yumineko
安土桃山時代のうち、織田信長の活躍について、かんたんな言葉と漫画で小学生にもわかりやすく解説するよ!
前回のおさらい
尾張の守護を押しのけて大名になった織田信長は、桶狭間の戦いで今川義元を破り、さらにまわりの有力な大名も倒して勢力を広げたね。
仏教勢力の比叡山延暦寺や、一向宗をおさえこむのにも成功したよ。
そしてとうとう、信長を倒そうとした将軍を京都から追い出して、室町幕府を滅ぼしたよ。
信長がどうやって全国統一を目指していったのか、おさらいしたい場合はココを読もう!
織田信長の安土桃山時代を小学生から大人まで「わかりやすく」漫画でくわしく解説!【前編】 戦国大名がどうやって登場したか、織田信長がどうやって力をつけていったのかピンとこなかったら、まずはココを読もう!...yumineko
このページでは、
「織田信長はどんな政治をしていたのか?」
「織田信長はどうやって暗殺されてしまったのか?」について詳しく解説するよ!
教科書の説明
信長は、交通の
要所である
近江(現在の滋賀県)の
安土山に城を築いて全国統一の
拠点にした。
安土城の城下町では、信長は新しい考え方を取り入れた政治をおこなった。
安土城の城下町では、商人たちは自由に営業することが認められた。
信長は各地の関所をなくした。
信長はキリスト教を保護して、教会や学校を建てることを認めた。
しかし信長が全国統一を目指す戦いの中、家臣の明智光秀に裏切られて京都の本能寺で自害した。
6年生が織田信長の政治と暗殺で
つまづきがちなのはココ!!
信長の統一、ココがピンとこない!
- 信長は新しい考え方の政治をしたっていうけど、なにがすごいのかピンとこない・・
- 信長はキリスト教を保護したっていうけど、何のため?
- 信長はなぜ暗殺されたの?
それでは、早速解説していくよ!
信長はどんな政治をしたの?
有力な戦国大名をつぎつぎに倒し、仏教勢力をおさえこむことに成功して、とうとう目立った敵なし状態になった信長は全国統一にむけて滋賀県の安土山に城を築いたんだったね。
たろう
お城を拠点(活動の足場になる場所のこと)にしようとしたんだね。
安土城とは?
くまごろう
安土城を作った場所は滋賀県の琵琶湖のほとりなんだ。
京都からも近いし、琵琶湖のほとりなら湖を利用して楽に物を運んだりすることができるから便利だったんだよ。
城下町とは?
戦国時代になると、リーダーも城に住むようになった!
お城といえば戦国時代のようなイメージだけど、実は結構むかしからお城は作られていたよ。
戦国時代のお城で今までと違うのは、「リーダーがお城に住むようになった」という点。
そして家臣や、リーダーに使える武士たちも城のすぐ近くに住まわせたんだ。
何かがあったときに、すぐ近くに家臣や武士たちがいれば安心だし、何かと便利だよね。
信長「お店なんかも近くにあれば便利じゃん」
信長は商売人や、物を作る人たちなんかも お城の周りに集めたんだ。
そうすれば、いざ戦が始まった時に食べ物や武器なんかの用意がすぐにできるよね。
こうしてまるでひとつの「町」ができたようなものなので、これを「城下町」と呼ぶんだ。
自由な商売
信長「せっかくなら町を発展させよう!!」
せっかく町を作るなら、できるだけ元気な町にしたいよね。
それだけ色々な物が手に入ったり、人がたくさん集まるようになるからね。
そこで信長が考えたのは、
「安土城の城下町では、税金を免除して、誰でも自由に商売ができるようにする」 こと。
それまでは、ある商売をしたい場合は、その商売グループみたいのに入らなければいけなかったんだ。
たろう
税金がなくて自由に商売ができるなら、他の国の人も「それなら安土城の城下町に引越ししようかな!」と思うよね。
人が増えるということは、兵の数も増えるということだし、信長の治める国がどんどん豊かになる ということ。
なんと安土の町の人口は6000人にもなったと言われているよ。
逆に、信長以外の戦国大名が治める国からは人が出て行ってしまって、国のパワーが弱くなっていくということ。まさに一石二鳥だね。
楽市楽座
この仕組みを「楽市楽座」と呼ぶよ。
「楽」は「自由なこと」を表すんだ。
「市」は市場のこと。
「座」はさっき説明した「商売するグループ」のこと。
つまり、「座」から自由になって、自由な市場にしよう!という意味の言葉だね。
関所なんてなくしてしまえ!
関所というのは、
国と国のさかいにある「チェックポイント」のようなイメージ。
ここを通るには、荷物の検査を受けたり、税金を払わなくてはいけなかったんだ。
つまり、カンタンにあちこちの国へ出かけることが出来ないということだね。
信長は、1568年に自分の国の関所をなくす命令を出したよ。
この関所をなくしてしまえば、どんどん人々が行き来するようになって、経済が発展すると考えた んだね。
くまごろう
ちなみに、この関所は防犯の役割もあったんだ。
荷物の検査をしたり、怪しい人物はカンタンに通れないからね。
この後解説する「本能寺の変」は、関所が廃止されていなければ信長は明智光秀に突然責められることも防げたんではないかという考え方もあるよ。
そう思うとやりきれないね。
関所はその後どうなったの?
戦国時代には、こうやって各地で関所がなくなっていったよ。
でも、また江戸幕府がひらかれると関所が復活したんだ。
現在の日本には関所はひとつもないよね。
これは、明治時代に日本全国の関所が廃止されたからなんだ。
こういうワケだった!
- 戦国大名は城に住んで、まわりに城下町を作るようになった
- 信長は家臣や武士、商人、その家族たちなどを城下町に住まわせた
- 信長は安土城の城下町で楽市楽座をおこなった
- 信長は関所を廃止して、経済を発展させようとした
どうしてキリスト教を保護したの?
たろう
信長は「キリスト教を保護した」というけど、それってどういう意味?
くまごろう
ここでいう保護は、「キリスト教を何かから守った」とかいうことではなくて、「キリスト教が日本で活動することを認めた」ということだよ。
キリスト教ってどうやって日本に入ってきたの?
仏教が日本に伝わったのは6世紀中ごろで、渡来人によって伝えられたんだったね。
クリスマスや教会など、今では馴染みのあるキリスト教だけど、実はキリスト教はこの戦国時代に初めて日本に伝わったんだ。
くまごろう
日本に初めてキリスト教を伝えたのが、「フランシスコ・ザビエル」という人だよ。
ザビエルってどんな人?
フランシスコ・ザビエルは、キリスト教の宣教師だよ。
宣教師とは、
キリスト教を布教(みんなに教えて広めること)する人のこと。
ザビエルが日本にやってきたワケ
1543年、日本に
ポルトガルの船が漂着したことは覚えているかな?
鉄砲が伝わったときのことだね。
それ以来、ポルトガルの船はたびたび九州にやってくるようになっていたんだ。
そしてあるとき、日本人を一人ポルトガルに連れて帰ったんだ。
そしてポルトガルに着いたその日本人とザビエルが出会ったよ。
ザビエル「へえ。日本人って、話わかるじゃん」
日本人と話したザビエルは、日本には文化があって、教養もあるということが分かったので「よし、日本に行ってキリスト教を広めよう!」と考えたんだ。
そして1549年にザビエルはその日本人に案内してもらって鹿児島にやってきた んだ。
信長はなぜキリスト教を保護したのか?
信長はキリスト教の宣教師たちに、京都で布教することを許してあげたし、安土城の城下町にはキリスト教の学校まで建てることを許してあげたよ。
信長「キリスト教なら仏教に対抗できるだろう」
信長は別にキリスト教徒になったというわけではないよ。
信長がキリスト教を保護したのは、まずひとつに「仏教に対抗できる」と思ったから。
信長は、比叡山延暦寺や一向宗と敵対したことがあったよね。
仏教勢力の力を抑えるために、キリスト教の存在は必要だと考えた んだ。
キリスト教を保護すれば、貿易も盛んになる
もうひとつ理由があるよ。
キリスト教を布教するのはポルトガルやスペインの人だよね。
ポルトガルやスペインとは、貿易もするよね。
つまり、キリスト教を保護するということは貿易の相手を保護するのと同じこと なんだ。
信長は全国統一を目指して「どんどん新しい知識や道具を取り入れよう!」と考えていた人なので、南蛮人(ポルトガルやスペインの人々のこと)と積極的に付き合いをしようとしたんだ。
たろう
たしかに、ポルトガルから伝わった鉄砲を いちはやく戦いに取り入れたのも信長だもんね。
こういうワケだった!
- 1549年、ザビエルが日本の九州にやってきて初めてキリスト教を伝えた!
- 信長はキリスト教が活動したり、学校を作ることを許した。
- 信長はキリスト教を保護することで、貿易がさかんになると考えた!
なぜ暗殺されてしまったの?
さて、どんどんと強敵を倒して、安土城を作り、城下町もさかえて
全国統一にむけてまさに「順風満帆(とっても調子がよいこと)」状態だった織田信長。
だけど、信長は全国統一まであともう少しというところで暗殺されてしまうんだ。
本能寺とは?
たろう
ところで、なんで織田信長は「本能寺」にいたの?
住んでいたのは安土城なんでしょ?
本能寺というのは、
京都にあった法華宗の本山(メインとなるお寺のこと)だよ。
織田信長は、この本能寺の住職だった日承上人(にちじょうしょうにん)を頼りにしていて、
京都へ用事があるときには本能寺に宿泊させてもらっていた んだ。
日承上人は、天皇の親戚なんだ。
信長は全国を統一することが目標だったので、そのためにも天皇との関係を大事にしていたよ。
くまごろう
たとえば誰かと戦うときなどは天皇から「攻めても良い」と許可をもらうことで堂々と攻めることもできるし、兵士たちのやる気もアップするんだ。
幕府を開くのには天皇から「征夷大将軍」に任命される必要があるように、「統一」と「天皇との関係」は切り離せないものだったんだ。
そんなわけで信長は日承上人のお世話になって、仏教についても教えを受けていたんだ。
他にも本能寺はとても大なお寺で守りもしっかりしていたので「安心だった」という理由もあるし、本能寺は種子島(鉄砲が伝わったところだね)で布教をしていたので、本能寺にお願いすると鉄砲などがカンタンに手に入ったという理由もあるよ。
たろう
あれ?でも、信長は延暦寺を焼いてしまったり、一向宗と戦ったりしたよね。
仏教反対なのかと思っていたよ・・
信長は仏教を否定していたワケではない
延暦寺を焼いてしまったり、一向宗と戦った信長だけど、
別に「仏教を認めない」という思いで攻撃したわけではないんだ。
「僧」というのはもともとは仏教の修行をする人だよね。
でも、いつのまにか僧が武器をもって自分たちが得をするために戦ったりするようになった。それが僧兵だね。
他にもお金儲けをしようとばかり考えるようになったりしていたので、
「僧や寺というものは、本来のあるべき姿を忘れてしまっている!けしからん!」と信長は考えて攻撃していたんだ。
明智光秀と本能寺の変
1582年6月21日、この時も信長は本能寺に宿泊していたよ。
すると
朝早くに突然、信長の家臣である明智光秀が信長を裏切って、本能寺に攻めてきたんだ。
突然の思いもよらないことだったので、信長は防ぐことが出来なかったよ。
そして「もはやこれまでか」と思った信長は、本能寺に自分から火をつけて、自害した んだ。
なぜ明智光秀は裏切ったのか?
明智光秀が突然、信長を裏切った理由はいくつか説があるものの、今でも謎のままだよ。
明智光秀が裏切った理由のおもな説
- ①信長にいつもキツく当たられていたので、うらみを持っていた
- ②信長の代わりに全国を統一しようとした
- ③朝廷から信長の暗殺を命令された
- ④豊臣秀吉が黒幕
- ⑤徳川家康が黒幕
こういうワケだった!
- 本能寺の住職は天皇の親戚だったし、鉄砲などを手に入れやすくなるので、信長は京都へ行くときには本能寺に宿泊していた。
- 本能寺に宿泊した翌朝、突然明智光秀が襲ってきた。
- 防ぎきれないと思った信長が自分から火をつけて自害した。
6年生はココを押さえればOK!
まとめ
年表をチェック!
・1560年 桶狭間の戦い(信長vs今川義元)
・1562年 信長と徳川家康が同盟を結ぶ
・1567年 信長が美濃国を制覇する
・1568年 信長が足利義昭と京都へ入る
・1570年 姉川の戦い(信長&家康vs浅井・朝倉軍)
・1571年 信長が比叡山延暦寺を焼き払う
・1572年 武田信玄が徳川家康を破る
・1573年 信長が足利義昭を京都から追放する(室町幕府滅亡)
・1575年 長篠の戦い(信長&家康vs武田勝頼)
・1576年 信長が安土城の築城を開始する
・1582年 本能寺の変が起こる(信長が亡くなる)
織田信長の統一まとめ
※赤いキーワードは必ず覚えよう!
- 織田信長は商人たちが自由な商売ができるようにした(楽市楽座)
- 織田信長は各地の関所をなくした
- フランシスコザビエルが1549年に日本へやってきてキリスト教を広めた
- 織田信長はキリスト教を保護した
- 織田信長は本能寺で明智光秀に暗殺された
豊臣秀吉の安土桃山時代を小学生から大人まで「わかりやすく」漫画でくわしく解説! https://kyoukasyo.com/2020/10/15/6history20-2/ ... ABOUT ME
yumineko
2児の母。2019年の長女の高校受験時、訳あって塾には行かずに自宅学習のみで挑戦することになり、教科書をイチから一緒に読み直しながら勉強を見た結果、偏差値20上昇。志望校にトップ10位内で合格を果たす。 勉強をみるにあたって感じたのは、教科書の説明には子供には分かりづらい部分が多く、子供にイメージしやすく噛み砕いて説明するのがとても有効だということ。 同じように教科書の内容が分かりづらいと感じている子供たちのヒントになれば、との思いで「教科書を分かりやすく通訳するサイト」創設。