日本統治時代の台湾医師・韓石泉が記録した台南大空襲の悲劇

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大洞 敦史 【Profile】

第二次世界大戦末期、台湾各地は米軍による熾烈な空襲を受けた。現在も弾痕のある建物、トーチカ、防空壕等が方々で見られる。台南市では1945年3月1日に大規模な無差別爆撃があり、韓内科医院を営んでいた韓石泉氏は愛娘を失い、建物と全財産も失い、家族達は燃える町を後に夜通し歩いて疎開した。戦後同じ場所に再建された医院で、韓良誠院長から空襲の記憶を聞かせてもらった。かつて日本の植民地であったがために筆舌に尽くし難い辛酸をなめてきた台湾の人々が、なおも日本と日本人に注いでくれる優しいまなざしに、どのように応えていけばよいのだろう。

今なお多数の戦跡が残る台南市

第二次世界大戦末期、台湾は繰り返しアメリカ軍から熾烈な無差別爆撃を受け、民間人にも数多の犠牲者を出した。それがどれほど激しいものだったかを端的に示すのが下の写真だ。機上から撮影された1945年5月11日の嘉義駅前の風景である。台湾中部に位置する一地方都市でさえ、ここまで徹底した焼け野原にされてしまっていたのだ。

1945年5月11日の嘉義市街(甘記豪《米機襲來》前衛出版、p.170-171、甘記豪氏提供)
1945年5月11日の嘉義市街(甘記豪《米機襲來》前衛出版、p.170-171、甘記豪氏提供)

筆者が暮らす台湾の古都と呼ばれる台南には、日本統治期や清朝統治期に造られた建物が今でも多く保存され、活用されている。その中にはこうした「戦争の痕跡」を残しているものも少なくない。有名なのは国立台南大学(旧台南師範学校)の赤レンガ造りの校舎の外壁などだ。校舎脇の説明書きには、当時日本軍が大量の弾薬を内部に貯蔵していたため爆弾が命中し大爆発を起こした、とある。建築物以外にも、体育公園内に展示されているD51型蒸気機関車や、台湾最古の墓地である南山公墓内の墓石にも無数の弾痕がある。また防空壕跡も旧台南県知事官邸や台南公園など各地に点在している。

筆者は以前台南孔子廟の近くで「洞蕎麥」という日本そばの店を経営していたが、その庭の塀も驚くことに戦跡だった。狭い路地に沿った赤レンガの塀で、無数の大小の窪みがあり、大きなものはセメントで埋められている。米軍機の機銃掃射によってできたものなんだと大家さんが教えてくれた。

校舎の壁一面に残るおびただしい弾痕。国立台南大学(筆者撮影)
校舎の壁一面に残るおびただしい弾痕。国立台南大学(筆者撮影)

D51型蒸気機関車の弾痕。体育公園(筆者撮影)
D51型蒸気機関車の弾痕。体育公園(筆者撮影)

南山公墓内の咸豐海澄劉家墓。近くにはトーチカがある(筆者撮影)
南山公墓内の咸豐海澄劉家墓。近くにはトーチカがある(筆者撮影)

旧台南県知事官邸の裏手にある巨大な防空壕(筆者撮影)
旧台南県知事官邸の裏手にある巨大な防空壕(筆者撮影)

筆者がそば店を営んでいた場所の塀。府中街(筆者撮影)
筆者がそば店を営んでいた場所の塀。府中街(筆者撮影)

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大洞 敦史DAIDO Atsushi経歴・執筆一覧を見る

1984年東京生まれ、明治大学理工学研究科修士課程修了。2012年台湾台南市へ移住、2015〜20年そば店「洞蕎麦」を経営。著書『台湾環島南風のスケッチ』(書肆侃侃房)、『遊步台南』(皇冠文化)、翻訳小説『君の心に刻んだ名前』(原題:刻在你心底的名字、幻冬舎)。

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