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日顕宗の「妄説:1」を破折する(その二) 連載2回

日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:1」を破折する(その二)連載2回

妄説:1 日蓮正宗の正しい本尊について教えてください。

 日蓮正宗の正しい本尊は、『日蓮正宗宗規』第三条に「本宗は、宗祖所顕の本門戒壇の大漫荼羅を帰命依止(きみょうえし)の本尊とする」と、明確に定められている「本門戒壇の大御本尊」です。
 この大御本尊は、宗祖日蓮大聖人が『聖人御難事』に
「此の法門申しはじめて今に二十七年、弘安二年大歳己卯なり、仏は四十余年(中略)余は二十七年なり」(新編 1396頁)と仰せのように、御本仏の出世の本懐(ほんがい)として顕わされました。
 日興上人の『日興跡条々事』に
「日興が身に宛て給はるところの弘安二年の大御本尊は、日目に之れを相伝す」(新編 1883頁)
と仰せのように、この大御本尊は、日興上人、日目上人と唯授一人血脈付法の御歴代上人によって相伝されています。
 日寛上人は
「就中(なかんずく)、弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐の中の本懐なり。既に是れ三大秘法の随一なり」(富要 4-221頁)と説かれ、弘安二年十月十二日に御図顕の本門戒壇の大御本尊は、宗旨の根本となる本尊であると教示されています。
 代々の御法主上人は、その相伝の権能(けんのう)のうえに本門戒壇の大御本尊の御内証を書写され、本宗僧俗に下付されるのです。

破折:
4.河辺メモをめぐる騒動・第一章
〈河辺慈篤、徳島県・敬台寺から東京・江東区の妙因寺に栄転する〉

 日顕が肝を潰す出来事が起こった。
               ◇
 日顕登座直後の昭和五十四年十二月、日顕が早瀬義孔を庶務部長に抜擢したのに腹を立てた河辺が、その日顕を自分のところ(徳島・敬台寺)に呼びつけ、〝メモをマスコミに発表する。「『戒壇の御本尊のは偽物』と日顕が言った」と、記者会見を開いて、大々的に宣伝する。それとともに、猊座乗っ取りの真相もばらすぞ〟と恫喝したというのである。
 その背景には、こんな出来事があった。
 義孔は、早瀬日慈の弟子である。この義孔を庶務部長につけるにあたり、日顕は石井信量に車を運転させ、池袋の法道院まで出向いて、日慈に「常在寺(義孔)を庶務部長にしたいのだが」と、事前に話を通しに行った。日慈をだまし討ちにして登座した、日顕の後ろめたさを象徴しているが、ところが、これが河辺には気に入らなかった。というのも、それまで日顕は、何事についても、河辺に相談をして、事を進めてきた。ところが、この義孔の人事については、河辺には一言も言わず、日慈のところに相談に行った。後になって、それを聞きつけた河辺が怒って、わざわざ徳島まで日顕を呼びつけたというのだ。
 日顕と河辺の〝関係〟を物語る話だ。しかし、河辺は、「偽物」発言だけでなく、相承についても日顕の弱みを握っていることになる。
 日顕を恫喝した河辺は、その場でさらにこう言い放った。
「じゃかましいっー ワシが全部、お前に教えてやったろうが。いわば、お前の御師匠さんやで。『御師匠さん』と呼べ!」
そして、しばらくの沈黙の後、日顕の口から出た言葉が何とーー
「御師匠さん……」
(「法主詐称」憂宗護法同盟著 2003年7月16日初版)
               ◇
 平僧の立場で、法主となった日顕に向かって「お前」呼ばわりし、日顕に「御師匠さん」と呼ばせた者など、河辺の後にも先にもいない。次のような話がある。
               ◇
 阿部師の先輩格にあたる僧侶が、阿部師と電話で話した際、つい阿部師に、
「そんなこと言っても、君」
と言った途端、
「貴様!法主に向かって『君』とはなんだ!」
と怒鳴られたとか、(中略)
 阿部師があまりにも、
「俺は法主だ!」
と連発するのを見かねた山口師が、
「猊下、あまり『法主、法主』と言われないほうがいいですよ。人間は『俺は人間』とあまり言いませんから」
と、つい進言したそうである。それを聞いた阿部師の怒りは、想像に難くないものであった。
(「浜中和道回想録」〈昭和五十五年初頭の宗内の様子〉引用:「饒舌の故に」北林芳典著)
               ◇
 いかにも傲岸不遜の日顕らしいが、その傲慢男が膝を屈した唯一の相手、それが河辺であった。
「ワシが全部、お前に教えてやったろうが」と、河辺に言わしめたその内容は、次の記事に明かされる。
               ◇
 終戦直前の昭和二十年六月、大石寺大坊から出火した火災により、日恭上人は焼死する。その際、当時現場にいた河辺が、ドサクサ紛れに日恭上人の手元にあった大きめの「茶巾袋」を持ち出した。そこには、日恭上人が所持していた書き物など大切な品々が数多く入っていたという。
 河辺はこれをダシに、日顕に法主としての作法について教えをたれ、日顕は日顕で相承を受けていないものだから、何かあるとすぐに河辺に聞くという関係ができあがったのだ。
「日顕に御本尊の書写の仕方を教えたのもワシだ」
 こう言ってはばからなかった河辺だが、ある時など、「どうもワシが教えたのと違う」と、日顕書写の本尊を公然と批判したこともあったという。
(前出「法主詐称」) 
               ◇
 半年後の昭和五十五年六月、河辺は四国の寺から東京の妙因寺(江東区)に移った。それ以来、宗務院の人事から末寺の住職、在勤者の人事に至るまで、宗内のあらゆる事柄について、日顕は河辺に相談して決めていたとのことである。
 この時は、内々で収まった。だがそれから二十年という歳月の後、河辺メモは再び、日顕を悩ますこととなったのである。

5.河辺メモをめぐる騒動・第二章
〈河辺慈篤、北海道・日正寺から東京・新宿区の大願寺に栄転する〉

(1)河辺メモの発覚

 平成十一年七月七日付の『同盟通信』に〝河辺メモ〟が掲載され、宗内を震撼させた。
               ◇
S53・2・7、A面談 帝国H
一、戒旦之御本尊之件
  戒旦の御本尊のは偽物である。
  種々方法の筆跡鑑定の結果解った。(字画判定)
  多分は法道院から奉納した日禅授与の本尊の
  題目と花押を模写し、その他は時師か有師の
  頃の筆だ。
  日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている
一、Gは話にならない
  人材登用、秩序回復等全て今後の宗門の
  事ではGでは不可能だ。
一、Gは学会と手を切っても又二三年したら元に戻
  るだらうと云う安易な考へを持っている
    ※日禅授与の本尊は、初めは北山にあったが北山の
    誰かが売に出し、それを応師が何処で発見して
    購入したもの。(弘安三年の御本尊)

 この中に出てくる「A」とは阿部(日顕)、「帝国H」とは東京・千代田区の帝国ホテル、「G」とは「猊下」の頭文字で、当時の法主・日達上人をさす。筆跡といい、内容といい、主観や感情を交えず、核心の事実のみを冷徹に記載していく独特の文体は、河辺以外になしえるものではない。それは、河辺自身をして、常々、「ワシのメモはテープレコーダーと同じくらい正確だ」と言わしめているほどである。特に「戒壇の御本尊」に関する内容は、極めて具体的で、そのあまりのリアルさに誰しも我が目を疑った。
(前出「法主詐称」)

 メモが流出し、宗内が緊張した二日後、宗務院から次の文書が宗内に送信された。

「当時は裁判も含め、以前より外部からの『戒壇の大御本尊』に対する疑難が多く来ていたこともあり、御法主上人猊下におかれては、教学部長として、それらの疑難について河辺師に対して説明されたものであります」
(「怪文書『同盟通信』の妄説について」平成十一年七月九日)

 さらにその翌日、宗務院通達が出された。

「(略)従いまして、今回の件における面談の折の記憶を喚起致しますと、当時の裁判や以前からの『戒壇の大御本尊』に対する疑難について様々な話が出た中で、それらと関連して、宗内においても、『戒壇の大御本尊』と、昭和四十五年に総本山へ奉納された『日禅授与の御本尊』が共に大幅の御本尊であられ、御筆の太さなどの類似から、両御本尊の関係に対する妄説が生じる可能性と、その場合の破折について話を伺ったものであります。
 但しこの話は強烈に意識に残りましたので、話の前後を抜いて記録してしまい、あたかも御法主上人猊下が御自らの意見として、『本門戒壇の大御本尊』を偽物と断じたかのごとき内容のメモとなってしまいましたことは明らかに私の記録ミスであります」
(「河邊慈篤師からのお詫びと証言」平成十一年七月十日)

 河辺はすぐに自分の誤りである、と認める声明を出した。だが、事態はそれで治まったわけではなかった。

(2)「日禅授与の本尊」と「戒壇の御本尊」

 まず、メモに登場する日禅授与の本尊のことを知っておきたい。
               ◇
 メモにある「日禅授与の本尊」とは、大聖人が弘安三年五月九日、少輔房日禅に授与した本尊のこと。日禅とは、日興上人が選んだ六人の高僧の一人で、大石寺の南之坊を開いた人物である。
 日禅授与の本尊は一旦紛失後、天文八年(一五三九年)頃、北山本門寺が所蔵。明治四十三年六月、売りに出されていたところを、東京・法道院の開基である五十六世日応上人が買い、以後、法道院に置かれていた。そして昭和四十五年三月二十五日、法道院から大石寺に納められた。こうした経緯は、身延系の他山・他門では到底、うかがい知れず、大石寺の事情に精通した者でなければ、言及し得ない内容だ。それもそのはず、この本尊が、大石寺に納められるときに立ち会い、検分をしたのが、誰あろう教学部長の日顕だったのである。
(前出「法主詐称」)

 なお、戒壇の御本尊の由来を改めて確認しておく。
               ◇
「戒壇の御本尊」とは、宗祖日蓮大聖人が弘安二年十月十二日にお認めになった出世の御本懐である。ゆえに二祖日興上人も三祖日目上人への譲状「日興跡条条事」の中で、「日興が身に宛て給わるところの弘安二年の大御本尊」と仰せられ、日寛上人も文段で、「就中弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐の中の本懐なり。既にこれ三大秘法の随一なり。況や一閻浮提総体の本尊なる故なり」と仰せになっているのである。
(同)

 この通り、二体の御本尊は、その意義を大きく異にする。宗門の根本、一閻浮提総与の大御本尊を疑う者が、これまで他宗・他門流にはあったが、宗内でそのような者があるはずもなかった。
 ところがその大謗法の者とは誰あろう、法主に就任した日顕である。歴代法主が宗旨の根幹を〝偽物〟呼ばわりすることなど、あろうはずがない。日顕の「法主の資格」を問われるだけではない、日蓮正宗僧侶としての「一身上の大問題」であった。

(3)河辺メモが記された経緯

 くだんの河辺メモは、こうして何度も日顕を脅かすこととなった。なぜ、日顕はこのような不用意な発言をしたのか。
               ◇
 昭和五十三年二月七日、日顕は帝国ホテルの一室で河辺に会い、そこで大御本尊に関する自説を披露したが、その背景には、身延派の大石寺攻撃があった。
『月刊ペン』という雑誌の昭和五十一年十月号に、立正大学図書館長・宮崎某が書いた大御本尊を偽作とする論文が掲載され、日顕がその論文に対する反論を書くことになった。その反論を書くうちに、日顕は不安になり、日禅授与の御本尊と戒壇の大御本尊の照合を思い立った。その結果がこのメモの内容である。(中略)
 昭和五十三年頃、宗務行政を牛耳っていたのは内事部や菅野慈雲などの日達上人の弟子だった。総監の早瀬や教学部長だった日顕は、日達上人から信頼を失い、実権を失っていた。ゆえに、日顕は自分が次期法主になる道は閉ざされたと思い込み、日達上人を批判するだけでなく、大御本尊に関する発言を軽率に行ったのだ。
(「転落の法主」青年僧侶改革同盟 渡辺雄範著 エバラオフィス 2004年04月)

 日顕は、日蓮正宗の僧侶として帰命依止(きみょうえし)の対境たる、大御本尊への信仰が全く無かったことを、問わず語りに露呈したのである。当時は心の張りを失い、気持ちが脆くなって、心の声を口にしてしまったのであろう。
 このメモに記載されたところの、日顕の発言の日(昭和五十三年二月七日)は、日達法主から相承を受けたことになっている昭和五十三年四月十五日の、わずか二カ月前のことである。日顕は法主内諾の直前(それが事実であればの話だが)、大御本尊誹謗の大謗法を犯していたということになる。

(4)新たな河辺メモ

 河辺の「お詫び」が通達で出されたものの、問題はそれで終わらなかった。
               ◇
 しかし、この日禅授与の本尊は大石寺にある。その本尊と大御本尊の類似性に疑問を持つ者は外部には存在しない。宗内には釈然としない雰囲気が漂っていた。そこに、あらたな河辺メモが流出し、この河辺のお詫びがヤラセであったことが明るみに出た。
 そのメモは八月十二日付の『同盟通信』で公開された。

 メモの件
  1、当局の云う通りやるか
  2、還俗を決意して思い通りでるか
  3、相談の結論とするか、
  7/9
  自坊tel
  宗務院より「河辺の感違い」とのFAX(宗内一般)
(「転落の法主」青年僧侶改革同盟 渡辺雄範著 エバラオフィス 2004年04月)

 これによると、メモが発覚してすぐに、河辺は今後の行動を三様に分析した。その上で、「7/9」に宗務院との「相談の結論」として、「お詫びと証言」(十日付)が出されたこととなる。
 だが、三様の分析には、「2、還俗を決意して思い通りでるか」と言う選択肢もあった。〝日顕の対応次第では、思い通りでるぞ〟との威嚇が込められていたのである。
 
(5)河辺の奮戦

「河辺メモ」が報道された直後、河辺はどう出たか。
               ◇
 最初のメモが公開された七月七日の夕刻から、河辺の姿は自坊から消えていた。行き先は九州だった。目的は、九州・開信寺の法華講対策で出向いていた藤本総監、早瀬庶務部長、阿部信彰の三人をホテルに呼び出して密談するためだった。その内容がこの「メモの件」である。
 河辺の狙いは、東京に戻ることだった。学会を切ることに消極的であった自分を、日顕は邪魔になって札幌に飛ばした。河辺はそう確信していた。
 そして、日顕は独断で「C作戦」を実行し、失敗した。これ以上、馬鹿な日顕に付き合う気はない。最果ての地で晩年を過ごすつもりもない。
 当初の日顕との密約は「十年で東京に戻す」ということであった。しかし、十年たっても、日顕はその約束を守らずにいる。すでに十一年目だ。必ず、俺は東京に戻る。本気だということを教えてやる。俺の怖さを思い出させてやる。河辺の決意は固かった。それがメモにある「還俗を決意して」との一文となった。
 日顕はこの一文に震え上がった。「二十年前と同じように、河辺は本気だ」と。
(前出「転落の法主」)

 この河辺の粘り腰が、日顕の不安を煽っていく。二十年前と同じく、河辺は宗門幹部の説得を受けたが、耳を貸すことはなかった。
               ◇
 八月三十日、河辺はこの話にケリをつけるため、本山で日顕、藤本、早瀬と会った。そして、とうとう、日顕は折れた。
 日正寺の「開創八十周年」の法要を終えた二日後の九月七日、正式に河辺の新宿・大願寺への赴任が申し渡された。(中略)代わりに大願寺住職の長倉が日正寺に入り、二カ寺の寺院の住職をそのまま入れ替えるという前代未聞の人事であった。この珍事を説明できる理由はただ一つしかない。日顕が河辺の口封じのために行った人事である。宗内の誰もが、そう感じていた。
 新宿・大願寺は都内でも随一といわれる豪勢な寺である。河辺メモの威力は、絶大なものであった。
(同)
                          (続く)

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