日本統治時代の台湾医師・韓石泉が記録した台南大空襲の悲劇

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大洞 敦史 【Profile】

第二次世界大戦末期、台湾各地は米軍による熾烈な空襲を受けた。現在も弾痕のある建物、トーチカ、防空壕等が方々で見られる。台南市では1945年3月1日に大規模な無差別爆撃があり、韓内科医院を営んでいた韓石泉氏は愛娘を失い、建物と全財産も失い、家族達は燃える町を後に夜通し歩いて疎開した。戦後同じ場所に再建された医院で、韓良誠院長から空襲の記憶を聞かせてもらった。かつて日本の植民地であったがために筆舌に尽くし難い辛酸をなめてきた台湾の人々が、なおも日本と日本人に注いでくれる優しいまなざしに、どのように応えていけばよいのだろう。

台湾人の途方もない優しさにどう応えるか

東京生まれで現在30代の筆者にとって、第二次世界大戦はずっと「遠い昔の物語」だった。映画や漫画の中で描かれる戦争と今生きている世界との間にはとてつもなく広い溝があった。その溝はしかし、台南に移住してからの9年間を通して少しずつ狭まってきた。75年も前の爪痕が、この町と住民の心には今なお深く刻まれている。

年配の台湾人から過去の壮絶な体験を聞く度に、自分が今まで日台関係について都合の良い面にばかり目を向けてきたことを反省させられる。日本がかつて台湾において行った事の中には医療の普及、公衆衛生の改善、治水工事など肯定的に評価されるべき面も確かに多々あったろう。しかしながら焼け野原になった町の写真や、幾人もの生き証人たちが語ってくれた地獄絵図を前にして、何をもってしても、償うことはできないと感じる。

そして筆者には一つの疑問が湧く。日本の植民地化と戦争のしわ寄せを食った台湾の人々とその子孫たちは、どうして、こんなにも自分に対して、日本人に対して、優しいのか、と。

台湾の人たちの日本と日本人に対する親愛の情。それは台湾を訪れた日本人の大多数が感じている。東日本大震災に際して200億円を超える義援金を送ってくれた。台湾で生きる日本人として、どんな心構えで彼らの途方もない優しさに顔向けできるだろうか。

筆者がいま考えつくのは、第一に過去の戦争について知る意欲を持ち続けることと、第二にどの国にも再び戦争を起こさせない意志を持ち続けることぐらいだ。

心の中に椰子を植えよう。過去に根を張り、未来へ伸びてゆく椰子を。

韓内児科診所の椰子の木
韓内児科診所の椰子の木

バナー写真:韓石泉氏と荘綉鸞氏の結婚式。台南公会堂(韓良誠氏提供)

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台湾 台南 日本統治時代

大洞 敦史DAIDO Atsushi経歴・執筆一覧を見る

1984年東京生まれ、明治大学理工学研究科修士課程修了。2012年台湾台南市へ移住、2015〜20年そば店「洞蕎麦」を経営。著書『台湾環島南風のスケッチ』(書肆侃侃房)、『遊步台南』(皇冠文化)、翻訳小説『君の心に刻んだ名前』(原題:刻在你心底的名字、幻冬舎)。

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