←前

戻る

次→ 



19代斎院 禖子内親王

※「ばい(みわ)」の字は、示偏+某。こちらを参照(字源)。

名前の読み(音) 名前の読み(訓) 品位
ばいし みわこ 不明
両親 生年月日 没年月日
父:後朱雀天皇(1009-1045)
母:中宮藤原嫄子
  (1016-1039,敦康親王女)
長暦3年(1039)8月19日 嘉保3年(1096)9月13日
斎院在任時天皇 在任期間 退下理由
後冷泉(1045~1068,異母兄) 卜定:寛徳3年(1046)3月24日
初斎院:不明
本院:永承3年(1048)4月12日
退下:天喜6年(1058)4月3日
斎院在任時斎宮 斎宮在任期間 斎宮退下理由
嘉子
 父:小一条院
 母:藤原頼宗女?
卜定:永承元年(1046)3月10日
初斎院:不明
野宮:永承2年(1047)9月14日
群行:永承3年(1048)9月8日
   (長奉送使:藤原信長)
退下:永承6年(1051)1月8日
父薨去
敬子女王
 父:敦平親王
 母:源則理女
卜定:永承6年(1051)10月7日
   (五条邸)
初斎院:永承7年(1052)4月25日
   (大膳職)
野宮:永承7年(1052)9月28日
群行:天喜元年(1053)9月14日
退下:治暦4年(1068)4月19日
天皇崩御

略歴:
 長暦3年(1039)(1歳)8月19日、丹波守源行任邸で誕生。


8月28日、母嫄子崩御。


12月25日、内親王宣下。
 寛徳2年(1045)(7歳)1月16日、父後朱雀天皇譲位、異母兄後冷泉天皇践祚。


1月18日、父後朱雀上皇崩御。


4月8日、後冷泉天皇即位。
 寛徳3年(1046)(8歳)3月24日、後冷泉天皇の斎院に卜定。
 永承3年(1048)(10歳)4月12日、紫野本院へ入る。
 天喜6年(1058)(20歳)4月3日、斎院を退下。
 嘉保3年(1096)(58歳)9月13日、薨去。

号:六条斎院
同母姉:祐子内親王(1038-1105,准三宮)

斎院長官:藤原長房(永承3年(1048)4月5日永承7年(1052)4月以前)
     藤原定成(永承7年(1052)4月7日天喜6年(1058)4月3日(退下))

後朱雀天皇第四皇女。
 母藤原嫄子(げんし/もとこ)は敦康親王(一条天皇第一皇子、母は皇后藤原定子)の一人娘で、父後朱雀天皇の姪(初名は嫄子女王)。
 18代娟子内親王、20代正子内親王の異母姉妹。
 斎院長官藤原長房は中関白家隆家(一条天皇皇后定子の弟)の孫で、母嫄子の再従兄弟にあたる。

※「げん(もと)」の字は、女偏+原。こちらを参照(字源)。

           ┌──────────────────┐
           │                  │
          円融天皇    藤原道長       冷泉天皇
           │       │          │
 ┌───┐     │       ├───┐      │
 │   │     │       │   │      │
藤原隆家 定子===一条天皇=====彰子  妍子====三条天皇
 │      |       │[上東門院]    │   │
 │      |       │         │   │
藤原経輔   敦康親王     │         │   │
 │      │       │         │   ├─────┐
 │      │       │         │   │     │
藤原長房   藤原嫄子===後朱雀天皇=======禎子 小一条院  敦平親王
[長官]         │   │     │ [陽明門院] │     │
      ┌─────┤   │     │       │     │
      │     │   │     │       │     │
      祐子   ◆禖子 後冷泉天皇  娟子      嘉子   敬子女王
                              (斎宮)   (斎宮)

 誕生からわずか9日後、母中宮嫄子が産褥死。その後は姉祐子内親王と共に、養祖父頼通の元で育てられた。
 幼い頃から病がちであったが、和歌の才能に優れ、多数の歌合を開催。斎院退下の後は、母方の曽祖父具平親王ゆかりの六条邸に住んだと見られ、六条斎院と称された。『中右記』『栄花物語』によると斎院在任中に病を得て退下、その後も長く病苦に悩まされ精神にも異常をきたしたという。晩年に出家したらしいが、時期は定かでない。
 禖子内親王家に仕えた女房・六条斎院宣旨(源頼国女)は有名な歌人であり、また『狭衣物語』の作者として有力視されている。

詠歌:神垣にかかるとならば朝顔もゆふかくるまで匂はざらめや(詞花集)

※禖子内親王の祖母敦康親王妃(具平親王次女)は関白頼通の正室・隆姫女王の妹であり、よって母嫄子は隆姫の姪にあたる。この縁から嫄子は娘のない頼通・隆姫夫妻の養女となり、後朱雀天皇に入内・立后した(このことが東宮時代からの妃であった皇后・禎子内親王(18代娟子内親王母、頼通の姪)との関係を悪化させたと言われる)
 しかし皇子誕生を期待されながらも、嫄子は皇女二人を生んだのみで24歳の若さで早世する。後宮制覇に失敗した頼通はその後、後冷泉天皇に入内させた実娘寛子にも皇子が生まれず、最終的に彼と対立する禎子内親王の子・後三条天皇の即位を許すこととなった。

 なお禖子の曽祖父・具平親王の千種殿(禖子の六条邸に隣接していた?)は、禖子の姉祐子内親王の所有であったらしい(『水左記』承暦元年12月15日条に、高倉殿(祐子)が大江匡房に売却したとの記録があり、のち江家文庫が営まれた)

参考書籍:
・所京子『斎王和歌文学の史的研究』(国書刊行会, 1989)
・岩佐美代子『内親王ものがたり』(岩波書店, 2003)

参考論文:
・朧谷寿「藤原頼通の高倉殿」
 (『平安貴族と邸第』p56-80, 吉川弘文館, 2000)
※その他関連論文はこちらを参照のこと。

参考リンク:
『天皇皇族実録76.後朱雀天皇 巻3』宮内庁書陵部所蔵資料目録・画像公開システム
 ※禖子内親王については107~119コマにあり

歌合リンク:『六条斎院歌合』(国際日本文化研究センター和歌データベース)
 ・永承三年五月or四年五月
 ・永承四年十二月二日
 ・永承五年二月三日
 ・永承五年五月五日
 ・永承六年正月八日
 ・天喜三年五月三日(物語合)
 ・天喜四年閏三月
 ・天喜四年五月
 ・天喜四年七月
 ・天喜五年五月
 ・天喜五年八月
 ・天喜五年九月十三日
 ・(天喜五年)七月
 ・治暦四年五月五日
 ・治暦四年十二月二十二日





後朱雀天皇
史料 月日 記述
扶桑略記 長暦3年
(1039)
8月19日 【皇女(禖子)誕生】
 中宮(嫄子)嫄子誕生女王(禖子)
扶桑略記 長暦3年
(1039)
8月28日 【中宮(嫄子)崩御】
 中宮(嫄子)崩。年廿四也。
春記 長暦3年
(1039)
12月5日 【皇女(禖子)、内親王宣下】
 今日故中宮(嫄子)女二宮(禖子)御百日也、(中略)
關白(藤原頼通)令奏云、女二宮今日御百日也、令補親王給、并可給別封之事、可被下宣旨也、予奏之、仰云、依請者、又令奏云、可仰何上卿哉、仰云、可仰春宮大夫(藤原頼宗)者、先是頭辨令奏親王御名字云々、禖子云々、(後略)
春記 長久元年
(1040)
8月7日 【藤原資房、関白と若宮達御方(祐子・禖子)に参上】
(前略)予退出參若宮達(祐子・禖子)御方、又參中納言御方、(後略)
春記 長久元年
(1040)
12月22日 【権大納言源師房、禖子内親王家司となる】
(前略)以東宮權大夫<師房>源朝臣可爲、禖子内親王<故中宮二宮也、>■由可仰下、(後略)
春記 長久2年
(1041)
2月19日 【故中宮二宮(禖子内親王)政所・侍所始】
(前略)申時束帶參關白殿(藤原頼通)、今日故中宮二宮(禖子)政所并侍所被始、仍人々群參、関白出居此座、皇后宮大夫(藤原能信)已下參着饗饌、上達部束帶、殿上人皆束帶也、大盤上居合子、<飯盛、>侍職事等各所課云々、(後略)
後冷泉天皇
史料 月日 記述
一代要記 寛徳3年
[永承元年]
(1046)
3月24日 【禖子内親王、賀茂斎院卜定】
 寛徳三年三月二十四日甲辰為賀茂斎
公卿補任 永承3年
(1048)
4月5日 【藤原長房、斎院長官に任命】
(永保3年)
參議 正三位 同(藤原)長房(中略)
<(前略)永承二正ー正五下。同三四五兼齋院長官。(後略)>
春記ほか 永承3年
(1048)
4月12日 【斎院(禖子)紫野本院入り】
『春記』
 今日斎王(禖子)始入御紫野宮御禊日也、予依奉假文不参、又不奉出車也、少将資宗可勤御前也、■■事欲相訪、依此假文不到訪也、去夜乍立向彼宅、訪雑事、義通朝臣云、雑事皆具、但関白殿(藤原頼通)御馬御随身事未承一定、前日督殿(藤原資平)眼前所被申也者、今日消息云、関白殿給御馬、不給御随身者、予答■■■案也、此由早可令申督殿也、督殿被申内府御随身公文以彼為龓云々、義通不許云々、然又何為哉云々、経宗朝臣来、遣資宗許了、早可出立之由、今朝■也、督殿不御坐也、申終許経宗同乗密々見物、小童等同乗也、日没之間斎王渡給了、女房装束如花過差無極而已、見了即退私、今日前駈大納言一人<(藤原)長家>、用装■■杏葉不付銀面雲珠、又無泥障、是例也、以馬副令取馬口、無雑色、只二人許在後、若取沓者歟、主人着沓、不付魚袋云々、中納言一人、<(源)隆國、>大略如大納言、但有随身、着蠻繪、帯平胡簶、無雑色、宰相二人<(藤原)俊家、(藤原)経任、>■■■■近衛府生二人令取馬口、<関白随身右府生播磨貞保、内府(藤原頼宗)随身右府生下毛野公安、>経任以馬副令取之、有随身四人火長四人、無雑色也、四位四人、左中将(源)俊房以関白御随身二人、<右府生公武右番長武兼、>随身四人、小舎人童二人、<無雑色、>左少将基家以関白御随身■■■■■■随身并小舎人童二人<無雑色、>右中辨経家以右府(藤原教通)御随身令取口、<左府生秦近利、>右少将顕家以関白随身令取口、<近衛秦近重、>五位四人、右少将公基、<右府生助武取口、>随身二人、小舎人童一人、<無雑色、>右衛門権佐長季、<無口取歟、>右(左?)少将資宗<内府随身下毛野公文取口、>随身二人無童并雑色、右兵衛佐師家以関白御随身<近衛定國、>令取口也、随身二人童一人也、随身以上皆着蠻繪、或帯平胡簶、或以鞭挿腰也、有■車等、中将俊房車以衆華餝之彫融也、資宗車少々有風流、又一兩車如之、関白不給御随身也、例事也、師家等給之、已以(似?)有偏頗、不可為愁耳、
春記 永承3年
(1048)
4月17日 【賀茂祭】
 自曉大雨如注、入晩景頗休止、賀茂祭日也、昨日源大納言師房卿於賀茂御社相談云、左中將定房奉仕祭使、可到訪也、如之事兼日可被相示也、忽被相催、依權勢歟、定房者假名於養子、實是家人也、仍被相營歟、予不可左右、答可到訪由了、自曉更大雨如沃、予車依典侍借、即送了、仍乘網代車、到別當許、<未剋、>此間雨脚聊有隙、與武衛同乘到祭使所、左中將定房出立於資業卿近衛御門家也、先是藤相公一人在之、武衛予着座、此間●人等來集云々、之氣色太懈怠也、少時大藏卿師經新宰相經季等來著之、居肴物、●人座兼居飯、近代之事歟、良久之●人兩三人着座、左少將基家勸盃、●人<公卿着座之後太久、先可勸公卿歟、>次左武衛勸盃、<二獻、>此間發哥笛音、又居粉熟(ふずく)令營也、鳥景已傾之故也、新宰相退出參齋院云々、大藏卿依宣旨召車、<藏人奉勅召之、女藏人料云々、>仍退出、此間雨脚宜之、於庭中令哥●、<如形也、>又令引餝馬、引馬隨身雜色廿人<著黄色、>餝馬口取關白御隨身、

●=儛(人偏+舞。舞の異体字。こちらを参照(字源)。)
二十巻本類聚歌合 永承3年(4年?)
(1048)
5月 【六条斎院禖子内親王歌合】
(未入力)
二十巻本類聚歌合 永承4年
(1049)
12月2日 【庚申斎院禖子内親王歌合】
(未入力)
二十巻本類聚歌合 永承5年
(1050)
2月3日 【庚申六条斎院禖子内親王歌合】
(未入力)
二十巻本類聚歌合 永承5年
(1050)
5月5日 【六条斎院禖子内親王歌合:題「菖蒲」】
(未入力)
二十巻本類聚歌合 永承6年
(1051)
1月8日 【庚申六条斎院禖子内親王歌合】
(未入力)
二十巻本類聚歌合 永承6年
(1051)
【六条斎院禖子内親王家歌合】
(未入力)
春記
弁官補任
永承7年
(1052)
4月7日 【小除目。藤原定成を斎院長官に任命】
『春記』
(4月8日条)
 昨日有小除目、(中略)齋院長官藤定成、(後略)

『弁官補任』
 後冷泉(永承七年)
右少弁 正五位下藤定成 <四月七日、兼斎院長官、>
春記 永承7年
(1052)
4月19日 【斎院(禖子)御禊】
 今日齋王(禖子)御禊日也、予稱勞事不出仕、督殿(藤原資平)御座敷、予候御共見物、齋王申終許渡給、諸衛前駈左衛門佐顯綱、<口取内府(藤原教通)隨身公久、馬關白(藤原頼通)馬云々、>雜色尉平重清、右衛門佐代刑部權大甫師賢、<口取關白隨身、>尉藤範俊、<檢非違使、>左兵衛佐俊輔、尉右兵衛佐兼仲、<口取關白隨身、>各雜色十餘人或八人莫不染色、又車皆施風流、諸卿殿上人等於洞院東路被見物、右兵衛督經成同供奉之、難有過差之制不能糺彈也、太鳴許也、不如無令矣、見了歸家、祭行事上卿源大納言、<師房、>宰相(源)基平<無前駈、>等同相引在殿下御共、不留列見之所、太奇恠事也、仍違濫殊甚也、
春記 永承7年
(1052)
4月22日 【賀茂祭】
 今日賀茂祭也、近衛府使左近少將忠俊、出立自源大納言(師房)一條家、(中略)
稱勞事不參齋院(禖子)也、使所人々可來訪之由、大納言有消息云々、至于予者無此事、有員外之思歟、不爲愁耳、(中略)
權辨資仲奉仕東宮使、日者經營、今日出立從此殿、但不被儲客饌也、馬副手振關白殿(藤原頼通)御隨身御馬舎人及雜色等有饗也、饌餝馬具等皆具了、主殿頭義通自早旦來、調備雜事、依親々也、又他人々多來訪也、關白殿御馬二疋將來、一疋者餝馬、一疋者引馬、共凡御馬也、御隨身近衛忠國來、下臈也、依人有優劣歟、右府(藤原教通)隨身近衛光季、是又不優者也、樂人也、隨身無算用云々、左兵衛督(藤原経任)被來坐也、未剋許雜事皆具了、餝馬了、唐鞍者用東宮大夫鞍、但多改加風流、下鞍用鏡、頸總者新作、珠玉連聯、種々餝太美也、雲珠又玉雲珠也、多加風流、餝之笠用縫笠也、馬副六人、手振人雜色十六人、<色々有村濃、>依有宣旨也、被仰雜色之員云々、車無風流、但簾緒用組、牛借用大納言(藤原)信家牛也、一具等引渡庭中、未時許參東宮(尊仁親王)了、金吾(右衞門督藤原資平)予同乘到狹敷、<此衛所儲也、>永慶律師來坐之、武衛被儲食也、申終許關白已下<與右府同乘、>引公卿已下見物給、行事上卿源大納言同相從、宰相(源)基平獨留列見所云々、是又奇恠事也、齋王渡給、内藏寮使助季通、<太不合者云々、而如形渡了、>雜色十人取者等云[々脱?]近衛府使忠俊、<左少將、>餝馬口取、<右府生下毛野助友、同公安内府隨身、>引馬口取、關白隨身、左番長大中臣兼武、右府隨身下毛野公長、<已上皆着制物、>雜色十五人、色々、車施風流、<彫、>馬寮使左助能成、中宮使權亮師良、雜色十五人云々、皇后宮使大進憲房、<右衛門權亮口取、關白御隨身、右府生公武、近衛時方、第一御隨身也、已給二人、彼宮事異他歟、>長官右少弁定成、<口取關白隨身武常、>字餘如例、但車及口取裝束、多施過差已非制法歟、見了歸給、權辨經營、人々多相訪云々、
春記 永承7年
(1052)
4月27日 【斎院(禖子)、腫を患う】
(4/27条)
 ■督殿(藤原資平)被參齋院(禖子)、予同參入、先是關白殿下(藤原頼通)參入給院、日者熱物御座云々、御背間云々、醫家申云、可蛭●者、醫師(丹波)雅忠申云、前々齋院令蛭食給云、有先例者、關白相遇督殿、難命此由、督殿令申給云々、先例何事候哉、縱雖無其例、令勞給事尤可令療治給也、療病之事有何憚哉、可令隨醫申給歟、出御汗、殿更何事候哉者、仍今日令蛭●給了云々、午終剋許督殿退出給、予同退出、(後略)
(4/28条)
 今日督殿參内給、可定申奉幣使之故也、昨日頭中將(源)隆俊含勅語來仰云々、予候御共同參入、先被參關白殿、殿下被參齋院(禖子)、督殿奉謁神申雜事也、良久主人被參齋院、於門中乘車、近來之事也、太非常也、擬天子歟、(藤原)兼頼、(藤原)信家、(源)基平卿等候彼御共云云、左武衛參入、予乘督殿御車參内、予參殿上、即退下參陣、督殿御端座召外記、令奉文書及硯等、此間左兵衛督(藤原経任)在陣座、予執筆書定文廿一社也、偏御祈時疫也、參議使經也(源)資綱卿等來月五日可被發遣也、予書了奉之了、召右少辨(藤原)師家被奏、至于内覧其後可奉覧、被參齋院之故、是關白命也者、奏下了後、督殿命云、關白殿歸給後可被奉覧也、其後可下給外記也、年老不可久候之故也、尚書奉神祇官請奏、而督殿加多禰給、是大御失也、思食失也、可奏之文也、文書等被下外記、了退出給、予同退出、(後略)

●=口偏+宿
夫木和歌抄 天喜元年
(1053)
5月21日 【斎院(禖子)御所で庚申歌合】
(未入力)
二十巻本類聚歌合 天喜3年
(1055)
5月3日 【六条斎院禖子内親王物語歌合】
(未入力)
二十巻本類聚歌合 天喜4年
(1056)
閏3月 【六条斎院禖子内親王歌合】
(未入力)
二十巻本類聚歌合 天喜4年
(1056)
5月 【六条斎院禖子内親王歌合】
(未入力)
二十巻本類聚歌合 天喜4年
(1056)
7月 【六条斎院禖子内親王歌合】
(未入力)
扶桑略記 天喜5年
(1057)
4月15日 【賀茂祭、斎院(禖子)は病のため奉仕せず】
 賀茂斎禖子内親王、依病不供奉祭
二十巻本類聚歌合 天喜5年
(1057)
5月 【六条斎院禖子内親王歌合】
(未入力)
二十巻本類聚歌合 天喜5年
(1057)
7月 【六条斎院禖子内親王歌合】
(未入力)
二十巻本類聚歌合 天喜5年
(1057)
8月 【六条斎院禖子内親王歌合】
(未入力)
二十巻本類聚歌合 天喜5年
(1057)
9月13日 【六条斎院禖子内親王歌合】
(未入力)
扶桑略記
山槐記
一代要記
諸道勘文
天喜6年
[康平元年]
(1058)
4月3日 【斎院(禖子)退下】
『扶桑略記』
 賀茂斎王(禖子)依病退出矣、

『山槐記』(治承2年1月7日条)
(康平元年)四月三日賀茂齋内親王依病退出、

『一代要記』
(後朱雀天皇)
 禖子内親王<長暦二[三]ー八月誕生、寛徳三ー三月廿四日甲辰爲賀茂齊、■[天]喜二[六]ー四月三日依病退之、母、>
(後冷泉天皇 賀茂)
 禖子内親王
  <後朱雀院四女、寛徳三ー三月廿四日爲齊院、天喜六ー四月三日依病退之、

『弁官補任』
 後冷泉(天喜六年)
左少弁 正五位下藤定成 <四月三日追斎院長官退出(後略)>

『諸道勘文』
(未入力)
二十巻本類聚歌合 不明 3月 【禖子内親王歌合】
(未入力)
二十巻本類聚歌合 不明 5月5日 【禖子内親王歌合】
(未入力)
二十巻本類聚歌合 康平7年
(1064)
12月29日 【庚申禖子内親王歌合】
(未入力)
二十巻本類聚歌合 不明 不明 【庚申禖子内親王歌合】
(未入力)
二十巻本類聚歌合 不明 不明 【禖子内親王歌合】
(未入力)
二十巻本類聚歌合 治暦2年
(1066)
9月9日 【庚申禖子内親王歌合】
(未入力)
後三条天皇
史料 月日 記述
帥記 治暦4年
(1068)
12月8日 【弓場始】
 今日弓場始也、昨日内竪來催、仍未刻許先參中宮(藤原寛子)、次具弓參内、以中門北廊爲弓場殿、御座、<北面、>上達部、<東面、西壁下、>出居座西對南庇、相向御坐、其前有的付座、申刻經前斎院(禖子)御方出御、(後略)
帥記 治暦4年
(1068)
12月11日 【斎院(禖子)御所のこと】
(前略)然間來向相共參内、(中略)參入之處、已遷御御關白(藤原教通)御二條堂云々、仍●自高倉參入、上達部殿上人或候堂上、或候堂下、事々不便、▲之宮内卿、左兵衞督、左大辨、前左京大夫、相共參齋院(禖子)渡御所、<讃岐守子宅也、>次又歸參御所、次退出、(後略)

●=𢌞(廻の異体字。こちらを参照(字源))
▲=蹔(斬+足。暫の異体字。こちらを参照(字源))
二十巻本類聚歌合 治暦4年
(1068)
12月22日 【庚申禖子内親王歌合】
(未入力)
二十巻本類聚歌合 延久2年
(1070)
1月28日 【庚申禖子内親王歌合】
(未入力)
白河天皇
史料 月日 記述
二十巻本類聚歌合 承暦2年
(1078)
10月19日 【庚申禖子内親王歌合】
(未入力)
二十巻本類聚歌合 不明 2月 【禖子内親王男女房歌合】
(未入力)
堀河天皇
史料 月日 記述
中右記 嘉保3年
[永長元年]
(1096)
9月13日 【禖子内親王薨去】
『中右記』
 夜前斎院薨、諱禖子、後朱雀院第四女、母故中宮嫄子也、長暦三年降誕、後冷泉院始為賀茂斎院、天喜六年依病退斎院、従爾以来被責狂病、不知前後経数十年、今夜俄以薨逝云々、御年五十八、<依為出家人無薨奏歟>



史料 記述
十三代要略
後朱雀院
(皇女)
 禖子内親王<母同祐子(中宮嫄子)。寛徳三年三月廿四日爲齋院。天喜六年四月三日依病退之。嘉保三年九月薨。>

後冷泉院
 永承元年 同月(三月)廿六日。以禖子内親王齋院。
一代要記
後朱雀院天皇
(皇女)
 禖子内ヽヽ[親王]<長暦二[三]ー八月誕生、寛徳三ー三月廿四日甲辰爲賀茂齊、天喜二[六]ー四月三日依病退之、母、

後冷泉天皇
(賀茂)
 禖子内ヽヽ[親王]
 後朱雀院四女、寛徳三ー三月廿四日爲齊院、天喜六ー四月三日依病退之、>
帝王編年記
後朱雀院
(皇女)
 禖子〃〃〃[内親王]<賀茂齋院/号六條齋院>

後冷泉院
(齋院)
 禖子内親王<後朱雀院第四皇女>
二中歴
(齋院)
 禎子<後朱雀女 永承元年或寛徳二年>
皇代暦
後冷泉天皇
(齋院)
 禖子 後朱雀四女薨
本朝皇胤紹運録
(後朱雀院子)
禖子内親王[齋院。號六條齋院。母同(中宮嫄子。敦康親王女)。]
本朝女后名字抄
(賀茂齋内親王)
禖子内親王 寛徳三年卜定。後朱雀院第五御女。母中宮嫄子。六條齋院。
賀茂斎院記
禖子内親王
後朱雀院第五皇女也。母中宮嫄子。敦康親王之女也。
寛徳三年三月卜定。
号六条斎院。
栄花物語
(34・暮まつほし)
【禖子内親王誕生、母中宮嫄子崩御】
 九月に、中宮(嫄子)このたびも女宮(禖子)生みたてまつらせたまひて、九日といふに、うせさせたまひぬれば、(後朱雀天皇は)あはれにいみじきことを思しめし嘆かせたまふ。姫宮を殿の上(頼通室隆姫)御形見と撫でかしづきたてまつらせたまふ。(中略)

 かくて、内裏(うち)造り出でて、渡らせたまふべし。
 皇后宮(禎子内親王)、二の宮(尊仁親王)の御書始(おんふみはじめ)にぞ入らせたまへる。あはれにおとなびさせたまへるにも、年月(としつき)のこと思しめし知られて、あはれに思しめさる。やがて留めたてまつらせたまへば、さぶらはせたまふ。弘徽殿に皇后宮、藤壺には殿(関白頼通)の姫宮たち(祐子内親王、禖子内親王)の入らせたまふべきにて、置かせたまへり。梅壺には内の大殿(教通)の女御(生子)、無壺には例のやうに東宮(親仁)おはします。宣耀殿に一品宮(東宮妃章子内親王)おはしまいて、梨壺の北の屋を上の御局にせさせたまへり。細殿など、いとをかし。反橋の妻戸、唐廂など、いとをかしう今めかし。藤壺にのみおはしまいて、一の所なれば、さすがにはるくる方なく塀の廻りてありしに、いとをかし。
栄花物語
(36・根あはせ)
【禖子内親王の斎院卜定】
 斎院に殿(関白頼通)の二の宮(禖子)のゐさせたまひぬ。おほかたには四の宮におはします。されど三の宮(祐子内親王)をも高倉殿の一の宮とのみ人は聞えさす。このほどに、一品宮(章子内親王)は后に立たせたまふべけれど、まづ斎宮、斎院の御事定まりてと思しめす。
栄花物語
(37・けぶりの後)
【斎院禖子内親王の有様、斎院退下】
 先帝(せんだい)をば後朱雀院とぞ申すめる。その院の高倉殿の女四の宮(禖子内親王)をこそは斎院とは申すめれ。幼くおはしませど、歌をめでたく詠ませたまふ。さぶらふ人々も、題を出(いだ)し歌合をし、朝夕に心をやりて過ぐさせたまふ。物語合とて、今新しく作りて、左右方わきて、二十人合などせさせたまひて、いとをかしかりけり。明暮(あけくれ)御心地を悩ませたまひて、果(はて)は御心もたがはせたまひて、いと恐ろしきことを思し嘆かせたまふ。
(中略)
 かくあさましきことのみ多かれば、御心のうちに殿(頼通)もあさましく思しめして、斎院(禖子)おろしたてまつらせたまひて、麗景殿の姫宮(正子内親王、禖子の異母妹)ゐさせたまひぬ。おりさせたまひても、御心地治らせたまふことなし。
今鏡
(4・雲のかへし)
 そのさきに、式部卿の親王(敦康)の女君を子にしたてまつりて、後朱雀院の御時たてまつらせ給へりしは、弘徽殿の中宮嫄子と申しき。(中略)
 また禖子の内親王と申すこそは、この中宮生み置き給へる宮におはしませ。
 寛徳三年三月、賀茂の斎院(いつき)と申しき。天喜六年御なやみによりて出で給ふ。
 美作の御が、「ありし昔の同じ声かと」と詠めるは、この宮の斎院のころ侍りて、思ひ出だして侍りけるになむ。この宮、斎院と聞えけるころ、本院の朝顔を見給ひて、

(禖子内親王)
 神垣にかかるとならば朝顔のゆふかくるまで匂はざらめや

と侍るも、いとやさしく。
十訓抄
(7)
【禖子内親王家の蹴鞠】
 六条前斎院(ろくじょうさきのさいいん)ときこえさせ給ひける宮の御所に、いみじき懸(かか)りを植ゑられたりけり。三月の始めつかた、その道の上達部、殿上人、あまた参りて、鞠つかうまつりけるに、夕べになりて、公卿の座に雪をかはらけに盛りて、主殿司(とのもづかさ)して据ゑ置かれけるを、雪とも見分かざりけるにや、「鞠の座に食物をすすめらるること、そのためしまれなり。いかやうにか」とあやしみ申して、おのおの出でられにけり。
 ある有職、のちにこのことを聞きて、「いみじくこそ雪をば出(いだ)されにけれ。さることあるらむとも知らで、近く寄りて見る人のなかりける、ゆゆしき恥なり。また、鞠の時、雪を出さるる、定まれる式なれども、ことさらにかはらけに盛られたりけるは、人の心をはかりて御覧ぜむとの御しわざなり」とぞ申しける。
 宮の御高名、鞠足の不覚にてぞありける。
詞花和歌集
  • (秋歌)賀茂の斎(いつき)ときこえける時、本院の透垣(すいがき)に朝顔の花の咲き懸りて侍けるをよめる
          禖子内親王
(114)神垣にかゝるとならば朝顔もゆふかくるまでにほはざらめや
後拾遺和歌集
  • (雑歌)小弁斎院にまいり侍りてほのかに見たてまつりたるよしいひにおこせて侍ける返事に
          六条斎院宣旨
(1111)ゆふしでやしげき木の間をもる月のおぼろけならで見えしかげかは


 ←前

戻る

次→