リアリズムと防衛を学ぶ

防衛ってそういうことだったのかブログ。国際関係論や安全保障論について、本の感想などを書いています。

明らかに負けそうでも国家が戦争を止められない理由

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毎年8月半ばになると太平洋戦争を扱ったテレビ番組が増えます。その中でよく語られるのが、終戦に到るまでの日本の諦めの悪さです。

そもそも大国アメリカと戦争しても勝つ手段が無いということを棚にあげるとしても、ミッドウェイ海戦で負け、マリアナ海戦で負けても、フィリピンで、硫黄島で、沖縄で執拗に戦いました。さっさと諦めたら?もっと早く降伏すればいいのに…。

ところが、国家が「どう考えても負けそうなのに戦争を止めない」のは、日本に限りません。それどころか、比較すれば日本はあれでも早くに戦争を止めた方です。多くの国はもっと諦めが悪いようです。

戦争でよく起こることだが、弱いほうは、その軍事力がまだ敵に影響を与えている時に和平を求めようとしないで、取引する力が全く無くなるまで戦う。この自己破滅的な不屈ぶりを説明できる理由は色々ある。

(「紛争終結の理論 (1974年) (国際問題新書)」p47)

「もう勝ち目がない」段階で諦められず、「もう戦えない」レベルまで突き進むのです。一体なぜでしょう? この分野の先駆的な研究である「紛争終結の理論(Every War must end)」を中心に、関係する議論をみてみましょう。

2回も破滅するまで戦い続けたドイツ

軍隊の崩壊寸前まで戦った第一次大戦

  第一次世界大戦では、これまで経験したことがないほど死者が出たにも関わらず、戦争が続きました。オーストリアとセルビアの間で起きた2国間の紛争を、世界大戦に拡大したのはドイツでした。ドイツは、その戦争計画が完全に破綻した後も戦い続けます。

 ドイツが戦争を諦めたきっかけは、軍隊がほとんど崩壊したことでした。1918年10月下旬、ドイツ海軍が計画した捨て身の作戦に対し、水兵たちが「もう嫌だ」反乱を起こしました。反乱はキール軍港から内陸まで拡大しました。兵士たちが大規模に戦争終結を要求したのです。陸軍でも、戦争末期の2ヶ月だけで76万人以上の国民が兵役を拒否し、既に召集を受けた兵士からも20万人以上の行方不明者、つまり脱走者が出ました。

国家の消滅寸前まで戦った第二次大戦

 第二次世界大戦でも、ドイツは懲りていませんでした。ヒトラーは連合軍がベルリンを陥落させるまで戦いを指導し続け、自分が死んだ後も戦争を続けるよう指示しています。自国を破滅から救うつもりが、ありませんでした。

 それを象徴するのが「ネロ指令」です。45年3月19日にヒトラーが出したこの指令は、自国の徹底した破壊を命じています。ドイツの鉄道や道路、通信網、産業施設などを自ら破壊せよという内容でした。

 戦争では「焦土作戦」と呼ばれるものがあります。敵軍が攻めてくる地域でインフラを破壊し、食料などを枯渇します。そこに誘い込まれた敵軍は物資に困り、勝っているはずなのに急速に消耗します。そして敵が疲れ切ったところを反撃するのが、焦土作戦のセオリーです。勝利のため、自国の一部の地域を犠牲にする作戦です。

 ところがこの段階のドイツは、もうそんな余裕はなく、敗北は見えていました。それなら、産業やインフラは出来るだけ温存し、戦後復興に備えるべきですが、ヒトラーにそのような考えはありませんでした。その後の展望もないのに、一部どころか、自国の全部を焦土にして戦い続けよ、という自己破滅的な命令です。

戦争反対を糾弾するイギリス

ガンコなのはドイツ人だけではありません。第一次世界大戦の最中、1916年10月11日、イギリスの下院でこのような議論がありました。

労働党議員が「平和のメッセージを持って、我々の所にくることのできる者は、これを歓迎する用意があり、将来もそうあるべきことを希望する」と述べました。戦争を止めるための対話への道を開こう、という主張です。

ところが、ロイド・ジョージ陸軍大臣は猛烈に反論します。このセリフは、1945年における旧日本軍の将軍のセリフだと言っても、不自然には聞こえないでしょう。

今、ここで調停があれば、ドイツにとっての勝利になってしまう! しかも軍事的勝利である! 戦争の勝利である! 調停は我々にとっては、軍事的破局になることは間違いない」

犠牲を物ともせずに戦い続けたイギリスは、最終的には勝利者の側に経ちました。しかしあまりにも犠牲が大きすぎ、大国としての地位は低下します。その上、この経験から国民が長く再軍備に反対したため、第二次世界大戦ではヒトラーの侵略に対してほとんど準備ができていませんでした。

第一次世界大戦で唯一の賢者はレーニン?

 第一次世界大戦末期、ただ一人、あらゆる犠牲を払ってでも戦争から早期に手を引こうとしたのが、ソ連の指導者レーニンです。

 レーニンは、決して平和主義者ではありません。自分に反対する人を容赦なく殺し、市民に過酷な弾圧して恥じない、非人道的な政治家でした。自分の理想の正しさを信じて疑わず、正しい理想を目指している自分の正しさを確信していて、理想が実現しないのは自分以外の誰かが悪いと考える、タチの悪い理想主義者でした。

 それにも関わらず、広大な領土をドイツに引き渡す犠牲を払って、単独講和を結びました。和平に反対するボリシェビキの同志、ブハーリンとラデックは、こう述べています。

「良心的な革命家ならば、このような不名誉に同意する者はいないはずだ」

「我々は手に剣を持ち、”和平は不名誉、戦いこそ名誉!”と叫んで、立派に死ぬべきである」

 1945年の一億総特攻を連想させるセリフですね。

 このような反対にあいながらもレーニンが和平を望んだ理由の一つは、戦争を継続するとドイツに負けてしまい、せっかく成立した自分たちの政府が早々に倒されることを恐れたからです。それに、戦争を開始したのはロシア帝国政府ですから、それを革命で倒した自分たちが戦争政策を引き継ぐ義務を感じていませんでした。

 もっとも、このソ連の異常なほどの決心は、かえって他国からの警戒心を強め、ドイツ以外の国からの干渉戦争を招きますが、それはこの際は置いておきます。

普通は損切りが行えない理由

「戦争に勝てないことを認める」という戦いに和平派が勝てない

 レーニンは「これ以上、戦争を続けた場合の損失(ソ連の崩壊)」と「不利な条件でも、今すぐ戦争を止めた場合の損失(領土の大幅な割譲等)」を比較し、より前者の損の方が大きいと判断しました。思い切った損切りを行ったのです。

  普通の国では、そう簡単にはいきません。損切りを行うと、これまで戦争を推進していたグループの立場が無くなります。すると、戦争を止めたことで、かえって国内の反発を買って、政権が倒れたり、暗殺や粛清で殺されたりするかもしれません。

長期の不利な戦いを終結させる場合、日常生活では当たり前の考え方である損失縮小も、政府にとってはとくに難しい政策決定のようである。…

タカ派の目から見れば、部分的和平の受諾は、外からの脅威に価値あるものを晒すことになるばかりでなく、政治的士気阻喪という国内的プロセスを引き起こし、これが内部からタカ派の地位をひっくり返すかもしれない、とみる。そしてハト派は、継戦こそ最後には大変革か国内の闘争激化を招いて、価値あるものを滅ぼす事になる、とタカ派同様、固く信じ込んでいる。(紛争終結の理論 (1974年) (国際問題新書p117)

交戦相手国と和平を結ぶためには、和平派のグループが国内の権力闘争に勝利する必要か、少なくとも戦争派のグループの力が失墜する必要があります。しかし、多くの場合、戦争中、和平派は国内で不利な立場にあります。

戦争が始まる以前、彼ら和平派が主導していた外交交渉は失敗に終わっていることが多いからです。交渉の失敗によって、和平派の政治家や外交当局の権威は失墜し、戦争派の政治家や軍部が力を握っています。そこで、一度は失敗した和平派が力を盛り返すのは、容易なことではありません。 

 犠牲が価値を作り出す

和平を難しくする別の要因は、戦争に伴う犠牲そのものです。「これほどの犠牲を払ったのだから、戦争をやめよう」とは、なかなかなりません。むしろ「これほどの犠牲を払ったのだから、負けるわけにはいかない」という風になりがちです。

これは、賭け事をしている人間が、多くのお金を失ったからこそ、「負けたままではヤメられない。次こそ勝てるはず」と思って、さらに大金を投じてしまうのに似ています。

 戦争の費用が増すに連れて、少なくとも最初は、戦争目的を達成しようとする指導者と国民の決意は強まる。そうした動機の過激化は、次いで戦争目的と軍事手段の過激化につながる。

軍事力と現代外交―歴史と理論で学ぶ平和の条件 p257

この心理は、戦争に負けそうな側に限りません。戦争に買っている側も、犠牲を払っています。その犠牲が大きいほど「戦争からもっと大きな価値を得なければ割に合わない」と考え、中途半端な和平を拒否し、もっと高い条件を臨むようになります。

日清戦争時に外務大臣だった陸奥宗光は、蹇蹇録でこう嘆いています。清国と講和条約を結ぶに当たって、みんな勝手なことを言いすぎ!というのです。

政府の色々な部署の責任者たちが、自分の職務に忠実なあまり、それぞれに希望する講和の条件を主に考えて、他の部署が希望する条件を二の次にしようとするのは、よくある話で・・・

こんな風に、政府の中ですら講和条約への主張が一致しないくらいだから、国民の間ではもっと様々な希望があって、一致しないのはもちろんのこと、清国にますます多大な譲歩を要求して、日本の権威をますます増大させようと思って・・・

過酷で大きな条件が出来上がるばかりだ。

両国の交渉空間が一致しない。意思疎通が難しい。

講和にも降伏にも、交戦している国々の両方が、同意できる条件が必要です。条件には、期待できる利益の最高ラインと、これを下回らなければ合意してもいいという最低ラインがあります。相手から提示される条件がこの間に収まれば、合意できる可能性があります。

メルカリやヤフオクで何かを買う時と同じです。買い手は「この商品、できれば500円くらいで買いたい。そこまで値下がりしなくてもいいけど、もし1000円を越えるようなら、買う気はしない」などと考えます。ところが売り手が「少なくとも1000円以上で売りたい」と考えていれば、お互いに考えている範囲がズレているので、なかなか合意はできません。

しかも、開戦によって両国の信頼関係は崩壊しているので、相手の言い分をどこまで本気でとっていいのか分かりにくく、交渉はただでさえ困難です。メルカリやヤフオクで言えば、最悪の評価をされている出品者と交渉をしているようなものです。

太平洋戦争では、連合国が、というよりルーズヴェルト大統領が「無条件降伏」を条件としたことが、日本の降伏を難しくしました。たとえ無条件降伏の条件がなかったとしても、日本が早々に降伏することはなかったでしょうが、降伏を検討する最終段階でネックになったのが「無条件」の中に国体護持、天皇制の存続が入るかどうかでした。

45年の8月12日、陸海軍のトップである参謀総長と軍令部総長は、こう上奏しています。

敵国の意図か名実共に無条件降伏を要求し、特に国体の根基たる天皇の尊厳を冒涜しあるは明らかなる所でございまして、過般御聖断を賜りました御前会議の趣旨に反するものと考えられます。(敗戦の記録p288

その点の確証が得られなかったので、降伏に踏み切るのがズルズルと遅くなりました。最終的には、確証があるのかないのかよくわからない状況で、大丈夫だという意見を信じて降伏に踏み切ります。

3ヶ月後、無条件降伏の原則は条件付きで適用できることを知った時、日本は降伏した。( The Memoirs of Cordell Hull Vol 2 p1570)

戦争の終わらせ方をちゃんと考えずに戦争を始めている

このように戦争のやめ方で揉めてしまう根本的な原因は、開戦する前にこういった戦争のやめ方のことを綿密に考えていないからです。戦争を始めるからには、終わらせ方やその条件を、色々な場合に分けて考えておかねばなりません。しかし、そこまで考えて戦争を始める国は少ないと言われています。

戦争計画は最初の行動だけをカバーする傾向があるので、戦争を選択する国家指導者は、戦争終結のない計画を選ぶ。(紛争終結の理論 (1974年) (国際問題新書)

終わらせ方を考えているつもりでも、あまりに楽観的な見通しであることが少なくありません。日中戦争から近年のイラク戦争まで、楽観的な見通しで開始され、戦”闘”はそこそこ上手くいったけれど、戦”争”は全然終わらない、という例は数多くあります。

どれほど計算しても、戦争はその範囲を逸脱し得る

これについては「当時の指導者は愚かだった(予測能力が低かった)」と批判するだけでは不十分かもしれません。

極めて理性的な政治と軍事の指導者が、正確な情報を集め、入念な計算をしても、あてが外れる可能性は否定できないからです。クラウゼヴィッツは、戦争を支配する三位一体の要素の中で「理性」と並んで「偶然性」を挙げています。

古代アテネとスパルタが戦ったペロポネソス戦争において、アテネは最終的には破れるのですが、途中で勝利を得たこともありました。ここで戦争をやめておけば、アテネは敗戦を避けられたかもしれません。しかしスパルタとの講和交渉を拒否し、戦争を継続して破滅しました。

分別のある人間は、勝利をあてにならないものとみなすだけの慎重さを持ち合わせています。…戦争とは、軍人が封じ込めておきたいと思う範囲内にとどまることなく、偶然の処方に従って進展するものと考えるのです。(歴史〈2〉 (西洋古典叢書)

止めるべき時に戦争を止めることができないのは、国内の戦争派と和平派の争い、犠牲による正当化、交渉の困難と交渉空間の不一致等の理由があります。そしてズルズルと戦争を継続してしまううちに、理性的計算の限界によって思うように戦えなくなり、理性が偶然性に破れてついに大敗したりするのは、いずれも人間集団の宿痾であって、古代から変わりがないようです。