日本統治時代の台湾医師・韓石泉が記録した台南大空襲の悲劇

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大洞 敦史 【Profile】

第二次世界大戦末期、台湾各地は米軍による熾烈な空襲を受けた。現在も弾痕のある建物、トーチカ、防空壕等が方々で見られる。台南市では1945年3月1日に大規模な無差別爆撃があり、韓内科医院を営んでいた韓石泉氏は愛娘を失い、建物と全財産も失い、家族達は燃える町を後に夜通し歩いて疎開した。戦後同じ場所に再建された医院で、韓良誠院長から空襲の記憶を聞かせてもらった。かつて日本の植民地であったがために筆舌に尽くし難い辛酸をなめてきた台湾の人々が、なおも日本と日本人に注いでくれる優しいまなざしに、どのように応えていけばよいのだろう。

1945年3月1日の大規模無差別爆撃

韓内児科診所は民権路二段299号に位置するクラシックな西洋建築だ。白亜のファサードの下部はガジュマルの緑葉でこんもりと覆われ、枝葉を刈り込んで造られた、大きく丸みを帯びた緑のハートマークが来訪者に安らぎを与えてくれる。

だが韓家とこの建物には、忘れ得ぬ傷ましい記憶が染みついている。

1945年3月1日。張維斌著『空襲福爾摩沙』(前衛出版)によると、この日アメリカ第5航空軍指揮下の大型爆撃機「B-24 リベレーター」25機が500ポンドの爆弾により台南市街地を爆撃。その後16機の同爆撃機が500ポンドの焼夷弾を投下し、台南市街1073棟の家屋が全焼または全壊の憂き目に遭った。

韓石泉氏の記述によれば1944年10月の台湾沖航空戦以降、台湾の制空権は米軍に握られ空襲は日常茶飯事となっていたが、台南はこの前日まで大規模な無差別爆撃を経験しておらず、市民の多数が疎開せず市内にとどまっていたため、犠牲者の数も多かった。

この日は二度の空襲警報があり、二度目の警報を受けて韓石泉氏が動員先の和春医院に出かけた後、爆弾が韓家の自宅兼医院を直撃した。家族や職員はその直前に防空壕に入っていて無事だったが、女子救護隊の一員として活動に向かった長女・淑英氏の安否は知れなかった。三、四時間後、韓医院は焼夷弾による火の手に呑み込まれ、灰燼に帰した。

家族たちはその日の夕暮れ、着の身着のままで郊外の本淵寮へ疎開して行った。燃える市街を背に夜通し歩き続けた。韓石泉氏だけは台南市に残り、暗闇と戦火のなか娘を探し続けたが、無情にも翌朝、医院のすぐ側で横たわった彼女を発見した。下半身は瓦礫に覆われ、上半身は真っ黒に焦げていた。18歳の若さだった。

下の絵は台湾の釘絵師・胡達華氏の作品である。胡氏は韓良信夫人の韓李慧嫻氏から疎開時の体験を聞き、その情景を絵にして夫人に贈った。当時少女だった慧嫻氏も3月1日の夜、韓家とは別に、夜明けまで歩いて郊外の大内庄へ疎開した。宝石と交換した牛車に纏足の祖母を載せて。「途中木の下で休み、振り向くと、真っ暗な空の彼方に、真っ赤に焼け続ける台南の町が見え、悲しくてたまりませんでした。戦後に映画『風と共に去りぬ』の一場面を観て、全く同じ光景だと感じました」と慧嫻氏は述懐する。

胡達華氏による釘絵作品『烽火吞城』(韓李慧嫻氏提供)
胡達華氏による釘絵作品『烽火吞城』(韓李慧嫻氏提供)

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大洞 敦史DAIDO Atsushi経歴・執筆一覧を見る

1984年東京生まれ、明治大学理工学研究科修士課程修了。2012年台湾台南市へ移住、2015〜20年そば店「洞蕎麦」を経営。著書『台湾環島南風のスケッチ』(書肆侃侃房)、『遊步台南』(皇冠文化)、翻訳小説『君の心に刻んだ名前』(原題:刻在你心底的名字、幻冬舎)。

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