FC2ブログ
02 -<< 2022-03 -  12345678910111213141516171819202122232425262728293031  >>04 -
 

日顕宗の「妄説:2」を破折する 連載5回

日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:2」を破折する 連載5回

妄説:2 日蓮大聖人はなぜ御本尊を顕わされたのですか。

 日蓮大聖人は、末法のすべての民衆を救済するために御本尊を顕わされました。
『観心本尊抄』に
「一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠(たま)を裹(つつ)み、末代幼稚の頸(くび)に懸(か)けさしめたまふ」(新編 662頁)
と仰せです。
 日蓮大聖人は、末法の時代に出現され、御本仏としての化導のうえから、末法適時の大法を弘められ、全世界の民衆に即身成仏の大利益を得せしめんがために、「本門戒壇の大御本尊」を顕わされました。
 日寛上人は、『文底秘沈抄』に
「本尊とは所縁の境なり」(聖典 833頁)
と示され、妙楽大師の「正境に縁すれば功徳猶(な)お多し、若し正境に非ざれば縦(たと)い偽妄(ぎもう)無けれども亦種と成らず」の文を引用して、正境すなわち正しい本尊によってのみ、一切衆生は成仏できると指南されています。
『報恩抄』に
「日蓮が慈悲曠大(こうだい)ならば南無妙法蓮華経は万年の外(ほか)未来までもながる(流布)べし、日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり。無間地獄の道をふさぎぬ」(新編 1036頁)
と仰せのように、御本仏日蓮大聖人の広大な慈悲が御本尊として顕わされ、一切衆生の成仏道が開かれたのです。

破折:
1.学会授与の〝破邪顕正の御本尊〟

 御本尊の法義を正しく伝えるべき歴代上人のうちでも、法脈を汚す者は歴代から「除歴」されねばならない。すなわち、大聖人・日興上人の法義に違背した者と、相承を詐称した者とである。「正しい本尊」とは、それに該当しない場合の御本尊である。
 学会授与の日寛上人御書写の御本尊は、正しい御本尊のうち、格別に意義の深い御本尊である。
               ◇
 この度、授与される御本尊は、広宣流布を深く願い、「大聖人直結」「御本尊根本」の正道を貫かれた日寛上人が、享保五年(一七二〇年)に書写され、淨圓寺に授与された御本尊である。
 かつて草創期においても、会員は日寛上人の御形木御本尊を拝していた。まさに世界広宣流布が大きく開かれた今この時に、創価学会が日寛上人の御本尊を会員に授与するようになったのは、不思議な縁と言うほかない。
 もとより、日蓮大聖人の仏法にあっては、一心に本尊を信じ奉り自行化他にわたって題目を唱える受持信行の人にこそ、本尊の無量の功徳が具わるのである。今後も、この信心をいやまして高め、更に世界広宣流布へ邁進しゆくことを誓い合いたい。
(秋谷会長講演 於:第七十回本部幹部会 平成五年九月七日)
               ◇
「『大聖人直結』『御本尊根本』の正道を貫かれた日寛上人」とあるのは、宗史において燦たる事跡を遺されたことを讃えたものである。遡って十二世日鎮(にっちん)の代に、要法寺系の他門僧・左京日教が〝法主本尊〟の邪義を宗内に流入せしめたが、日寛上人はこれを一切寄せ付けず、大聖人の正義のみを抽出して、法義の根幹の書たる〝六巻抄〟を著された。
 学会授与の日寛上人の御本尊は、その意味で〝破邪顕正の御本尊〟である。すなわち、〝ニセ法主〟日顕・日如らによって、かつての〝法主本尊〟の邪義が新たに糊塗されて台頭したときに、これを粉砕すべく御形木御本尊として現世に涌出された、正師御書写の御本尊である。
 ゆえに学会授与の日寛上人の御本尊は、〝ニセ法主〟の邪義を駆逐すべく現出された「正しい本尊」なのである。

2.「正しい本尊」ではないもの

「正しい歴代上人」の書写でなければ「正しい本尊」とはならない。

(1)「歴代上人のうち日興上人の法義に違背した者」

 まず、歴代上人の法脈を記した書面を収納する「相承箱」について知っておきたい。
               ◇
「相承箱」ーー。約四十五センチ(一尺五寸)四方の立方体で、黒塗りの手垢がついた木製の箱。普段は上に錦の布がかけられている。
 古来、この箱は代々の法主によって受け継がれ、日達上人の時代には、御宝蔵の中にある鍵付きの戸棚に大切に保管されていた。鍵は執事が持っており、法主の命令がなければ絶対に開けることができなかった。いわば、この箱を所持していることが、相承を受けた法主であることの何よりの「物証」だったのである。
 ところが、この大切な相承箱が、今現在、本来あるべき日顕の手元にないというのだ。
 この相承箱の行方については、日達上人が危篤に陥ってからというもの、内々ではその所在が焦点となっていた。
 病院から日達上人危篤の知らせをはじめに受けた吉田義誠(日勇)は、すぐさま大石寺理事の野村慈尊に命じて御宝蔵で相承箱を探させた。ところが、いくら探しても見つからなかったという。
(「法主詐称」憂宗護法同盟著 2003年7月16日初版)
               ◇
 この相承箱の中身について、堀日亨上人は生前、「百六箇抄、本因妙抄と、この両書に関するもの。あとは授受の代々の法主が伝える一枚の紙切れ」と明かされている。「紙切れ」とは、いかにも堀上人らしい表現だが、「誰が誰に相承した」という系譜図のようなものといわれている。(中略)
 また、この系譜図のような「紙切れ」について、堀上人は「精師は(歴代から)抜いてある」と語られている。
 つまり、江戸時代に「造仏読誦」の邪説を唱えた十七世の日精上人は歴代から削除、「除歴」されているというのだ。
 大石寺は江戸時代の十五世・日昌上人から二十三世・日啓上人までの九代、約百年間にわたって、京都・要法寺から法主となる人間をスカウトしたため、要法寺系の邪義が流れ込んだ。中でも「造仏読誦」の邪説を唱えた日精上人について、堀上人はことのほか厳しく、「殊に日精の如きは私権の利用せらるる限りの末寺に仏像を造立して富士の旧儀を破壊せる……」「日精に至りては江戸に地盤を居へて末寺を増設し教勢を拡張するに乗じて遂に造仏読誦を始め全く当時の要山流たらしめたり」(『富士宗学要集』)と、明確に批判している。
(同)
               ◇
 五十九世堀日亨法主が「精師は(歴代から)抜いてある」、十七世日精は「除歴」していると明言した以上、「正しい歴代上人」とは認められない。よって、日精書写の御本尊は「正しい本尊」となりえない。

(2)「歴代上人のうち相承を詐称した者」

 これは、相承の事実が無いのに「相承を受けた」との妄語により、管長に就任した法主のことである。前述の亨師が指摘した言葉に対し、脛に傷を持つ人間が反発して喚いている。
               ◇
 ところがこれに対して日顕は、「堀上人が、ちょっと訳の分からないようなことをおっしゃっている」「堀日亨上人は非常に大学者ではあったけど、日精上人のことについては、正しくご覧になっていないという感がある」などと、堀上人を批判し、日精上人を擁護する発言を繰り返し行ってきた。
 日精上人の「除歴」については、箱が手元にない日顕には確認しようのないことだが、それだけに日顕自身も相当気にしていたようである。
 昨年一月三十一日、自ら訴えたシアトル裁判において、一審の全面敗訴に続き、控訴審でも訴え自体を取り下げるという屈辱的な敗北を喫した日顕だが、勝ち負けはともあれ裁判が終わってホッとしたのだろう。取り下げ直後の法華講幹部との目通りの席で、安堵の吐息とともに、
「これでワシも精師のように言われなくて済む」
 と胸をなでおろしていたという。
「除歴」にビクビクしていた六十七世法主・阿部日顕。その原因は、何もシアトルだけではあるまい。さらに深いところに、「法主詐称」という嘘と陰謀で猊座を盗み取ったことに対する、抜きがたい後ろめたさがあるのだ。
 かつて日顕が周囲の人間にポロッと漏らしたことがある。
「ある理由があって、ワシは死ぬまで猊座にあり続けることになる」
 ある理由-。それは日顕が先師・日達上人から相承を受けずに登座したことにほかならない。相承もなければ、相承箱もない。つまり日顕は、「次」に相承しようにも、相承するものを何も所持していないのである。これ、嘘で登座した日顕の末路、何という哀れな姿であろうか。
(前出「法主詐称」)
               ◇
 日顕はこの記事に反発したのであろうか、上記の記事が出版された二年後の二〇〇五年(平成十七年)十二月十五日、代替わりを行ない、日如が大石寺第六十八世法主として登座した。〝相承箱の無い相承〟は、ニセ法主に相応しい。

3.〝相承箱〟と〝系譜図〟

 何しろ宗内を欺いて猊座に登った日顕にとって、相承箱の行方は自分にとっての死活問題である。というのも、正式な相承の場合は、宗内にも発表してから儀式を行い、重役なり総監なりきちんと立会人をたて、警護役も用意する。だから、万が一、相承箱がその場になくても、相承があったことは証明できる。ところが日顕の場合、日達上人からの相承は、こうした正式、公のものではなく、「内付」であったと主張している。ならば、なおさらのこと、日達上人からの相承を裏付ける相承箱の存在が不可欠なのだ。
(前出「法主詐称」)
               ◇
 相承箱が消えたということは、宗門の〝法脈が絶えた〟ことを象徴する。もし相承箱が発見されたとしても、いったいその中に「一枚の紙切れ」があるのかどうか。その「系譜図のような」紙には、先師、細井管長(日達法主)の署名の次に、日顕の名が記されていなければならない。ただし正確に言えば、その名は「日顕」ではない、日顕が元から授かっていた日号は「阿部日慈」である。
               ◇
 当時を知る関係者は、次の通り語る。
「日達上人の仮通夜が終わった後、翌日付の『聖教新聞』で発表するために、日号を聞きに、日顕の宿坊だった学寮に行った時のことです。日顕は『実は困っちゃってね。私の日号は法道院さんと同じ日慈なんですよ』と言うんです。しかし、『今晩中に分からないと、新聞発表に間に合わない』と伝えると、『よわったなあ、法道院さんは今、東京に向かっている道中で連絡が取れない』と言うのです。日顕が『ともかく、もう少し待ってください』と言うので、ひとまずその場は辞したのです」
「間もなく日付が変わろうという午前零時前になって、学寮で日顕の側にいた八木信瑩から電話が入りました。『決まりました。日号は日顕です。父親が日開なので、ご自分は日顕にしました』との話でした」
(同)
               ◇
 しかし、これもおかしな話である。自分の日号が早瀬と同じ「日慈」であることなど、とっくの昔に分かっていたはずである。もしも本当に日顕が相承を受けていたなら、相承箱には「阿部信雄」ないしは、「阿部日慈に相承する」という趣旨の書き付けがあるはずだ。早瀬と同じであっても「阿部日慈」と明記されていれば何の問題もない。日達上人から相承を受けた「阿部日慈」として堂々と登座し、早瀬の日号を変えれば済む話なのである。
 よしんば早瀬に遠慮して日号を変えるにしても、それは日達上人の生前に行っておくべきことで、それも本来は相承を受けた時点で日達上人と相談のうえで変更するのが筋であろう。いよいよ自分が登座する段になって、慌てて先師から授かった日号を捨てて、父・日開との「開顕」の語呂合わせで日顕と名乗る。こんな先師否定、先師違背の大冒涜も珍しい。まさに慢心の極みで、そこには師資相承を授かるという厳粛さも謙虚さも、微塵もない。
 この日号改変の慌ただしさは、日顕に相承がなかったことを何より雄弁に物語っている。当然、相承箱には、阿部日顕の名前は影も形もないに違いない。
(同)
               ◇
 すなわち日顕は「ニセの上人」であり、日顕書写の御本尊は「正しい本尊」となりえないのである。
「ニセの上人」日顕から相承した者は、同じく「ニセの上人」である。今後宗門では、日顕と日如の二人とも「除歴」しなければ、永久に「ニセ法主」が続いていく。
 事実上、宗門の正しい法脈は途絶したのであるから、大聖人の御遺命を実現するのは、御書を身読する創価学会しかない。
 学会が授与する「正しい本尊」は、「正しい歴代上人」であらせられる日寛上人御書写の御本尊であり、大聖人の仏法は、学会授与の御本尊に厳然と伝えられているのである。
 日顕・日如が書写した本尊は、法脈が途絶しているため、大御本尊の正意が顕われない。「ニセ法主」書写の本尊が「ニセ本尊」であることは、誰も否定できないことである。
                           (了)

コメント



 編集・削除ができます。
 管理者にだけ表示を許可する
 
 

プロフィール

墨田ツリー

Author:墨田ツリー

 
 
 

最新トラックバック

 

月別アーカイブ

 

カテゴリ

 

検索フォーム

 
 
 

ブロとも申請フォーム

 

QRコード

QR