をなくしたりして新しい考え方の政治をしたね。
キリスト教を保護して、協会や学校を作ることを許可もしたよ。
けれど、いよいよ全国統一も目の前という時に、家臣の明智光秀に裏切られて本能寺で自害してしまったよ。
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織田信長の安土桃山時代を小学生から大人まで「わかりやすく」漫画でくわしく解説!【後編】 信長がどうやって全国統一を目指していったのか、おさらいしたい場合はココを読もう! https://kyoukasy...yumineko
このページでは、
信長の死後、豊臣秀吉が「全国統一にむけてどう活躍したか」、「どんな政治をしていたのか?」「なぜ亡くなってしまったのか」というポイントをおさえながら詳しく解説するよ!
6年生が豊臣秀吉の全国統一で
つまづきがちなのはココ!
秀吉の統一、ココがピンとこない!
- 信長の死後、どうして豊臣秀吉が統一できたの?
- どうして大阪に城を築いたの?
- 徳川家康は何をしていたの?
- 太閤検地とか、刀狩りとか、どういうことか詳しくわからない・・なんのためにそんなことをしたの??
- どうして豊臣秀吉は亡くなってしまったの?
それでは、早速解説していくよ!
秀吉はどうやって全国を統一したの?
教科書の説明
信長の死後、信長の有力な武将だった豊臣秀吉が、明智光秀を倒した。
大阪城を築いて、信長の政治を引きついで勢力を広げていった。
秀吉は信長の死後8年で全国の大名を従え、全国を統一した。
「信長の有力な武将」って?
豊臣秀吉は、信長が戦国大名をしていた尾張国の農民の子どもなんだ。
たろう
えっ
農民の子どもが、全国統一までしてしまったなんて・・
まるでシンデレラストーリーだね。
秀吉はとても機転がきく人だった!※
※「機転がきく」というのは、「とても良く気が付く」ということだよ。
秀吉の「ぞうり」のエピソードとは?
ある寒い雪の日に、信長が外に出ようと「ぞうり」を履こうとすると、秀吉が信長の足元に持っていたぞうりをサッと差し出したよ。
そのぞうりが温かかったことに驚いた信長。
なんと秀吉は、信長の足が冷たくならないように、ぞうりを懐(胸のところ)に入れて温めておいたんだ。
秀吉の「気がきくところ」や「ひらめき」、「行動力」をすっかり気に入った信長は、どんどん秀吉に重要な役割を任せていったよ。
短い期間で城を築いたり、皆んなが「とても無理だ!」と諦めてしまうことも次々に挑戦して成功させていく秀吉に、「さすが秀吉!」と信長はますます感心して、秀吉を出世させていったんだ。
そして秀吉は「農民の子供」から「武将」にまで大出世していったんだ。
どうやって明智光秀を倒したの?
本能寺の変の時の秀吉は何をしていた?
本能寺の変が起きた時、信長は全国統一にむけて中国地方の毛利輝元を攻めようとしていたんだ。
なので秀吉は、信長の命令で毛利輝元の手下である清水宗治が守っていた備中高松城(現在の岡山市)を包囲していたよ。
ちなみに、この清水宗治との戦いが難航(難しくてうまくいかないこと)していたので、秀吉が信長にヘルプを求めたんだ。※
それで、信長は秀吉のところへ駆けつけるために本能寺に泊まっていたんだよ。
※信長が自分から助けにいったという説もあるよ。また、本能寺に泊まっていた理由は他にも「朝廷と話し合いをするため」というのもあるよ。
は、はやく戻らなくては!
本能寺の変で信長が亡くなってしまったことを知った秀吉は大ショック。
「すぐに光秀を殺して、信長様のかたきを取らなくては!」
光秀を倒しにいくには、まずは清水宗治との戦いを終わらせなくてはいけないよね。
そこで秀吉は、信長が亡くなったことを隠したまま、清水宗治を説得したよ。
くまごろう
だって、信長が亡くなったことがバレたら、敵が強気になってますます戦いが長引いてしまうかもしれないからね。
と、清水宗治は自害したよ。
こうして、秀吉はあっというまに清水宗治との戦を終わらせたんだ。
そして姫路城(このころ秀吉のものだったよ)で準備をして、すぐに光秀のもとへ向かったよ。
くまごろう
このときの秀吉の駆けつけ方がハンパないんだ。
なんと、重い甲冑を着て、大雨の中、大軍で峠を越したりしながら10日間で230Kmを移動したんだよ。
驚異の大移動だったので、「中国大返し」と呼ばれるほど有名なんだ。
秀吉「信長様のかたき!!」
明智光秀
秀吉は清水宗治との戦いに行っているし、しばらく安心でしょ
とすっかり油断していた光秀。
秀吉があっというまに清水宗治との戦いを終わらせて自分を倒しにきたので、明智光秀はびっくりしたよ。
この時の戦いを山崎の戦いというよ。(高校で習うよ)
明智光秀
ヤバイ!!勝てっこない!
よし、坂本城※に逃げ帰ろう!
※滋賀県大津市にあった、明智光秀の住んでいたお城のことだよ。
けれど結局逃げる途中、光秀は農民に殺されてしまったよ。
くまごろう
このころ、「落ち武者狩り」というものがあったんだ。
「戦いに負けて逃げている武士には何をしてもいい」というのがこの頃の常識だったんだ。だから、戦に負けた武士を見つけた農民は集団でおそって、身ぐるみをはぐ(着ているものや、お金などを奪い取ること)んだよ。
こういうワケだった!
- 秀吉は農民の子どもだったけれど、信長に才能を認められて武将にまでなった!
- 信長のかたきを取るために、戦を早く終わらせて駆けつけた。
- 信長のかたきである明智光秀を破った。
徳川家康は何をしていたの?
本能寺の変の時、では徳川家康は何をしていたのかというと、
信長のすすめで堺(現在の大阪)へ見学に行っていたんだ。
家康も本能寺の変の知らせを受けて「光秀を倒さなくては!」と思ったけんだけど、戦の準備なんてしていなかったから、そのまますぐ光秀のところに行くわけにはいかないし、まずは準備をしようとしたんだ。
そうこうしているうちに、秀吉が光秀を倒してしまったんだよ。
光秀を倒すのは先を越されてしまったけれど、家康は「信長のあとをつぐこと」を秀吉にゆずることに納得したわけではなかったよ。それで、秀吉と家康は戦ったりもしたんだけど、これは高校で習うことになるよ。
こういうワケだった!
- 家康も光秀を倒そうと思ったけど、すぐには行けなかった。
- 秀吉に先を越されてしまった!!
どうして大阪に城を築いたの?
秀吉が大阪城を築いたのは、石山本願寺の跡地なんだ。
たろう
石山本願寺って、信長がおさえた「
一向宗」の
本山(メインになる寺のこと)だったね。
攻められにくく、交通が便利!
この場所は、琵琶湖を水源とする淀川が大阪湾にそそぐところなんだ。
カタチ的に、攻めるのがむずかしいところなんだよ。
さらに、交通でも便利なところなんだ。
淀川をさかのぼれば京都にいけるし、瀬戸内海をつうじて中国や四国、九州にも行ける。
交通の要所なんだね。
- もともとは一向宗の石山本願寺があったところだった!
- 攻められにくく、交通の便が良いところだったから!
太閤検地って?
教科書の説明
秀吉は全国に家来を派遣して、村ごとに検地を行った。
田畑の面積を測り、土地の良し悪しを記録し、収穫量や耕作している人々の名前も記録した。これにより、耕作する人々は、耕作する権利を認められる一方で、決められた年貢を納める義務を負うことになった。
どんなことをするの?
検地の「検」は、「検査」の検だね。
地は、そのまま土地のこと。
つまり、土地を検査するということだね。
どのくらい米が穫れるのか、だれが耕しているのかを検査する!
何を検査するのかというと、土地の大きさを「ものさし」で測って、その土地でどのくらいのお米が取れるのかをチェックするんだ。
くまごろう
それまでは、差出といって、土地の持ち主の「自己申告(自分で答えること)」だったんだよ。
だから、ごまかそうと思えばごまかせてしまうよね。
「ものさし」や「ます」も統一した!
さらに、これまでは土地の大きさを測るのも「場所によって測り方がバラバラ」だったんだ。
そこで秀吉は全国共通の「ものさし」を作ったんだ。
できたお米を測るための「ます」も統一したよ。
これで、きちんと公平に田畑の大きさや獲れるお米の量を測ることが出来たんだ。
検査した結果は、
「検地帳」に記録したよ。
検地帳には、その土地を耕した人の名前も記録されたよ。
なぜ「太閤検地」というの?
太閤というのは、「もと大臣」という意味なんだ。
秀吉は1585年に関白になったんだけど、養子の秀次に関白の座を譲っていたので、太閤と呼ばれていたんだ。
だから、「秀吉(太閤)が行なった検地」ということで「太閤検地」と呼ぶんだよ。
なんのために検地を行なったの?
きちんと年貢を集めるため
今までのように「自己申告」だと、本当よりも少ないお米の量を年貢でおさめようとする人も出てくるよね。
そうならないよう、きちんと決まった量のお米が年貢として集まるようにしたんだ。
さらに、秀吉が考えたのは「農民が農業に集中して、一揆などを起こさないようにする」こと。
検地をして「耕す人が誰か」を記録したら、その「耕す人」は百姓として登録されたということになるんだ。
たろう
土地がハッキリ自分のものになったということは、嬉しいことではないの??
くまごろう
土地が自分のものと認められるのはいいことだけれど、その代わりその土地にふさわしい「年貢」をおさめる義務も背負うことになるんだよ。
この「年貢をおさめる義務」を百姓が背負うことで、みんなお米作りに集中しなきゃいけなくなったんだ。一揆なんかしている余裕がなくなった んだよ。
おなじ目的のために一致団結して抵抗運動をすることだったね。
「デモ」のイメージかな。
この時代の人々は、重い年貢に反対するために、村の人々で団結して領主に抵抗することが起こっていたよね。
こういうワケだった!
- 検地をしてハッキリさせれば、税をきちんと取ることができるから!
- 年貢の義務を負わせれば、一揆を起こさないようにさせられるから!
刀狩りって?
教科書の説明
秀吉は、村に住む人々を百姓身分として、一揆を起こさないように刀狩令を出して刀や鉄砲などの武器をとりあげた。
どんなことをするの?
刀狩りというのは、「刀を取り上げること」という意味だよ。
秀吉は、「刀狩令」を出して、農民が刀などの武器を持つことを禁止したんだ。
くまごろう
刀狩令によって、刀などを持つことが出来るのは武士だけになったよ。
なんのために刀狩をしたの?
これの最大の目的は
「農民に一揆を起こさせないため」だね。
信長が一向一揆などに大変な思いをしていたのを知っている秀吉は、
豊臣秀吉
一揆を起こさせないために、武器を取り上げればいいじゃん!
と考えたんだね。
身分がハッキリと分かれるようになった
刀狩にはもうひとつ狙いがあったよ。
「刀などを持つことが出来るのは武士だけ」というように、「身分」と「出来ること」をハッキリとさせることなんだ。
検地によって、「米を年貢としておさめる義務をもつ」人々もハッキリしたよね。
この人々を「百姓」と呼んだよね。
こうして武士・町人・百姓という身分がハッキリしたよ。
百姓とは
百姓は、米を耕す人々のことだけではなくて、漁業や林業を仕事とする人々も百姓と呼ばれたよ。
こういうワケだった!
- 武器を取り上げれば、一揆を起こさなくなるから!
- 武器を持つことが出来るのは武士だけにして、身分の違いをハッキリさせた!
どうして秀吉は亡くなってしまったの?
教科書の説明
国内の統一を
成し
遂げた秀吉は、中国の
明を
征服しようと2度にわたって朝鮮へ
大群を送った。しかし朝鮮の人々の激しい抵抗や、中国からの
援軍に秀吉軍は行き
詰まり、秀吉は病死し、朝鮮から引き上げた。
中国にも進出だ!!
日本全国を統一した秀吉は、いずれは明(中国)も征服したいと考えていたんだ。
たろう
それまでは「日本にくらべて大国の中国」というイメージだったのに、秀吉は度胸があるね・・
まずは朝鮮だな・・
中国へ攻めるためには、まずは朝鮮の国王をしたがわせようと秀吉は考えたんだ。
1度目の出兵
そしてとうとう1592年に、なんと16万の大軍を朝鮮へ向かわせたんだ。
朝鮮側は準備もできていなかったので、日本軍はあっというまに朝鮮の首都の漢城(現在のソウル)を占領したよ。
でも、日が経つうちに朝鮮側の反抗も激しくなり、さらに明からの軍が朝鮮の応援で駆けつけたんだ。
結局、日本軍は明と和平交渉(話合いをして戦いをやめること)したよ。
くまごろう
だけどこの和平交渉、秀吉の納得のいくものではなかったので、秀吉はすぐまた朝鮮へ出兵を命じるんだ。
2度目の出兵
1597年に、また12万の兵を朝鮮へ送ったよ。
今度は朝鮮側も準備ができていたので、日本軍vs朝鮮軍・明軍で激しい戦いになったんだ。
秀吉が病死してしまう
そんな中、なんと秀吉は病気で亡くなってしまったよ。
あわてた日本軍は、秀吉が亡くなったことを隠して朝鮮と明と和平交渉しようとしたよ。
だけど、バレてしまって日本は追い討ちをかけられてしまうんだ。
くまごろう
この朝鮮への出兵が失敗したことをきっかけに、豊臣氏の力が弱まってしまったんだ・・
こういうワケだった!
- 秀吉はもともと中国を征服したいと考えていた!
- 中国へのあしがかりに、まずは朝鮮へ大軍を送った。
- 出兵中に秀吉がなくなり、日本は追い討ちをかけられてしまった。
- この失敗により、豊臣氏の力は衰えてしまった。
6年生はココを抑えればOK!
まとめ
年表をチェック!
1582年 本能寺の変が起こる(信長が亡くなる)
1582年 太閤検地が行われる(1598年まで)
1583年 秀吉が大阪城の築城を開始する
1586年 秀吉が太政大臣になり、「豊臣」の姓を受ける
1588年 刀狩令が出される。
1592年 朝鮮への出兵(1回目)
1597年 朝鮮への出兵(2回目)
1598年 秀吉が亡くなる。朝鮮から日本軍が引き上げる。
豊臣秀吉の統一まとめ
※赤いキーワードは必ず覚えよう!
- 豊臣秀吉は、尾張国の農民の子どもだった
- 秀吉は、信長の死後すぐに明智光秀を倒した。
- 秀吉は拠点とするために大阪城を築いた
- 秀吉は信長の政治を引きついで全国統一をした。
- 秀吉は検地を行なって、決められた年貢を納めることを義務とした。
- 秀吉は刀狩令を出して百姓が武器を持たないようにした
- 秀吉は中国(明)を征服しようと、2度にわたって大軍を送った。
- 秀吉が病気で亡くなると、軍は朝鮮から引き上げた。
徳川家康の全国統一を小学生から大人まで「わかりやすく」漫画でくわしく解説! https://kyoukasyo.com/2020/10/13/6history21/ ... ABOUT ME
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2児の母。2019年の長女の高校受験時、訳あって塾には行かずに自宅学習のみで挑戦することになり、教科書をイチから一緒に読み直しながら勉強を見た結果、偏差値20上昇。志望校にトップ10位内で合格を果たす。 勉強をみるにあたって感じたのは、教科書の説明には子供には分かりづらい部分が多く、子供にイメージしやすく噛み砕いて説明するのがとても有効だということ。 同じように教科書の内容が分かりづらいと感じている子供たちのヒントになれば、との思いで「教科書を分かりやすく通訳するサイト」創設。