モスクワは、想定外の苦戦を強いられました。
圧倒的な軍事力で一撃で葬るはずだった戦争に勝ちきれない。たかが小国に、なんと苦戦しているのです。
生存をかけて奮戦する小国は世界から支持を集めました。支援の声、武器の援助、義勇兵が続々とやってきました。
とんだ見込み違いです。モスクワは失敗を認め、進軍を停止しました。一体どうしてこんなことになったのでしょう?
1939年12月から翌年1月にかけて、意外にもフィンランド優位で進んだ冬戦争の展開とその背景についてみていきます。
(前回の記事はこちら↓)
無視された専門家の意見
(OpenClipart-VectorsによるPixabayからの画像)
ソ連の国家指導者スターリンは、対フィンランド戦争について、軍事専門家の意見をボツにし、政治的には正しいけれど無理があるプランを立てました。スターリンが戦争計画の作成を最初に命じたのは開戦の5カ月前、1939年6月です。
命じられたのは参謀本部。軍全体を動かすための様々な計画を行う企画調整部署で、軍の頭脳です。そのトップ、参謀総長のシャーポシニコフは経験ゆたかな歴戦の将軍でした。しかし、参謀総長が出してきた計画は「対フィンランド戦争は、数ヶ月間に及ぶ困難な戦いになる」という悲観的なものでした。報告を受けたスターリンは笑って、参謀本部の計画はソ連軍を過小評価している、と却下しました。
そして参謀本部を無視し、フィンランド方面を担当するエリアの司令官に改めて計画作成を命じました。本社の経営企画部の意見が気に喰わないので、担当エリアのマネージャーにダイレクトで指示を出したのです。
レニングラード支店長…じゃなかった、軍管区司令官はメレンツコフ将軍です。現場責任者たる将軍も「その案件なら2、3カ月はかかりますね」と正直に報告したら即却下され、「2、3週間でやれる。やれ。」と言われました。
スターリンは専門家集団たる参謀本部の意見も、現場責任者たる将軍の案も蹴り、自分の気に入るプランに作り替えさせました。知識と経験を持つ複数の技術者が「できない」と言っているのに、ワンマン経営者が無茶な納期短縮をごり押ししたようなものです。実りある対話とはいえません。
戦争計画が完成したのは10月。この計画では、ソ連軍は1日に10~12kmを前進し、10~15日で防衛線を突破。開戦から半月のうちにフィンランドの首都ヘルシンキに到達し、傀儡政権に挿げ替えるというものでした。当初は数カ月かかるはずだったのが半月に圧縮されています。4日で勝てると放言する閣僚までいたほどです。それはトップリーダーの楽観主義と、部下の忖度が合体したプランでした。
フィンランド国民はバラバラ。ソ連軍を歓迎するだろう!
スターリンがあてにしていたのは、フィンランドの結束の弱さからくる内部崩壊です。
フィンランドは独立直後の1918年、国民が2つに割れ、内戦をしています。ソ連に支援された赤衛軍と、ドイツに支援された白衛軍に分かれ、同国人同士で争いました。結局、ソ連よりの赤衛は敗北しました。冬戦争の約20年前です。
内戦を起こすような結束のない、もろい国です。大国ソ連が攻め込めば、そのショックだけで、フィンランドの国民も軍を心が折れてしまうでしょう。ソ連軍が来たとなれば、労働者たちは再び武装蜂起するに違いありません。フィンランドはまたたくまに内部崩壊し、ソ連軍は人民に歓迎されながら、易々と首都に入城できるに違いないでしょう…。
しかし、事実は逆でした。内戦の経験から、ソ連憎しで一致団結していました。内戦で分裂した国民を統合するためには、赤衛軍に加担した同国人の責任をソ連に転嫁することが有効でした。過去にロシア帝国への服従から培われた長年の反露感情は、内戦によってさらに高まっていました。民主主義が根付き、議会での対話を通じて、政治的な左右の溝も縮まっていました。
ソ連が攻めてきたとき、フィンランド人はソ連こそ共通の敵、と一致団結しました。ソ連が期待した反乱やサボタージュは起きませんでした。フィンランドはバラバラどころか、民主主義を奉じ、固く団結した国民国家となっていたのです。
装備と物資の不足
ソ連兵は、冬季戦の準備ができていませんでした。12月のフィンランドに攻め込むというのに、最初は外套すらなく、下着も冬には向かない薄手のものを着ていました。中央アジアから徴兵された兵士は、雪を見たことがない者までいたそうです。でも、2週間で戦争は終わるのですから、それで十分なはずでした。
一方のフィンランド軍は、戦車や戦闘機といった新鋭装備こそひどく少ないけれど、訓練が行き届き、士気の高い国民軍でした。そして冬に慣れ、雪に親しみ、スキーを履いて生まれてきたようなつわものでした。
フィンランド軍の最大の味方は季節であった。幼いころから冬には慣れており、田舎では十月から翌年の四月までの間、何もすることがないのでスキーが上手くなる。…衣服についても重い外套を着るのではなく、暖かく、軽い服を重ね着し、足にはウールの靴下を数枚はき、大きめの歩きやすい靴をはいた。さらに兵士たちは膝あてを着用しており、このおかげで寒さを気にせず、片膝で何時間も銃を撃つことができた。
「スターリン―冷酷無残、その恐怖政治」p206
フィンランド兵は戦前から長い時間をかけて築いた防御陣地で敵を支え、スキーを巧みに操ってはソ連軍の横から回り込んで襲撃しました。長々と続くソ連軍の縦隊は、あちこちで分断され、進むも退くもできない渋滞となって包囲されました。
ソ連軍の進撃は、争点であるカレリア地方がある南方でも、フィンランドを横断すべく進んだ東や北でも、ことごとく頓挫してしまいました。
ソ連兵たちは水、食料や医薬品の欠乏をきたしました。もともとトラックが不足していた上、輸送用の軍馬が寒さで死に、さらにフィンランドのスキー兵が後方との連絡線を襲いました。配給されるのは固いビスケットと馬肉が一切れ。缶詰の肉は、運がよければ手に入る、という程度。真水まで不足し、仕方なく雪を溶かして飲んでは腹痛や下痢に苦しみました。
彼らが襲い来るフィンランド兵に囲まれ、マイナス40度近い寒さに包まれて死んでいったとき、やっとモスクワは誤算に気づきました。
国際社会の反響
国際社会もフィンランドの味方でした。明らかな侵略戦争を行ったソ連は国際連盟を除名されました。健気に戦う小国フィンランドには各国からさまざまな援助が流れ込みました。銃砲、弾薬、さらには戦闘機。そして義勇兵たちです。
映画「ロード・オブ・ザ・リング」のサルマン役など、様々な映画で有名な英国人俳優のクリストファー・リーも、義勇兵に志願してフィンランドに渡ったそうです。後方の拠点の警備を命じられたため、敵兵に遭うことはなかったようです。
ともあれ、孤軍奮闘する小国フィンランドが世界の同情を集めました。フィンランドの最大の希望は、国民の声に押され、リーの祖国である英国とその同盟国フランスの両国、その正規軍が援軍に来てくれるのじゃないか、という希望でした。
楽観の報いを受けるとき
フィンランド軍は3倍の敵と戦い、10倍の損害を与え、奇跡のような敢闘ぶりをみせました。その奇跡の背景にはソ連指導者の誤算がありました。フィンランドが小国なのを侮り、フィンランド人の国民意識を理解せず、簡単に崩れると信じていました。国民国家を侵略しておきながら、相手が一丸となって立ち向かってくるとは思っていなかったのです。
39年12月を戦い抜き、40年1月に入ると、ソ連軍は進撃を停止。戦局はフィンランド有利のままやや小康状態。このままでいけば、ソ連の大軍を倒し、撤退に追い込むことができるのではないでしょうか? そのうち、イギリスやフランスからの援軍だって到着するかもしれないし…。
しかし、奇跡とは、稀にしか起こらず、長続きもしないものです。スターリンは諦めず、ソ連軍は失敗しかけた戦争というプロジェクトを建て直しにかかりました。
〇参考とした本など
THE SOVIET PLANS FOR THE NORTH WESTERN THEATRE OF OPERATIONS IN 1939-1944
他