極東国際軍事法廷 各国要人言論集
【大東亜戦争に関する日本政府要人・有識者の意見】
草津珍彦 (神道学者)
「日本の戦時指導者をいささか酷評するとすれば、かれらの中には『征服』の野望を秘めて『解放』の教義を説いた者が少なくないともいひうるであらう。かれらは決してヒットラーのごとく傍若無人に率直大胆に強者の権利を主張しえなかつた。天皇の精神的権威はそれを許さなかつた」
「これは日本とドイツとの大きな開きである。仮に征服の野望を秘めてゐる者が、その野望によつて行動したとしても、かれは常に解放の教義を無視しえない。そこには大きな自己制約の力が作用した。しかも日本国民は、その解放の教義を信じうる限りにおいてのみ、忠勇義烈の戦闘意識を発揮しえた。国民の意識は、天皇の精神的伝統的権威と結びついて、目に見えざる大きな圧力となつて、戦時指導者に、間接的ではあるが大きな制約を加へてゐることを見失つてはならない」
「日本帝国が掲げた『大東亜共栄圏』の精神は、いかなるものであつたか。そこには日本人の侵略的植民地主義の影がなかつたとは云ひがたい。東洋における欧州的一新帝国を目標として成長して来た日本の政府や軍の体質の中には、それは当然に強力に存在するものであつた。だがそれと同時に日本民族の中に脈々として流れた日本的道義の意識、アジア解放の悲願の存在したことも無視してはならない。そこには清くして高きものと、濁りて低きものとが相錯綜し激突しながら流れて行つた」
「日本人の書く大東亜戦争史が、祖国と東洋の独立と解放を志して、男々しくその生命を捧げた忠烈の勇士たちの心情に対して、非礼であることは許されない」
『明治維新と東洋の解放』より
【極東国際軍事法廷・アメリカ合衆国の原爆投下に対する日本政府要人・有識者の意見】
日本政府
「米国政府は今次世界の戦乱勃発以来再三にわたり毒ガス乃至その他の非人道的戦争方法の使用は文明社会の輿論により不法とせられをれりとし、相手国側において、まづこれを使用せざる限り、これを使用することなかるべき旨声明したるが、米国が今回使用いたる本件爆弾は、その性能の無差別性かつ残虐性において、従来かゝる性能を有するが故に使用を禁止せられをる毒ガスその他の兵器を遙かに凌駕しをれり。米軍は国際法および人道の根本原理を無視して、すでに広範囲にわたり帝国の諸都市に対して無差別爆撃を実施来り」
「而していまや新奇にして、かつ従来のいかなる兵器、投射物にも比し得ざる無差別性惨虐性を有する本件爆弾を使用せるは人類文化に対する新たなる罪悪なり。帝国政府はこゝに自からの名において、かつまた全人類および文明の名において米国政府を糾弾すると共に即時かゝる非人道的兵器の使用を放棄すべきことを厳重に要求す」
昭和20年8月10日、スイス政府を通じて米国政府へ提出した原爆投下に対する抗議文
近衛文麿(元内閣総理大臣)
「大局的に考えて、一体戦争犯罪人としての逮捕命令には、従うべきものかどうか、戦勝国が何でもでき、誰でも逮捕できるというなら、ヒューマニズムも法律もあったものではない。すでに指名される理由を認めずとすれば、これを拒否すべきものと思う。然るに今日のわが国の実情では、こっちにその権利は、何一つないという考え方が風をなしているし、その熱意もどこにもない」
阪埜淳吉(極東国際軍事法廷 日本側弁護人)
「時に恣意的に、また、時には当事者のいずれかに偏頗に自由自在に発揮できるわけで、東京裁判の全過程を通じ弁護団側は、その訴訟指揮に悩まされて向う所を知らないといつた状態におかれがちであつた」
「このような事情のもとで弁護団側が準備し提出せんとした証拠のうち、その約三分の二は証明力はなし、関連性なし、重要性なし等の訴訟指揮により却下される運命となり、一方では検察団側には木戸日記、原田・西園寺回顧録など多数の伝聞証拠の提出を許容し、弁護団側には最良証拠提出を要求して、このような証拠は却下するという事態にもなつたのである」
清瀬一郎(極東国際軍事法廷 日本側弁護人)
「当裁判所の管轄に関する動議につき説明させていただきます。その第一は、当裁判所においては、平和に対する罪、また人道に対する罪につきお裁きになる権限がないということであります」
「本裁判所は、七月二十六日、連合国によって発せられたポツダム宣言第十項を根拠として設置されたものである。同宣言は降伏文書によって確認、受諾されたものであり、日本のみならず、連合国も同項に拘束されている。よって同条項に規定されている以外の戦争犯罪人の裁判をなす権限はない」
「極東国際軍事裁判所条例には、「平和に対する罪」、「人道に対する罪」という明文があるが、連合国にはこれらの罪で起訴する権限はない。ポツダム宣言が発せられた一九四五年七月二十六日当時、連合国および日本で、戦争犯罪とは何と考えられていたか。世界各国で知られていた戦争犯罪は、戦争法規、慣例を犯した罪ということだ」
「ドイツと日本とは降伏の仕方が違う。ドイツは最後まで抵抗しヒトラーも戦死し、文字通り”無条件降伏”したのだから、連合国は裁判をしないでドイツの戦争犯罪人を処罰することもできたかも知れない。しかし、日本は、ポツダム宣言を受諾しての降伏であり、連合国もこの宣言を守る義務に拘束される。「ポツダム宣言」の条件の一つである戦争犯罪人の処罰も、通例の戦争犯罪で処罰されると思って日本政府は受諾したのである」
「一九二八年のパリ不戦条約により、国家の政策としての戦争、または侵略戦争は犯罪とされたのだという意見があるがこれは誤りだ。不戦条約は侵攻戦争を非難しているが、犯罪とはしていない」
「連合国は、今回の戦争の目的の一つが国際法の尊重であると明言している。ならば、国際法上の「戦争犯罪」の範囲を超越することはないと信じたい」
1946年5月13日、極東国際軍事法廷の管轄権について
「本法廷憲章中の第一の犯罪たる共同謀議 コンスピラシイといふ罪は法廷憲章中に其の名称が挙げられてあるのみで定義が下されて居りません。共同謀議を処罰するチヤーター[極東国際軍事裁判所条例]の規定が適法であるか不適法であるかは別として何か定義を下さなければ検察官に於て犯罪であるとして主張せられる事実を定める事が出来ません。同時に被告側が如何なる証拠を提出せねばならぬかを知ることが出来ませぬ。
検察側は合衆国の下級連邦裁判所の判例を引用して共同謀議を定義せんと試みられました。而してかゝる裁判所の判例には議論の余地がないと主張せらるるごとくであります。この裁判所は国際裁判所であります。また裁判官御自身既にこの裁判所がその地位に鑑みて、仮令合衆国の憲法であつても当然これを適用するが如きことは考へてをらぬとの意見を述べてをられます。従つてこの裁判所が米国憲法の規定の所産であるに過ぎない連邦下級裁判所の判例をそのまゝ採用せらるゝが如きことは益々以てあり得べからざることといはねばなりません」
1947年2月24日、極東国際軍事法廷冒頭陳述
「それ[却下された証拠書類]は厖大なものです。なかでも日本政府の声明、これはセルフ・サービング、つまり自分で自分を弁護するものだといつて初めから却下されてしまうのです。中国との戦争、これは日本では事変と言つているが、あの時分の蒋介石政府なり汪兆銘政府との間の合意によつてできた声明、これも歴史上の記録ですが、みな却下です。おそらく弁護団側の出した証拠は十通のうち八通まで却下されたと思うのです」
高柳賢三(極東国際軍事法廷弁護人)
「一度ある戦争が侵略戦争又は国際法もしくは条約を侵犯する戦争と宣言せられれば、自国に対して戦時的奉仕をなした者は全て、他人が犯した殺人その他のおそるべき犯罪につき、たとへ何時、何処で、誰がかかる罪を犯したのであるか全然知らなくても、これについて責任を負はねばならぬこととなる」
極東国際軍事法廷冒頭陳述
萩原徹(外務省条約局長)
「日本は国際法上、条件付終戦、せいぜい有条件降伏をしたのである。何でもかんでもマッカーサーのいうことを聞かねばならないという、そういう国として無条件降伏をしたわけではない」
雑賀忠義(広島大学教授 広島原爆慰霊碑碑文作成者)
「広島市民であるとともに世界市民であるわれわれが過ちを繰り返さないと霊前に誓う。これは全人類の過去、現在、未来に通じる広島市民の感情であり、良心の叫びである。”広島市民が過ちを繰り返さぬといっても外国人から落とされた原爆ではないか。だから繰り返さぬではなく、繰り返させぬであり、広島市民の過ちではない”とは世界市民に通じないことばだ。そんなせせこましい立場に立つ時は過ちは繰り返さぬことは不可能になり霊前でものをいう資格はない」
1957年、ラダ・ビノード・パール氏の、慰霊碑碑文がアメリカの罪悪を問うものではないという批判に対して
加藤典洋(明治学院大学教授)
「戦争終結時にはどうしても戦争勝利者としての「フリーハンド」を持っていることを至上目的とし、しかも一方的に敵を裁き敵からは裁かれない地歩の獲得を眼目のうちに含んだ政策が、実は、原子爆弾使用を彼らに可能にさせるための不可欠の条件として、彼ら連合国の指導者に必要とされていたのではなかったか」
【日米戦争におけるアメリカの先制攻撃の意図、日本の自衛戦争を認める意見】
ダグラス・マッカーサー(GHQ司令官)
問
「では5番目の質問です。中共(原語では赤化支那)に対し海と空とから封鎖してしまへというふ貴官の提案は、アメリカが太平洋において日本に対する勝利を収めた際のそれと同じ戦略ではありませんか」
答
「その通りです。太平洋において我々は彼らを迂回しました。我々は包囲したのです。日本は八千万に近い厖大な人口を抱へ、それが四つの島の中にひしめいてゐるのだといふことを理解しれいただかなくてはなりません。その半分近くが農業人口で、あとの半分が工業生産に従事してゐました。
潜在的に、日本の擁する労働力は量的にも質的にも、私がこれまでに接したいづれにも劣らぬ優秀なものです。歴史上のどの時点においてか、日本の労働者は、人間は怠けてゐる時よりも、働き、生産してゐる時の方がより幸福なのだといふこと、つまり労働の尊厳と呼んでもよいやうなものを発見してゐたのです。
これほど巨大な労働能力を持つてゐるといふことは、彼らには何か働くための材料が必要だといふことを意味します。彼らは工場を建設し、労働力を有してゐました。しかし彼らは手を加へるべき原料を得ることができませんでした。
日本は絹産業以外には、固有の産物はほとんど何も無いのです。彼らは綿が無い、羊毛が無い、石油の産出が無い、錫が無い、ゴムが無い。その他実に多くの原料が欠如してゐる。そしてそれら一切のものがアジアの海域には存在してゐたのです。
もしこれらの原料の供給を断ち切られたら、一千万から一千二百万の失業者が発生するであらうことを彼らは恐れてゐました。したがつて彼らが戦争に飛び込んでいつた動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだつたのです」
「1951年5月3日、アメリカ合衆国議会上院の軍事外交合同委員会で行われた米国の極東政策をめぐってのマッカーサー証言」
オリバー・リットルトン(英国軍需生産大臣)
「日本がアメリカを戦争に追い込んだというのは歴史の狂言である。真実はその逆である。アメリカが日本を真珠湾に誘い込んだと見るのが正しいのだ」
1944年6月20日、ロンドンの商工会議所でのスピーチ
D・ショート(米国下院共和党議員)
「真珠湾攻撃に関するすべてのいきさつと真実が語られ、白日の下に晒されるならば、米国国民は衝撃を受け、激怒し、かつ悲嘆にくれるだろう。彼らの心は深い悲しみに包まれ、激しく傷つけられるだろう」
1944年11月28日
ハーバート・フーバー(元アメリカ合衆国大統領)
「若し吾々が日本人を挑発しなかつたならば決して日本人から攻撃を受ける様なことはなかつたであらう」
チャールズ・ビアード(歴史学者)
「日本が真珠湾を攻撃するより数カ月前にルーズベルト大統領はアメリカをして海外に秘密なる軍事行動をなさしめた」
1948年著 「ルーズベルト大統領と第二次世界大戦」より
ウィリアム・ローガン(極東国際軍事法廷 日本側弁護人)
「1941年7月26日の最後的対日経済制裁を米国大統領が真剣に検討いてゐた時、彼はかかる措置の当否について軍部首脳の意見を求めました。之に対する軍部の答申は断然「対日貿易は此際禁止すべからず、若し禁輸を行へば、恐らく極めて近い将来に於て日本はマレー及び蘭領東印度諸島を攻撃するに至り、而して恐らく米国を近い将来に太平洋戦争の渦中に投ずることとなるであろうから」といふのでありました。「現実主義的権威筋が殆ど挙つて」、日本に対し「徹底的経済制裁を加へる」ことは「重大なる戦争の危険を意味」することを主張したのみならず、忌憚なき日本側の米国国務省官辺に対する批判も亦、斯る行動は「日本をして早晩護謨其の他の物資確保の為め馬来半島及び蘭印に南下する以外に途なき」」
1947年8月4日 極東国際軍事法廷冒頭陳述「太平洋段階第二部・日本に対する連合国の圧迫」より
「連合国が行ひました経済封鎖は日本に対する戦争行為に外ならないものであると断定する権利を有つてゐたのであります。がそれにも拘らず日本はその特有の忍耐力を以て、円満にこの争を解決しようと試みたのでありました。然るに経済封鎖は教化せられ、軍事的包囲の脅威と相俟つて、遂に日本をして自国の存立の擁護の為には、最終的手段として戦争に訴へざるを得ないと考へしむるに至つたのでありました。日本がこの連合国の経済封鎖を以て直ちに宣戦布告に等しきものなりと解釈する事なく、平和的解決を交渉に依て忍耐強く追求いたしました事は、永遠に日本の名誉とするに足る処であります。(中略)其れは不当の挑発に基因した、国家存立のための自衛戦争であつたのであります」
「日本に対する経済的圧迫の政策を以て西欧列強は相提携して、軍事力を以てその政策を強行する為一層強硬な而も峻烈な措置をとるに至りました。中国に対し軍隊と戦争資材とを提供し、その結果として中国の土地に日本人の血潮を流す事になり、而もそこに対日侵略はなかつたと検察側は果して正当に主張し得られませうか。日本が日本を取り巻いて固く張りめぐらされてゐた軍事上の包囲陣に対して反撥すべき正当な理由を持つて居つたかどうかを証拠を調べて検討して見ませう。事実は日本が自己防禦の為に攻撃を加へるべき正当な権利を持つて居つたといふ事を充分に証明するのであります」
「武力の誇示を伴つた経済封鎖が、此れ程大規模に用意周到な計画的な統一的な正確さを以て遂行され、その目的、即ち日本をして最初の一撃を行はしめんとする明白な期待と希望とを挑発する目的が首尾よく貫徹されたことは、歴史上未だ他に其の例を見ないのであります。日本を刺激して攻撃に出てしめようとする、その公言せられた目的が完成されたのでありますから、此の日本の攻撃が自衛手段でないと記録することは実に歴史に一汚点を残すものであります」
1948年3月10日 極東国際軍事法廷最終弁論「自衛戦論」
ハリー・エルマー・バーンズ(米国歴史家)
「ルーズベルトの一九三七年一〇月五日のシカゴ演説から、一九四一年一二月七日午前七時五五分ごろ真珠湾上に日本爆撃機が出現するに至る真珠湾攻撃の責任は、事実を知っている人たちにとって、自ら進んで公表する勇気があるかどうかには関係なく、まったく明らかである」
「大西洋でヒトラーを戦争行為に挑発できないことがはっきりしてきた一九四一年六月の、日本の経済的扼殺で始まった戦術の切り換えを除いては、戦争への道はまったく直線的であった。全局面を通ずる戦争工作の建築家であり大指揮者だったのはフランクリン・デラノ・ルーズベルトだ」
J・A・ロジャース(米国ジャーナリスト)
「そもそもヨーロッパやアメリカがこれらの地域を植民地支配しなければ、日本との戦争は起こり得なかった。真珠湾はなかったはずだ」
ラッセル・グレンフェル(英国海軍大佐)
「普通の情報を与えられている人は誰でも、日本が卑劣な奇襲攻撃をかけたと信じるものはなかった。だが政府中枢部では攻撃は十分に予期されていただけでなく、実際上欲せられていた。ルーズベルト大統領が戦争を欲していたことは疑う余地はないが、政治的理由から、最初の攻撃が相手方から加えられることを望んでいた。そのため自尊心をもつ国なら、いかなる国でも武力に訴えるほかない地点にまで日本に圧力を加えたのである。日本はアメリカ大統領によってアメリカを攻撃することにされていた」
1952年
カーチス・B・ドール(米軍大佐 フランクリン・ルーズベルトの娘婿(後に離婚))
「ホワイトハウスで一九四一年一一月二五日に開かれた運命的な会議の記録を読み返してみて、私の以前の岳父、ルーズベルト大統領および彼の側近たちの戦略は、平和を維持し保障することではなく、事件を組み立てて、あるいは引き起こさせて、アメリカを日本との戦争に巻き込むという陰謀にもっぱら関わっていたと、私は悟ったのです。それを知って私の心は張り裂けんばかりでした。これは「裏口」からヨーロッパの戦争に入ることを可能にする計画でした」
1968年
セオドール・マックネリ(アメリカ・メリーランド大学教授)
「一九四一年、フランクリン・D・ルーズベルトは、議会での宣戦布告の何ヶ月も以前、ドイツ潜水艦の公海での合法的航行に対して、「即時狙撃」政策を宣言した。この好戦的政策は、国際法の違反であったであろうが、ルーズベルトは戦争犯罪人として責任の追及を受けることもなかった。しかし後にアメリカの修正論者による著作物は、ルーズベルトの日米戦争の責任を問うている」
「正論」1989年9月号
許國雄(中華民国政府行政院僑務委員会顧問 国際汎太平洋私学教育連合会副会長 東方工商専科大学学長)
「国際戦争は個人の喧嘩と同じく、誰が先に手を出したのかを問うのではなく、誰が喧嘩を売りつけたかを問わなければならない。このような意味で、米国を主とするA、B、C、D諸国は、日本を生き埋めにしようとハル・ノートで喧嘩を売りつけたのである。
戦後、米駐日大使グルーは「戦争のボタンが押されたのは、日本がハル・ノートを受け取った時点だというのが私の確信である」と主張し、英駐日大使クレーギーも同様の証言をしている。日本は喉元に刺された匕首を払うために、つまり生き抜くために戦ったのである」
1995年
【極東国際軍事法廷において日本側が提出し、却下された証拠】
「1.日本軍が行動を開始した以前における中国本土の状態に関する証拠
2.在中国の日本軍が中国に平和を恢復し、静謐をもたらしたことを示す証拠
3.一九二七年における中国の対英紛争に関する証拠
4.満州が日本の生命線であるという日本国民の輿論を示す証拠
5.a、ソビエト連邦とフィンランド、ラトビア、エストニア、ポーランドおよびルーマニアとの関係に関する証拠
b、米国およびデンマーク対グリーンランドならびにアイスランドの関係に関する証拠
c、ロシアおよび大英帝国ならびにイランの関係に関する証拠
6.原子爆弾決定に関する証拠
7.パリ条約の調印にさいして、数カ国のなした留保に関する証拠
8.a、新聞のための当時の日本政府の声明、すなわち、新聞発表
b、当時の日本外務省の発した声明
10.中国における共産主義に関する証拠
11.以上にあげたもの以外の理由によって証明力がないと考えられた証拠」
(ラダ・ビノード・パール判事がとりまとめたもの)
【ケロッグ・ブリアン協定に関する各国要人の意見】
ケロッグ(米国国務長官)
「アメリカの作成した不戦条約案中には、自衛権を制限乃至毀損するが如き点は少しも存在しない。自衛権はすべての独立国に固有のものであり、又あらゆる条約に内在している。各国家はいかなる場合においても、各条約の規定如何にかゝわらず、攻撃もしくは侵略から自国の領土を防衛する自由をもち、自衛のために戦争に訴うる必要があるかどうかは、その国のみがこれを決定し得るのである。正当な理由ある場合には、世界はむしろこれを賞讃し、これを非難しないであろう」
「アメリカ政府は、自衛の問題の決定を、いかなる裁判所であれ、それに委ねることを決して承認しないであろう。また(他国政府も)この点については同様に承認しないであろう」
1928年4月28日、ケロッグ・ブリアン条約に関してアメリカ議会での発言
アメリカ政府
「不戦条約のアメリカ案中のいかなる規定も、自衛権をいささかも制限または毀損するものではない。自衛権は、あらゆる主権国家に固有なものであり、あらゆる条約中に暗黙裏に含まれている。各国は、いかなる場合にも、条約規定とは関係なく、自国の領域を攻撃または侵入から防衛する自由を有し、かつ自国のみが、事態が自衛のため戦争に訴えることを必要とするか否かにつき決定する権限を有する」
1928年6月23日、各国に通達したケロッグ・ブリアン条約の解説文
高柳賢三(極東国際軍事法廷弁護人)
1.本条約は、自衛行為を排除しないこと
2.自衛は、領土防衛に限られないこと
3.自衛は、各国が自国の国又は国家に危険を及ぼす可能性ある如き事態を防止するため、その必要と信ずる処置をとる権利を包含すること
4.自衛措置をとる国が、それが自衛なりや否やの問題の唯一の裁定権者であること
5.自衛の問題の決定は、いかなる裁判所にも委ねられ得ないこと
6.いかなる国家も、他国の行為が自国に対する攻撃とならざる限り、諸行為に関する自衛問題の決定には関与すべからざること
ラーダ・ビノード・パール(極東国際軍事法廷インド判事)
「ある戦争が、自衛戦争であるかないかという問題が依然として、裁判に付することのできない問題として残され、そして当事国自体の「良心的判断」のみにまつ問題とされている以上、パリ[不戦]条約は現存の法律になんら付加するところがない」
【極東国際軍事法廷に対する各国要人の意見】
ダグラス・マッカーサー(GHQ司令官)
「東京裁判はあやまりだった」
1950年10月15日、ウェーキ島でトルーマン大統領と会見した際の言葉
ラーダ・ビノード・パール(極東国際軍事法廷インド代表判事)
「勝者によって今日与えられた犯罪の定義に従っていわゆる裁判を行うことは敗戦者を即時殺戮した昔とわれわれの時代との間に横たわるところの数世紀にわたる文明を抹殺するものである。かようにして定められた法律に照らして行われる裁判は、復讐の欲望を満たすために、法律的手続を踏んでいるようなふりをするものにほかならない。それはいやしくも正義の観念とは全然合致しないものである。かような裁判を行うとすれば、本件において見るような裁判所の設立は、法律的事項というよりも、むしろ政治的事項、すなわち本質的には政治的な目的に対して、右のようにして司法的外貌を冠せたものである、という感じを与えるかもしれないし、またそう解釈されても、それはきわめて当然である」
ウィリアム・ローガン(極東国際軍事法廷日本側弁護人)
「侵略戦争を開始し遂行する為の継続的共同謀議と云ふものはありえなかつたと云ふ事は事実を以て立証せられます。その事実とは一九三一年九月の満州事変、一九三七年七月の支那事変並に一九四一年十二月の太平洋戦争が夫々勃発した当時の二つの内閣の何れかの閣僚たりし者は被告の中に居らぬと云ふことであります」
1947年2月25日の冒頭陳述
「私は最初日本に着いた時には、これはとんでもない事件を引き受けたものだと、後悔しないでもなかった。しかるにその後種々調査、研究をしているうちに私どもがアメリカで考えていたこととは全然逆であって、日本には二十年間一貫した世界侵略の共同謀議なんて断じてなかったことに確信を持つにいたった。したがって起訴事実は、当然全部無罪である。しかしこれは弁護人である私が二年半を費し、あらゆる検討を加えてようやくここに到達した結論である。したがって裁判官や検事はまだなかなかこの段階に到達していないだろうと想像される。これが判決を聞かずして帰国する私の心残りである」
極東国際軍事法廷閉廷後、A級戦犯とされた方々への最後の挨拶
キーナン(極東国際軍事法廷検事)
「個人が国家の首脳者として公の資格に於て犯した不法行為について、歴史上初めて個人として罪を問われる為に、本法廷に召喚されておる・・・・・・のであります。我々はこれらの裁判はその意味において先例のないものであることを素直に認めます」
極東国際軍事法廷冒頭陳述
エリオット・ソープ(准将 GHQ対敵情報部長)
「敵として見た場合、トウジョウをはじめ、ただ怒り、正義その他の理由だけで、即座に射殺したい一群の連中がいたことは、たしかである。しかし、そうせずに、日本人に損害をうけて怒りにもえる偏見に満ちた連合国民の法廷で裁くのは、むしろ偽善的である。とにかく、戦争を国策の手段とした罪などは、戦後につくりだされたものであり、リンチ裁判用の事後法としか思えなかった」
ウィリアム・ウェッブ(極東国際軍事法廷裁判長)
「国際法に基づく厳密なやり方をあきらめて、特別法廷で蛮行ともいえる見せ物的な公開裁判を行うべきではない」
1945年6月26日、クイーンズランド州首席判事時代、オーストラリア外務省宛ての書簡にて
「本裁判所には、英米の概念に基づいて、純粋な共同謀議を犯罪とする権限はなく、また各国の国内法において共同謀議とされている犯罪の共通の特徴と認めるものに基づいて、そうする権限もない。多くの国の国内法が、国家の安全に影響を与える純粋な共同謀議を犯罪として取り扱っているかも知れない。しかし、国際秩序の安全のために、純粋な共同謀議という犯罪があると本裁判所が宣言することは、裁判官による立法をおこなうことに等しいであろう」
清瀬弁護人の共同謀議否定の冒頭陳述を受けての個別意見書
ジョージ・ケナン(国務省政策企画部初代部長)
「マッカーサー将軍の本部によって、その時点までに実施された占領政策の性質は、一見して、共産主義の乗っ取りのために、日本社会を弱体化するという特別の目的で準備されたとしか思えないものだった」
「このような法手続きの基盤になるような法律はどこにもない。戦時中に捕虜や非戦闘員に対する虐待を禁止する人道的な法はある。B級戦犯の裁判はそれに則っている。しかし公僕として個人が国家のためにする仕事について国際的な犯罪はない。国家自身はその政策に責任がある。戦争の勝ち負けが国家の裁判である。日本の場合は、敗戦の結果として加えられた災害を通じて、その裁判はなされている。といっても、これは勝利者が敗戦国の指導者を個人的に制裁する権利がないというのではない。しかし、そういう制裁は戦争行為の一部としてなされるべきであり、正義と関係ない。またそういう制裁をいかさまな法手続きで装飾するべきではない」
1948年 来日しての感想
C・A・ウィロビー(GHQ参謀部第二部部長)
「この裁判は歴史上最悪の偽善だった。こんな裁判が行われたので、自分の息子には軍人になることを禁じるつもりだ」
「日本が置かれていた状況と同じ状況に置かれていたならば、アメリカも日本と同様戦争に訴えていたに違いないと思うからである」
極東国際軍事法廷閉廷後、挨拶に訪れたレーリンク判事に対して
ウィリアム・シーボルド(GHQ外交局長、対日米国政治顧問、対日理事会議長)
「私は、起訴状のなかに述べられた、いまわしい事件の多くを、よく知っていたけれども、本能的に私は、全体として裁判をやったこと自体が誤りであったと感じた」
「当時としては、国際法に照らして犯罪ではなかったような行為のために、勝者が敗者を裁判するというような理論は、私は賛成できなかったのだ。もちろん、これと反対の意見のなかにも、相当の説得力をもったものもあった。そして歴史によって、その正当性が証明される時が、くるかもしれない。しかし、この点に関しては、私の感じは非常に強かったので、この最初の演出された法廷の行事が終るまで、私は、不安な感じに襲われ、再び法廷にはもどらなかった」
W・O・ダグラス(アメリカ合衆国判事)
「極東国際軍事裁判所は、裁判所の設立者から法を与えられたのであり、申立人の権利を国際法に基づいて審査できる自由かつ独立の裁判所ではなかった。それ故に、パール判事が述べたように、同裁判所は司法的な法廷ではなかった。それは、政治権力の道具に過ぎなかった」
1949年6月27日の意見書(1948年11月、東京裁判被告のアメリカ連邦最高裁判所への再審請求について)
モーン(英国爵位)
「チャーターは決して国際法を規定したものでもなく、また戦争犯罪というものを規定したものでもない。ただたんに裁判にかけられた僅かな人たちを裁くためにのみつくられたチャーターであった」
ハンキー (英国爵位 元内閣官房長官)
「未来に対して極めて重要な裁判を行う法廷を偏見の度合の少い連合国の構成国、もしくは、もつと公平な中立国の判事を参加させずに、戦争の矢おもてに立つた連合国の構成国の指名した判事だけで構成することに決定したことは、果たして正しく賢明だつただろうか。
われわれはいま少しで負けるところだつたが、かりに負けたとしたら、われわれは日・独・伊三国だけによる裁判に納得しただろうか」
「不戦条約その他の国際条約を侵犯し、隣国に対し侵略戦争を計画し、準備し、遂行し、占領地域の一般住民を虐待し、奴隷労働その他の目的のためにその土地から追放し、個人の財産を掠奪し、軍事上の必要によつて正当化されない都市村落の無謀な破壊を行うような罪を犯したことが一見明かな同盟国の政府および個人に対しても同じような裁判を行うつもりか。
このような裁判をやらないとすれば、ニュルンベルグの政策は敗者に適用する法律は勝者に対するそれとは別物だということを示唆しないか。哀れなるは敗者である!これは将来の悪い先例とならないか」
「奇怪な取り合わせをもつた法廷が一切の別異意見をそのままにして、誤つた手続きにのつとつて、多数決により、人間を死刑や長期の禁錮に処することができ、それをあえてしたということを思うとき、胸がむかついてくる」
1949年11月、著書「Politics,Trials and Errors(和訳「戦犯裁判の錯誤」)」より
フランシス・G・S・ピゴット(英国軍少将)
「卿は上院において、また新聞紙上、その他において、戦犯裁判制度そのものに対し断乎たる攻撃を行うなかで、憎悪と復讐の念を払拭すべきだという点を絶えず強調してきたが(中略)ハンキー卿の見解を支持する人々のなかでも軍の人々はほとんど一致してこれを支持した。元陸軍参謀総長、元帥ミルン卿が亡くなる前に私と最後に会つたときの話は、彼がいかに勝者による敗者の裁判に反対していたかを示した」
「戦犯裁判の錯誤」序文より
クヌート・イプセン(ドイツ・ルール大学学長)
「平和に対する罪に関する国際軍事裁判所の管轄権は当時効力を持っていた国際法にもとづくものではなかった。また、当時すでに戦争に訴えることは禁止されていましたが、これについては、個人責任は確立されていなかった。戦争禁止の違反については刑法上の制裁も存在しなかった。その限りにおいて、条例は事後法であり、東京国際軍事裁判所自身によって「一般的な正義の原則」と明確に認められた「法律なければ犯罪なし」の格言に違反するものでありました」
1983年5月、「「東京裁判」シンポジウム」にて
プライス (陸軍法務官)
「東京裁判は、日本が侵略戦争をやったことを、懲罰する裁判だが、無意味に帰するからやめたらよかろう。なぜならそれを訴追する原告アメリカが、明らかに責任があるからである。ソ連は日ソ不可侵条約を破って参戦したが、これはスターリンだけの責任ではなく、戦後に千島、樺太を譲ることを条件tpそて、日本攻撃を依頼し、これを共同謀議したもので、これはやはり侵略者であるから、日本を侵略者呼ばわりして懲罰しても精神的効果はない」
1945年12月、「ニューヨーク・タイムズ紙」にて
ジョージ・ファーネス(極東国際軍事法廷日本側弁護人)
「此の裁判所の判事は統べてそう云う[戦勝国の]国家の代表であり、是が原告国家の代表であり、又検察官も其の国家を代表して居るのであります。我々は此の裁判所各判事が明らかに公正であるに拘らず、任命の事情によって決して公正であり得ないころを主張するのであります。でありますから此の裁判は今日に於ても又今後の歴史に於ても、公正でなかった、合法的でなかったと云う疑いを免れることが出来ないのであります」
東京裁判公判
ブレナン (極東国際軍事法廷判事)
「サー・ウィリアム〔ウェッブ〕は、これまで日本の残虐行為にかんする調査をおこない、その報告をオーストラリア、英国政府に提出している」
「そのサー・ウィリアムが、東京の第一級戦犯法廷の裁判長をつとめるわけだが、諸外国ははたしてこの事態をどう考えるであろうか?
ここに、犯罪捜査を担当し、ある犯罪人の証拠集めにたずさわった刑事がいたとする。英国の法廷は、この刑事を、同類の犯罪人を裁く判事に任命するであろうか?」
「この問題は、必ず提起されるであろう。そして、そのさい、サー・ウィリアム・ウェッブは不快な立場におかれ、オーストラリアはバカ者扱いされるにちがいなく(中略)、各国は、英国の法概念にたいして嘲りの指をあげるであろう」
「ゆえに、私は、このときにあたり、わが国をことさらの侮辱から救うために警告を発するものである」
1946年3月22日付「シドニー・モーニング・ヘラルド」にて
ジョン・G・ブラナン(極東国際軍事法廷日本側弁護人)
「五、裁判所の判事達は全部日本と戦争をした国の国民であり、各国政府が日本は侵略戦争をした罪があるとの政治的決定を宣言している以上、判事達は公平無私の見解をとる事はできない」
「六、審理の冒頭、原告達は裁判官忌避を申立てようとしたが、法廷は各裁判官はマッカーサー元帥の任命に基づくとの理由で、この申立を却下した。公訴に対して判事の忌避を申立てる権利は、米国法廷で審理される全被告が持っている」
「八、よって原告は次の事を嘆願する(中略)
2、この訴願をするに至った、米行政・軍両当局の行為と執った処置は〔米国〕憲法違反であり、無効である事を宣言する事」
1948年11月、アメリカ連邦最高裁判所への「人身保護令適用のための訴願」
ベンブルース・ブレイクニー(極東国際軍事法廷日本側弁護人)
「裁判は不公平である」
「裁判所は、ある種の弁護の中立をきくことを拒絶したが、判決のなかでは、これらの弁護は「根拠とすべき証拠がないから」受理できないといつている。裁判所は検察側の「証拠」は新聞報道、二次的、三次的の噂、伝聞証拠、自称「専門家」の意見のかたちのものまで受理し、かかる「証拠」に基いて事実を認定し、有罪無罪を決定した。そして、日本人証人の証拠は(検察側に立つて証言したものは別であるが)不満であり、信頼できないとして、一切の弁護側証拠を、その判定に当たつて無視した」
「有罪は容疑の余地があるということ以上に立証されなかつた」
「判定は裁判所のそれではなく、裁判所の一部朋党〔グループ〕のものである。多数派七名の判事は、全般的に別異意見をもつたパル、ベルナール両判事を審議及び決定から除外したばかりでなく、部分的に別異意見をもち部分的に同調したローリング〔レーリンク〕判事および、結果について数点の疑問をもつたが別異意見は記録に止めなかつた裁判長サー・ウイリアム・ウェッブまでも除外されたことが明らかにされた。ある場合は死刑が六対五、またある場合は七対四の投票で科せられたが、いずれの場合も七人の判事以上の投票は得られなかつたことがわかつている。大部分の文明国では、死刑を科するには全員一致を必要とし、普通は単なる有罪と判定し、死刑を宣告することを言語道断と考えるし、文明社会もまた、これを言語道断と見るにちがいない。有罪は、容疑の余地があるということ以上になんら立証されなかつた」
1948年11月21日、マッカーサーに対する助命嘆願の覚書
オウエン・カニンガム(極東国際軍事法廷日本側弁護人)
「オランダはポツダム宣言の署名国ではない。しかも訴追事項の発生当時、オランダ政府は国際法上の合法的な存在ではなく、英国に亡命していた。したがって陸戦法規に対する裁判の権限を有せず、また検事任命の権利もない」
アンリ・ベルナール判事 (極東国際軍事法廷フランス側判事)
「条例は被告に弁護のために十分な保障を与えることを許していると自分は考えるが、実際にはこの保障は被告に与えられなかったと自分は考える
多くの文明国家でそれに違反すれば全手続きの無効となるような重大な諸原則と、被告に対する訴訟を却下する法廷の権利が尊重されなかった」
ベルト・レーリンク判事 (極東国際軍事法廷オランダ側判事)
「手続き上にも問題がいくつかあり、不公平な点がありました。
一例をあげると、中国における共産主義の脅威があったことを立証する機会を与えてほしい、との求めが被告側から出されました。そうした脅威があったために、日本は行動を起こしたと立証しようとしたのです。ドイツの場合は、ヨーロッパ大陸での大国になろうとして戦争に突入していったのですが、日本は、これとは違います。結局、裁判では、立証の機会は認められませんでしたが、アンフェア(不公平)だったと思っています」
1983年6月1日、「東京新聞」夕刊
「国際裁判所が、正義に基づいて処罰を加えることを求められているにもかかわらず、自ら正義の法理の法理を適用しているか否かを審査する機能や義務さえ与えられないで、たんに戦勝国の最高司令官の定めた法規を適用しなければならない。かようなことを本裁判所が認めるとすれば、それは国際法のためにこの上なく有害なことをしたことになるであろう」
ディビッド・スミス (極東国際軍事法廷弁護人)
「東京の国際法廷は、なんとしても米国の一市民であるマッカーサー元帥によって設置されたものである。マ元帥は、米国の行政部門(大統領)の命令によって設置したのだが、アメリカの立法府はこのような新規の裁判所の設置を、遣外司令官に委任したことはない。これは明らかに憲法違反である。したがって、その被告たちに、ヘービアス・コーパス(人身保護令)の手続きがとられるべきである」
1948年11月29日、マッカーサーに対する助命嘆願の覚書
「東京法廷は、真の国際法廷ではない。あれはマッカーサー元帥個人の裁判所である。元帥は、彼自身を国際的代表と呼ぶことによって、米国の法律と縁を切ることはできない。東京法廷は、マ元帥のための事実審議機関であって、判決は、直接マ元帥のところに移されたし、最終の決定はマ元帥にかかっていた」
「訴願者[日本人の被告たち]は、今までどんな文化的、現代的法廷も直面したことがないような弛緩した証拠と手続きに関する規則にさらされたのである。法廷は、反対と、例外とにかまわず、署名されていない口述書、宣誓されていない声明、新聞報道、二流、三流の伝聞証拠を受理した」
1948年12月16日、第1回口頭弁論
ジョン・プリチャード (ロンドン大学研究員)
「1.検察は真実の解明よりもとにかく日本側の指導者たちをきびしく処罰して、日本国民を再教育することを目的としていた。判事たちは検察側の主張をうのみにして弁護側の証拠とか主張は一方的に却下した明確な形跡が多い
2.一般に戦争犯罪とされる捕虜や民間人への残虐行為に関する記録は全体の五-一〇%で、ニュルンベルグ裁判よりずっと比率が低い。残りの「戦争についての政策」の部分は戦争を侵略と自衛に分けることは難しいし、日本の歴代指導者層が一致して侵略戦争を企図したともいえないから「戦争に関する共同謀議」とか「不法戦争による殺人」という訴因にも法的根拠をほとんどみいだせない
3.戦争後まで存在しなかった「平和に対する罪」を過去にさかのぼって適用する点やその「罪」の根拠を一九二八年のパリ不戦条約に求める点にも無理がある」
1989年、「極東国際軍事裁判記録」より
ゲルハルト・フォン・グラーン(アメリカ・ミネソタ大学教授)
「ドイツ及び日本の被疑者が容疑をかけられている犯罪を犯した頃、国際連盟及びパリ協定の盟約[不戦条約]が存在していたにもかかわらず、主権国が後に侵攻戦争と呼ばれる行為を計画し実行することを禁ずる国際法の規定はなかったということを指摘しておかなければならない。当時も今日も、「平和に対する罪」など存在しないことを支持する理由などいくらでも挙げることができる」
マンレー・O・ハドソン(常設国際司法裁判所判事)
「政治機構に関してどのような発展が、まさに行われようとしているにせよ、国際法の及ぶ範囲を拡大して、国家もしくは個人の行為を不法とし、これを処罰する司法作用を包含させるには、現在は未だその時期が熟しているとはいえない」
ヘレン・ミアーズ(GHQ労働委員会顧問)
「「世界で最も無慈悲な侵略者」である国民が、「二千六百年」もの長い年月、「世界征服」の努力を続けて来て、しかも「絶対不敗」だったのに、真珠湾攻撃の当時になつて、やつと、その小さな島国本土と、ごく僅かな近隣の重要ならざる、所所の小島や朝鮮とで成立した「帝国」になつた、というのは莫迦々々しいにも程があるといふものだ。この帝国のほかに、日本は委任統治領の島々や、満州国をも支配した。だが、それは僅かに第一次大戦以来のことだつた。近代期以前の日本の歴史は、約千八百年間に亙るが、この間、日本は自国の本土以外に、何らの領土をも獲得しなかった。侵略的拡張の日本の近代期は、我がペルリ提督が「蓋を揚げて」、日本の近代を招来した時から約五十年経つて、始まつたのである。
日本歴史中の事実は、日本国民が天性、侵略的であるという考へには極度に矛盾するのである」
1948年に刊行した「Mirror for Americans:Japan」より
クヌート・イプセン(西ドイツ・ルール大学学長)
「個人が責任を問われるべき行為は、前もって刑法に規定された場合に限り裁判と処罰の対象とされるということは、広く文明国によって認められた法の一般原則であります。国際軍事裁判所自らが認めたように、「『法律なければ犯罪なし』という法諺は主権を制限するものではなく、一般的な正義の原則」であります。しかしながら、国際軍事裁判所が行ったように、不戦条約違反を国際刑法の法源の一つとみなすことは、一般的に認められる解釈の方法にもとづいたものとは言えないのです。
従って、条例と国際軍事裁判所は、法的基礎を欠く以下の二つの点において、当時の国際法の枠組を逸脱しておりました。すなわち、(一)条約義務の違反に対する国家責任が個人責任に置き換えられた。そして、(二)この個人責任は新たに創出された国際刑法の根拠とされた、という点であります。それ故平和に対する罪に関する国際軍事裁判所の管轄権は疑わしいのであります。」
1983年、東京裁判国際シンポジウムにて
フランシス・B・セイヤー(ハーバード大学教授)
「共同謀議の理論は変則的、地方的な理論であると共に、そのもたらす結果もかんばしからぬものである。羅馬法はかやうな理論を知らず、又それは現代大陸諸国の法典中にも見当らない。大陸の法律家でかやうな理論を聞知してゐる者は希である」
P・W・シュレーダー(アメリカ・コーネル大学教授)
「歴史の過程は複雑すぎて、一つの軍事裁判所の判決で説明し切れるものではない」
アーメード・M・リファート(エジプト・カイロ警察アカデミー講師)
「現在問題としている世界戦争[第二次世界大戦]が始まった期日まで、国際社会においては、いかなる戦争も”犯罪”とはならなかった。”正義の戦争”と”不正な戦争”との違いは、国際法学者の学説の中においてのみ存在していたのである。パリ条約は戦争の性格を変えなかったし、国際社会における戦争に関して刑事上の責任を問うことはできなかった。戦争はこれまでと同じく法の圏外に取り残されたのであり、戦争遂行のあり方のみが法的規律の下に置かれたのであって、いずれかの戦争を犯罪とするいかなる慣習法も発達しなかったのである」
「[厳密な定義が確立されていない以上]”侵攻的”という語のもつカメレオン的性格は、敗戦国側の指導者を意味するだけのものとなるだろう。だとするならば、国際体制の中に危険な原理を導入し、国際社会における平和的関係を妨害することになるのである」
【パール判事の日本無罪論に対する各国要人の意見】
P・N・チョプラ(インド教育省事務次官)
「日本は戦時賠償しなければいけないとか、日本は戦争犯罪を犯したという告発に、パール博士は賛成しませんでした。博士は、インド政府の立場を十分に代弁したのです。我々は、全面的にパール博士を支持しています。このことを、我々は現在にいたるまで誇りに思っています。過去と現在を問わず、インド政府はパール博士の判決を支持しており、それは我々すべてのインド人にとっても言えることです」
平成6年12月
T・R・サレン(インド国立歴史調査評議会理事)
「極東国際軍事裁判は日本を侵攻者として告発しました。しかし、この戦争を特別な角度から見たのはインドの判事だけであり、私はこれに同意するものです。この裁判は侵攻国としての烙印を日本に押すための、イギリスとアメリカのプロパガンダでした。パール判事は極東国際軍事裁判の法廷は、日本を一方的な見地から偏った見方で裁判すべきではないと言明しました」
「パール博士がこのような判決を下した基本的な動機は何であったか。戦時の日本は侵攻的あったとする国際的な見解を博士は覆そうとしたのです」
M・L・ソンディ(シャワハルラル・ネール大学教授)
「東京裁判では判決が二つ出たのです。一つはヨーロッパとアメリカの判決で、もう一つはアジアの判決です。私は学者として、この二つの判決は同等と見なすべきであると思っています。それぞれが異なる文化から出た判決なのです。今こそ、この二つの判決を検討し、本当の判決を下そうではありませんか。我々には新しい判決が必要です。それはバランスがとれたものでなければなりません。従って、私は世界中の全ての学者に要求したい。公正な方法で、自由にかつ将来の展望に立ち、この東京裁判の問題を見直し、検討しようではないか、と。一方に偏った文化による、いわゆる多数派の判決、あるいは勝者の判決から抜け出し、世界が平和の中に生きるために、この件を早急に取り上げる必要があります。東京裁判は正しい判決を下しませんでした。それ故に、パール判事の貢献は将来のために極めて大きいのです」
【アメリカ合衆国の日本への原爆投下、無差別虐殺に対する各国要人の意見】
トルーマン(元米国大統領)
「二十万のわが国の若者の命を救い、敵側の三、四十万の命を救うことができると考えたから投下の決断を下したのだ」
戦後、原爆投下の正当性を問われて
合衆国戦略爆撃調査委員会
「日本政府が降伏の機会を窺っており、日本の各方面の指導者たちの証言によれば、仮に原爆が投下されなかったとしても、早い時期に他の口実が見つかっていたのではないかと思われる」
1946年7月1日に作成された報告書「戦争終結への日本の苦悩」より
ドワイト・D・アイゼンハワー(連合軍欧州最高司令官)
「原爆投下は全く不必要だ。もはやアメリカ兵の生命を救う手段としては必須ではなくなった。この恐怖の兵器を使えば、世界に反米世論を巻き起こすだけだ」
1945年7月16日、統合参謀本部会議にて
「彼が関連の事実を述べるのを聞いているうちに、自分が憂鬱な気分になっていくのがわかって、大きな不安を口にした。まず、日本の敗戦は濃厚で、原爆の使用はまったく不必要だという信念をもっていた。第二に、アメリカ人の命を救うために、もはや不可欠ではなくなっていた兵器を使用することによって世界の世論に波紋を広げることは避けるべきだと考えていた。日本はまさにあの時期に、「面目」を極力つぶさない形で降伏しようとしていると、私は信じていた」
1963年
ウィリアム・リーヒ(米国海軍大将 陸海軍最高司令官補佐官)
「私の意見では、広島と長崎に対してこの残忍な兵器を使用したことは対日戦争で何の重要な助けにもならなかった。日本はすでに打ちのめされており、降伏寸前だった」
「あれは最初に使うことによって、われわれは暗黒時代の野蛮人並みの倫理基準を選んだことになると感じた。あのように戦争を遂行するようには教えられなかったし、女、子供を殺すようでは戦争に勝利したとは言えない」
1950年
ウィリアム・ハルゼー(米国海軍大将 第三艦隊司令官)
「(原爆投下は)おもちゃを実際に試したかったから」
「史上初の原爆投下は全く必要のない実験だった」
「そもそもあれを落とすこと自体が間違いだった」
1946年9月9日
ラダ・ビノード・パール(極東国際軍事法廷インド代表判事)
「ドイツ皇帝ウイルヘルム二世は、かの戦争「第一次世界大戦」の初期に、オーストラリア皇帝フランツ・ヨーゼフにあてて、つぎのようなむねを述べた書翰を送ったと称せられている。すなわち、
「予は断腸の思いである。しかしすべては火と剣の生贄とされなければならない。老若男女を問わず殺戮し、一本の木でも、一軒の家でも立っていることを許してはならない。フランス人のような堕落した国民に影響を及ぼしうるただ一つのかような暴虐をもってすれば、戦争は二ヶ月で終焉するであろう。ところが、もし予が人道を考慮することを容認すれば、戦争はいく年間も長びくであろう。したがって予は、みずからの嫌悪の念をも押しきって、前者の方法を選ぶことを余儀なくされたのである」
これは彼の残虐な政策を示したものであり、戦争を短期に終わらせるためのこの無差別殺人の政策は、一つの犯罪であると考えられたのである。
われわれの考察のもとにある太平洋戦争においては、もし前述のドイツ皇帝の書翰に示されていることに近いものがあるとするならば、それは連合国によってなされた原子爆弾使用の決定である。この悲惨な決定に対する判決は後世がくだすであろう。
もし非戦闘員の生命財産の無差別破壊というものが、いまだに戦争において違法であるならば、太平洋戦争においては、この原子爆弾使用の決定が、第一次世界大戦中におけるドイツ皇帝の指令および第二次世界大戦中におけるナチス指導者たちの指令に近似した唯一のものであることを示すだけで、本官の現在の目的のためには十分である。このようなものを現在の被告の所為には見出しえないのである」
極東国際軍事法廷にて
「ここにまつってあるのは原爆犠牲者の霊であり、原爆を落としたのは日本人でないことは明白である。落としたものの手はまだ清められていない。原爆投下者にこそ罪悪を知らすべきだ」
1957年11月、広島原爆慰霊碑碑文を読んでの批判
「広島、長崎に原爆を投下したとき、どのような口実がなされたか。日本として投下される何の理由があったか。当時すてに日本はソ連を通じて降伏の用意をしていた。連合軍は日本の敗北を知っていた。それにもかかわらず、この残虐な兵器を日本に投下した。しかも実験として広島と長崎に投下したのである。この惨劇についていろいろ考えられねばならないが、しかも彼らの口からザンゲの言葉を聞いたことはない。彼らは口実として、もし広島に原爆を投下せねば多数の連合軍の兵隊が死ぬことを強調した。原爆投下は日本の男女の別、戦闘員、非戦闘員の区別なく無差別に殺すことである。いったい、白人の兵隊の生命を助けるために幾十万の非戦闘員が虐殺されることはどういうことなのか。彼らがもっともらしい口実をつくるのは、このような説明で満足する人々があるからである」
1957年、アジア会議にて
ベンブルース・ブレイクニー(極東国際軍事法廷日本側弁護人)
「戦争での殺人は罪にはならない。それは殺人罪ではない。戦争は合法的だからです。つまり合法的な人殺しなのです。殺人行為の正当化です。たとひ嫌悪すべき行為でも、犯罪としての責任は問はれなかったのです。キッド提督の死が真珠湾爆撃による殺人罪になるならば、我々は広島に原爆を投下した者の名を挙げることができる。投下を計画した参謀長の名も承知してゐる。その国の元首の名前も我々は承知してゐる。彼等は殺人罪を意識してゐたか。してはゐまい。我々もさう思ふ。それは彼等の戦闘行為が正義で、敵の行為が不正義だからではなく、戦争自体が犯罪ではないからである。
何の罪科で、いかなる証拠で、戦争による殺人が違反なのか。原爆を投下した者がゐる!この投下を計画し、その実行を命じこれを黙認した者がゐる!その者達が裁いているのだ!」
1946年5月14日、極東国際軍事法廷にて
ジョン・フォスター・ダレス(米国元国務長官 国連憲章起草)
「いま私たちに開かれた選択肢の一つは、人類の想像を超えるような大量殺戮を直ちに停止することである。このような大量殺戮は、老若男女を問わず、罪ある者も罪なき者も無差別に、確実に抹殺してしまう。彼らが、私たちを攻撃し、私たちに深い怒りを植えつけた国の一員であるというだけの理由で。いやしくもキリスト教徒である私たちが平気で、このような形での原子力の使用を認めてしまえば、いつ他の人たちが同じような結論を下しても抗議できない」
1945年8月10日、ニューヨーク・タイムズ紙にて
ハンキー (英国爵位 元内閣官房長官)
「一.もし同盟国「アメリカ」の指導層が敵の手に捕らわれ戦争犯罪人として審判された場合には、軍事裁判所の条例を起草する人たちは原子爆弾の使用を国際法に対する犯罪として宣言することを任務と心得たに違いない」
「二.もし敵が原子力の問題を解決して、さきに原子爆弾を使つたとすれば、原子爆弾の使用が同盟国「アメリカ」における戦争犯罪のリストの中に掲げられ、原子爆弾の使用を決定した人たちや、原子爆弾を用意したり使用した人たちは断罪されて絞首刑に処せられたであろう」
クリスチャン・センチュリー紙(米国プロテスタント系新聞)
「原爆を使用したことにより、我が国は道義上弁護の余地のない立場に立たされた、と我々は考えている」
1945年8月
ジェームズ・M・ギリス(カトリック系神父 米国紙カトリック・ワールド編集長)
「我々アメリカ合衆国は・・・キリスト教社会として、その道徳律に対して、いまだかつてなかったほどの激しい打撃を受けた」
「合衆国政府がとった行動は文明社会の根幹を成している情のすべて、罪の自覚のすべてをことごとく無視するものだ」
1945年9月(以後、同会は全米の教会に懺悔のためとして広島、長崎への積極的支援を求めた)
キリスト教会連邦協議会カルホーン委員会(プロテスタント)
「広島と長崎への原爆投下は倫理的に弁護の余地はない」
「長崎への投下は、原爆への威力が示された後だったにもかかわらず、日本政府と最高司令部が降伏の結論に達するだけの十分な時間を与えられないまま、警告もなく実施された。さらに、どちらの原爆投下も戦争に勝つためには不要であったと判断せざるをえない」
「こういった状況下で史上初の原爆投下を行った国家として、我々は神の法においても、そして日本国民に対しても、取り返しのつかない罪を犯した」
1946年3月6日
レジナルド・カーニー(神田外語大学教授)
「(ナッシュビル・グローブ紙より)「日本との戦争で、かつてない非人道的な武器である原子爆弾を使用したことを、われわれは少なからず恥じ、また悔やんでもいる。こんな形で勝利を迎えても、けっして素直に喜ぶことはできないのだ」。そして、こう問うている。「何万と言う人びとの命を奪った原爆。われわれアメリカ人の心には、本当に一点の曇りもないのか」、「キリストの教えを踏みにじった」というのに」
デービット・ローレンス(ユナイテッド・ステーツ・ニューズ編集長)
「もし原爆を使う権利が容認されるなら、いわゆる安楽死を行う兵器(ブーヘンバルトのガス室なみに手っとり早く即効性のあるもの)を開発する権利も容認されるはずだ」
「合衆国は何においても原爆を非難し、それを使用したことについて日本に謝罪すべきだ。陸軍航空軍のスポークスマンは、原爆投下はいずれにせよ必然性はなく戦争はすでに勝利していたと言っている。原爆が落ちる何週間も前に日本が降伏しようとしていたとする確たる証言がいくつもあがっている」
1945年10月5日、ユナイテット・ステーツ・ニューズ紙より
ノーマン・カズンズ(サタデー・レビュー編集長)
「海軍のスポークスマンによると、日本は広島に原爆が投下される前に降伏の用意があったという。何千何万という数え切れないほどのアメリカ人の命が救われたという主張は、どうなってしまうのだろう」
リチャード・マイニア(アメリカ・マサチューセッツ州立大学教授)
「アメリカも「人道に対する罪」を犯した疑いがきわめて強かった。極東国際軍事裁判所条例は「人道に対する罪」を、「一般市民に対する非人道的行為」と定義した。この定義は、広島や長崎に対する原爆投下にも適用されないのであろうか」
「(大東亜戦争を侵略戦争とすることについて)定義というものは、個々の事例を考察してのちに、下されるべきものであって、はじめに具体的な定式をつくってはならないことは明らかである。だがわれわれ[連合国]は、侵略が何であるかわからないのに、ドイツと日本が侵略をなしたことはわかっていたことになる」
「(極東国際軍事法廷における事後法について)法がこのように定義されるのであれば、それは連合国がきわめて強い嫌悪を示していた、ナチスのあの法とほとんど異なることがないように思われる。あのナチスの法とは一九三五年六月二八日の法のことであって、それによれば、「本法に於て処罰すべしと定めたる行為、若は刑法の基本理念及び健全なる国民感情によりて処罰に値する行為を為したる者は、処罰せらるべし」と規定されていた。このいずれの場合にも、「本能」あるいは「健全なる国民感情」に訴えることによって、検察官、疑わしい行為が違反することを立証せずに、済むわけである」
「戦争まえの日本の歴史を書こうとした極東国際軍事裁判所の試みは、見事に失敗した。失敗の原因は裁判所自体の偏見に求めることもできたが、最大の原因は、東京裁判の背後にあって東京裁判の進路を支配した基本的な誤謬であった。起訴状や判決の前提となったのは、日本の歴史が共同謀議によって説明できるという考えであり、かつこの共同謀議が侵略的性格をもっていたという考えであった。偏見なしに証拠が検討されておれば、こうした誤謬は抜本的にただされていたことであろう。だが極東国際軍事裁判所は、偏見なしに証拠を検討するつもりなど、はじめから持っていなかった」
「東京裁判の誤りは、偏見や証拠の取り扱いの制約にも責任の一半があった。しかし最大の責任は、基本的な誤謬、すなわち、問題の事件を裁判にかけることができるとした誤謬、に求められなければならない」
1971年 著書「勝者の裁き」より
ガー・アルペロビッツ(メリーランド大学研究員 全米経済代替案センター代表)
「いかなる事情があったにせよ、警告もせずに原子爆弾を都市部に投下するという行為は正当化できるのだろうか。専門家の間では原子爆弾がほぼ確実に不必要であったという見解が、おおむねまとまっていること、また、いずれにせよ11月までに日本は降伏していた確率が高いということを、知って驚く人は多い」
J・サミュエル・ウォーカー(アメリカ原子力規制委員会首席歴史記述者)
「ここ数年間に公開された記録文書、手書き文書を注意深く研究した結果、トルーマン政権がなぜ日本に対して原爆を使用したのかがますますわかってきた。まだいくつかの問題で専門家の意見の対立は見られるが、重要な疑問には答えが出ている。日本侵攻を避けるために、また、比較的短時間で戦争を終わらせるために、原爆は必要なかったというのが、研究者の統一見解である。原爆に代わる選択肢があったことは明白であり、そのことをトルーマンとその側近が知っていたことに議論の余地はない」
「原爆は五十万人のアメリカ戦闘部隊の命を救ったというカビの生えそうな主張にまったく根拠のないことは、疑いの余地はない」
1990年、「外交史」より
スミソニアン博物館
「半世紀後のいまも、日本に原爆を落とすことが必要だったかどうか、また道義的に正しかったかをめぐる論争は続いている。広島と長崎を機に始まった核戦争の現実と相克は、今日いまだ解決を見ない問題である」
1993年、「原爆展」計画趣意書より(原爆展は元米軍兵らの反対により中止に追い込まれた)
タンスリー・ガザリー・シャフェー(マレーシア国元外務大臣)
「以前、広島を訪れた時、小学校の先生が原爆慰霊碑の前で子供たちに「日本は昔悪いことをした。これはその記念碑だ」と教えていたのを見ました。それで広島市長に「原爆慰霊碑と原爆資料館は日本人が見るべきではありません。ワシントンに持っていき、アメリカ人に見せて、アメリカ人に反省させるべきではないでしょうか。原爆資料館がここにあるのは不適切だと思います」と言ったところ、広島市長たちは真っ青になってしまったが、やがて彼らも私の意見に賛同してくれました。
それにしても日本人はなぜアメリカに対して異様なほどおびえているのか。敗戦国心理から早く脱却すべきではないだろうか」
1993年11月、広島原爆慰霊碑と自虐教育が行われていることについて
フランク・ラビット(スミソニアン博物館ガイド係)
「広島、長崎の原爆投下によって十万人以上の命が失われたが、(中略)大統領は原爆の投下で失われる命より、上陸作戦で失われる命の方が多いと説明していた。(中略)あれが戦争犯罪だというのか?記憶にある限り、日本政府はアメリカが戦争犯罪を犯したと非難したことなど一度もなかったではないか」
原爆展の中止について
ボナ・フェラーズ(米軍准将 マッカーサーの側近)
「(民間人、民間施設への米軍の大空襲は)史上最も冷酷、野蛮な非戦闘員殺戮の一つ」
極秘覚書より
チャールズ・リンドバーグ大佐 (1927年、大西洋単独横断飛行を成す)
「1944年7月13日 (略)話が日本軍とわが軍が犯す残虐行為に及んだ。わが軍の一部兵士が日本人捕虜を拷問し、日本軍に劣らぬ残虐な蛮行をやっていることも容認された。わが軍の将兵は日本軍の捕虜や投降者を射殺することしか念頭にない。日本人を動物以下に取り扱い、それらの行為が大方から大目に見られているのである。われわれは文明のために戦っているのだと主張されている。ところが、太平洋における戦争をこの眼で見れば見るほど、われわれには文明人を主張せねばならぬ理由がいよいよ無くなるように思う。事実、この点に関するわれわれの成績が日本人のそれより遥かに高いという確信は持てないのだ」
「8月30日 (略)海兵隊は日本軍の投降をめったに受け付けなかったそうである。激戦であった。わが方にも将兵の損害が甚大であった。敵を悉く殺し、捕虜にはしないというのが一般的な空気だった。捕虜をとった場合でも、一列に並べ、英語を話せる者はいないかと質問する。英語を話せる者は尋問を受けるために連行され、あとの連中は「一人も捕虜にされなかった」という」
「1945年6月1日 (略)ドイツ人がヨーロッパでユダヤ人になしたと同じようなことを、われわれは太平洋で日本人に行って来たのである(略) 地球の片側で行われた蛮行はその反対側で行われても、蛮行であることには変わりがない。『汝ら人を裁くな、裁かれざらん為なり』。この戦争はドイツ人や日本人ばかりではない、あらゆる諸国民に恥辱と荒廃とをもたらしたのだ」
「リンドバーグ第二次大戦日記」より
エドガー・L・ジョーンズ
「われわれは捕虜を容赦なく撃ち殺し、病院を破壊し、救命ボートを機銃掃射し、敵の民間人を虐待、殺害し、傷ついた敵兵を殺し、また息のある者を他の死体とともに穴に投げ入れ、死体を煮て頭蓋骨をとりわけ、それで置き物を作るとか、または他の骨でペーパーナイフを作るとかしてきたのだ」
1946年「アトランティック・マンスリー誌」
ジョン・ダワー 米国教授
「ブーゲンビルで投降しようとして殺された負傷兵の場合のように、日本兵殺害の中には上官の命令下に行われたもの、あるいは少なくとも上官が事後承認を与えたものがあった。たとえば日本の輸送船を沈め、その後一時間以上もかけて何百、何千という生き残り日本兵を銃で撃ち殺したアメリカの潜水艦艦長は、この虐殺をその公式報告書に記録し、しかも上官から公の賛辞を与えられている」
ガゼット・ローザンヌ紙(スイスの新聞)
「米国の日本都市無差別爆撃はドイツのブーチェンワルド・マヌーゼン収容所の残虐にも比較すべきものであり、スイスは米国のこの暴挙の停止を勧告すべきだ、米国側の報道に依ればB29は最近日本にポツダム宣言の伝単数百万枚を撒き、これと同時に日本の都市爆撃を予告した伝単をも投下した言はれるが両者の間には矛盾がある、即ち前者では日本国民と指導者の離間を計つておきながら後者では過酷な空襲を覚悟せよと言ふのだ。しかも爆撃を予告してゐる都市は必ずしも軍需生産の中心地ではない、プーチェンワルド・マヌーゼンの収容所の閉鎖と共に欧州における「残虐時代」は過ぎた、しかし木造建築の多い日本の都市で特に多数の婦女子が爆撃によつて生命を奪はれてゐることを我々は忘却する権利はないはずだ、中立国としてのスイスは現在の問題を正確に理解することは困難であるが、赤十字の創設国としてこの問題を十分に考へて見る義務があるはずである」
1945年8月6日の社説(昭和20年8月9日、朝日新聞はローザンヌ紙の社説を自紙に掲載)
【ソ連による日蘇不可侵条約の一方的破棄、日本侵攻に関する各国要人の意見】
A.G.ラザラス(極東国際軍事法廷弁護人)
「日本の要請に基き本条約「日ソ不可侵条約」の継続的尊守の再三の保証が蘇連邦に依つて為されたるにも拘わらず蘇連邦は既に一九四二年の中頃より種々な方法で違反を行つて居たのであります。一九四五年蘇連邦は条約を破棄すると同時に一九四六年四月満期の期日まで忠実に尊守するという特別な保証を為しました(何れにしても条約の条項に依り斯くすべく拘束されて居りおました)。其にも拘らず蘇蓮は米国及び英国に要請されたといふ以外に何等の理由なく又何等の理由あるとも見せかけずに、恰も日本では太平洋戦争の終結に付日本の為に蘇連の調停を求めて居り又両国間に大した未解決事件もない時期に、突然一九四五年八月日本を攻撃したのであります」
1947年5月16日冒陳述
リチャード・マイニア(アメリカ・マサチューセッツ州立大学教授)
「ポツダムでソ連は、連合国が公式の要請を提出するように求めた。ジェイムズ・F・バーンズ国務長官の言によれば、「ソ連政府は、アメリカ、イギリスおよび他の連合諸国がソ連政府に参戦するよう公式の要請を提出することが、最上の策だと考えている、とモロトフ「ソ連外相」は述べた」。だが、とバーンズは続けた。「この要請はわれわれに対して問題を提起した。ソ連は日本側と不可侵条約を締結していた。ソ連はヒトラーとも同種の条約を締結していたが、この場合は、ナチスがこれを破った。われわれは、アメリカ政府が他国政府に対して、後者の締結した条約を正当かつ十分な理由もなく破るように要請するべきではない、と信じていた。ソ連は二、三ヵ月まえに、日本に対して不可侵条約を更新しない旨を伝えていたが、同条約はまだ一年近くも有効期間があった。大統領は困惑した」
「正当かつ十分な理由もなく」 これは重要な一句だった。一、二時間たつうちに、バーンズ長官は二つの口実を思いついた。一九四二年一〇月三〇日のモスクワ宣言と国際連合憲章草案中の二条文(第一〇三条、一〇六条)がそれであった。第一〇三条は、「国際連合加盟国のこの憲章に基づく義務と他のいずれかの国際協定に基づく義務とが抵触するときは、この憲章に基づく義務が優先する」と定めていた。トルーマン大統領はソ連の介入を要請した手紙のなかで、つぎのように結論した。「憲章はまだ批准されておりませんが、サンフランシスコにおいてソ連代表は、ソ連政府が安全保障理事会の常任理事国になることに同意されました。したがって、モスクワ宣言および憲章の規定に鑑みて・・・ソ連が、国際社会を代表して平和と安全を維持する共同行動のために、日本と現在戦争中の諸大国と協議、協力する意図を表明されることは、適切であろうと存じます」
「このようにアメリカ政府は、ソ連政府に対して根拠薄弱な理由付けを用意してやり、未批准の条約のために既存の条約を一方的に破棄させたのであった。バーンズはことばを続けて、つぎのように書いた。「後になってトルーマン大統領は、スターリン元帥があの手紙に至極満足の意を表明した、と私に語った。スターリンが喜ぶのは当然であった。ソ連政府の宣戦布告声明は憲章第一〇三条に触れていないが、われわれがモトロフ氏のためにこの条文を見つけてやったために、ソ連の歴史家はソ連の対日宣戦布告が国際的な義務に忠実に履行したものである、と都合の良い主張をできることになったからである」。
1971年 著書「勝者の裁き」より
【日本軍の捕虜取り扱いの正当性を認める意見】
イギリス陸軍省
「(日本に投降した英国兵の取り扱いについて)その生活状態は満足すべきものである」
1943年1月6日
イギリス被抑留者親族会議
「日本の捕虜収容所では未だ曾て虐待行為は見られず、捕虜は十分に待遇されている」
1943年10月10日
【対日占領政策に対する各国要人の意見】
ジョージ・ケナン(米国国務省政策企画部初代部長)
「マッカーサー将軍の本部によって、その時点までに実施された占領政策の性質は、一見して、共産主義の乗っ取りのために、日本社会を弱体化するという特別の目的で準備されたとしか思えないものだった」
1948年 来日しての感想
【不作為犯理論に対する各国要人の意見】
ラーダ・ビノード・パール(極東国際軍事裁判判事)
「本裁判所条例が犯罪としてあげるところは、「戦争法規マタハ戦争慣例ノ違反」に止まる。条例は戦争の法規「ノ尊守ヲ確保シソノ違背ヲ防止スル適当ナル手段ヲ執ルベキ法律上ノ義務」の「無視」は犯罪としてあげていないのである。もし訴因第55(戦争法規・慣例の尊守を確保しその違反を防止するに適当なる手段を執るべき法律上の義務を故意又は不注意に無視)をもって「故意マタハ不注意ニ法律上ノ義務ヲ無視」することそれ自体が犯罪を構成することを意味するものとするならば、その場合は、訴因第55で訴追されている犯罪は本裁判所条例の規定外の犯罪となり、したがって本裁判所の管轄外となるであろう」
「(平和に対する罪について)本件の当面の部分に関するかぎり、訴因第54(戦争犯罪に該当する行為を現実に命令、授権し且つ許可する行為)において訴追されているような命令、授権または許可が与えられたという証拠は絶無である。訴因第53(戦争犯罪に該当する行為を名絵理、授権し且つ許可する行為の共謀)にあげられ、訴因第54に訴追されているような犯行を命じ、授権し、また許可したという主張を裏づける材料は、記録にはまったく載っていない。この点において、本裁判の対象である事件は、ヨーロッパ枢軸の重大な戦争犯罪人の裁判において、証拠によりて立証されたと判決されたところのそれとは、まったく異なった立脚点に立っているのである」
「パル判決書」より
ロバート・ランシング(米国国務長官)
「(第一次世界大戦における不作為犯理論の導入について)アメリカ代表は絶対的に反対する。犯罪を構成する行為をなした個人や自己の権限に基づいて他人に犯罪行為をなすように命じた個人を処罰することと、戦争の法規・慣例の違反を防止しなかったり、停止しなかったり、あるいは抑止しなかった個人を処罰することは、まったく別の問題である。前者の場合には、当該個人は自ら行為したり他人に行為するよう命じたりするのであって、自ら犯罪行為をなしているのである。だが、後者の場合には、当該個人は他人の行為について処刑されるのであって、しかもそれは、かれが問題の行為がなされるのを知っていたか、または知っておればその行為を止めえたことが証明されない場合においてである。
「勝者の裁き」より
【山下裁判に対する各国要人の意見】
ウォルター・C・ヘンドリックス(米国陸軍中佐・山下裁判弁護人)
「マッカーサー将軍は法はわがものとし、アメリカ合衆国の国内法および憲法を無視したこと、また彼は議会あるいは大統領から権限を与えられたのではないことを、われわれは主張するものであります。彼は偉大な軍人であり将軍でありますが、偉大な法律家ではないのであります」
「(軍事裁判所は)世界における法というものをすべて踏みにじったのであります。この判決を聞く者は、信じられないようなショックを受けるでありましょう」
昭和20年11月23日 山下裁判口頭弁論より
フランク・マーフィ(米国最高裁判所判事)
「敵戦闘員に対する不公正な裁判を強い、認定されざる罪を彼に着せ、もしくはわれわれの報復心を彼にぶつけることは、その敵国に反意を抱かせるだけであり、世界平和に必要な和解・融和をさまたげるものである」
「敗軍の敵司令官を処置するために合法的手続きの仮面をかぶり、報復を応報の心をなんらの抑制もなくのさばらせることは、その心を起こさせるもとになったすべての残虐行為にもまして、より永久的な害毒をもたらすことになり得る」
ワイリー・ライトリッジ(米国最高裁判所判事)
「これはコモン・ローおよび憲法の伝統のもとにおける裁判ではなかった」
「それらすべての伝統がかくも踏みにじられ得るとするならば、われわれは実際、新しい法の時代、だが不吉な法の時代に向かって、船出することになるのである」
A・フランク・リール(米国陸軍大尉)
「祖国を愛するいかなるアメリカ人も、消しがたく苦痛に満ちた恥ずかしさなしには、この裁判記録を読むことはできない」
「われわれは不正であり、偽善的であり、復讐的であった。われわれは戦場において敵をうち破った。だが、われわれの心の中に、彼らの精神が勝ち誇ることを許したのである」
昭和24年、「The Case of General Yamashita」より
ローレンス・テイラー
「山下奉文と本間雅晴の裁判は、恐るべき悲劇であった。一人の輝かしい米軍指導者の記憶の陰にあって、あまりに長い間それは埋もれてきた。山下も本間もまた輝かしい指導者であったし、それに高潔な品性をも備えた人物だったのだ。彼らの記憶もまた、大いに尊ばれるべきである」
「マニラ裁判は、戦争犯罪裁判は戦勝軍指導者による個人的または政治的仇討ちに悪用されてはならない、という教訓を突きつけているのである」
昭和56年、著書「A Trial of Generals」より
エドウィン・O・ライシャワー(ハーバード大学教授 元駐日大使)
「アメリカが敗戦国日本に対して戦争裁判を行ってから、早くも一世代が過ぎた。それらの裁判について”勝者の正義”がまかり通ったといわれることがあるが、とくに山下奉文および本間雅晴両将軍に対する裁きに関して、この言葉がよく当てはまる」
「軍事法廷で裁かれた山下および本間と並んで、本書ではマッカーサー将軍も裁かれている。二人の日本人将軍が、いずれも率直で、正直で、高貴でさえあったことが明らかにされている。そしてマッカーサーについては、その二重人格の陰の部分が浮き彫りにされ、彼がいかに裁量で、もったいぶった、そして復讐心にとらわれた人間であったかが示されている。
本書ではまた、アメリカの正義(裁判)も裁かれているのである。そして最終的に敗れ去ったのは、アメリカの正義であったことを証明している。軍事法廷はかく裁いた。だが歴史は、それとは異なる裁きを下すだろうことは明らかである」
昭和57年、「A Trial of Generals」の邦訳「将軍の裁判 マッカーサーの復讐」への寄稿
【ニュルンベルク裁判に対する各国要人の意見】
ウィリアム・ウェッブ(極東国際軍事法廷裁判長)
「国際法に基づく厳密なやり方をあきらめて、特別法廷で蛮行ともいえる見せ物的な公開裁判を行うべきではない」
1945年6月26日、クイーンズランド州首席判事時代、オーストラリア外務省宛ての書簡にて
アレグザンダー・カドガン(イギリス外務次官)
「これらの行為[平和に対する罪]は通例の意味の戦争犯罪ではなく、またこれを国際法上の犯罪と呼ぶにふさわしいかどうかも明らかではない」
1945年4月23日付覚書
モンゴメリー(英国子爵 元帥)
「ニュルンベルク裁判は、戦争をして負けることを犯罪とした。敗者側の将軍たちは裁判に付され、絞首刑に処せられるというわけだからだ」
ロバート・A・タフト(アメリカ合衆国上院議員)
「勝者による敗者の裁判は、どれほど司法的な体裁を整えてみても、決して公正なものではありえない」
「ドイツ戦犯12名の処刑はアメリカの歴史の汚点となるであろう」
「日本に対してはドイツと異なり、復讐という名目が立ちにくい」
1946年10月5日 オハイオ州ケニヨン法科大学での講演
ハンス・ケルゲン(カリフォルニア大学教授)
「モスクワで調印された三国宣言の要求するものは、敵国の戦争犯罪人にたいする戦勝国の裁判管轄権である」
「戦争中、枢軸諸国の憎むべき犯罪の犠牲となった国民が、これらの犯罪人を罰するために、自己の手に処罰権を握りたいと望むのは、無理からぬ話である。しかし戦争終結後は、われわれは再び、つぎのことを考慮する心の余裕をもつであろう。すなわち、被害を受けた国が、敵国国民にたいして刑事裁判権を行使することは、犯罪者側の国民からは、正義というよりはむしろ復讐であると考えられ、したがって将来の平和保障の最善策ではない、ということである。戦争犯罪人の処罰は、国際正義の行為であるべきものであって、復讐にたいする渇望を満たすものであってはならない。戦敗国だけが自己の国民を国際裁判所に引き渡して戦争犯罪にたいする処罰を受けさせなければならないというのは、国際正義の観念に合致しないものである。戦勝国もまた戦争放棄に違反した自国の国民にたいする裁判権を独立公平な国際裁判所に進んで引き渡す用意があって然るべきである」