心の剣以外の術理を一生懸命稽古し、古伝の書も読み、
何かの指標を見つけ、それに向かって日々努力をする・・・
ここまでの人は、まだ無想剣になる可能性があります。
それは、努力が出来る能力を無想の方向に
向ければ良いからです。
しかし、次の段階に入ってしまうと困難です。
努力の結果、真面目に生きた結果
「ココロのケンとは、オレのジュツリの事だ!」
そして手に負えないのが
「皆がオレのいう事を聞けば、全て丸く収まるんだ!」
(=俺を見つめよ)
真面目が過ぎると、自分こそが“正しい”となります。
これが
「自己を向上に思い見誤り、他人を目八分に見落し。」
天狗芸術論。
「己に従うものを是(良し・好し)とし、
己に従わざる者を非(悪)とす。」
と記載があります。
夕雲流剣術書には
「思うままにならぬ時は、
己が心の取り扱いを物の理に背く故に
物の自由にならぬことを
立ち帰り悔る心は無くて、
いよいよ我を強く張り、
邪曲の思案工夫に性根を疲らかし
果ては天を恨み人を咎む。」
とあります。
過ぎたるは及ばぬがごとし。
努力の方向性を見誤ると
己を是と認めさせようとする心に向いてしまう危険性があります。
その心が無いかどうかを見つめ直すと
“真実”と言うものが見えてきます。