終わりよければ全て良し?黒猫ご満悦、モナの蟹三昧編
佐倉さん家の家族旅行最終話。
これまでのお話↓
novel/8424408 第1話
novel/8680594 第2話
元々、1年ほど前に投稿した別の話(30代くらいの主人公達の話)の中でモルガナの蟹三昧な言葉が出て来て、何故かそれを書き手が引き摺り続け。
更に別の長編で上海蟹を出そうと試みるも、あっちは舞台設定が3月で蟹には時期外れだと断念し、この家族旅行の話が出来上がった。何故、蟹に執着するのか、多分作者は食べたくて仕方がなかったのだ。
そんなしょうもない経緯を経て出来上がったお話ではあるけれど、作者としては楽しく書いていたお話。
今回も出てくるメンバー、全員わいわいやっている。
実際の出番はなくともチャット内で怪盗団のメンバーも相変わらずな調子で騒ぎまくっている。
ま、そんな感じのお話。
お気楽な感じで読んでやって頂けると有難いです。
そして、前回分、お話を読んで下さって有り難うございました。
コメントやブックマーク、いいねの評価なども感謝感謝です。
毎回、次のお話の糧にさせて頂いております。
最後に今回もアンケートを実施していますので、お気軽にご協力いただけると幸いです。
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風呂から上がれば後はお夕飯、となる。
ほかほかとした湯に浸かってしっかり暖まった自分の姿を意識しつつ、風呂場入口の休憩所で双葉が出て来るのを待つ間、暁はドリンクを飲んだり、適当に新聞に目を通したりしていた。
まあ、キンキンに冷やされた麦茶を、腰に手を当てながら、一気飲みしていたりすると、何となく馴染みの銭湯でコーヒー牛乳やら、フルーツ牛乳やらでそれをやっていた自分の姿を思い出さない事もない。
あそこの湯はとことん熱いが、ここの湯は適温だろう。あまり長く入り続けているとのぼせそうだが。
暫くして、双葉も出てきた。
ちょうど約束の一時間に差し掛かろうかという所だ。
備え付けのシャンプーで髪も洗ったのか、甘くて良い香りが暁の鼻先を一瞬掠める。
まだ完全には乾ききってはいないのだろう、何処となく髪がしっとりとしているような、そんな印象も受ける。
自分のふわふわとした癖毛を意識しながら、お待たせ、とはにかんで言ってくる双葉に暁も笑って応えた。
そして、彼女は、しっかり乾かされた暁の髪をじぃっと眺めてくる。
「?……どうした?双葉」
「濡れ髪……浴衣……火照った体」
ミッションが……と呻くような声が双葉の口から流れてきた。
そういえば女性陣からそういう姿の写真をと、そんな要望があったなぁと暁は思い出す。
……いや、忘れていたというよりも、敢えて思い出したくなかったので、意識の外に除外していたのだ。
「……この水、暁に掛けてもいい?」
双葉が、冷水の入った紙コップをそっと手に取って問いかけてくるので、止めてくれと思わず口にしていた。
「別に撮れなかったら撮れなかったでいいだろ。俺だって、皆の要望に何でも応えられるわけじゃないし」
苦笑混じりに暁が言うと、残念そうな顔をして、双葉は手にした冷水を口に含ませる。
湯上がりに冷えた水は格別だったらしく、彼女は一気に水を飲み干す。
「ふぅ……美味しい」
眼鏡越しに双葉は言った後、暁ににやりと笑いかける。
「この後はあれだな。今日のメインだ」
「そうだな」
この旅行の立案者であるモルガナ待望の夕食の時間だ。
生憎と部屋食ではないが、個室で食べる事が出来るらしい。
ペット同伴で食事が出来るとして、となれば他の客の中にも家族としてペットを連れ立っている者や、或いは稀に一般客もいるだろう。
余計なトラブルを避ける為に個室での食事となっているようだ。
ま、個室の方が断然気楽だ。
暁が館内に備え付けられている時計に視線を向けると、そろそろ指定された夕食の時間に迫っている事に気付く。
ひとまず二人で一旦部屋に戻る事にした。
本当は、ここの売店で怪盗団のメンバーへの土産や、今まで世話になっていた医師の武見や岩井達にも何か買えれば、と思っていたのだが、時間も迫っているし、食事を済ませた後にゆっくり見よう、という事になった。
「ただいま〜」
部屋に戻ると、双葉が惣治郎とモルガナに声を掛ける。
「おう。お帰り、双葉。湯はどうだった」
「お風呂はどうだったんだ?良かったか?」
一人と一匹はそれぞれに言葉を掛け、双葉が良かったぞと答えている。
「そうか。なら、俺も後で入りに行くかな。っと、そろそろ時間か」
夕食は、同じ階の別の部屋で食べる事になっていた。
時間になると、部屋のインターホンが鳴り、仲居が入口で待っていた。
部屋まで連れて行ってくれるらしい。
案内された部屋に行く際に、暁は小さな鞄を手に、双葉はモルガナを両手で抱いて移動する。
鞄の中には、モルガナが夕食を取る際に必要になりそうなものが入っている。
「楽しみだぜ」
弾んだ猫の声が、にゃあにゃあと楽しげな鳴き声と共に聞こえてきて、暁はつられるように小さく笑い声を漏らしながら、案内役の仲居に連れられて、館内の一室へと移動したのだった。
「にゃはふふぅー!くぅ、やったぁ、蟹だぁ」
案内された部屋に入った途端、モルガナの喜びに満ちた声が響く。
空色の目をきらきらと輝かせて、双葉の腕の中で、黒猫はやったやった♪と声を弾ませている。
喜びの表れか、長い尻尾がふりふりと左右に動いている。
仮にモルガナが犬だったら、きっと千切れんばかりに尻尾を振って喜びを表現していそうだなと暁は思った。
通されたのは和室で、畳敷きの部屋に脚の低いテーブルがある。
既に人数分のお造りが舟盛りの形でテーブルの真ん中に置かれ、猫用の刺し身が別皿に用意されていた。
そして、惣治郎用には食前酒が細めのグラスに注がれている。
一応、成人は一名だけなので、酒が用意されているのは一人分で、暁や双葉の席と思しき場所にはフルーツジュースが用意されていた。
舟盛りには近海で揚がった魚や、鮪、鮑や雲丹など、定番といえば定番の刺し身があって、その横には、焼き蟹として用意された小ぶりの蟹が一人用のコンロの網の上に載せられている。
「蟹!ワガハイの蟹だっ!」
モルガナは、喜び勇んで双葉の腕の中から抜け出すと、てててっと駆け寄った。
ふんふん、と鼻息を荒くしながら、テーブルの上に前足を乗せて、身を乗り出す。
「モルガナ、まだ食べるなよ」
暁が苦笑を浮かべつつ、ひょいとモルガナを抱き上げる。
蟹は暁達の分で、モルガナには少量の刺し身があるのだが……多分、それでは満足しないだろう。
「ちゃんと分けてやるから」
言いながら、鞄の中から、あらかじめ用意していた折り畳みの小さな子供用の椅子を取り出して、モルガナの席――と思われる窓側の場所の前に置いてやる。
「まずはちゃんと席に着け」
「分かってるよ」
にゃふ、と嬉しそうな声と共にひょいと椅子の上にモルガナは跳び乗って、ちょこんと大人しく座った。
それを目撃した案内役の年配の仲居が、偉いわねぇと目を細めてモルガナの事を褒めている。
「ふん、ワガハイ、これくらい出来るに決まってるだろ」
仲居には、にゃあにゃあと鳴きながら頷いているように映っていて、そんな姿に暁と双葉は顔を見合わせて、思わず笑ってしまう。
「俺の席はここか」
惣治郎は、よっこらせと、声を掛けながら、食前酒が用意された席に胡座を掻いて座った。
丁度、惣治郎が着いたのは上座の席で、彼と向かい合うような形で双葉と暁の席がある。
暁はモルガナの席の傍に座り、並んで双葉も座る。
仲居が飲み物は何にするかと聞いてきたので、ひとまず、お茶やジュース、ビール、日本酒etcなどを注文する事にして、仲居が部屋を出て行くのを見送りつつ、惣治郎が皆の顔を見回した。
それから、手元にある食前酒の入ったグラスを手に取る。
乾杯をやるつもりらしい、と暁や双葉も黙ってジュースの入ったグラスを手に取り、モルガナは三人の様子を大人しく窺っていた。
「ま……何だ。今日は家族旅行の一日目だ。明日には帰るけどな。とりあえずは長旅お疲れ様と言っておくべきかな……それと、この一年、お前達も色々あった訳だ。別にその慰労の為って訳じゃないが、今日はしっかりと美味い物食べて、ゆっくり休め」
そして、明日からまたしっかりやっていかないとな、と惣治郎は言った後に、柄じゃないがと言ってから、皆と乾杯をしていた。
「乾杯」
「乾杯」
「かんぱーい!」
「にゃっふー!」
モルガナは、自分用に置いてあったミルクの入ったお猪口を器用に両の前足で掲げて、暁の方に差し出した。
その姿に愛らしさを抱きつつも、暁は口元を綻ばせて、自分のグラスをカチリとつける。
「お疲れ、モルガナ」
「にゃふふ、お疲れさま」
にやりと笑ってモルガナは、他の面々ともグラスを合わせて、それから、零さないように気をつけながら、ちびちびとミルクを舐めている。
一応、猫用のミルクらしい。
そして、乾杯が終わると、惣治郎と双葉の二人は、テーブルに添えられていた料理長の今日のお品書きの紙を眺めながら、早速、料理に手を付け始めていた。
そんな彼らの姿を目にしながら、暁は鞄の中からモルガナ用の取り皿やら取り箸やらを出し、自分用のお造りから、モルガナが口に出来そうな物を少しずつ取り分けていこうとする。
「モルガナ、何から食べたい?」
「マグロ!あとホタテと、えと、アワビも!」
「鮪は兎も角、帆立と鮑は猫には大丈夫なのか」
「待って、待って。今調べるから」
双葉が暁の呟きにスマホを操作して、猫が口に出来るものを調べている。
猫のお食事面に関しては、間違いがあってはいけないと、毎回双葉は確認するようにはしていたのだが、調べている最中に丁度仲居が戻ってきて、次の料理と注文していた飲み物も持ってきた。
「うーん、やっぱり、貝類は駄目だぞ。鮑厳禁、帆立も止めとけ」
「うぐ。ワガハイ、猫じゃねぇから、大丈夫だって。前にタマネギだって食べたけど、何とも無かったからな!」
「そういえば、メメントスでそんな事も言ってたな……今のモルガナでも大丈夫なのか。皆の認知によって猫の姿で存在してるわけだし、猫っていう認識で見てると、やっぱり駄目なんじゃあ?」
モルガナは、一応は、イゴールの手によって人々の希望から創られた存在であるわけだから、只の猫ではない。
ただ、一度は消えてしまった存在が、暁達の認知、願いによってここに存在しているのだから、果たして黒猫は前と同じような存在なのか、はたまた、肉体的には猫と同じ構造になっているのか、どうなのか。
モルガナは暁の言葉にフン、と鼻を鳴らした。
「ふん。だったら、オマエが、ワガハイの体は頑丈で、エビ、カニ、ホタテ、アワビ諸々にも大丈夫って強く認識してればいいわけだろ。大体、ワガハイ、オマエとホテルのビュッフェであれこれ食べた事もあるけど、全部平気だったし、刺し身くらい何でもねぇよ」
言いながら、モルガナはすかさず暁の皿から肉厚な鮑を一切れ掻っ攫って、ちょいと醤油をつけて、口の中に放り込んだ。
「あ」
「むふー!うめぇ。やっぱり、日々猫缶とカリカリばっかりだったからな、たまには美味いもん食わねぇと」
むぐむぐと口を動かしながら幸せそうな顔をしているモルガナの姿に、やれやれと暁は息を吐いた。
確かに、モルガナは普通の猫とは違うのだから、心配しすぎてもな、と一応は黒猫の様子を注意深く観察しつつも、あまり強く言っても仕方ないなと、少しずつだがモルガナが希望する物を取り分けていく。
「おい、暁。お前もちゃんと食べろよ。お前だって碌なもん……食わせてねぇのは俺のせいだが、猫の分は俺達からも取り分けて良いんだからな」
「そうだぞ〜モナ、私のもちょっとやるからな」
日本酒を飲みながら料理をつまむ惣治郎と、小鉢片手に言ってくる双葉の言葉に、暁は苦笑しながらも頷いて、ひとまず、モルガナに関しては彼らにも任せつつ、自分も食事に手をつけ始めた。
お品書きに従って、料理は運ばれてくる。
日頃はなかなか口に出来ない料理の数々とあって、暁とモルガナはとりあえず食べられるだけ食べておこう、という事になった。
出された料理は、さり気なくだが凝った料理が多く、薄切りの鯛の刺し身の上に爽やかなリンゴ酢のジュレがかかった小鉢やら、淡白な白身の魚の上に濃い目の餡と海葡萄が添えられ、刻んだ柚子の皮が少量かかった椀物だとか。
料理に関しては、味は素晴らしいの一言に尽きるし、一品ごとの量自体はそこまででもないが、とにかく品数が豊富で、お造り、小鉢、椀物、メインの肉料理や蟹、箸休めに摘めるような一品、汁物、ご飯物……まだまだ沢山。
最後は当然デザートだが、今はまだそろそろメインに差し掛かろうか、という所までしか来ていない。
こういう時は、日々、ビックバンバーガーに通って大食いで鍛えた胃袋があって良かった、と暁はしみじみと思っていた。
ふと横を見ると、双葉にはちょっと量が多く感じるのか、食べるペースは遅かったりする。
「大丈夫か?」
「だいじょーぶ。私だってこれくらい食べられる」
ゆっくりのペースだが、楽しんで、味わって食べている様子で、暁はその言葉に小さく頷くと、彼女の事も気に掛けつつ、自分も料理を口に運ぶ。
そして、舟盛りは空となり、代わりに本日メインの、モルガナ待望の蟹の山盛りが運ばれてきた。
「にゃははは、蟹だっ、蟹だ!」
尻尾ふりふり、猫の弾んだ声が聞こえてくる。
「おい、アキラ。ワガハイに蟹を!」
「はいはい」
モルガナの声に従って、暁は苦笑交じりに蟹の足を手に取り、丁寧に蟹の身を殻からほぐして、モルガナ用の皿に分け始めた。
結構なスピードで蟹の身を解しつつ、ふと我に返り、何で俺は自分の手先の器用さをこんな所で発揮しているのだろうかと思わない事も無かったが、椅子にちょこんと座って目をきらきらと輝かせて蟹を待ってるモルガナの姿を目にすると、ま、良いかと暁は自分の状況を受け入れてしまうのだった。
そして、三人が蟹の攻略を始めた頃、仲居がさり気なくやって来て、焼き蟹用として用意されていた容器の燃料に火をつけていく。
固形燃料に火が点けられ、暫くして程よく焼き蟹が出来上がっていくのだが、それを眺めながら、惣治郎がふと思いついて、やっぱこれだよなぁと、熱々の蟹の身を口にするのもそこそこに、まだたっぷりと蟹味噌や身の入った甲羅の中に熱燗用の日本酒を注いでいく。
「こういうのが出来るのは旅の醍醐味だよな」
既にほろ酔い気味の惣治郎は、ご機嫌な様子でにやりと笑ってそう言っている。
「おい、アキラ。ワガハイにも早く」
あ〜んと口を大きく開けて、モルガナは、早く早くと暁を急かしてくる。
「分かってるってば」
俺はいつ自分の蟹を食べる事が出来るんだろうかと思いながら、暁は、親鳥が雛鳥にせっせと餌を運ぶが如く、モルガナの口の中に蟹の身を運ぶ。
あんぐりと開けた猫の口の中に蟹の身を投下。
口の中に入れた瞬間に、むっふー!と猫の声が上がり、むぐむぐむぐと口を動かしている。
「んー!うま〜い。ワガハイ満足だぜ」
幸せそうな猫の声を聞きながら、とりあえず、ある程度は蟹の身をほぐし終わったので、暁自身も蟹を口にする。
蟹の身を口の中に頬張ると、僅かな塩気と、蟹の身の甘み、蟹味噌の独特の旨味が広がって、思わず暁が口元を綻ばせていると、
「アキラ、もっと」
ぴこぴこと尻尾を動かし、あ〜んと口を大きく開けながら、もっとくれとモルガナがせがんでくるので、再び蟹の身を口に運んでやる。
ちなみにこの間、双葉と惣治郎は始終無言だった。
やはり、蟹は人を無言にさせるらしい。
黙々と殻から身をほぐす作業に没頭しているようだった。
それでも、惣治郎の方は甲羅酒が出来上がったのか、あちちと声を上げながらも、蟹の甲羅を片手に中の酒を啜っている。
「ぷはぁ、美味いなぁ」
顔を僅かに赤くしながら、ご満悦な酔っ払いが一名。
「うわぁ、蟹の汁で手がベタベタだ」
双葉がおしぼりで汚れた手を拭いながらぼやいている。
――そんな風に、和やかな夕食の時間が過ぎ去っていこうとしていたのだが……
「にゃふふ、これは良いぞぉ」
不意に上がった猫の言葉に、暁はそちらへと視線を向けると、猫が甲羅を両手に何やらずずっと啜って……
ずずっ?
「…………」
暁は気付いた。
それは俺の焼き蟹じゃないかと。
そして、啜っているという事は……
思わず暁は呻き声を上げた。
「モルガナ……お前……俺の蟹を甲羅酒にしたな?」
いつの間にやらモルガナは暁の焼き蟹の甲羅の中にこっそりと酒を足して、惣治郎と同じように甲羅酒を作っていたらしい。
「何だよー、良いじゃねぇか。ワガハイだって飲んでみたいんだ」
ふーふーと息を吹きかけ、モルガナはちびりちびりと酒を啜って、お子様なオマエらには分からねぇ味だと、ワガハイは大人なんだと主張していた。
「お。何だ何だ、猫もイケる口か?」
いつもだったら猫にアルコールなど厳禁だと言ってきそうな惣治郎だが、この日に限っては、モルガナの行動を止めようとはせずに、逆に機嫌良く猫に話しかけていた。
モルガナにこっちに来いと手招きまでしていて、猫もこれまた機嫌良く、ゴシュジンと酒を飲むんだと器用に甲羅の端を咥えて、中身を零さないように時々前足で押さえながら惣治郎の傍に駆け寄った。
多分、お互いに酔っ払っていて、正常な判断力が落ちているのだろう。
モルガナなどは早速酔いが回り始めているのか、ちょっと目がとろんとしていたのだが……一人と一匹は、大変にご満悦な様子で酒を飲み始めた。
そんな酔っ払い共の姿に暁はこっそりと溜息を吐きつつ、モルガナの物になってしまった自分の蟹を羨ましげに眺めていた。
別に怒りはしないのだが、せめて一口くらいは俺も食べたかったなと、ちょっといじけながら他の料理に口を付けていると、
「暁ー、私の少しやるぞ」
隣にいた双葉が暁の様子に、
「ほら」
結構な量の蟹の身を茶碗蒸し用のスプーンに乗せて、彼の眼前に差し出してきた。
「……良いのか?」
「うん。ほら、あ〜ん」
双葉がちょっと口を開いて、暁の口元に片手でスプーンを寄せてくる。
反射的に暁は口を開いた。
ぱくり、とスプーンごと蟹を口にすると。
パシャリ。
カメラのシャッター音が鳴った。
「…………」
双葉がスマホのカメラで、暁の「あ〜ん」な姿をばっちりと収めると、
「にひひ、リーダー(彼氏)とお食事、なう、と」
すかさず、怪盗団のメンバーへと送っている。
「…………」
双葉の行動に暁は慌てた。
彼女がウケ狙いで彼氏なんぞという言葉を使ったのは分かってはいるが、それを見たメンバーが何と思う事やら。
ちなみに、惣治郎は双葉の言葉を幸いにも耳にしていない様子だった。
モルガナと暢気に酒を飲み合っている。
それを視界の隅に捉えながら、暁は恐る恐る、といった様子で、茶羽織の袖の中からスマホを取り出して、いつものチャットを確認する。
怪盗団の皆との専用チャットには、双葉が上げた今までの料理の写真と共に、先程の暁の写真が早速載せられていた。
双葉が口にしたように、「リーダー(彼氏)とお食事」とある。
そして、それに対する面々の反応はというと……
杏「あ〜!抜け駆け〜」
真「暁、妙に嬉しそうじゃない?」
春「暁くん、どういう事か説明してもらえるかな」
杏「まさか、旅行先で双葉と付き合う事になっちゃった、とか?」
真「暁が手を出したとか?」
春「暁くんが断れなくて、双葉ちゃんの勢いに流されちゃってる、とか?」
他にも女性陣のコメントが瞬く間に追加されていく。
…………何で俺ばっかり。
明らかな自分への糾弾を匂わせるようなコメントにがっくりと暁は項垂れた。
旅行先から戻って来た後、女性陣に会うのが怖い。
こっちが何かやったわけでもないのだが、あれよあれよという間に暁の立場が悪くなっていくのは、凄まじい勢いで流れていくコメントを見れば明らかだった。
暁「頼むから、ネタにガチな反応しないでくれ」
とりあえず、一言だけでも入れておかないと後で何が起こるか想像するだに恐ろしいので、スマホで一言入力して、暁は溜息を吐いた。
唯一の救いといえば、男性陣ののほほんとしたコメントだろうか。
至って普通なコメントだ。
竜「お。蟹かぁ。い〜よなぁ、俺だって腹一杯になるまで食いてぇよ。俺んち、今日の夕飯、豆乳鍋だぜ。おふくろが最近ハマってて。ま、寒い日には良いけどな」
祐「俺の今日の夕飯はもやしだ。特売で買った一袋10円のもやしだ」
竜「お前寮暮らしだろ、寮で食えば……飯代払えないのか、もしかして…………しかし、それだとじゃがりこ1個分で、もやし結構買えるな」
祐「じゃがりこ1個でほぼ一週間分の俺の夕食を賄えるわけだ」
竜「しょうがねぇなあ、今度会った時に、1個やるよ」
祐「……すまん」
………貧乏苦学生の祐介と母子家庭の竜司の会話だが、何となくお互いの境遇に共感して、頷き合ってチャットをしているのが目に浮かんできそうだった。
とりあえず、竜司と祐介には大量の菓子の詰め合わせを土産として買って行こうと思いつつスマホを仕舞い込んでいると、
「あ、こら、猫」
「アン殿〜」
いつの間にか、酔っ払ったモルガナの声が間近に聞こえてきた。
顔を赤くした惣治郎が、やや酔い気味に、猫が自分から離れていくのを目にして、思わず声を上げている。
どうやら、モルガナは暁の事を杏と勘違いしているようだが……酒に酔って分別がつかなくなっているらしい。
酔いが回って潤んだ空色の目を熱っぽく暁に向け、ぐるぐると喉でも鳴らしそうな勢いで暁にしがみつく。
ぷにぷにと柔らかな肉球を暁の頬に押し当てると、舌っ足らずな声音でモルガナは口を開いた。
「ワガハイ、アン殿の事が、アン殿の事が……スキだぁ」
そして、その言葉と共に、ぶっちゅ〜と猫は暁の唇に自らの口を押し当ててきた。
「…………!?!?」
ぐいぐいと猫髭と共にモルガナの口が押し当てられる。
正直、暁は生まれてこの方、誰かとキスなどした事はなかった。
怪盗団の女性陣とも、女医や女子高生棋士、教師やライターや占い師とも、ララさん……いや、某オカマバーのママは除外しておこう。
あと、男どもとも当然ない。ネタ絡みでも無いったら無い。
それがよりによって酔っ払いの猫とする事になるとは。
猫髭のこそばゆさを感じつつ、酒臭さと蟹の生臭さを実感する初ちゅ〜であった。
とりあえず……生臭くて吐きそうだ、と暁は暫しの間、そのまま固まってしまった。
多分、生臭いのは中途半端に煮立った酒の中に、これまた中途半端に生煮えの蟹のエキスが染み出ているからだと暁は固まったままの姿で思った。
「…………」
「…………おーい、暁。大丈夫かぁ?」
思わぬハプニングに笑いを堪えながら、双葉は同情混じりの声を上げた。
双葉の問いかけに、暁は無言のまま硬直から脱し、そっと猫を引き剥す。
「にゃっはー」
引き剥がされて、モルガナは暁に脇の辺りで抱き上げられつつも、何処の軟体動物かと言いたくなる程に仰向けに思いきり背を反らした状態で、甘酸っぱい味だ〜とご満悦に喉を鳴らしている。
多分、それは生臭さに反射的に込み上げてきた暁の胃液の味である。
「にゃふふふ、ワガハイ、幸せ……」
大変に幸せそうな表情で呟くモルガナの言葉を聞きながら、暁は猫を双葉に押し付けると、続けてその場に突っ伏した。
そして、くぐもった声で呻きを上げたのだった。
「ううっ、俺のファーストキスを返してくれ……」
猫との初ちゅ〜なんてノーカンノーカンとにやけ笑いと共に言う双葉の言葉に、無理矢理暁は気持ちを立ち直らせながら、どうにか夕食を終えて、再び部屋に戻って来た。
惣治郎はさすがに酔ったかなと、風呂に入る前に少し酔いを覚ますからと、洋室のベッドで横になっている。
和室では、食事の間に暁が寝る為の布団が敷かれていた。
そして、その布団のど真ん中に仰向けの状態で寝そべった酔っ払いのモルガナが陣取っている。
布団はペットと寝ても構わないようだが、汚したり布団を破いたりしてしまった場合などは、その都度申し出る事にはなっているが、弁償などがあるわけではないようだ。
暁達の宿泊代とは別にペット料金も取ってあるので、その辺りの保障代金も含まれているのだろう。
気持ちよさそうに布団の上にいるモルガナは、たくさんご飯を食べて……後、酒もたらふく飲んでお腹がぽっこりと膨れていた。
満足げに腹を擦りながら、うとうとと微睡んでいる。
時折、猫の口元がへらっとだらしなく緩む。
「…………」
実に幸せそうな表情だ。
多分、杏とキスをしたと思い込んで、幸せ一杯なのだろう。
夢心地の状態から覚めれば、何だ、ただの夢だったかと、そう思うのだろうが。
暁はそんなモルガナの顔を眺めながら、仕方ないなとばかりに笑うしかなかった。
「暁、お土産買いに行く?どうする?」
「そうだな……」
双葉に声をかけられ、暁は思案した。
まだ夕食を終えた直後で、もう一度風呂に入るにはもう少し胃の具合が落ち着いてからにしたかったし、皆への土産物は早めに買っておきたかった。
「ここで買っとく?」
「ああ」
暁は頷くと、財布を茶羽織の袖の中に突っ込んで、双葉と共に部屋を出た。
一階のエントランス付近に、土産物売り場がある。
ここで敢えて買い揃えなくても構わないのだが、そこそこに土産物売り場は充実していた。
菓子類や地酒、民芸品、スマホ用のグッズやら何やら。
置かれているのは、専ら地元の特産品を使った菓子類が大半なのだが。
煎餅やらクッキーやら饅頭、ゼリー、その材料に地元の特産品である海産物を使ったものが多かったりするのは、定番と言えば定番だからだろう。
某有名菓子メーカーとの地域限定のコラボ商品などもある。
竜司達にはこれでも買っていってやったら喜ぶだろう。
後はネタ込みな菓子も買えれば……そう思いつつ、菓子の試食などさせてもらいながら、双葉と売り場を回っていると、
「暁、私、あれ欲しい」
双葉に、ついっと茶羽織の袖を引かれて、暁は彼女が、あれ、といった物に視線を向けた。
売り場の隅に、ネオフェザーマンアゲインの地域限定ソフビ人形(おまけシール付き)がある。
……発売されてから、売れずにそのまま残っているのか、人形の入った箱がちょっと埃を被っていた。
「…………あれ?」
思わず困った表情をしながら、暁は問いかけるが、双葉は逆に目を輝かせながら、
「あれ!私の欲しかった奴なんだ。まさか残ってるとは思わなかった。東京のアキバとかじゃあプレミアついてるんだ」
と、それ以降もその地域限定グッズに関して早口にまくし立てている。
好きなものに関しては、やはりオタク気質故か熱っぽく語ってくる双葉に対して、暁は思わず口元を綻ばせて、そっと彼女の頭に手を乗せつつ、
「あれを買ったら良いのか?」
目を細めて穏やかに問いかけると、双葉はみるみる内に赤面して、それからこくんと頷いた。
そんな双葉の様子に、愛おしさを感じつつも、朗らかな表情で目的の物を手に取り、買い物カゴの中に入れた。
とりあえずは竜司達怪盗団の男性陣には菓子詰め合わせ、双葉にはキャラグッズと決まり、他の女性陣には何にしようかと眉根を寄せる。
先程のチャットでの出来事があるので、下手なものは選べない。
暁は悩みながらも、今まで皆と散々深めてきた絆の中で得た貴重な経験を活用させながら、慎重に物を選んでいく。
これを選んでおけば、多分、好感度は上がるだろうなぁと思われる物を選んでいった。
後は吉田氏や岩井などだが……まあ、吉田氏には無難に饅頭、岩井は息子もいるので、若い子も食べやすそうな物をチョイスしておく。他にも武見や織田、三島、ララさん、教師……etc
自分用の土産物も少し買い足しつつも、他は誰にやるべきだったかなと土産物売り場を見回し――ふとある一点に目が行く。
吸い寄せられるようにそこに近付き、暁はその場で足を止めた。
「どうしたんだ?暁」
「うん……」
ちょっと、と目についたそれを手に取り、しげしげと暁は眺めていた。
手にしたものは地元の民芸品の一つだ。
小さな丸い手鏡である。
ちゃんと柄もついていて、裏の表面部分は黒く漆が塗られていて、蝶が二匹刻まれている。
金の縁取りに、赤や蒼、螺鈿を細かく使って蝶の形にしたそれは、何となく、ベルベットルームの住人を連想させた。
双子であった頃も、一つとなった今も、暁は何だかんだで世話になっていた訳だし、彼女にも土産の一つでも買っていってやったら喜ぶだろう。
そう思って、暁は手鏡も買い物カゴに入れる事にした。
「それ、誰にあげるつもりなんだ?」
「ん……青い牢獄の住人、って言えば分かるか?」
双葉が彼女と実際に出会った事があるのはごく僅かな時間でしかない。
歪められた聖杯との、最後の戦いに絡んだ場所でのみだ。それ以外にもベルベットルームへの扉は存在していたが、他の怪盗団のメンバーは目にする事は出来なかった。
「何となく」
双葉はあの時の事を思い出しながら、そう言った。
「俺は彼女にも世話になってるからな……まあ、実際に渡せるかは分からないけど」
そう言いながら、暁はカゴ一杯の土産物をレジへと持っていくが、当然ながら、結構な額になってしまう。
こればかりは仕方ない。
手早く支払いを済ませ、財布の中身が幾分軽くなってしまったのを意識しつつ、土産物用の紙袋を、土産を渡す人数分貰って部屋に戻ってくる。
「お。お帰りー」
さすがにモルガナは酔いが覚めたのか、にゃあと鳴き声と共に戻って来た暁達を出迎えてくれた。
「なぁんかワガハイ、オマエらに迷惑かけちゃったような気がするんだけど……」
「……とりあえず、モルガナ、お前は今後酒は止めとけ」
先程の一件を覚えていない、と言ってくるモルガナに対して、暁は溜息混じりに言って、買ってきた大量の土産物の入った袋を自分の手荷物と一緒に一つに纏めて、部屋の隅に置いた。
双葉は、さすがに疲れた〜と一声と共に、割り当てられたベッドにダイブして、その上でごろごろとしながらスマホをいじり始めている。
惣治郎はベッドで横になって少し眠っていたのだが、娘が戻って来たその音で目が覚めたのか、欠伸混じりに半身を起こして、そろそろ風呂に入りに行くかと、部屋にあるタオル片手に大浴場に行ってしまった。
暁はそんな二人の姿を窺った後に、部屋の外の、ベランダ部分に備え付けられた露天風呂の所に行く。
部屋と露天風呂部分には一応は戸を隔てて区切られており、屋内の戸を隔てた直ぐ傍には脱衣場もある。
モルガナがとててっと軽やかに駆けながら、少年の後をついて行く。
「風呂に入るのか?」
「ああ……お前も入るだろ?酔いは覚めたか?」
「フン、あれくらいじゃ、ワガハイ何ともないぜ」
胸を張りつつ、偉そうな態度でモルガナは言ってくる。
その割には酔っ払って、俺に絡んできたじゃないかとツッコミを入れたくなるのを我慢しつつ、暁は苦笑混じりに、明日二日酔いになっても知らないからな、と少し屈んで猫の頭を撫でていた。
露天は岩風呂で落下防止用の柵はあるが、風呂に入ったままの状態でも、外の景色も眺める事が出来るようになっている。
既に湯は満たされていて、ペットと入る際の注意などの注意書きが添えてあって、内容を見る限りは一応モルガナも入る事は出来そうだった。
ちゃんとノミ・ダニがいないように日頃からこまめなケアはしてあったし、抜け毛などもそれほどでもないから、排水で毛を詰まらせるようなトラブルもないだろう。
「ここならワガハイも入れそうだから、早く入ろうぜ」
岩風呂の縁に跳び乗って、前足で湯をつついて湯加減を確かめながら、モルガナは声を弾ませた。
「アキラ、早く」
お前が抱っこしてくんないと入れないんだからなと、猫は彼を急かし、暁はそれに「ちょっと待ってくれ」と苦笑しつつ応える。
とりあえず、モルガナをその場に残しつつも、一度和室に戻って、先程、大浴場で使用したタオルを手にした。
濡れていたので、タオル掛けに掛けて干していたのだが、当然ながらまだ乾くはずがない。
けれど、既に髪は洗ってあるし、せいぜい濡れた体を軽く拭く程度に留まるだろうから、別に乾いていなくても構わなかった。
一応、それとは別に、猫用おもちゃなどのお風呂セットと猫用タオルを旅行鞄から引っ張り出して持ってくる。
それから、部屋の脱衣場で浴衣を脱いで素っ裸になると、さっさとモルガナを小脇に抱えて、岩風呂にざぶんと音を立てながら、一気に湯に入った。
少年と猫の、その重さの分だけ、湯が溢れて、ザアザアと流れていく。
湯の熱さの心地良さを感じつつ、暁は首まで浸かって、ゆっくりと息を吐き出した。
モルガナは暁にしがみつきながら、湯の温かさ、心地良さにぐるぐると喉を鳴らす。
そんなモルガナの頭の毛を、暁は掻くように指先で撫でて、口元を綻ばせる。
「はぁ……いい湯だな」
暁の言葉に猫は首を巡らせ、暗い夜の景色に目を細める。
「良い湯だけど、あんまり景色はよく見えねぇな」
「猫なんだから、夜目は効くんだろ?」
「猫って言うな!……まあ、ワガハイの目はちょっとは見えるけど……その分、視野は狭いからな」
遠くまでは見えないぜと、モルガナは零す。
「でも、お前は真っ暗で、何も見えないんじゃねぇのか?」
「ん?……いや……」
暁はモルガナの問いかけに言葉を濁した。
今の彼の目は普通の人間の目とは違っていて、見ようと思えば見える。
モルガナが彼の様子に怪訝に眉間の辺りを寄せて、首を傾げる。
そんな猫に対して、暁は軽く背を伸ばすと、猫を落とさないようにしっかりと片手で抱きかかえながら自分の膝上に乗せる。
空いている手で、猫用おもちゃの小さな黄色のアヒルを湯に浮かべつつ、
「ヤルダバオト……あいつから押し付けられたサードアイはまだ残っているから、俺だって意識して見れば夜の景色も見えるさ。でも、俺は、見えなくても構わないんだ」
「……そうなのか?」
モルガナは暁の言葉に、むぅと唸り声を上げた。
自分の主の、姿と名を騙って暁の事を利用していたその存在に、不機嫌そうに溜息を吐く。
モルガナにも言いたい事は山ほどあるだろうが、暁は苦笑と共に猫を自分の方に抱き寄せて、その背を撫でた。
「今は使う必要のないものだし、これからだって必要ない。だから、見えるとしても今は使わない……でも、もし……この力が本当に必要になったら、遠慮なく使わせてもらうさ」
「……うん」
モルガナは暁の言葉に小さく頷いて、それから、自分の横をぷかぷかと浮かび過ぎるアヒルのおもちゃに気付くと、前足を伸ばして、軽くつつきながら遊び始めた。
お互いの少しだけ憂鬱になりそうになる気持ちを振り払うように。
ちゃぷちゃぷと水音を立てて、おもちゃが揺れて、前へと進んでいく。
それを眺めながら、暁は再び首まで湯に浸かって、ゆっくりと息を吐いた。
今後は何も起きない事を祈りつつ……けれど、心の何処かでは、また一気に駆け抜けていくような、あの熱風のような日々を望んでいる自分がいる事にも気付いていた。
心穏やかにいられる平穏さと、それをぶち壊すような、高揚感に満ちた、隠された自分を思う存分に晒す事が出来る日々を再び望んでいる……そんな相反する自分がいる事に。
いつもの自分と、怪盗であった頃の自分……その両方を再び望むのは難しい事なのは分かってはいるけれど。
無邪気に遊ぶモルガナの頭を撫でながら、暁は自分の奥底にある望みに微苦笑を浮かべる。
――それから、自分の心の内で幽かに沸き立つ高揚感をゆっくりと鎮めていくと、目を閉じて、ゆるゆると暖かな湯を流すその水音に耳を傾けていたのだった。
「暁ー……わ、わ、私も入るぞ〜」
震えまくった声と共に、ばぁんと勢い良く露天風呂と屋内を隔てる戸が開いた。
その音と声に暁は仰天してはっと目を開け、湯から飛び出さんばかりの勢いでその場で身動ぎをした。
「ぶはっ」
急に暁が動いたので、彼の膝上で寛いでいたモルガナが体勢を崩して、湯の中に沈む。
ばしゃばしゃと音を立てながら、四肢を動かして湯の中でもがくモルガナを抱きしめて、暁は思わず声を上げかける。
開け放たれた戸の傍には、双葉がいた。
体にバスタオルを巻き付け、無い胸を精一杯張って、一緒に入ってやるとばかりの態度でいるが、よく見れば、足は緊張でガクブルに震えており、スマホを持った手も同じく震えている。
「…………」
また他のメンバーからミッションを受けてきたようだ。
どうせリーダーの入浴シーンを撮ってこいと催促でもされたのだろう。
急かされ、一大決心をして行動に移したは良いが、当然ながら、その後の双葉の動作は一向に上手くいっていない。
スマホで暁の写真を撮ろうとしているが、緊張であんまりにも手が震えるのでカメラがブレまくって補正さえ効かない……らしい。
暁は小さく溜息を吐いて、素早く自身の腰にタオルを巻き付け、更に猫でしっかりと大事な部分をガードしながら、緊張で震えている彼女に声を掛ける。
「双葉」
「お、おう」
「入れよ、そのままだと風邪引くよ」
「……良いの?」
「ワガハイもいるんだ、暁と二人っきりってわけじゃないし、別に良いだろ」
モルガナが、自分の鼻に入った湯をぷぴっと吹き出し、ぺろぺろと濡れた肉球を舐めながら言った。
ぷっかぷっかと黄色いアヒルちゃんが湯の中を漂っている中に、少年と猫がいるだけの光景だ。
そこに少女が一人追加された所で、お色気展開になどなりようもない。
双葉は暁とモルガナの言葉に逡巡するものの、やがて、お邪魔します、と一声掛けて、岩風呂の縁を跨がってそのまま湯の中に滑り込んだ。
「お〜あったかい。それにお湯がとろっとろっだぁ。大浴場の湯とも違うんだな」
「にゃふふ、ワガハイも満足だぜ」
「暗いから外の景色は見えないけどな……それと、お父さんが戻ってくるまでには上がってくれよ」
暁が口元を引きつらせながら言うと、分かってると双葉が言葉を返す。
とりあえず、お互いの身がくっつかない距離で暁と双葉は湯に入る。
そんな中、暁に抱えられているモルガナがからかうように二人に湯を掛けてくる。
モルガナは大変に楽しそうである。
暁は楽しげな猫の姿に苦笑を浮かべるしかなかった。
双葉が岩風呂の隅からスマホを構えて、にゃははとはしゃいだ声を上げるモルガナのどアップの顔と、苦笑した小さな暁の姿が映った写真を一枚パシャリ。
そのまま、いつものメンバーに送りつけると、
春「ごめん、モナちゃん、ちょっとそこどいてくれるかな」
杏「ごめんね、モルガナ。もうちょっとリーダーの姿を……」
真「暁の姿が見え難いわね。双葉、もう一枚お願い」
竜「男の裸見てもなぁ」
祐「ポーズをつけてくれれば、大歓迎だ」
それぞれ思い思いの反応が返ってくる。
「うーん、暁……もう一枚。あと、モナが邪魔だぁ〜」
「なにおう。ワガハイ、絶対、コイツから離れないからなぁ!」
猫が爪を立てながら、暁にしがみつく。
「あいたっ。こら、モルガナ引っ掻くな」
「ワガハイ、邪魔じゃねぇもん、コイツのおもりをしてやってるんだ」
ジタバタと四肢を動かして、モルガナは思いっきり周囲に湯を弾き飛ばしている。
飛ばされた湯に濡れた顔を拭いながら、暁はモルガナを抱き締め直して、何とか宥めすかしにかかる。
「俺はお前の事を邪魔だなんて思ってないから。大人しくしてくれ。ほら、アヒルちゃんで遊んで良いから」
「ワガハイをお子ちゃま扱いするなぁ」
ワガハイ、大人のオトコだぁ、と猫の雄叫びが外に響き渡っていた。
「あはは〜モルガナ、そのままでもう一枚撮るぞ〜」
パシャリ。
今度は暁と、彼にしがみついた猫の姿を楽しげに撮る双葉。
彼女が軽やかに笑い声を上げてその後も写真を何枚か撮って、それに怪盗団のメンバーが反応を返す……何だかんだで楽しげな笑い声を響かせながら皆の風呂での時間は過ぎていった。
惣治郎が長湯から戻ってきた時には、露天風呂ではしゃいでいた面々はそれぞれの寝床でぐったりとしていた。
全員、長湯をしすぎて湯当たりしたらしい。
双葉はベッドの上で顔から突っ伏した状態で寝ており、暁とモルガナは同じ布団の上に並んで仰向けになっている。
一応、暁も双葉も何とか浴衣を着ていて、モルガナも猫毛は乾かしていたのだが、それ以上は出来ずに力尽きて横になっている。
「ううっ、のぼせた」
モルガナの呻き声が、惣治郎に届くが、生憎とか細い鳴き声としてしか届いていなかった。
そんな面々の姿を眺めながら、惣治郎は一つ息を吐く。
子供らの様子に状況を察した父親は、怒るわけでもなく、黙って人数分の冷水を備え付けの魔法瓶から湯呑みに移していく。
まずは双葉の所に行ってから、彼女を起こして冷たい水を飲ませていた。
それから、一人と一匹も身を起こさせると水を飲ませる。
「……ったく、お前らはしゃぎすぎだ。ほら、少し水でも飲め」
「……ありがとうございます」
暁は湯呑みを受け取り、冷やされた水を口に含ませた。
冷たい水のお陰で、湯当たりでぼーっとしていた意識がはっきりと晴れ渡っていく。
モルガナもその場でくりんと体の向きを変えうつ伏せになると、首を伸ばして湯呑みから水を飲もうとするが、湯呑みの口が小さい為か上手く飲めないでいた。
それを見て、暁はモルガナの分として注がれた湯呑みを手にその場で軽く傾けて、飲ませやすくする。
「ううっ、すまねぇ」
モルガナは両の前足で湯呑みを固定しながら、ペロペロと舐め始めた。
「……はぁ……ったく、お前ら、落ち着いたら早く寝ろよ」
惣治郎はぶっきらぼうな口調で言いながらも、労るような眼差しを暁達に向けて、ゆっくりとモルガナの頭を撫でている。
暁が、すみません、と口にした後に頭を下げると、惣治郎は困ったように頭を掻いて、早く寝ろよ、ともう一度言って、再び双葉の様子を見る為に、そちらへと行ってしまった。
その姿を、申し訳無さを抱きつつも見送ると、暁は傍のモルガナを見遣る。
落ち着いたのか、毛繕いしながら、猫が視線を合わせて声を掛けてくる。
「……ま、ワガハイが言うのも何だけど、今日はもう寝ようぜ。明日も早いんだろ?」
「そうだな。明日は朝食が7時からだから……その前には起きないとな」
暁は言いながら、スマホでアラームの設定をすると、部屋を消灯して布団に潜り込む。
風呂から上がってそれ程の時間も経っていないので、火照った体には冷たい布団は逆に心地良かった。寝やすい位置を確認していると、モルガナがその場に座ったまま、自分は何処で寝ようかと考え込んでいる様子だったので、暁は自分の肩口を軽く叩く。
「ここで寝たら良いじゃないか……たまには良いだろ?」
「……うん」
少し気恥ずかしそうに笑い声を立てて、モルガナが布団に潜り込んでくる。
「にゃふ」
くすぐったそうな猫の声に、暁は楽しげに猫の頭に頬ずりした。
「わ。こら、やめれ」
ワガハイにじゃれるなと、ぺちぺちと肉球パンチを彼に食らわせるも、暁は笑って返すばかりで、傍にいる小さな存在が愛おしくてたまらないのだと、頬を緩ませた。
ゆっくり猫を軽く抱きしめるようにして、仄かな温もりを感じると、暗くなった天井を見つめながら呟きを漏らす。
「あっという間の一日だったな」
気付けば楽しい時間はあっという間に過ぎていく。
それが少し残念でならないけれど……
「モルガナ」
「……ん」
猫は少年に声を掛けられて、暗がりの中で片目を開けて、僅かに顔を上げる。
「楽しかったか?美味しいもの食べれて、満足か?」
優しげな声音と、その声音と同じくらい優しく背を撫でてくれる暁の指先の感触に、猫は気恥ずかしそうに顔を背けた。
こうやって旅行を計画して、実行してくれて、それを笑って見送ってくれる面々がいて……
ここの人達は皆、ワガハイの事を大事にしてくれる。
先程の惣治郎も、双葉も暁も。
勿論、怪盗団の面々も。
からかわれる事だって沢山あるけれど、皆が自分の事を大事に思ってくれているのは、今、こうやってここにモルガナが存在している事自体がその証明であると言える。
それが嬉しくて、本当に本当に、皆の存在が愛おしく感じて、胸が熱くなってくる。
まあ、猫扱いをされるのはシャクだけどな、とモルガナは思いながら、うん、と暁に言葉を返した。
「楽しかったぜ。ワガハイ満足だ。また行けたら良いな」
「そうだな」
「ほら、早く寝ようぜ。あんまり夜更かししてると、朝起きれなくなるだろ?」
気恥ずかしさに、モルガナは暁の腕の中に顔を押し付けながら、早口でそう言った。
暁は幽かに微笑みを浮かべて、暫し猫の様子を窺っていたが、そうだな、と静かに目を閉じる。
「お休み、モルガナ」
「お休み」
一人と一匹は互いに言葉を交わして、それからゆっくりと眠りに落ちていった。
すぅーすぅー、と幽かに、規則正しい寝息が微睡む暁の耳元を掠めていく最中、パタン、と小さく何かの音が聞こえて、彼はふと目をさました。
部屋は暗く、閉じられたカーテンから朝の日の光を差し込ませるのは、当分先の事だろう。
時折、思い出したかのように、館内の何処かで水の音や、パタパタと人の足音が聞こえてくる。
宿泊客がトイレの水を流す音や、床を歩く音だろう。
そんな、人々が出す音を捉えながら、今は何時だろうか、と暁は朦朧とした意識の中で充電中のスマホに手を伸ばしかける。
――と――僅かな衣擦れの音が聞こえて、もそもそと何かが布団の中に入り込んできた。
「…………っ」
暁の背に、柔らかな感触が触れて、一気にその意識が覚醒する。
誰だ、と誰何の声を上げるまでもなく、誰なのかは大方の予想はつく。
だが、何故、わざわざ布団に入り込んでくるのかと、暁は眠っているモルガナを抱いたまま、首を巡らせようとしていると、
「……悪いな。そうじろう、イビキが酷くって」
困ったような声が、暁の背中越しに囁かれた。
「双葉……」
暁は傍にいる彼女の名を口にした後に、そのまま顔を戻して、枕の端へとゆっくりとその身を移動させる。
あまり音を立てたり、身動ぎをし過ぎれば、モルガナを起こしてしまうだろう。
そう思いながらも、傍にいる双葉の存在を意識して、いびきがうるさくて眠れないのだという彼女の為のスペースを空けていると、
「……お父さん、やっぱり疲れちゃってたみたいだ」
背後で囁かれた双葉の言葉に、暁は小さく頷いた。
確かに、今日は朝からの移動続きで、そんな中でほとんど休まずにいたのは惣治郎だけだ。
暁や双葉は、疲れてどうしても休みたければ、それぞれ車内で眠る事も出来たわけだし……まあ、猫は眠くなれば、勝手に誰かの膝上で丸くなって寝ていた。
いびきくらいは仕方のない事だろう。
家族の為をと思って一日頑張ってくれた惣治郎の行動に感謝の気持ちを抱きながら、今は眠りに就いている、東京での父親の事を、暁は想った。
「それでこっちに?」
「そう……あ、こっち向かなくて良いぞ。向かれると、その……」
恥ずかしくなるから、と何やらその先の言葉を濁してくる双葉に、つい笑ってしまいながら、寒くないか、と問いかける。
「うん。だいじょーぶ」
双葉は言って、それから、少し迷うようにして、暁の背に額を押し付けた。
「あったかい」
「……うん」
双葉の、滑らかで真っ直ぐな髪が、幽かに自分のうなじに触れるのを意識して、くすぐったい気持ちになりながらも、暁は猫を抱いていない手をするすると布団の中で伸ばして、そっと彼女の手を取る。
少しひんやりとした彼女の指先を包むように握って、それから、軽く手の甲に触れる。
「明日で旅行も終わりだ。また皆で行こう」
家族で、皆で……と、暁は呟くと、一度彼女の手を離して、体勢を変えた。
双葉と向かい合うようにして、横になったままモルガナを抱き直す。
部屋は暗いし、布団の中なので、お互いにはっきりと顔が見えるわけではないが、幽かに双葉が驚くように身動ぎしたのが気配で伝わってきた。
ほんの少しだけ身を寄せて、暁はもう一度目を閉じる。
傍でモルガナが心地良さそうに寝言を漏らしている。
双葉が、そっと手を伸ばして、モルガナの背に触れてくるのが、暗がりの中で暁には分かった。
「今日は本当に楽しかった……もし、お母さんと行っても……こんな風に、楽しいって感じられたのかな」
「……ああ」
囁く双葉に暁は頷き、猫の背を撫でる彼女の手の甲に触れて、見えぬと分かっていても、彼女に静かに笑いかけた。
「きっと、そう感じたよ」
「うん」
この世にはもういない人の事を、優しく想う双葉の小さな声に、寄り添うように暁はそっと身を寄せ、それから、小さく、もう寝よう、と呟いた。
双葉は、応えるように、お休み、と囁き、程なくして、双葉からも安らかな寝息が聞こえてくる。
そんな穏やかに感じられる時間の中で、猫と少女の吐息を耳にしながら、少年もまた、再び眠りに就いた。
次に暁が目を覚ますと、何故だか体のあちこちが痛くて仕方がなかった。
どういうわけだと、怪訝な顔をして暁は布団の上で身を起こし、自分の身体を見回す。
何故か浴衣の前が肌け、ずりっとだらしなく肩まで浴衣がずり落ちている。
よく見ると肩やら腕やら足にくっきりと歯形が付いていた。
「…………」
彼の傍には、だらしなく腹を見せて、何やら至福の表情でむにゃむにゃと蟹だ肉だ、もう食べられにゃいぜ、との寝言を口にする猫が一匹。
その隣には小さく寝息を立てながら双葉が丸くなって眠っている。
「…………」
暁は無言で自分の腕についた歯形を双葉とモルガナのそれぞれの口元に近付けた。
黒猫と一致。
………どうやら彼の腕は、蟹か肉の夢を見た猫の餌食になったらしい。
それを見て暁は溜息を吐くと、ぼりぼりと胸を掻きながら小さく欠伸を漏らす。
まだ室内は暗く、スマホで時間を確認するも6時前だ。
スマホのアラームは6時45分で設定しているが、このまま起き出すにはまだ早すぎる。
暁はもう一度、その場で欠伸を漏らした。
このまま寝直すか、やっぱり起きるか。
「…………」
暁は無言で視線を落とした。
モルガナは未だに心地好い夢を見ている最中なのか、口元がむにゅむにゅと動いている。
ここにいると、何となく、また猫の餌食になりそうな気がした。
モルガナの歯形の跡がこれ以上増えるのはさすがに勘弁だと思いつつ、暁はゆっくりと布団から抜け出して、眠っている一人と一匹に布団を掛け直した。
どうせなら、このまま朝風呂にでも入りに行くかと思い立ち、乱れていた浴衣をしっかりと着直しつつ、スマホのアラーム設定を解除すると、乾かしていたタオルを首に掛けて欠伸混じりに部屋を出たのだった。
館の最上階にある展望露天風呂。
その露天風呂に入りながら、そこから見渡せる海の、遥か地平線上から日の出を拝む事が出来る為か、正月の時期などは大変に人気で宿を取るのは難しいらしい。
――そんな人気の展望露天風呂も、日の出まではまだ少し時間があるせいか、暁以外の客は誰も入ってはいない。
朝5時から入浴可能との事だったので、暁は早速、まだ入った事の無かったこの展望露天風呂の湯に浸かる事にした。
館の屋上部分は男女の仕切りをされながらも、それぞれが広々としたスペースを取ってあって、その中心に大きな檜の風呂がある。
足元の部分は何ヶ所かでライトが照らされて、屋上からの落下防止用の為の柵もちゃんと設けられている。
周辺は暗く、かけ流しの湯が流れていく音だけが響いていて、暁は朝方の寒さに小さく身を震わせながら、湯の中に滑り込む。
昨日からひたすら風呂三昧だなと、暁は内心で苦笑しつつ、湯の暖かさと、朝の澄んだ外気の冷たさに心地良さを感じながら、彼は湯に浸かり、空を仰いで、まだ暗く、星が散りばめられた空を見つめていた。
今日で旅行も終わりだ。
今日一日を皆と過ごして、そして、また日常に戻っていく。
それから、いずれ自分はまた家族の……本当の家族の元へと戻っていく。
皆と離れる、その事がやっぱり寂しいなと暁は内心で独白する。
離れても、きっと心は繋がっている。
電話すれば、皆と話だって出来る。
顔だって、直接でなくとも、見る事は出来る。
それでも、遠く距離が離れて、いつでもは会いに行けなくなると思うと、寂しくてたまらない。
一年前までは、こんな事考えもしなかった。
大切な人々と出会ったこの一年が、何と愛しい事かと暁は思い、こみ上げてきた言い知れぬ寂しさに、知らず涙が溢れ、それに微苦笑を浮かべて湯で洗い流す。
「…………」
ゆっくりと息を震わせて、自分の気持ちを静かに鎮めていると、屋上部と館内を繋ぐ扉から人が入ってきた。
暁と同様に他の宿泊客が朝風呂に入りに来たようだが……
「……ん?何だ、暁じゃないか。お前も朝風呂か」
よく見たら、やって来たのは惣治郎で、彼も暁の姿に気付いたのか、軽く体に湯を掛けるのもそこそこに、湯に浸かる。
「おはようございます」
「おはよう」
惣治郎は暁の言葉に、低く柔らかな声音で返し、二人並んで湯に浸かり――ややあって、惣治郎が口を開いた。
「……そういえば、双葉がお前の布団の中で丸くなっていたようだな」
養父は暗がりの中で暁に言葉を掛け、その言葉に彼は狼狽えた。
別に二人の間に何があったわけでもなく、単に惣治郎のイビキのせいなわけだが、それを指摘してもなと思う。
娘にイビキがうるさくて寝られない、などと言われてしまったら、世のお父さま方はちょっぴり寂しく思いやしないか、そう思いつつ、暁がどう言おうかと困り果てていると、惣治郎から溜息混じりの言葉が漏れてきた。
「ああ……どうせ俺のいびきがうるさいとか、そんな理由だろ。日頃は別にそうでもないんだがな……それより、お前ら変な事はしてないだろうな?」
「してませんしてません」
慌てて否定する暁に、惣治郎はもう一度苦笑を漏らして、僅かに白み始めた空を仰ぐように顔を上げた。
「ま、猫もいるだろうし、それはないか」
そう言った後に小さく笑い声が低く聞こえてきた。
それから、暫し沈黙が降りる。
湯が流れていく水音が二人の間に響き、それと共に流れる沈黙を破るように惣治郎は口を開く。
「旅行、楽しかったか?」
耳心地の良い低い声で、暁に問いかける。
「はい。モルガナも双葉も、二人とも喜んでましたよ。勿論、俺も」
楽しかったです、と声を掛けると、惣治郎は、僅かに口元を緩めて、微笑を浮かべた。
「……そうか。正直に言うとな、俺は家族旅行なんてものは、餓鬼の頃に親に連れられた時以来でな」
一家の家長として家族を……たとえ血は繋がらぬとも、家族を連れて旅行に来たのは初めてだったのだと惣治郎は呟く。
「それで……旅行はどうでしたか?」
「ん?ああ、そうだな。また行きたいと思ったよ。暁、お前も連れて、双葉と猫も連れて、な」
一日に起こった出来事を振り返り、その思い出を大切に慈しむように、惣治郎はそう言った。
「俺も一緒で良いんですか?俺は貴方の子供じゃない。双葉のように、貴方と自分の親と繋がりがあるわけでもない」
「……何度も言っただろう。俺にとっては、お前は息子みたいなもんだ。血が繋がってようが、そうでなかろうが。お前は俺にとっての大切な家族の一人だよ。家族なんてものは血の繋がりだけで成り立つものじゃない。俺がお前の存在を自分の中に受け入れた時から、お前は俺にとっての家族の一人なんだ。それは、他の奴らにとっても同じだろう。お前の友達にとってもそうだろ。お前の存在は唯一無二の、かけがえのないもののはずだ」
惣治郎は言いながら暁の頭に手を乗せて、くしゃりと彼の黒髪を掻き回し、言葉を続ける。
「だから、だ。次もお前が必要なんだ……それに、大体、双葉が俺と二人きりで家族旅行に行くと思うか?さすがに年頃の娘が父親とだけで行こうとは思わんだろう」
お前がいなくちゃ無理だろうなぁと惣治郎は明るい口調でぼやいている。
「……お前の代わりは何処にもいない。戻って来たくなったら、また俺達の所に戻って来い。俺だって、お前には色々と教えたい事はあるんだからな……その……店の事とか、な」
惣治郎は気恥ずかしげに言った後に、視線を逸した。
何だかんだで、自分の事を気に入ってくれている惣治郎のその言葉が、何よりも有り難かった。
暁は同意するように笑って頷き、それから、少しずつ明るくなってきた空と、遠方の地平線から僅かに光が漏れるのを、目を細めて見遣った。
闇を祓い、遥かな海上の地平線から光が幾筋も伸びてくる。
朝日が昇り、空を金色に染めて、漂う雲が燃えるように紅く彩られる。
孤独に感じていた闇が光に染まって消え去ると、また新たな一日を呼び覚ましていく。
今日もまた新しい一日が始まる、と暁は日の出の強い光を視界に留めながら独白した。
一日が始まる。
日々は変わらず過ぎていく。
その事で、大切な人達との別れが近付く。
それは変えようがないけれど、それでも、日が巡る事で、再び大切な人らと巡り合うチャンスも訪れる。
惣治郎と双葉とモルガナと……そして、他の仲間達とも、笑って出会う事が出来るように。
暁は、惣治郎と共に、新たな気持ちを抱きながら、その眩いばかりの光を見つめていた。
佐倉さん家の家族旅行も、やがて終わりを告げる。
暁達は帰る準備を終えて、チェックアウトをする為に荷物片手に館の一階ラウンジまで降りてきたのだが……
「…………」
ずしり、と明らかに重みを増した鞄。
その中に入り込んでいるモルガナの存在を意識しつつ、帰宅したら絶対にダイエットを始めなくては、と暁は思っていた。
「モルガナ……お前、昨日だけでかなり体重増えてないか?」
「うぐっ!?そ、そんなわけねぇだろ!ワガハイ、スリムな体型だぜ」
明らかに狼狽えた声に、暁は溜息一つ。
どうやらモルガナ自身も体重増加は自覚しているらしい。
「帰ったらジョギングだな。俺も付き合うから」
猫の頭に軽く手を置きながら暁が言うと、相方からの貴重な申し出にさすがに嫌だと突っぱねる事は出来ないのか、モルガナの口からはうぐぐと呻き声が漏れている。
そんなモルガナの姿を横目に、惣治郎が無事にチェックアウトを済ませて、荷物を車に運び始めていた。
暁と双葉も同じく鞄やここで買った土産物などを車に詰め込む。
猫は車内の助手席に待機させられて、三人が出発の準備を進めていくのを眺めていた。
それ程の間を置かずに、いつでも車を出せる状態にすると、各自、行きと同じ席に乗り込み、暁は今日は何処を見て回ろうかと惣治郎の付箋付きガイドブックを開き始めた。
まあ、大体、行く場所は決まってはいるのだが……今日は山の方までいって、そこでちょっと高原の景色を楽しみながら、何処ぞの有名ホテルで修行したというシェフのイタリアンなランチが食べられる、という所まで行ってみる事になっていた。
「今日は夕方くらいまでには帰り着けると良いなー」
「そうだな。出来れば今日か明日にでも、皆にお土産も渡しに行きたいしな」
後部座席に陣取っている双葉に暁は言葉を返す。
「お?じゃあ、久しぶりに皆で集まるかぁ?ルブランでお土産渡し会だ」
「おいおい、集まるのは良いが、俺の店であんまり騒ぐなよ?他の客だっているんだからな」
惣治郎が車を運転しながら、苦笑いを浮かべている。
既に目的地に向かって車を進め始めた惣治郎は、早速朝の通勤ラッシュに捕まって、少し渋滞し始めた道路を眺めている。
「何なら、1日貸し切りにしたらいいだろ?私、張り紙作るから」
双葉がにやりと笑いながら、早速作業を始めようと、自分のノート型パソコンを旅行鞄から引っ張り出して、キーボードに指を滑らせ始めた。
移動中に始めたら車酔いにならないかと暁は思ったが、彼女は作業に熱中しているのか、揺れる車内でも器用にカタカタとキーボードを叩いている。
惣治郎は、仕方ねぇなとハンドルを握ったまま、溜息を吐いた。
臨時休業三日目に突入する事になっても、まあ、たまには良いかと呟いている。
「その代わり、店を汚したり、騒ぎまくったりするなよ」
「はい」
苦笑混じりに暁は頷き――ふと、先程からモルガナが随分と静かになっているのに気付いて、その場で視線を落とした。
暁の膝上には猫が座っている。
ちょこんと座ったまま、俯いて微動だにすらしない。
その事に怪訝に思いつつも、どうした?と暁は声を掛けた。
「どうした?モルガナ。何処か他に行きたい所があるのか?それとも、杏に二人きりでお土産渡したかった、とか?」
からかうような口調で暁はモルガナの顔を覗き込む。
「……ちが……」
ぼそぼそと呻くような声が猫の口から漏れてくる。
「……ん?」
「………行きたい」
「んん?どうしたー?モルガナ」
「トイレ……行きたい、です」
ぼそり、と呟かれた言葉に、一同沈黙した。
「朝……出しただろう?」
「昨日の二の舞いは嫌だって言ってたのに、もしかして出なかったのかぁ?」
「また出そうなの!仕方ないだろ、ワガハイだって、こうなるとは思ってないわっ!」
半ばヤケな口調でモルガナが顔を上げて言い放った――その途端、
「……あ、も……ダメ」
「わーッ!ちょっと待て、直ぐ猫トイレ用意するから、モルガナ、我慢して」
「頼むから、俺の膝上には漏らさないでくれ!」
「出……る――!」
「わーッ!?」
「……何だぁ?」
慌てふためく子供らと暢気に声を上げる惣治郎の声が車内に響き渡る中――
振り出しに戻る、な感じで初日と同じ状況に陥りながら、相変わらず、佐倉さん家は、楽しそうな一日を今日も迎える事になったのだった。
おしまい。