闘 戦 経 とうせんきょう |
闘戦経 前 |
闘戦経 後 |
|
闘戦経 後 |
「闘戦経」を考える 5 「闘戦経」を世に出すようになった経緯
「闘戦経」は幸いにして先覚の士により、明治にいたってその存在が確められ、海軍兵学校の手に移るにおよんで、昭和九年に木版刷にされたものが若干篤学の士に渡り、さらにその活字化されたものの一本が偶然私(大橋)の所へ来たのである。それは私が東部軍参謀時代の参謀長高島辰彦氏の好意で、戦後「兵法的思考による経営」を研究している私のことを聞かれ、昭和三十七年十月二日に氏秘蔵の一本を下さったのである。氏を中心とするグループはかねてからこの本を研究しておられたようで、篤学の士の訳までついていた。
それから十八年後の昭和五十五年十月から、はからずも私はブレーン・ダイナミックス社の前田滋社長の後援により、帝国ホテルと丸の内ホテルで兵法経営塾を開講しているが、熱心な方々が全国から集まられ、ついに昭和五十七年には三年研修生が出ることになった。その結果、今までより高度の兵法研究を行なうことになり、その対象として、中国の「鬼谷子」と日本の「闘戦経」が浮かびあがってきた。いずれも古代の幻の兵書であり、難解である。しかし私は数年前からこの両書を研究していたので、この際これをまとめて本にして教材に使いたいと思い、「鬼谷子」は徳間書店の厚意にあまえて刊行することにし、「闘戦経」は、紙数が少なくて刊行対象にならないため、自費出版をすることに踏み切った次第である。なお大江匡房の文章は現代人にわかりやすいように書き直し、さらに解説と私の考えを付記しておいた。
古人の序文に「将来、天機秀発して、後世、しかるべき人に知られるのを待つのみ」とあるが、この八百余年も前の人の悲願が今達成の機を得ることになるかと思えばまことに感慨無量であり、また筆をとる者としてまことに冥利につきる思いがする。
なお、私は暗号解読も同様の苦心をして勉強したが、まだまだ不十分なところが多く、結局、私の仕事は「こんな本がある」ということを世の中に紹介するにとどまったようである。私もまた先人の例にならい、将来いつか達識の士が現れて、この本の主張するところをさらに効果的に活用する途を聞かれんことを期待する。
なお、あとがきにある大江元綱の言のように、この本は「熟読永久にして、自然に関を脱するを得べし」であり、わからないところはじーっと睨み、繰り返し読みつづけていれば、日本人であるかぎり、いつとはなしにその意味が脳裡に浮かんでくるものであり、読者の不屈の挑戦を念願する次第である。
本書の編集は小島鴻一氏にお願いした。
昭和五十七年十一月
大 橋 武 夫
日本最古=幻の兵書「闘戦経」 大江匡房・著伝 大橋武夫・解説 闘戦経を考える より |
|
|
闘戦経 後 |
|
|
● 二十七、取るものは倍して取り、捨てるものは倍して捨てよ。
|
|
● 二十八、英気(火)のない軍は敗れる。
|
|
● 二十九、戦いは勝つことが第一である。
|
|
● 三十、小虫の大敵をたおすは毒あればなり。
|
|
● 三十一、人智も鬼智をしのぐことができる。
|
|
● 三十二、戦国の主たらんものは疑(ためらい)をすてよ。
|
|
● 三十三、ふところ手(隙・スキ)するなかれ。
|
|
● 三十四、変を知っても常となせ。
|
|
● 三十五、胎児、胞あり。
|
|
● 三十六、蔓(つる)は細いが、瓢(ひさご)を支える。
|
|
● 三十七、まず脚下の蛇を断て。
|
|
● 三十八、智の用は内照にあり、勇の用は外発にある。
|
|
● 三十九、陣頭に仁義なく、刃先に常理なし。
|
|
● 四十、先ず体を得た後、用を得るものは成る。
|
|
● 四十一、亀は万年、鴻(おおとり)とならず。
|
|
● 四十二、龍が大空に騰(あが)るものは勢なり。
|
|
● 四十三、単兵、急に攻めて勝つには毒尾を打つ。
|
|
● 四十四、離弦(発矢)の勢い、衆を討つべし。
|
|
● 四十五、輪の輪たるを知るものには、蜋は腕をのばすべし。
|
|
● 四十六、虫は飛ぶことを知らず、蝉は蟄を知らず。
|
|
● 四十七、人、神気を張れば勝つ。
|
|
● 四十八、水に生くるものは甲鱗を有し、山に生くるものは角牙を有す。
|
|
● 四十九、まず力、術はその次。
|
|
● 五十、威をたのまず、勇をたのまず、智をたのまず。
|
|
● 五十一、斗(北斗七星)は向背し、磁は南を指す。
|
|
● 五十二、兵の本来は国の禍患を絶つにあり。
|
|
● 五十三、用兵の極意は虚無(孫子の詭譎)にあらざるなり。
|
|
|