日本統治時代の台湾医師・韓石泉が記録した台南大空襲の悲劇

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大洞 敦史 【Profile】

第二次世界大戦末期、台湾各地は米軍による熾烈な空襲を受けた。現在も弾痕のある建物、トーチカ、防空壕等が方々で見られる。台南市では1945年3月1日に大規模な無差別爆撃があり、韓内科医院を営んでいた韓石泉氏は愛娘を失い、建物と全財産も失い、家族達は燃える町を後に夜通し歩いて疎開した。戦後同じ場所に再建された医院で、韓良誠院長から空襲の記憶を聞かせてもらった。かつて日本の植民地であったがために筆舌に尽くし難い辛酸をなめてきた台湾の人々が、なおも日本と日本人に注いでくれる優しいまなざしに、どのように応えていけばよいのだろう。

爆弾の落下点に植えられた椰子

2020年6月、筆者が韓内児科診所を訪ねると、韓良誠院長はいつもの柔和な笑顔で迎えてくださった。吹き抜きの中庭にある背の高い椰子の木の前で、院長は流暢な日本語で「ここに爆弾が落ちたんです。その事を忘れないよう、後日この木を植えました」と言った。筆者は過去何度もここを訪れているが、この木にそんな謂われがあったとは初耳だった。

「防空壕はどこにあったのですか」と尋ねると、院長は椰子の木から20メートルほど奥の、小さな白馬の彫刻が置いてある小さな築山に案内してくれた。

「あの時は本当に不思議でした。神様の計らいというべきか、普段は腰の重い母にこの日だけは防空壕に入ってもらって、扉を閉めたら、まさにその瞬間に爆弾が落ちたんです。半時間か一時間経って外に出たとき、皆の顔は砂だらけで、鼻の下には煙を吸ったために黒い筋ができていました。」

姉・淑英氏の遺体が発見された場所も教えてもらった。医院の一番奥にある、種々の草花が植えられた広い庭園の一角で、その場所の脇には池があり、鴛鴦(えんおう)という美しい鳥の一対の雄と雌が飛んでいた。この日院長はたくさんの話を聞かせてくださったが、中でも最も真剣な面持ちで、瞳を潤わせて口にされたのは次の言葉だ。

「この空襲でぼくが一番不可解なのは、どうしてアメリカはこんなに残酷なのかという事です。軍事施設を潰すのはアクセプトできる。でも全然手に何も持たない…中国語でいう《手無寸鐵》の住宅地にどうして爆弾を落とすのか。さらに焼夷弾まで。どう考えてもやりすぎです。」

空襲で全焼した韓内科医院(『韓石泉回想録』刊行記念講演会パンフレット、筆者提供)
空襲で全焼した韓内科医院(『韓石泉回想録』刊行記念講演会パンフレット、筆者提供)

現在の韓内児科診所(筆者撮影)
現在の韓内児科診所(筆者撮影)

韓良誠院長。父の恩師・堀内次雄校長の銅像前で(筆者撮影)
韓良誠院長。父の恩師・堀内次雄校長の銅像前で(筆者撮影)

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大洞 敦史DAIDO Atsushi経歴・執筆一覧を見る

1984年東京生まれ、明治大学理工学研究科修士課程修了。2012年台湾台南市へ移住、2015〜20年そば店「洞蕎麦」を経営。著書『台湾環島南風のスケッチ』(書肆侃侃房)、『遊步台南』(皇冠文化)、翻訳小説『君の心に刻んだ名前』(原題:刻在你心底的名字、幻冬舎)。

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