浜田省吾『悲しみは雪のように』と、歌い続けた反戦への想い
「社会派ハマショー」が求められる時代がまた来てしまった
『悲しみは雪のように』が170万枚も売れたにもかかわらず、浜田省吾が「『悲しみは雪のように』(だけ)の人」にならなかったのは、それまでの蓄積と、そこからの活躍、つまりは彼の音楽的底力によって、だと思います。
個人的に浜田省吾といえば、何といっても『I am a father』(05年)です。タイトル通り「父親」の歌。歌い出しは
「♪額が床に付くくらい 頭を下げ毎日働いてる」
と、この日本のどこにでもいる「父親」の歌。この歌詞だけでも、個人的「ハマショー・フェイバリット」とするに十分なのですが、この曲の本領、浜田省吾の音楽的底力の結晶は、中間部にあります。
――♪子供が幼く尋ねる 「なぜ人は殺し合うの?」 抱き寄せ 命の儚さに熱くなる胸の奥…
なぜ突然こんなことを書いているかというと、無論、ロシアとウクライナで、きな臭いことが起きたからです。私は、世界できな臭いことが起きると、いつも浜田省吾の歌を思い出します。
「フジロックフェスティバルに政治を持ち込むな」という意見が盛り上がったこと(16年)を憶えている人は、今や数少ないかもしれません。私は当時、そんな意見、そんな論争をネット越しに見つめながら、「みんな、まずは浜田省吾をちゃんと聴けばいいのに」と思ったものです。
とろけるようなラブソングに併せて、戦争や原爆、環境問題、日米関係、経済格差のことを、果敢に、かつ辛辣に歌い続けてきたのが浜田省吾でした。
そんな彼の姿を見つめてきた私は、「政治を歌うのがロック」とは思いませんが、「政治”も”歌うのがロック」だと、強く思うのです。
「なぜ人は殺し合うの?」という子供の質問に答えられる親でありたい、少なくとも、そんな質問をしてくる子供に、聴かせる歌を持っている親でありたい。そう思わせる力が、『I am a father』には、浜田省吾の音楽にはある。
濃厚な「社会派ドラマ」を苦手に感じた私ですが、濃厚な「社会派ハマショー」がかなりの好物なのは、以上のような理由からなのでした。
「僕は単なる音楽家なので、社会的なことは歌いません」と断言する若い音楽家が、最近増えてきたように思います。だけど――「それは一体誰の思いどおりのことかな」(浜田省吾『悲しい夜』より)
文:スージー鈴木写真:産経ビジュアル