日本統治時代の台湾医師・韓石泉が記録した台南大空襲の悲劇

社会 文化 国際 歴史

大洞 敦史 【Profile】

第二次世界大戦末期、台湾各地は米軍による熾烈な空襲を受けた。現在も弾痕のある建物、トーチカ、防空壕等が方々で見られる。台南市では1945年3月1日に大規模な無差別爆撃があり、韓内科医院を営んでいた韓石泉氏は愛娘を失い、建物と全財産も失い、家族達は燃える町を後に夜通し歩いて疎開した。戦後同じ場所に再建された医院で、韓良誠院長から空襲の記憶を聞かせてもらった。かつて日本の植民地であったがために筆舌に尽くし難い辛酸をなめてきた台湾の人々が、なおも日本と日本人に注いでくれる優しいまなざしに、どのように応えていけばよいのだろう。

台南の名医・韓石泉氏と子供たち

3年ほど前、品のよい二人の紳士と一人のご婦人が筆者を訪ねて来られ、二冊の本を手にしてこう言われた。

「これは私たちの父が書いた自伝です。昔の台南の出来事が、戦争も含めて詳しく記されています。日本語版はあなたに差し上げ、中国語の方は奥様に差し上げたいと思います。」

その晩、早速いただいた本を熱心に読んだ。日本語版の書名は『韓石泉回想録 医師のみた台湾近現代史』(韓良俊編注、杉本公子・洪郁如編訳、あるむ出版)で、原書名は『六十回憶』(望春風出版)という。

韓石泉氏(1897-1963)は日本統治期から戦後にかけて活躍した医師であり政治家である。少年期には清朝的知識人だった父親が営む私塾で漢文を学び、のち台湾総督府医学校で台湾医学界の父と呼ばれる堀内次雄校長の薫陶を受ける。1920年代には講演や芝居といった非暴力による抗日民族運動に参画し、逮捕・勾留も経験した(判決は無罪)。また当時は珍しかった自由恋愛を経て荘綉鸞氏と結婚し、台南公会堂にて燕尾服に純白のドレスという出で立ちで西洋風の結婚式を執り行った。1928年、台南市内に韓内科医院(現・韓内児科診所)を開業。1930年にはまだ1歳だった長男を肺炎で失い、生と死について思考を重ねた末にキリスト教を信仰する。このように清朝式教育、日本人の薫陶、そしてキリスト教の教義に触れてきた韓石泉氏は、当時の台湾社会で最も開かれた思想を身につけた一人で、信念を堅持する気概と奉仕の精神を胸に宿していた。

夫妻は七男四女を生んだ。あの日筆者を訪ねて来られたのは三男・良誠氏夫妻と四男・良俊氏だった。良誠氏は1934年生まれ。韓内児科診所の院長として86歳となる現在も日々患者の診察にあたっており、また台湾YMCA(キリスト教青年会)の理事長、私立光華高校の会長を兼任し、そのうえ高齢者に特化した「老人病院」設立プロジェクトの発起人として奔走されている精力的な方だ。

良俊氏は台湾大学医学院名誉教授であり、日本大学と東京医科歯科大学(口腔外科学教室)に留学後、長年口腔癌予防や檳榔の健康被害を訴える運動の旗手として活躍されてきた。またハワイ在住の数学者である次男・良信氏夫妻や次女・淑馨氏も、後日たびたび洞蕎麥に足を運んでくださった。日本語版『韓石泉回想録』には、付録として韓家の兄弟姉妹による父君への追悼文が載っており、韓家の人々の強い団結心と父君から受け継いだ利他の心が読み取れる。

韓石泉氏と荘綉鸞氏の結婚式。台南公会堂(韓良誠氏提供)
韓石泉氏と荘綉鸞氏の結婚式。台南公会堂(韓良誠氏提供)

次ページ: 1945年3月1日の大規模無差別爆撃

この記事につけられたキーワード

台湾 台南 日本統治時代

大洞 敦史DAIDO Atsushi経歴・執筆一覧を見る

1984年東京生まれ、明治大学理工学研究科修士課程修了。2012年台湾台南市へ移住、2015〜20年そば店「洞蕎麦」を経営。著書『台湾環島南風のスケッチ』(書肆侃侃房)、『遊步台南』(皇冠文化)、翻訳小説『君の心に刻んだ名前』(原題:刻在你心底的名字、幻冬舎)。

関連記事

AddThis Sharing Sidebar
Share to 印刷PrintShare to お気に入りFavoritesShare to もっと見るAddThis
, Number of shares35
Hide
Show
AddThis Sharing
SHARESPrintFavoritesAddThis
AddThis Sharing
SHARESPrintAddThis