河村拓哉
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君は世界を知る。
若者に参加してもらう大会や競技は、それが何であれ、参加してくれる君に「効能」をうたっている。たとえば学生野球は、「教育の一環として心と身体を鍛える場」という意義を社会に打ち出している。そういう意味で、野球の甲子園は単なる野球の大会ではなく、野球を通じて高校生が成長する場といえる(いわれている)。
WHATはクイズの大会だ。ただクイズを行う。そして外から見たら、実際にそれだけのイベントだろう。
ここで我々は効能をうたう! WHATへの参加、またWHATへの準備によって、君はより広い視野と長い視程を得る。今まで知らなかった物事に気づき、今までよりも深く物事を理解する。本番の問題から得る知識や、予習した分野への細やかな理解は、これからの人生で、活きる。役には立たないかもしれないが、活きる。
得たものは役に立たないかもしれない。後から役立つから今のところ役立たない、ということもあるのだろう。あるいは本当に死ぬまで使いどころがないかもしれない。こういう面で、使えない知識はバカにされがちだ。
しかし、知識や情報はそもそも、君の役に立つために存在しているわけではない。ただ、そこにある。君ではない誰かのためのものかもしれないし、誰の役にも立たないものかもしれない。世界は、君に関係なく、存在する。「知る」ということは、それを認めることだ。関わりのない世界に敬意を払うことだ。世界を知識として得たならば、その世界は君の中で確かに活きる。君の外に広がるさまざまなことの存在を、まずは認められる人になってほしい。
WHATで、君は世界を知る。
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世界はクイズを知る。
クイズと、そのほかの競技——たとえば野球や吹奏楽、eスポーツ——の違いはなんだろうか。いろいろなことが考えられると思う。だからここで書くのはあくまで一つの意見だ。
クイズは文化になっていないのだ。クイズは文化としてまだ認められていない。野球選手に、野球なんてやってないで肉体労働しなさい、という人はいない。音楽の仕事をしないなら吹奏楽は全部ムダ、なんていう人はいない。eスポーツも近年専門性が認められ、遊びなんて、という人に反論できる立ち位置を得つつある。
クイズはどうだろう。我々はよくこんな言葉を投げかけられる。ちゃんと勉強したら? 他のことしたら? その頭脳をクイズではなく、もっと社会に役立つことに(つまり自分でなくみんなのために)使うべきだと、クイズに触れていない人々や文化人たちまでもが言うのを、我々は聞いてきた。
そういう意味で、クイズは世界の中で、まだ文化ではない。文化になれていない。クイズよりも優先してやるべきことがあると思われている。この大会の目的は、世界、つまり社会に、クイズという文化の存在を認めさせることだ。
在野のクイズ界から生まれたQuizKnockは、確かに同人クイズを広めるムーヴメントの1つとなった。WebサイトのPVや動画の再生数は、そのまま世界とクイズが触れ合った回数だ。いつもありがとう。
けれど、足りない。クイズを遊ぶ人はもっと多くていいし、クイズに求められることはもっと少なくていい。確かに存在する楽しみの一つとしてクイズが認められる、そんな世界であってほしい。
WHATで、世界はクイズを知る。
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クイズは君を知る。
我々はまだ、参加してくれる君のことを知らない。我々はもっと君を知りたい。君がどういうクイズプレイヤーで、どんな風に世界を見ているのか、どう世界と向き合うのか、我々は知りたい。我々は?
我々だけではない。クイズという営みが君を求めている。クイズはプレイヤーがいなければ始まらない。クイズというものは、自らが古びずに生き残るために、常に新しいプレイヤーを必要としている。クイズという文化は、その優れた担い手として、まだ見たことのない君のことを夢見ている。
そのお手伝いとして、WHATは頑張った君にスポットライトを当てたい。こんなに素晴らしいクイズプレイヤーがいると知っているかと、クイズに問いたいのだ。
まだクイズをしたことのない君、クイズにひたむきに取り組む君、そんな皆の素質や努力や他の全部を、クイズに教えてあげたい。
だから君には知らしめてほしい。君の存在を知らしめてほしい。機会は我々が用意する。
WHATで、クイズは君を知る。