【判決文に見る戦史断罪】



 判決は、弁護側が主張していた「連合国は『平和に対する罪』を裁判所条例に定める権能はない」、「不戦条約は戦争を犯罪としていない」、「戦争は国家行為であり、国際法上、個人的責任はない」、「裁判所条例は『事後』法」等々の論旨による「裁判所管轄権への異議」について、「却下する」と回答した。

 その論拠を、同裁判が条例を踏襲したニュルンベルク裁判に求めていた。同裁判判決の「条例は当時に存在していた国際法を表示したもの」、「条約や制約を無視して隣接国を攻撃した者を処罰するのは不当であると主張することは間違いである。彼の不法行為が罰せられないのなら、それこそ不当」などの文言を引用して説明した。

 もう一つの争点であった「共同謀議」について、訴因の「1928-45年に於ける侵略戦争の共同謀議」は立証されたと認定した。他方、訴因5の「世界支配のための独伊と共同謀議」は証拠不十分とした。判決は、55の訴因を、訴因1のほか、各国への侵略戦争の遂行、戦争法規違反の命令、法規遵守義務の無視など計10訴因に整理した。その上で、被告の有罪判定には、不法な侵略戦争全般が認定されれば十分として、米国が重視した真珠湾攻撃など個別事案は判定要因とされなかった。

 共同謀議の内容は、概要「東アジア、西及び西南太平洋、及びインド洋とこれらの大洋に於ける島々の一部を日本の支配下に置こうというもので、被告は、その計画、謀議の立案叉は実行に参画した」と認定した。これらの計画が、大川周明被告の唱導によるとされていた。

 訴追された中国などでの残虐行為は事実と認定された。欧州の戦場での連合国捕虜の死亡率は4%だったのに対し、太平洋の戦場での連合国捕虜の死亡率は27%だっと認定し、虐待を認めた。これら通例の戦争犯罪を共同謀議したことにつき、「本裁判所条例で犯罪とされていない」として認定しなかったが、「内閣は政府の主要な機関の一つとして、捕虜の保護について連帯して責任を負う」と述べ、彦倉に責任ありとした。次のように「不作為の罪」を認定した。
 「犯罪を知っていたか知っているべきであったのに、その将来に於ける発生を防ぐために、自己の権限の範囲で効果の有ることを何もしなかったとすれば、将来の犯罪に対して彼らは責任が有る」。

 この論理が、各被告の弁護を覆し、判定に大きな影響を与える事となった。(日経新聞2008.11.7日付け「東京裁判第4部判決編上」参照)

【東京裁判判決文】
 多数判決は、南京事件をどう判定したか。これまた支離滅裂である。抄出すると次のように述べている。(要点のみ抜粋、「笠原十九司『南京事件』岩波新書 P10~11」他参照)

 「南京が占領された後、最初の2、3日の間に少なくとも1万2千人の非戦闘員である中国人男女子供が無差別に殺害され、占領の1ヶ月のあいだに約2万の強姦事件が市内に発生した。また一般人になりすましている中国兵を掃討すると称して、兵役年齢にあった中国人男子2万人が集団的に殺害され、さらに捕虜3万人以上が武器をすてて降伏してから72時間のうちに虐殺された。なお、南京から避難していた市民のうち5万7千人が日本軍に追いつかれて収容され、彼らは飢餓と拷問にあって、ついに多数のものが死亡し、生き残った者のうちの多くは機関銃と銃剣で殺された」。


 一九三七年十二月十三日の朝、日本兵は市内に群がって様々な残虐行為を犯した。目撃者の一人によると、日本兵は同市を荒らし汚すために、まるで野蛮人の一団のように放たれたのであった。

 兵隊は個々に、又は二、三人の小さい集団で、全市内を歩きまわり、殺人・強姦・略奪・放火を行った。そこには、なんの規律もなかった。多くの兵は酔っていた。それらしい挑発も口実もないのに、中国人の男女子供を無差別 に殺しながら、兵は街を歩きまわり、ついには所によって大通りに被害者の死体が散乱したほどであった。他の一人の証人によると、中国人は兎のように狩りたてられ、動くところを見られた者は誰でも射撃された。これらの無差別 殺人によって、日本側が市を占拠した最初の二、三日の間に、少なくとも一万二千人の非戦闘員である中国人男女子供が死亡した。

 多くの強姦事件があった。犠牲者なり、それを守ろうとした家族なりが少しでも反抗すると、その罰としてしばしば殺されてしまった。数多くの婦女は、強姦された後に殺され、その死体は切断された。占領後の最初の一ヶ月に、約二万の強姦事件が市内に発生した。後日の見積もりによれば、日本軍が占領してから最初の六週間に、南京とその周辺で殺害された一般 人と捕虜の総数は、二十万人以上であったことが示されている。これらの見積もりが誇張でないことは、埋葬隊とその他の団体が埋葬した死骸が十五万五千に及んだ事実によって証明される。

【判決文の支離滅裂】
 判決は占領直後の2、3日のあいだに1万2千人の非戦闘員が無差別に殺害されたとしているが、国際委員会のメンバーであり、金陵大学教授であるベイツ博士は、証言台で、安全区およびその付近で調査したところによれば、死体数が1万2千あったと証言しているものの「2、3日のあいだ」というような時間的限定はしていない。東京裁判の多数判決は、証人が言いもしないことまで付け加えて、その数を増やそうとしているのである。

 中国男子2万以上というのは、南京駐在米副領事エスピー(JamesEspy)の「詳細なる記録は入手し居らざるも、悠々2万以上の人々が斯くして殺されたりと計算せられ居れり」という全くの伝聞というより、かれの想像に基ずく証言を採用したもの。捕虜3万以上というのは出所不明。南京から避難した5万7千というのは、魯甦という中国人が、砲弾で足を負傷し、幕府山にちかい上元門で「将に退却せんとする国軍及難民男女老幼、合計5万7千4百8人が餓死し、凍死し、機銃で掃射し、最後には石油をかけてこれを焼いたのを見たという裁判所に提出された全然架空のでたらめ書類によるもの。

 これに対し、さすがの洞氏も「少々不審に感ぜられぬでもない」(N-91貢)と言っているが、少々どころか、当時幕府山にいた部隊は歩兵第65連隊(会津若松)の山田支隊のみで、その兵力はわずか1500、その山田支隊が約10倍の1万4千人の捕虜をかかえてその始末に困惑していたのである。(この捕虜については別項で説明を行う)魯甦はおそらくこれを5万7418人と数え、幾日かかったかは知らないが、これだけの大群衆が最後には掃射され、石油をかけて焼かれるまで見届けたというのである。しかも1の単位まで数えたというのであるからまさに超人的である。この中国人特有の“白髪三千丈”式の孫悟空的物語を、東京裁判はことごとく判決文に採用しているのである。強姦2万件というのもラーベの噂話である。

 このように、判決文は、南京事件の犠牲者を12万7千人とみているのであるが、さらに別の箇所で、こうも述べている。 「後日の見積もりによれば、日本軍が占領してから最初の6週間に南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は、20万以上であったことが示されている。これらの見積もりが誇張でないことは、埋葬隊とその他の団体が埋葬した死骸が、15万5千に及んだ事実によって証明されている・・・・・」(前掲同書)。

 ここに言われている埋葬死骸15万5000というのは、「紅卍字会の手による埋葬死体・・・・・4万3071体、崇善堂の手による埋葬死体・・・・・・11万2366体、合計15万5337体」のことである。しかし、この日時、場所、埋葬場所、その数および男女・子供別の、いかにもっともらしい埋葬一覧表は事件後9年を経て、東京裁判に提出するため、「南京地方法院検察処敵人罪行調査委員会」がまにあわせに作成したものである。東京裁判の多数判決は、これをこのまま採択して、20万以上の虐殺と宣告しているのである。

 ところが、後述するように、崇善堂の11万余の埋葬なるものは全然架空なものであることが、最近、中国側の、しかも事件当時の南京政府が発行している公的資料によって判明した。(詳細は別項にて説明)

 以上は総括判決であるが、松井石根被告に対する個人判決はどうか。南京事件の不作為で絞首刑に処せられた松井被告に対する判決文は次の通りである。 「この6、7週間の期間において、何千人という婦人が強姦され、10万人以上の人が殺害された・・・・」(前掲同書)。

 強姦は2万件から、何千人に、殺害者は20万人以上から10万人以上に半減している。これはいったいどうしたことか。一つの判決文の中に、殺害した人数が、3通りある。一方では20万人以上といい。一方では10万人以上という。極東国際軍事裁判と銘うって、7人の被告を絞首刑に処した厳粛なるべき人類はじまって以来の世紀の裁判と銘うった裁判の判決文が、このようにずさんきわまる大デタラメなものであるということを、読者の皆さんはよく記憶しておいていただきたい。文官の廣田弘毅被告が軍人職である「軍事参議官」の肩書きのまま処刑されている。荒木貞夫被告はなったこともない「内閣総理大臣」の肩書きがついている。弁護側がいくどその誤りを指摘しても遂に判決までこの誤りは修正されなかったというでたらめぶりである。その「軍事参議官広田弘毅」は5対6の一票の差で絞首刑を宣言されているのである。およそ文明国の裁判では考えられないことである。(東京裁判に関する詳論は、拙著『東京裁判とは何か』〈日本工業新聞社刊行〉を参照されたい)

【裁いた者たちの悔恨】
 日本では、東京裁判に関する判決は、GHQの厳しい言論統制によって、7年間にわたる占領期間中厳禁されてきた。(私がパール博士の判決文抄訳を『日本無罪論=真理の裁き』と題して太平洋出版社から初めて上梓したのは、日本がサンフランシスコ条約に基づき占領が解除され、独立した昭和27年4月28日のことである)

 しかし日本を裁いた側の米英のマスコミや権威ある国際法学者や裁判官は、裁判の判決がおりた直後から、ニュルンベルクと東京裁判に対する批判をおこなわれた。ニューヨークタイムズは東京裁判の直後、この裁判を無効とし、全員無罪を判決したパール判事の少数意見を一面トップで大きく取り上げこれを評価した。ロンドンタイムズは1952年6月から7月にかけて約1ヶ月間にわたって、この2つの裁判に対する論争を連載した。イギリスの国際法の権威であるハンキー卿はその著『戦犯裁判の錯誤』(Politicstrials and errors)の中で、「パール判事の所論は全く正しい」という立場に立って、パールの判決文を縦横に引用しながら戦後連合国が行った戦犯裁判(軍事裁判)を徹底批判している。

 米の連邦最高裁判所のW・O・ダグラス判事は「極東国際軍事裁判所は、国際法に基づいて審理できる自由かつ独立の裁判所でなく、パール判事が述べたように、同裁判所は司法的な法廷ではなく、政治権力の道具にすぎなかった」と述べた。

 米の国際法学者マイニア教授は「東京裁判の判決は、国際法、法手続、史実のいずれから見ても誤りであった。結局〈勝者の裁き〉にすぎない」として『勝者の裁き』という著書を世に問うた。同じくアメリカ最高裁のフレッド・M・ヴィンソン判事は、パール判決を支持し、多数判決を糾弾した。ドイツの哲学者ヤスパースも別の角度から、この2つの裁判を行った連合国の思い上がったごう慢な行為を痛烈に批判した。

 何よりも刮目すべきことは、この裁判の総轄的主宰者であり、判検事の任免権をもち、自ら戦犯憲章(チャーター)を起草した連合軍総司令官マッカーサー元帥が、1951年5月3日、米上院の軍事外交合同委員会の聴問会で「日本が第二次世界大戦におもむいた目的は、そのほとんどが安全保障のためであった」と、東京裁判で裁いた“日本の侵略”を全面的に否定し、日本が行った戦争は自衛のための戦争であったことを認めたのである。

 傲岸多弁の裁判長といわれ、天皇の責任追及に熱心であったオーストラリアのウェッブ裁判長は、ディヴィッド・バーガミニ(DavidBergamini)の『天皇の陰謀』(Japan’sImperialConspiracy)という本に序文を寄せてこう述べている。

 「私が東京で判事席に座っていた30ヶ月の間に私は証人たちの日本君主に対する懸念と崇敬の念と、天皇の立場を説明する際の熱心さと厳正さにしばしば打たれた。私は日本が1941年に戦争に訴えたことを非難するいかなる権利をもっているのかと自問することが時折あった。私は日本が9千万人の住む小さな土地で耕作できる面積はそのうち15パーセントにすぎず、外部から激しい貿易制限や規制を受けていたとの弁護士の論述に多くの正論と酌量の余地を認めた。私は米国なり英国なりが同じ様な状況におかれたらどのように反応したか、それどころか国民がどのような反応をすることを望んだかを考えてみた。

 米国も英国も日本が1941年におかれたような状況におかれれば、戦争に訴えていたかも知れないのである。」
 日本の大東亜戦争が決して侵略戦争でなかったということを、このような文章ではっきり表現しているのである。さらにこの裁判の基本的な問題にふれて、
 「パリ条約(〈注〉パリ不戦条約とも、ケロッグ・ブリアン条約ともいわれ、日本はこの条約に違反したと称して侵略者の烙印をおして裁いた)は調印国がこの条約を破った場合その国の戦争指導者が個々に責任を問われることは明記していない。有力な国際法学者の中には、この条約が個人に対して責任をおわせているわけではないとの見解をとるものもある」

 東京裁判があやまりであったことを、ウエッブはこういう形で表現しているのである。マッカーサーも裁判から3年後の1951年四月、ウェーキ島でトルーマン大統領と会談したとき、「東京裁判は平和のため何ら役に立たなかった」という表現で、この裁判のおやまりを認め、キーナン首席検事も、ファーネス弁護人への書簡の中で、重光葵のような人物を被告にしたことは、誤りであったと告白している。

 およそ今日、権威ある世界法学者で、東京裁判の合法性を認め、これを支持するような学者は皆無と言っても過言ではない。












(私論.私見)