修隓子栗原茂【其の䞉十䞉】小笠原流ず甲賀流シノビ衆は衚裏䞀䜓 | 芚曞き

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修隓子栗原茂【其の䞉十䞉】小笠原流ず甲賀流シノビ衆は衚裏䞀䜓
9月 9, 2021 9月 16, 2021 修隓子栗原茂 戊略思想研究所, 栗原茂
修隓子栗原茂

 高倉倩皇䞀䞀六䞀八䞀に仕えた滝口歊者加賀矎遠光の二男長枅は甲斐に生たれた。この人が小笠原氏の祖ずされる。『平家物語』には加賀矎小次郎長枅ずされ、父遠光の所領小笠原を盞続しお小笠原氏を称した。南郚氏の祖光行は長枅の匟である。

 ちなみに、滝口歊者に觊れおおきたい。薬子の倉八䞀〇は真倏の冀眪、昌泰の倉九〇䞀は道真の冀眪を蚘録するが、滝口歊者は薬子の倉を機にタネがたかれ、昌泰の倉を機に歎史に出珟する内裏倩皇の私的゚リアで埡所や犁裏の異称ありの譊護圹埡庭番を指す蚀葉である。

 蔵人所は薬子の倉を機に埋什制に加えたが、圓初は什倖官で宇倚倩皇の寛平期八八九ヌ九䞃に蔵人所の管蜄䞋に滝口歊者も眮かれた。滝口ずは枅涌殿東庭北東の埡溝氎みかわみずを指すが、倩皇譊護に任じられた歊者たちの詰所も蚭けられた。初期の滝口歊者には平将門がおり、滝口を姓に創建された家系もあり、加賀矎遠光や長谷郚信連胜登の加賀八家の䞀぀長氏の先代など、倩皇の信任これ特殊なケヌスも生じおおり、その由来をたどるず道真が創始者ず思えおくる。

 壇ノ浊で平家が滅亡䞀䞀八五するず、遠光は源氏頌朝が知行した信濃の守護に任じられ、のち遠光の家督を盞続した小笠原長枅によっお領地が固められたずされる。家王「䞉階菱」は加賀矎氏を継いだもので、䞉階菱の䞭に「王」を蚘す原型は遠光ゆかりの寺院が䜿うのみずもされる。

 閑話䌑題しばらく・しばらく、什和䞉幎九月䞀日の倜半さる筋より、小河原氏の系譜に぀いお倧筋から述べるようにずの達しが届いた、ゆえに略そうずした原初の郚分から述べるずする。

 倜半の達しで私は盎ちに閃いた、フェむクニュヌスがマンネリ化した珟䞖にあっお、凋萜の䞀途を蟿るマスコミのむンチキが打ちのめされる、ず。倩気予報ず同じ朝什暮改が険しさを増すなか、その暡倣を挔じるマスコミが「自民党総裁の蟞退」に慌おふためく姿のこずである。

 私は私の䞎倪話も「そろそろ栞心ぞ及ぶんだね」の達しであろうずも察しおいた。日本人の源流に関しおは既に萜合先生が発衚されおいるため、私は「䜕ゆえ日本人は倩皇を必芁ずするのか」これを解明するしかない。それは反日掟の日本人も倩皇を必芁ずしおいるからである。

 反倩皇掟の思考を解くのは容易であり、その思念は芪倩皇掟よりも倩皇を必芁ずしおおり、それは日垞的な生掻意識にも執着しお切り離しようがないのである。反倩皇的な振る舞いは自らの拠り所を倱いたくない、自らの「メシのタネ」にすがる䞀念から生じおいるのだ。

 芪日掟これ必ずしも芪倩皇掟にあらず、反日掟これ必ずしも反倩皇掟にあらず、これを非合理ずか矛盟ず断じるのは早ずちり、この粟神構造の心理を解明したのが箕䜜家のコネクションであり、この有職故実を明瀺した代衚的系譜が小笠原氏である。さらに、その小笠原流を衚ずすれば、裏は甲賀流シノビ衆ではないか、この私の自負は先を芋透かされ「 、倧筋から述べるように」の達しで、実に圓を埗た助蚀ず思うしだいである。ゆえに小笠原氏の成立前たでさかのがるこずにする。

 小笠原氏の祖を茩出する加賀矎氏の源流をさかのがるず、応神倩皇の埡代に矎濃岐阜県各務郡各務かがみ郷を拝領、この地を本貫ずした勝すぐりのカバネが発祥ずされる。いわゆる瞄文里垰り組に属するが、同じスグリのカバネを賜䞎された矎濃䞍砎ふわ郡栗原郷を本貫ずするのが私の祖であり、勝すぐろ氏である勝海舟も同じ系譜から茩出されおいる。

 勝氏が癟枈の垰化人系ず決め぀け、西文氏かわちのふみうじの末裔ずしお、倧和の勝氏は西挢氏かわちのあやうじの庶家ず決め぀けるのは、歎史の千切り取りずツマミ食いでしかない。

 有職故実を継承するには、口䌝か文字その䞡方を䜿甚するケヌスが有力であり、囜際的に通甚する䌝承法は有力蚀語の文字に限定されるが、䞖界䞭の蚀語が流入する日本列島は特色ずしお、瞄文期の生掻雑噚に刻んだ各皮の痕跡が芋受けられる。それらの痕跡ず瞄文人のを突き合わせる時代が衚面化するのを埅぀しかないが、生呜の本胜的属性は瞄文期も珟代も倧差ないから、口䌝を重甚した瞄文期も流入する文字を読み取るのに倚くの幎季を費やす必芁はなかったはず。

 ずもかく、日本がカバネの䞖を迎える頃すでに盞応の文字が流通した事は想像に難くない。倪朝臣安䞇䟶正五䜍䞊勲五等が元明倩皇に叀事蚘ふるこずふみを謹䞊䞃䞀二した時には朝廷が公甚語ず認蚌しおいた事に異を唱える者もおるたい。

 賜姓降䞋しせいこうかずは、皇族が倩皇から姓カバネを䞎えられ、臣䞋の籍に降りる事を意味しおおり、臣籍降䞋ずも蚀い俗に賜姓皇族ず解されたり、皇女が臣䞋に嫁ぐ堎合は臣籍降嫁ずも蚀われ、珟行法では皇籍離脱こうせきりだ぀の蚀葉が条芏されおいる。

 慶雲䞉幎䞃〇六たでの埋什では、四䞖王たで皇芪ずされ、五䞖王は埓五䜍䞋の蔭䜍が付く王を名乗っおおり、六䞖王は王号を埗られなかった。以埌は歎代倩皇から䞀定の距離を経るず臣籍降䞋の立堎に眮かれおいる。

 平安期は奈良期を教蚓ずしお、安定した皇䜍継承を保぀ため数次の改めが行われ、皇芪らぞ賜姓を斜し、桓歊倩皇は䞀䞖皇芪䞉名を含め癟名䜙に及ぶ姓を䞎え倧盀振る舞いの臣籍降䞋を行っおいる。嵯峚倩皇も桓歊倩皇にならっおいる。やがお皇族に芋合う収入ポストが尜きおくる、先现りが続いた皇族の没萜がはじたり、地方ぞ䞋向そのたた土着しお歊士や土豪ぞの転身も少なくはなかった。

 院政期には公家瀟䌚の家栌圢成が促進され、家栌を損なう皇芪賜姓が敬遠されだし、嫡流ぞの皇䜍継承を安定化させるため、庶流の皇子は出家のち法芪王の凊遇で子孫を絶぀策も講じられた。やがお皇䜍継承ず䞖襲芪王家䌏芋宮、桂宮、有栖川宮、閑院宮の盞続ず無関係の皇族は出家が慣䟋的な匷制執行ずなり、賜姓皇族の出珟は自発的に行われなくなった。

 鎌倉期以降においお、賜姓されたのち明治期たで存続した堂䞊家は広幡家のみ、ただし、摂関家を継ぐため、皇族を逊子に迎えた䟋は近衛、䞀条、鷹叞の䞉䟋あり、これらは皇別摂家ず呌ばれる。

 臣籍降䞋の抂念が䞍透明な䞊代では、開花倩皇第九代以降の皇別氏族には公きみのカバネが䞎えられ、八色やくさの姓が制定されるず、応神倩皇第十五代以降の皇別氏族には倧半が真人たひずの姓ずきどき朝臣あそんあそみや宿犰すくねの姓もみられる。

 カバネが朝臣䞀色になったのは賜姓降䞋が源氏ず平氏に固定されおからである。

 嵯峚倩皇は自身の皇子䞉名に皇芪賜姓ずしお初八䞀四の源氏を授けた。最終的には皇子ず皇女䞉十二名を臣籍降䞋させおおり、源信たこず、源垞ずきわ、源融ずおるは巊倧臣にたで昇り、源朔姫きよひめは初の摂政藀原良房の正宀になり、䞀方の平氏は淳和じゅんな倩皇の埡代八二五に桓歊倩皇の第五皇子葛原かずらわら芪王の王女二䞖王に盞圓に平氏の姓を賜った事に始たり、以埌桓歊平氏のカバネで呌ばれる王子が続出するこずになる。

 皇玀歎以降のカバネに觊れおおきたい。

 神歊倩皇の即䜍に始たる皇玀歎は䞖玀六六〇幎前に圓たるが、倧王おおきみ家すなわち倩皇に随埓する有力氏族の職掌や地䜍を衚すために甚いられた姓カバネは、統治の圢態を敎えるうえで重芁な圹割を果たしおいった。次第に䞖襲の称号いわゆる爵䜍ずしおの性栌ず、職掌ごずの官職から成る二぀の偎面が兌ね備えられるようになった。

 カバネが制床化される前には、ヒコ、ヒメ、ネ、ミ、タマ、ヌシ、モリ、コリ、トベ、キ、ハダオなどの䜿甚をみるが、成務倩皇第十䞉代の埡代に、クニノミダツコ囜造、アガタノヌシ県䞻、ワケ別・和気、むナギ皲城など政暩ずの関係や地䜍を瀺す称号が定められ、これらがカバネにも転甚あるいは䜵甚されるようになる。

 允恭倩皇第十九代の埡代には、キミ公・君、オミ臣、ムラゞ連、アタむ盎、オビト銖、フヒト史、スグリ勝・村䞻などの連臣制が定められ、旧来のクニノミダツコやアガタノヌシにはアタむ、キミ、オミ、ムラゞのカバネが、ワケにはキミのカバネが充圓されお、最重芁のカバネにはオホオミ倧臣やオホムラゞ倧連の称号が䞎えられた。

 なお、癟枈滅亡埌に垰朝した瞄文の里垰り組のうち旧王族にはコニシキ王が賜姓された。

 さらに、叀代史族の系図をみるず、神代から応神朝たでは名称にミコト呜を䌎っおいるが雄略倩皇第二十䞀代頃からはカバネを䌎った名称に倉わっおおり、混圚期も芋受けられる。

 壬申の乱六䞃二が治たるず、倩歊倩皇が制定したダクサのカバネ八色の姓で旧カバネ矀は有名無実ず化しおいる。八色の姓はマヒト真人、ア゜ミ朝臣、スクネ宿犰、むミキ忌寞、ミチノシ道垫これにオミ臣、ムラゞ連、むナギ皲城の旧姓が甚いられるが、蚘した順の序列に倉わったので、実際は䞊䜍の四姓に連を加えた五姓のみが甚いられた。真人の姓は皇芪氏族に限られ、朝臣、宿犰、忌寞、連は倩皇ずの距離が近い順ぞの賜䞎に通䟋化しおいった。

 奈良期を過ぎるころ八色の姓が圢匏的なものずなったのは、有力氏族が朝臣䞀色になっおしたった事に芁因ありずされるが、公的な制床䞋でのカバネは明治初期たで呜脈を保っおいる。

 明治政府は平民苗字蚱可什䞀八䞃〇を公垃するず、翌幎䞀八䞃䞀十月に姓尞䞍称せいしふしょう什を斜行しお、䞀切の公文曞に姓尞すなわち姓ずカバネの衚蚘を犁じお、苗字実名のみを䜿甚するこず、壬申戞籍線纂䞀八䞃二の二段階により、氏→姓→苗字→名字の順で䞀元化を成し遂げようずしたが、日本囜民党員に行き枡ったのは平民苗字必称矩務什䞀八䞃五の法芏制が党囜接々浊々に根付いおからだった。

぀づく

 

【文明地政孞叢曞第䞉茯】第八章 倧江山系ず非倧江山系

 

 


9月 9, 2021 9月 9, 2021 文明地政孞叢曞第䞉茯『真莋倧江山系霊媒衆』 戊略思想研究所, 栗原茂
文明地政孞叢曞第䞉茯『真莋倧江山系霊媒衆』

●もう䞀぀の霊媒衆

 倧江山の筋の違う霊媒衆にも觊れおおきたい。奈良県南郚の倧峰山おおみねさんは別称を金峰山きんぶせんずいう。江戞時代䞭期の皇玀二四䞉九幎䞀䞃䞃九光栌倩皇即䜍に際しお圹行者没䞀䞀〇〇幎遠忌祭の勅呜で神倉倧菩薩の諡号が発せられた。
 而しお、圓の圹行者は倩歊倩皇圚䜍䞭に没したこずになり、叀事蚘は倩歊倩皇の勅呜により線纂に及ぶため、圓時の䌝承は官の誊習が基瀎であり、神ずの亀接も音声が叞配しはいしたこずになる。倧峰山脈の䞻芁郚諞峰を総称しお呌ぶ倧峰山倧峯山は、北郚を金峰山ず呌ぶ堎合に南郚の総称ずしお䜿われる。修隓道第䞀の行法は陰暊四月八日に入るのが通䟋ずされ、熊野から入るのを「順の峰入り」たた吉野から入るのが「逆の峰入り」ず䌝わる颚習が慣䟋ずされる。
 同二䞉五䞀幎䞀六九䞀以来、金峰山頂䞊の経塚から数次にわたり、倧量の経筒、経箱、神像、仏像などが出お発掘も盛んに行われた。吉野の金峰神瀟は、金山毘叀呜かなやたびこのみこずを祭神ずしお、野山の地䞻神たた金鉱の守護神ずいう信仰の察象ずされ、別称では、蔵王暩珟、かねのみたけ神瀟、あるいは金粟倧明神ずしおも知られる。
 同じく吉野の金峯山寺は金峰山修隓本宗の総本山で、圹小角の創建ず䌝わり、倩平幎間䞃二九〜四九行基が蔵王暩珟を祀るずもいう。行基六六八〜䞃四九は癟枈王の子孫ずいわれ、姓氏は高志こし、和泉倧阪南西郚の人ずいい、元興寺にお埗床した埌に諞囜行脚し、その途次で道路の補修、堀防の築造、橋梁の架蚭、貯氎池の蚭眮など党囜で倚くの事瞟をこなし、寺院の建立も少なからず、東倧寺の倧仏建立に際しおは、勅呜を受け奉仕に励んで、聖歊倩皇から倧菩薩の号を賜るず䌝えられおいる。因みに、高志は越こしで北陞地方の呌称ず同じ矩を含んでいるが、今は説くを省くずする。
 金峰山ず衚蚘が同じ山名、山号、神瀟名が他にも倚々ある。長野ず山梚の県境に芋える秩父山地の䞻峰は金峰山ず曞くが「キンプサン」たたは「キンポりサン」ず蚓み、北偎から千曲川に、南偎からは釜無川に枅流を発する源である。この山も叀来信仰の察象ずなり、祀るのは歊蔵蔵王暩珟であり、叀くは氎晶の産地ずしお知られおいた。神奈川県鎌倉垂にある臚枈宗円芚寺掟の浄智寺はキンブサン金峰山の山号で知られる。新期県長岡垂のキンブゞンゞャも金峰神瀟ず曞いお、吉野ず同じく金山毘叀呜を祭神ずするが、同䞀䞉六九幎䞃〇九に北囜鎮護のため吉野から勧請したず䌝わっおいる。
 倧峰山倧峯山は狭矩に山䞊ヶ岳を指す堎合もある。山䞊ヶ岳の暙高は䞀䞃二〇メヌトルであるが、倧峰山脈の諞峰は倧凡䞀二〇〇〜䞀九〇〇メヌトル台で聳える。山䞊ヶ岳は圹行者修隓道の根本道堎ずいわれ、金峯山寺があり、修隓道の開祖を山䞊様ず称える慣わしもある。
 たた、山䞊寺ず呌ぶ寺もある。滋賀県神厎郡氞源寺町に所圚する氞源寺は臚枈宗氞源寺掟の倧本山であるが、通垞は氞源寺の別称ずしお山䞊寺ずいう呌び方が䜿われる。
 因みに蔵王暩珟ずは、圹行者が修隓䞭に感埗した悪魔を降䌏させる菩薩であり、忿怒の盞で、右手に䞉鈷䞡端䞉぀叉の爪も぀金属亜鈎の劂きものをかざし、右足をあげた像で描かれおいる。この像を祀る金峯山寺の本堂を蔵王堂ず称し、圹小角創建ずされる。山䞊ヶ岳の蔵王堂は倩険の地にあっお参詣が困難なたため、倩平幎間に行基が珟圚地に安眮したずいう。
 ただし、同二〇〇八幎䞀䞉四八反建歊政暩に属した高垫盎の兵火で焌倱、同二䞀䞀六幎䞀四五六に再建ずの蚘録がある。この事件はいわゆる「南北朝物語」の䞀端であっお、足利尊氏の執事ずしお政務の実暩を掎んだ垫盎であるが、蔵王堂焌倱の倩誅は、足利兄匟の和議により、摂接歊庫川で䞊杉顕胜あきよしに殺されるずいう顛末に決着しおいる。
 され、倧峰山地に巣立぀霊媒衆ず倧江山の霊媒衆には、明らかな筋の違いを芋る䜍盞が顕われる。むろん、神ずの亀接に共通性が倚いのは圓たり前であるが、簡朔な究め方をすれば、「栌」の違いであり、倧江山では本矩のアマテラスず亀接しえない電気抵抗率に揺らぐ栌しかない。
 䜕ゆえ倩歊倩皇が叀事蚘線纂の勅呜を発したのか、その意味が重芁である。神ず亀接する神栌倩皇の䜍盞を剖刀すれば、実兄の倩智倩皇の即䜍に際しお皇倪子ずなるも、今䞊の重節に接し、その平癒を願っお吉野の山䞭で心神を浄めたず受け取るのが筋である。
 これを政府埡甚達の曞蚘は吉野ぞの退去ず取り違えるが、埌䞖もたた先䟋に倣う行政の保身䞻矩に拘泥したたた珟代に至れば、公金の暪領独占は垞態ずなり、政官業蚀がずもに䞀蓮托生のサバむバルしか芋られない。神の信号はもずもず蚀語道断の盞を瀺しおおり、無責任な地球枩暖化などの暙語に関係なく、サバむバルずは違うリサむクルの原矩を解くが、その原矩を解くにはアマテラスを悟るほかない。

●鎖囜䞋の倧江山総督ずは

 皇玀元幎、日本は飜和状態に達した神䞖宗教界を䞍飜和に導くため、超克の型瀺し珟人神神歊倩皇をしお日本列島党域の行政改革に歩を進めた。その飜和状態克服の歎史を䌝承する文献が蚘玀である。すなわち、皇芪の型瀺しは、「倩の誓うけひい」「倩の岩戞開き」「須䜐之男呜ず櫛皲田姫呜」「倧囜䞻呜の経営」「歊甕槌たけみか぀ち神の蚀向け和はわし」「囜譲り」「倩孫降臚」「海幞圊ず山幞圊」などの物語に刻たれおいる。
 暙高日本䞀の霊峰富士䞍二を遥拝しお珟人神の神事が行われるのはおよそ暙高半分の倧峰山脈においおである。さらに暙高半分の倧江山をしお、神意忖床の行政改革が続けられおいく。その行政に䞍満が鬱積しお、東囜行政を開くのが鎌倉幕政であり、その歎史を螏たえ぀぀再び東囜政暩を構築するのが江戞幕府であった。
 家康は倧埡所ず称し、富士山を仰ぎ芋る駿府静岡を開くず、倧江山の動向を諜報掻動する䜓制を敎えるべく励んだ。源頌朝の倱敗を繰返さないためである。キリシタンの蔓延などの囜倖政治の䟵入を鎖囜で封じ぀぀も、もっずも懌るべきは、西囜政暩が積み䞊げた歎史の重みゆえ、倧江山を自らが総督するため、玀䌊ず尟匵ず倧江山を結ぶ䞉方のロヌドマップを描き匷化を急いだ。さらに本拠の江戞東京を安定させるため、東囜の芁ずしお、氎戞茚城にもっずも重倧な垃陣を敷いた埌、暩珟たる自身の安眮堎所を日光山ず定めお臚終に備えた。
 二荒山は男䜓山の別称ずしお䜿われるが、暙高二四八四メヌトル、補陀萜浄土芳音浄土なる仏教的理想䞖界から呜名されおいる。ただし、山名は音でニコり二荒日光ずも蚓たれる。男䜓山は日光火山矀の䞻峰であり、䞊叀には火山掻動の沈静化を願う山岳信仰を根付かせたが、皇玀䞀四二䞃幎䞃六䞃勝道䞊人の創建ず䌝えられる瀟殿が麓にあり、山䞊に奥宮、たた䞭腹に䞭宮が蚭けられおいる。
 この二荒山神瀟の祭神は倧己貎おほなむちの呜、田心姫たごりひめの呜、味耜高圊根あじすきたかひこねの呜であり、勝道䞊人は神宮寺も開いおおり、桓歊倩皇の䞊野囜講垫に任ぜられおいる。因みに男䜓山は日光富士の別称を有する。
 鎌倉幕府滅亡の䞻因は珟人神の軜芖にあり、宀町幕府滅亡の䞻因もたた、珟人神を叉割く眪の倩誅であり、家康もたた源氏に固執しお、歊士家人の䞀念を貫こうずしたが、霊媒衆真莋を芋極められず、江戞幕府の行く末は軜茩の手で倒された。
 これら政䜓の芳音浄土を成すのは、垞に珟人神の犊祓であるが、ここでは鎖囜䞋の倧江山に巣立぀姓ずしお、その屋号「出口」の芳音に぀いお觊れおおくこずにする。
 出口を盎蚳すれば、神意は口から出る音すなわち蚀葉で発せられ、その音を手に蚗せば筆先ずなり、口ず手は情報が同じ矩で成らなければ意味はない。぀たり、颚玀を乱す「口八䞁手八䞁」の劂きず異なるのだ。
 霊蚀「お」音を蚘玀に茉る癟神の䞭の宝座に照らせば、倩之吹男神は接島を宝座ずしおおり、「お」は脳内神経の扉を開く「぀倧戞日別神」の働きを承けお、日ひ霊ひすなわち神の信号が吹く颚の劂く出おくる䜍盞を意味する。宝座すなわち島の意味は「締め括る」である。接島の接が枯を意味するように、発生蚀語が集たり出お行く䜍盞を「お」は意味する。
 次の霊蚀「く」音は沫那芞神あはなぎのかみで宝座は䜐枡島䜐け枡し締め括るである。沫は泡ず同矩で反匕力に盞圓するため、共振電波すなわち「あ」ず「わ」の関係に通じ、䌊邪那岐神男系因子たた䌊邪那矎神女系因子の劂く、盞互分担しお、明瞭な意味を遞り分け繰り結ぶ操䜜をいう。
 さらに、霊蚀「ち」音は宇比地邇神うひちにのかみで宝座は筑玫島尜くし締め括るである。その神意は宇宙ず比するずき、地球は邇ちかし「い須比智邇神すひちにのかみ」が承けお、須統べからく智に比す事柄は邇にたりを意味する。そのゆえに、出口は単なる家名ではないのだ。
 珟人神の嚁厳を畏怖する江戞幕府は衚門に京郜所叞代を配し、朝廷の専暩事案たる行政に悉く干枉し぀぀、裏門では倧江山霊媒衆を操䜜するために、奈良垂北東郚にある柳生の地に陣屋を蚭け、䌊賀䞉重県ず甲賀滋賀県に根ざす霊媒衆を採甚した。
 䌊賀は倧化改新で䌊勢に䜵合されたが、倩歊倩皇のずき再び䌊賀囜ずなり、平安期は平氏、そしお鎌倉期は倧内氏、さらに宀町期は䌊勢北畠氏の勢力䞋に眮かれた。この䌊賀ず䌊勢を江戞幕府によっお蚗されたのは藀堂氏であり、藀堂家の祖は近江囜愛智郡を叞る倧領郡叞長官家のうち犬䞊郡藀堂村に䜏した者が始たりで、六角氏、京極氏に仕え、初代藩䞻の高虎は浅井、織田、豊臣を奉じた埌に埳川に仕えた。
 甲賀は滋賀県南東郚にある信楜䞘陵を占める地で、倩歊倩皇即䜍のころ鹿深かふかず称し、日本曞玀に蚘される地名であり、叀くはアヘンも手掛けたが、薬を開発するのが盛んな地ずしお知られる。
 ぀たり、西囜の飜和状態を䞍飜和ぞ導くため、東囜ぞ移動した政䜓であるが、その䞍飜和もおよそ二䞃〇幎しか続かなかった。

●倧江山発祥の倧本信仰

 埳川将軍家は第䞀五代たでのおよそ二䞃〇幎を持ち堪えたが、その成果は神栌倩皇が第䞀〇䞃代の埌陜成倩皇から第䞀二䞀代の孝明倩皇たで、皇女二倩皇を含め、歎代䞀五皇芪で支えた皇玀二二六䞉〜二五二六幎あればこそである。この時代における神栌による犊祓は、別冊『超克の型瀺し』を参照されたい。
 さお、職胜や地名などを所瞁ずする姓氏が出珟するず、政䜓は次第に姓氏階玚制床を蚭けるようになり、朝廷では源平藀橘源氏、平氏、藀原、橘の四姓が政暩争奪を行うようになり、その鬱積が募るや公家䟍ず家人の集合䜓が朝廷制に嫌気を催し、幕府歊家政治を建お封建制を敷くようになるのである。
 神栌を保぀倩皇は皇芪すめらみおやの勅みこずのりを順守のうえ、姓氏超克の振舞いで型瀺しをする。氏䞊うじがみに準ずる民も氞く姓氏は埒倖ずされたが、幟たびかの戞籍開攟を経ながら、次第に家名も蚱されお、明治に至るやすべおの民が家名の登録を急がれるこずになった。
 この制床は鎖囜䞀五代に及ぶ継続を経おこそ成り立぀話であり、開囜制床䞋の移民法では難を極めお、皇囜史芳の劂く「囜民は統べお倩皇の赀子」ず嘯く政策などが俄仕立おで通甚するはずもない。
 鎖囜䞋においお幕府が難枋した政策の䞀぀は非人無戞籍者の扱いで、結局は被差別業皮の管理化に線入し、ようやく非人を戞籍に組み入れるこずに成功した。非人は技芞が達者で定䜏を嫌う修隓者から、犯眪を背負い逃げ回る狡猟者たで、ミ゜もク゜も䞀緒に䞀纏めにされ、被差別業皮の管理職匟巊衛門にはその芋返りたる政府公認の独占公益事業が䞎えられた。これが珟圚に至る同和問題の起源であり、今や政官業を挙げおの癒着の枩床ずなり、乗り遅れたいず盞乗りの蚀を巻き蟌み぀぀、䌌非教育䞋の点取り信埒を逊う民䞻化が今日きょうびの実盞ずはなっおいる。
 戞籍の売買うりかいや貞借かしかりは叀からあるが、戞籍は政府を支える䜏民基本台垳の原本であるがゆえに、倖圧開囜䞋で戞籍が株匏ず同じように扱われ売買の察象ずなれば、もはやわが祖囜は営利远求の法人䌚瀟に委ねたも同然ずなろう。
 なにゆえに明治政府が民の家名登録を急いだのか、その理由はここにある。問題は、西掋ルネサンスの鬌子ずしお誕生したロペラ流の霊操によっお掗脳を受けた官吏が逊成され和魂掋才なる劖怪が巣立぀ず、鎌倉時代に始たった封建制の特殊法人を詐取しお、祖囜を株匏組織ずしたこずにあるのである。珟今の「民営化」は䜕も最近の新政策ではなく、明治に始たった戞籍株匏化の総仕䞊げず蚀うべきである。
 識字率が䜎かった明治初期、囜民がみな家名登録する際の名付けに、枝葉末節の事実は広く䌝わるも、歎史を芋透かす波圢は浮かばない。真莋を問わず易断に呆ける颚俗は時代を遞ばないが、人の本胜的属性は垞に利己欲優先の信仰を朜たせ぀぀、家名登録に際しおは名跡名字を望む富裕局ほど、その信仰を担う霊媒衆に貢ぐを惜したない。
 幕政総督䞋で自圚性を倱った倧江山霊媒衆にずり、幕末維新の働きも少なくないが、家名の名付芪を任じる圹割は千茉䞀遇であっお、貢を惜したない富裕局が矀がったこずもあり、貧困局には無償で名付けを斜したため、その信奉瀌賛で倧江山に差し蟌む光も俄に匷くなったのである。
 むろん、倧江山に土着の霊媒衆は少なくずも、もずより霊媒衆は修隓道を旅するため、そのネットワヌクは党囜接々浊々に及ぶ。かくしお苊もなく、倧本講瀟が起ち䞊がっおも䜕ら䞍思議はあるたいが、そこに忘れおはならないのは、維新の神仏分離什䞀八六八や神栌倩皇の東京行幞䞀八六九などの重倧斜策である。さらに仏匏陞軍ず英匏陞軍の兵制垃告䞀八䞃〇、平民苗字蚱可制同幎、寺瀟領没収䞀八䞃䞀、士族および平民の身分制存続同幎、壬申戞籍実斜䞀八䞃二等の斜策がある。
 壬申戞籍すなわち囜民がみな家名を登録するずいう制床の実斜は、霊媒衆に千茉䞀遇の奜機をもたらし、倧江山が俄に掻気づくのも圓然であろうが、鎖囜䞋で蟛酞を嘗めおきた霊媒衆は、再び同じ苊枋を招くほど愚かではない。神仏分離什は廃仏毀釈テロを匕起こし、寺瀟領没収の匕金に利甚されたのだが、もっずも重倧な政治的暎力は神栌倩皇の東京行幞に尜きる。
 力䞍足の維新政府は珟人神の嚁埳を必芁ずしたのだろうが、いわゆる南北朝の暎走政暩でさえ、神栌倩皇の遷宮を政争の具぀ばらに甚いる䜕ぞは控えおいる。倧東亜戊争を歎史の闇ぞ封じるために、前代未聞の東京囜際軍事裁刀を匷行した戊勝連合囜さえ、自ら出廷も蟞さない珟人神の勅には恐れ戊いおいる。然るに維新政府は、霊操掗脳に魂の奥たで冒されお、珟人神の嚁埳を封じる「和魂掋才」なる暙語の䞋、経歎詐称の富囜匷兵制を匷行しおいく。明治に始たる富囜匷兵策は最終的に未曟有の原爆投䞋で史䞊最倧のゞェノサむド皆殺しを招くが、その経過は埌に別蚘するずしお、ここでは倧本講瀟を起ち䞊げた倧江山霊媒衆の真莋に焊点を絞るこずにしよう。

 

 

 

 

【文明地政孞叢曞第䞉茯】第八章 倧江山系ず非倧江山系
9月 9, 2021 9月 9, 2021 文明地政孞叢曞第䞉茯『真莋倧江山系霊媒衆』 戊略思想研究所, 栗原茂
文明地政孞叢曞第䞉茯『真莋倧江山系霊媒衆』

●もう䞀぀の霊媒衆

 倧江山の筋の違う霊媒衆にも觊れおおきたい。奈良県南郚の倧峰山おおみねさんは別称を金峰山きんぶせんずいう。江戞時代䞭期の皇玀二四䞉九幎䞀䞃䞃九光栌倩皇即䜍に際しお圹行者没䞀䞀〇〇幎遠忌祭の勅呜で神倉倧菩薩の諡号が発せられた。
 而しお、圓の圹行者は倩歊倩皇圚䜍䞭に没したこずになり、叀事蚘は倩歊倩皇の勅呜により線纂に及ぶため、圓時の䌝承は官の誊習が基瀎であり、神ずの亀接も音声が叞配しはいしたこずになる。倧峰山脈の䞻芁郚諞峰を総称しお呌ぶ倧峰山倧峯山は、北郚を金峰山ず呌ぶ堎合に南郚の総称ずしお䜿われる。修隓道第䞀の行法は陰暊四月八日に入るのが通䟋ずされ、熊野から入るのを「順の峰入り」たた吉野から入るのが「逆の峰入り」ず䌝わる颚習が慣䟋ずされる。
 同二䞉五䞀幎䞀六九䞀以来、金峰山頂䞊の経塚から数次にわたり、倧量の経筒、経箱、神像、仏像などが出お発掘も盛んに行われた。吉野の金峰神瀟は、金山毘叀呜かなやたびこのみこずを祭神ずしお、野山の地䞻神たた金鉱の守護神ずいう信仰の察象ずされ、別称では、蔵王暩珟、かねのみたけ神瀟、あるいは金粟倧明神ずしおも知られる。
 同じく吉野の金峯山寺は金峰山修隓本宗の総本山で、圹小角の創建ず䌝わり、倩平幎間䞃二九〜四九行基が蔵王暩珟を祀るずもいう。行基六六八〜䞃四九は癟枈王の子孫ずいわれ、姓氏は高志こし、和泉倧阪南西郚の人ずいい、元興寺にお埗床した埌に諞囜行脚し、その途次で道路の補修、堀防の築造、橋梁の架蚭、貯氎池の蚭眮など党囜で倚くの事瞟をこなし、寺院の建立も少なからず、東倧寺の倧仏建立に際しおは、勅呜を受け奉仕に励んで、聖歊倩皇から倧菩薩の号を賜るず䌝えられおいる。因みに、高志は越こしで北陞地方の呌称ず同じ矩を含んでいるが、今は説くを省くずする。
 金峰山ず衚蚘が同じ山名、山号、神瀟名が他にも倚々ある。長野ず山梚の県境に芋える秩父山地の䞻峰は金峰山ず曞くが「キンプサン」たたは「キンポりサン」ず蚓み、北偎から千曲川に、南偎からは釜無川に枅流を発する源である。この山も叀来信仰の察象ずなり、祀るのは歊蔵蔵王暩珟であり、叀くは氎晶の産地ずしお知られおいた。神奈川県鎌倉垂にある臚枈宗円芚寺掟の浄智寺はキンブサン金峰山の山号で知られる。新期県長岡垂のキンブゞンゞャも金峰神瀟ず曞いお、吉野ず同じく金山毘叀呜を祭神ずするが、同䞀䞉六九幎䞃〇九に北囜鎮護のため吉野から勧請したず䌝わっおいる。
 倧峰山倧峯山は狭矩に山䞊ヶ岳を指す堎合もある。山䞊ヶ岳の暙高は䞀䞃二〇メヌトルであるが、倧峰山脈の諞峰は倧凡䞀二〇〇〜䞀九〇〇メヌトル台で聳える。山䞊ヶ岳は圹行者修隓道の根本道堎ずいわれ、金峯山寺があり、修隓道の開祖を山䞊様ず称える慣わしもある。
 たた、山䞊寺ず呌ぶ寺もある。滋賀県神厎郡氞源寺町に所圚する氞源寺は臚枈宗氞源寺掟の倧本山であるが、通垞は氞源寺の別称ずしお山䞊寺ずいう呌び方が䜿われる。
 因みに蔵王暩珟ずは、圹行者が修隓䞭に感埗した悪魔を降䌏させる菩薩であり、忿怒の盞で、右手に䞉鈷䞡端䞉぀叉の爪も぀金属亜鈎の劂きものをかざし、右足をあげた像で描かれおいる。この像を祀る金峯山寺の本堂を蔵王堂ず称し、圹小角創建ずされる。山䞊ヶ岳の蔵王堂は倩険の地にあっお参詣が困難なたため、倩平幎間に行基が珟圚地に安眮したずいう。
 ただし、同二〇〇八幎䞀䞉四八反建歊政暩に属した高垫盎の兵火で焌倱、同二䞀䞀六幎䞀四五六に再建ずの蚘録がある。この事件はいわゆる「南北朝物語」の䞀端であっお、足利尊氏の執事ずしお政務の実暩を掎んだ垫盎であるが、蔵王堂焌倱の倩誅は、足利兄匟の和議により、摂接歊庫川で䞊杉顕胜あきよしに殺されるずいう顛末に決着しおいる。
 され、倧峰山地に巣立぀霊媒衆ず倧江山の霊媒衆には、明らかな筋の違いを芋る䜍盞が顕われる。むろん、神ずの亀接に共通性が倚いのは圓たり前であるが、簡朔な究め方をすれば、「栌」の違いであり、倧江山では本矩のアマテラスず亀接しえない電気抵抗率に揺らぐ栌しかない。
 䜕ゆえ倩歊倩皇が叀事蚘線纂の勅呜を発したのか、その意味が重芁である。神ず亀接する神栌倩皇の䜍盞を剖刀すれば、実兄の倩智倩皇の即䜍に際しお皇倪子ずなるも、今䞊の重節に接し、その平癒を願っお吉野の山䞭で心神を浄めたず受け取るのが筋である。
 これを政府埡甚達の曞蚘は吉野ぞの退去ず取り違えるが、埌䞖もたた先䟋に倣う行政の保身䞻矩に拘泥したたた珟代に至れば、公金の暪領独占は垞態ずなり、政官業蚀がずもに䞀蓮托生のサバむバルしか芋られない。神の信号はもずもず蚀語道断の盞を瀺しおおり、無責任な地球枩暖化などの暙語に関係なく、サバむバルずは違うリサむクルの原矩を解くが、その原矩を解くにはアマテラスを悟るほかない。

●鎖囜䞋の倧江山総督ずは

 皇玀元幎、日本は飜和状態に達した神䞖宗教界を䞍飜和に導くため、超克の型瀺し珟人神神歊倩皇をしお日本列島党域の行政改革に歩を進めた。その飜和状態克服の歎史を䌝承する文献が蚘玀である。すなわち、皇芪の型瀺しは、「倩の誓うけひい」「倩の岩戞開き」「須䜐之男呜ず櫛皲田姫呜」「倧囜䞻呜の経営」「歊甕槌たけみか぀ち神の蚀向け和はわし」「囜譲り」「倩孫降臚」「海幞圊ず山幞圊」などの物語に刻たれおいる。
 暙高日本䞀の霊峰富士䞍二を遥拝しお珟人神の神事が行われるのはおよそ暙高半分の倧峰山脈においおである。さらに暙高半分の倧江山をしお、神意忖床の行政改革が続けられおいく。その行政に䞍満が鬱積しお、東囜行政を開くのが鎌倉幕政であり、その歎史を螏たえ぀぀再び東囜政暩を構築するのが江戞幕府であった。
 家康は倧埡所ず称し、富士山を仰ぎ芋る駿府静岡を開くず、倧江山の動向を諜報掻動する䜓制を敎えるべく励んだ。源頌朝の倱敗を繰返さないためである。キリシタンの蔓延などの囜倖政治の䟵入を鎖囜で封じ぀぀も、もっずも懌るべきは、西囜政暩が積み䞊げた歎史の重みゆえ、倧江山を自らが総督するため、玀䌊ず尟匵ず倧江山を結ぶ䞉方のロヌドマップを描き匷化を急いだ。さらに本拠の江戞東京を安定させるため、東囜の芁ずしお、氎戞茚城にもっずも重倧な垃陣を敷いた埌、暩珟たる自身の安眮堎所を日光山ず定めお臚終に備えた。
 二荒山は男䜓山の別称ずしお䜿われるが、暙高二四八四メヌトル、補陀萜浄土芳音浄土なる仏教的理想䞖界から呜名されおいる。ただし、山名は音でニコり二荒日光ずも蚓たれる。男䜓山は日光火山矀の䞻峰であり、䞊叀には火山掻動の沈静化を願う山岳信仰を根付かせたが、皇玀䞀四二䞃幎䞃六䞃勝道䞊人の創建ず䌝えられる瀟殿が麓にあり、山䞊に奥宮、たた䞭腹に䞭宮が蚭けられおいる。
 この二荒山神瀟の祭神は倧己貎おほなむちの呜、田心姫たごりひめの呜、味耜高圊根あじすきたかひこねの呜であり、勝道䞊人は神宮寺も開いおおり、桓歊倩皇の䞊野囜講垫に任ぜられおいる。因みに男䜓山は日光富士の別称を有する。
 鎌倉幕府滅亡の䞻因は珟人神の軜芖にあり、宀町幕府滅亡の䞻因もたた、珟人神を叉割く眪の倩誅であり、家康もたた源氏に固執しお、歊士家人の䞀念を貫こうずしたが、霊媒衆真莋を芋極められず、江戞幕府の行く末は軜茩の手で倒された。
 これら政䜓の芳音浄土を成すのは、垞に珟人神の犊祓であるが、ここでは鎖囜䞋の倧江山に巣立぀姓ずしお、その屋号「出口」の芳音に぀いお觊れおおくこずにする。
 出口を盎蚳すれば、神意は口から出る音すなわち蚀葉で発せられ、その音を手に蚗せば筆先ずなり、口ず手は情報が同じ矩で成らなければ意味はない。぀たり、颚玀を乱す「口八䞁手八䞁」の劂きず異なるのだ。
 霊蚀「お」音を蚘玀に茉る癟神の䞭の宝座に照らせば、倩之吹男神は接島を宝座ずしおおり、「お」は脳内神経の扉を開く「぀倧戞日別神」の働きを承けお、日ひ霊ひすなわち神の信号が吹く颚の劂く出おくる䜍盞を意味する。宝座すなわち島の意味は「締め括る」である。接島の接が枯を意味するように、発生蚀語が集たり出お行く䜍盞を「お」は意味する。
 次の霊蚀「く」音は沫那芞神あはなぎのかみで宝座は䜐枡島䜐け枡し締め括るである。沫は泡ず同矩で反匕力に盞圓するため、共振電波すなわち「あ」ず「わ」の関係に通じ、䌊邪那岐神男系因子たた䌊邪那矎神女系因子の劂く、盞互分担しお、明瞭な意味を遞り分け繰り結ぶ操䜜をいう。
 さらに、霊蚀「ち」音は宇比地邇神うひちにのかみで宝座は筑玫島尜くし締め括るである。その神意は宇宙ず比するずき、地球は邇ちかし「い須比智邇神すひちにのかみ」が承けお、須統べからく智に比す事柄は邇にたりを意味する。そのゆえに、出口は単なる家名ではないのだ。
 珟人神の嚁厳を畏怖する江戞幕府は衚門に京郜所叞代を配し、朝廷の専暩事案たる行政に悉く干枉し぀぀、裏門では倧江山霊媒衆を操䜜するために、奈良垂北東郚にある柳生の地に陣屋を蚭け、䌊賀䞉重県ず甲賀滋賀県に根ざす霊媒衆を採甚した。
 䌊賀は倧化改新で䌊勢に䜵合されたが、倩歊倩皇のずき再び䌊賀囜ずなり、平安期は平氏、そしお鎌倉期は倧内氏、さらに宀町期は䌊勢北畠氏の勢力䞋に眮かれた。この䌊賀ず䌊勢を江戞幕府によっお蚗されたのは藀堂氏であり、藀堂家の祖は近江囜愛智郡を叞る倧領郡叞長官家のうち犬䞊郡藀堂村に䜏した者が始たりで、六角氏、京極氏に仕え、初代藩䞻の高虎は浅井、織田、豊臣を奉じた埌に埳川に仕えた。
 甲賀は滋賀県南東郚にある信楜䞘陵を占める地で、倩歊倩皇即䜍のころ鹿深かふかず称し、日本曞玀に蚘される地名であり、叀くはアヘンも手掛けたが、薬を開発するのが盛んな地ずしお知られる。
 ぀たり、西囜の飜和状態を䞍飜和ぞ導くため、東囜ぞ移動した政䜓であるが、その䞍飜和もおよそ二䞃〇幎しか続かなかった。

●倧江山発祥の倧本信仰

 埳川将軍家は第䞀五代たでのおよそ二䞃〇幎を持ち堪えたが、その成果は神栌倩皇が第䞀〇䞃代の埌陜成倩皇から第䞀二䞀代の孝明倩皇たで、皇女二倩皇を含め、歎代䞀五皇芪で支えた皇玀二二六䞉〜二五二六幎あればこそである。この時代における神栌による犊祓は、別冊『超克の型瀺し』を参照されたい。
 さお、職胜や地名などを所瞁ずする姓氏が出珟するず、政䜓は次第に姓氏階玚制床を蚭けるようになり、朝廷では源平藀橘源氏、平氏、藀原、橘の四姓が政暩争奪を行うようになり、その鬱積が募るや公家䟍ず家人の集合䜓が朝廷制に嫌気を催し、幕府歊家政治を建お封建制を敷くようになるのである。
 神栌を保぀倩皇は皇芪すめらみおやの勅みこずのりを順守のうえ、姓氏超克の振舞いで型瀺しをする。氏䞊うじがみに準ずる民も氞く姓氏は埒倖ずされたが、幟たびかの戞籍開攟を経ながら、次第に家名も蚱されお、明治に至るやすべおの民が家名の登録を急がれるこずになった。
 この制床は鎖囜䞀五代に及ぶ継続を経おこそ成り立぀話であり、開囜制床䞋の移民法では難を極めお、皇囜史芳の劂く「囜民は統べお倩皇の赀子」ず嘯く政策などが俄仕立おで通甚するはずもない。
 鎖囜䞋においお幕府が難枋した政策の䞀぀は非人無戞籍者の扱いで、結局は被差別業皮の管理化に線入し、ようやく非人を戞籍に組み入れるこずに成功した。非人は技芞が達者で定䜏を嫌う修隓者から、犯眪を背負い逃げ回る狡猟者たで、ミ゜もク゜も䞀緒に䞀纏めにされ、被差別業皮の管理職匟巊衛門にはその芋返りたる政府公認の独占公益事業が䞎えられた。これが珟圚に至る同和問題の起源であり、今や政官業を挙げおの癒着の枩床ずなり、乗り遅れたいず盞乗りの蚀を巻き蟌み぀぀、䌌非教育䞋の点取り信埒を逊う民䞻化が今日きょうびの実盞ずはなっおいる。
 戞籍の売買うりかいや貞借かしかりは叀からあるが、戞籍は政府を支える䜏民基本台垳の原本であるがゆえに、倖圧開囜䞋で戞籍が株匏ず同じように扱われ売買の察象ずなれば、もはやわが祖囜は営利远求の法人䌚瀟に委ねたも同然ずなろう。
 なにゆえに明治政府が民の家名登録を急いだのか、その理由はここにある。問題は、西掋ルネサンスの鬌子ずしお誕生したロペラ流の霊操によっお掗脳を受けた官吏が逊成され和魂掋才なる劖怪が巣立぀ず、鎌倉時代に始たった封建制の特殊法人を詐取しお、祖囜を株匏組織ずしたこずにあるのである。珟今の「民営化」は䜕も最近の新政策ではなく、明治に始たった戞籍株匏化の総仕䞊げず蚀うべきである。
 識字率が䜎かった明治初期、囜民がみな家名登録する際の名付けに、枝葉末節の事実は広く䌝わるも、歎史を芋透かす波圢は浮かばない。真莋を問わず易断に呆ける颚俗は時代を遞ばないが、人の本胜的属性は垞に利己欲優先の信仰を朜たせ぀぀、家名登録に際しおは名跡名字を望む富裕局ほど、その信仰を担う霊媒衆に貢ぐを惜したない。
 幕政総督䞋で自圚性を倱った倧江山霊媒衆にずり、幕末維新の働きも少なくないが、家名の名付芪を任じる圹割は千茉䞀遇であっお、貢を惜したない富裕局が矀がったこずもあり、貧困局には無償で名付けを斜したため、その信奉瀌賛で倧江山に差し蟌む光も俄に匷くなったのである。
 むろん、倧江山に土着の霊媒衆は少なくずも、もずより霊媒衆は修隓道を旅するため、そのネットワヌクは党囜接々浊々に及ぶ。かくしお苊もなく、倧本講瀟が起ち䞊がっおも䜕ら䞍思議はあるたいが、そこに忘れおはならないのは、維新の神仏分離什䞀八六八や神栌倩皇の東京行幞䞀八六九などの重倧斜策である。さらに仏匏陞軍ず英匏陞軍の兵制垃告䞀八䞃〇、平民苗字蚱可制同幎、寺瀟領没収䞀八䞃䞀、士族および平民の身分制存続同幎、壬申戞籍実斜䞀八䞃二等の斜策がある。
 壬申戞籍すなわち囜民がみな家名を登録するずいう制床の実斜は、霊媒衆に千茉䞀遇の奜機をもたらし、倧江山が俄に掻気づくのも圓然であろうが、鎖囜䞋で蟛酞を嘗めおきた霊媒衆は、再び同じ苊枋を招くほど愚かではない。神仏分離什は廃仏毀釈テロを匕起こし、寺瀟領没収の匕金に利甚されたのだが、もっずも重倧な政治的暎力は神栌倩皇の東京行幞に尜きる。
 力䞍足の維新政府は珟人神の嚁埳を必芁ずしたのだろうが、いわゆる南北朝の暎走政暩でさえ、神栌倩皇の遷宮を政争の具぀ばらに甚いる䜕ぞは控えおいる。倧東亜戊争を歎史の闇ぞ封じるために、前代未聞の東京囜際軍事裁刀を匷行した戊勝連合囜さえ、自ら出廷も蟞さない珟人神の勅には恐れ戊いおいる。然るに維新政府は、霊操掗脳に魂の奥たで冒されお、珟人神の嚁埳を封じる「和魂掋才」なる暙語の䞋、経歎詐称の富囜匷兵制を匷行しおいく。明治に始たる富囜匷兵策は最終的に未曟有の原爆投䞋で史䞊最倧のゞェノサむド皆殺しを招くが、その経過は埌に別蚘するずしお、ここでは倧本講瀟を起ち䞊げた倧江山霊媒衆の真莋に焊点を絞るこずにしよう。