さて、今回は羽生くんにまつわること。

前回書いたものの続きというか、もうちょっと掘り下げてみたというか、そういう感じです。熱心な、あるいは羽生くんの良いとこだけしか見たくない!という方にはオススメしません。回れ右です。

...........................................✂︎


https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/68992

この記事に関する、私の所見を書いていこうと思います。常々思っていたことです。
羽生くんについてはいわゆる過激化(モンペ化)してまで彼を擁護しようとするグループと、おそらく彼の言動から感じる違和感からアンチ化した人たちがいるなあと、感じていて。
ではその違和感というのが何か、というと、「世間一般に押し出されている羽生結弦のイメージ」と、実際に(TVを通して)見た羽生くんの言動とに生じる乖離だと私は考えています。つまるところ、あれ?こんな人だったっけ?という『羽生結弦像』への小さな違和感が積み重なって、それが羽生くん本人に対する違和感になっていって……という感じ。


私の感覚で言えば、世間から賞賛される羽生くんの姿も間違いではないと思う。ただそれは、彼のいち側面に過ぎない、とも思っています。彼の“性質”に目を向ければ、たいていのことは腑に落ちて、紐解いていけます。聡い人は気づいているだろうし、彼の周囲も認識しているとも思います。
今回、羽生くんの幼少期のコーチの山田真美さんが、羽生くんについて、「なんでもオーバーな感じ。足を痛めたときも『痛いんだ、痛いんだ』と。実はたいしたことないのはわかっていて、練習をさぼりたいんだろうなと(笑)」と語っていた記事がありました。同コーチは以前には、「ちょっと叱るとすぐに悲劇の主人公になりきって『僕は傷ついています』とアピールしてくる」と語っていたこともあります(同コーチの話はけしてネガティヴなものではなく、彼のそういう性質は注意して見てやらねばならないものである、という教育者視点でのお話です)。
私は羽生くんのこの性質は今も、変わっていないと思います。なんでも大げさに受け止めてしまうし、なんでも大げさに表現(アピール)してしまう。周囲が「そんなに怒るようなことでもないんじゃない?」あるいは「そんなに傷つくようなこともでないんじゃない?」と思うようなことでも、羽生くん自身は感情が荒ぶったり、あるいはことさらに落ち込んだりする。山田真美コーチの語る、小さな頃の羽生くんがそのまま大人になった感じ。
怪我の発言も、薬のオーバードーズ発言も、つまり彼の「大げさに表現する」という特性ゆえです。そのままに受け取っちゃう人なら「そんなに薬飲まないといけないなんてかわいそうに…!」となるでしょうし、冷静に観察ができる人ならば、「いやそれ盛ってるだろ」となる。
羽生結弦というひとりの人物の評価が見る人によって割れてしまうのは、そういうことです。


彼自身は、「良い人でいたい」という思いを持っていると思います。ボランティアとの接し方や製氷の手伝いも、そういう純粋な気持ちの表れだと思います。国旗にたいする振る舞いも、「そういうものをきちっと敬える自分でいたい」という気持ちからでしょう。山田コーチのいう「なんでもオーバー」で「自己陶酔気味」な部分があるとはいえ、それがポジティブに作用している行動だと思う。
同時に彼は、自分の社会的価値が傷つくことにはとても敏感です。では彼にとっての社会的な価値は何かというと、「強い『羽生結弦』」。その究極が、「オリンピックのタイトル」です。彼がオリンピックのタイトルにこだわるのは、それがイコール、彼の思う自分自身の価値だからです。
だから、4位=台落ち=目に見える肩書き(メダル)がない状態では、メダリストとなった後輩たちの話に触れることはプライドが邪魔をするのです。「大げさに受け止めてしまう」性質によって、台落ちの辛さがよけいに身にしみるから(世界4位だって凄かろう、と周囲は思うだろうけど、1位以外に価値を見出せないのが彼の特性なのです。ギリで表彰台です)。
団体に対しても同じ。なぜなら五輪団体のメダルは、おそらく彼のキャリアのなかで唯一持ち得ないメダル(肩書き)になるでしょう。肩書きで自分の価値観を裏打ちする羽生くんにとっては、容易に踏み込めない領域になってしまったわけです。
いや大人ならそういうのまず横に置いといて賞賛しておやりよ、と、思うかもしれません。全日本で「僕が総括する」といかにも「皆を僕が代表します(キリッ)」って張り切っとったやないかい、と。でも、いざそのときになって手のなかに何もない状態では、彼にはそれはできませんし、実際にできませんでした。饒舌な彼のことだから、心に留まっていれば次々言葉が出てきそうなものですが、「氷の状態は良さそうだと思った」と話を逸らしごまかしてしまう、その心理。それはひとえに、彼の生まれ持った “性質”ゆえ。彼にとっては、まず、自分のプライドをどう守るかが最優先事項なのです(逆に自分が1位だったり表彰台に立ってさえいれば、自分のプライドはすでに保たれているので、安心して周囲に絡んでいけます)。


「他の選手が開けた穴」発言も、彼の性質からきていると私は思います。状況説明でありつつ同時に「僕が悪いんじゃない」というアピールを忍ばせているのです。明確に「僕は傷ついている」と主張しないだけ大人になったと言えますが、基本は幼少期と同じ。で、このやんわりと隠されたアピールを敏感に受け取った人たちが、犯人探しという過激な行動に走ったり、逆に「言い訳なんじゃないか」と感じたりする。そしてそこに、「言い訳じゃない!」というモンペが現れる。カオス。
思えば2020年の四大陸選手権でも「氷の状態が」「穴が」と言っていましたし、2021年の世界選手権でも「穴にはまった」(このときは自分で開けた穴)と、主要な国際大会で3大会連続して彼は「穴」に泣かされていることになります。
でもそれを言い出せば、この4年間、出場する大会でほぼ最終滑走(あるいはそれに近い位置)を務めてきたネイサンなど、都合10回ぐらいは穴にはまっていないとおかしい。つまるところは羽生くんの確認不足だっただけの話で、インタビューでも「僕の確認不足! 以上!」とスパッと言えればよかったのだけど、幼少期のコーチが言うように、「僕はショックを受けています」とアピールしたくなるのが彼の特性。
今回、「あれ?」と思った人たちの多くは、強い羽生くんしか知らないのだろうと思います。シニアに上がってからの羽生くんは必ず表彰台にあがっていましたから、順位という盾でしっかり自分のプライドを守ることができていて、「弱い部分」が出てくる余地は、あまりなかったわけです(まったくなかったとは言いません)。
でもいったん「順位(メダル)」という盾がなくなれば、どうやって自分のプライドを守ろうか、という不安定な状態になる。その隙をついて、彼の弱さが顔を覗かせるわけです。


私は、今回の一連で羽生くんに対して向けられたネガティブな言葉や感情のほとんどは、「自分たちが思っていた羽生結弦とは何か違う」という戸惑いからきていると思います。羽生結弦というアスリートに抱いていたイメージと違う何か。
私はこのイメージ、メディアや彼のマネジメントの影響が多くあると思います。
これまでメディアはしきりに「欠点のない羽生結弦」像を押し出してきましたし、それは今も続いています。私はネットブラウザのトップ画面をYahoo!ニュースにしているのですが、フィギュアの記事をよく見るためか、毎日のようにフィギュア関連の記事をおすすめされます。で、五輪期間中から今にかけても、毎日のように「羽生絶賛」記事が次々おすすめされてきます。さすがの私も食傷気味です(笑)
さておき、そういう絶賛記事自体は、私は別に悪いとは思いません。問題点があるとすれば、メディアとしてきちんとバランスのとれた報道ができているか、ということに尽きます。絶賛記事があるならば、彼の言動を検証する報道だってあっていい。それが、バランスです。
その最たるものは、彼の「強い痛み止めを許容量以上に使った」発言でしょう。彼は薬に関してはこの一度にとどまらず、「本来は○錠のところを○錠飲んじゃった」と再度メディアに話しています。はっきり言えば、これをペラペラと、しかも繰り返し言葉にする彼のメンタリティを危惧しないほうがおかしい。
彼には、ものごとを「大げさに受け止め」「大げさに表現する」性質がある、と書きました。そして、いったん自分が不本意な状況に置かれると、「傷ついたプライド」の修復にいっぱいいっぱいになります。薬の発言も「こんなにいっぱい飲まないといけないほど僕は大変な状況にあるんですよ」というアピール、つまりプライドの修復作業のひとつだと私は感じます。彼にとってはその修復作業がすべてだから、オーバードーズ自体の危険性、それを公に口にすることの影響、重大性は、気にも止まらないのです(前回の記事で「彼はわからないと思う」と書いたのは、そのためです)。
実際は、ドクターがきちっと管理し処方したものを処方されたぶんだけ服用していると信じたい。しかし彼はそうフォローもしなければ、メディアも、スケ連もスルー。
これでは、いわゆる一般層が違和感を積み重ねていっても、無理はないのです。


メディア(あるいは羽生陣営のマネジメント)が作り上げた『羽生結弦』は、清廉潔白で思慮深く、思いやりのある非の打ち所のない人物で、世の中はそういう『羽生結弦』が当たり前で、そういう『羽生結弦』だからこそその活躍に酔いしれてもきたし、世のヒーローたり得た。
その『羽生結弦』は「薬を○錠飲んだ」などとぶっ飛んだことは言わないし、「他人のあけた穴」なんて人のせいにはしないし(ここではあえてこう表現する)、後輩の躍進に触れもしないなどという狭小な心の持ち主でもない。だから、メディアはイメージに合わないこれらの姿は論じようともしないのだろうと、私は思います。
しかしこれは、一人の生身の人間と向き合うときに、健全なあり方なのか、と思います。
確かに、ヒーローには夢を見ていたいものです。でも人間には、さまざまな側面があるものです。現実として、メンタルが剥き出しの羽生結弦の姿を多くの人が目にしたわけで、メディアがかばえばかばうほど、「なんでこんな擁護記事ばかりなの?」という感覚を抱く人を余計に生むことになる。そういった違和感を口にする人の母数が増えるほど、一方の『理想の羽生結弦』を頑なに信じたい人には、それが「バッシング」に映る(なんでもかんでも批判したいアンチは論外)。
そこに見えるのは、「対象者をありのままに伝えるのではなく、自分たちの伝えたいイメージを対象者にあてはめる」という報道、マネジメントも含めたメディア戦略の歪みです。メディアは、なぜバッシングが起きるのか?という問いの答えのひとつに、メディア自身のこれまでの報じ方、取材姿勢、彼という人間をきちんと観察してきたか? 省みる必要もあるのではと思うのです。
報道とは、ただ単に礼賛しておけば良いだろう、ではすまないものです。むしろ羽生くん本来の、傷つきやすくて、怒りやすくて、落ち込みやすくて、肩書きにこだわりがあって、プライドを保つのにテンパっちゃうことがあって、人から褒められたくて、たくさん同情してほしくて、構ってちゃんで、人との距離感がちょっぴり独特で、ときに深く考えず「やべえこと」も口走る。そういう本来の姿をきちっとイメージだててあげていれば、今頃こんな無用な論争が起きなかったのに、とも思ったりします。


羽生くんの特性のひとつとして、羽生くん自身が『理想の羽生結弦』を仕立てて自分はそれを“演じている”という独特なセルフコントロール方法があります。「“羽生結弦”はそうじゃないから」といったような言い方によく表れる、こういった思考方法も、実は彼の“性質”を如実に表す特性のひとつだと私は見ています。
でも、演じ続けるのもいつかは無理が来ないかい?とも私は思ってしまいます。というのも、彼がもっとも拠りどころにしている五輪2連覇だって、世間ではどんどん過去のことになっていきます。そのうちに「2連覇? ふうん」ですますような世代も出てきます。そのころには、彼の“性質”も少しは穏やかになっているだろうか。ちょっとわからない。
言えることは、羽生くんの一部過激なファンは彼の言うことにいちいち過剰に反応して無理矢理に擁護する必要はないし(彼はもう27歳の大人だし彼のケアは彼の周囲に任せておけばいい)、メディアは『欠点ゼロのスーパーヒーロー』的な美化・礼賛はちょっと抑えめにして人間くさい部分も小出しにしたほうがいいと思うし(『羽生結弦』とはこうあるはずだ/こうあるべきだ、批判は許さん!という思考停止をやめる)、スケ連は「なんか口走った!」なことに対しては、粛々とフォローしたほうがいいということです(粛々と、淡々と、が大事)。
それを続けるだけでも、羽生くん自身も「完璧な『羽生結弦』じゃなくていいんだ」と心にゆとりができるし、一般層の、「なんで叩かれなきゃいけないのか?」「いやまっとうな論評だわ」っていう不毛な論争も、そのうちおさまるんじゃないか思うのです。


とまあ、つらつらと書いてきました。
私も自分の見方に偏りがないとは思いません。人間、誰だって先入観がありますし、価値観は人それぞれですし、いろんな考え方・受けとめ方があります。
私は、羽生くんにはありのままでいれくれたらいいと思います。人より「大げさに受け止める」性質なだけに、本人が一番メンタルコントロールに苦労しているかもしれませんが、お母様にそばにいてほしいと思うということは、本人もわかっているのだと思います(矛盾するようですが、この性質の人は目的の達成能力はとても高いのです。4Aはオリンピックに間に合わなかっただけで、そのうち成功させるのではと私は思います)。
羽生くんには、良くも悪くも人を巻き込むカリスマ性があります。「良くも」「悪くも」です。彼の感情が、喜怒哀楽のどこに振れるにしても「大げさ」なように、彼への評価も極端になりがちですが、人の言動への評価は、賞賛か批判かの両極で語れるものではありません。必ず、グレーゾーン(=良いところもあるけど首を傾げたいところもあるよね)が存在します。どんな選手だって、それが当たり前です。
私自身も教員免許を持っていますし、教育関係者と話す機会もたびたびあります。そういう視点から見ても、山田真美コーチの、「痛い、痛いと言うけど、実はたいしたことはないのはわかっていて、さぼりたくて言ってるんだろうと(笑)」という言葉には、ああ、彼の性質をこういうふうにフラットに、カラッと見てくれる人が彼のそばにいてくれたんだな、とホッとする気持ちにもなりました。
それこそ、世の中は「怪我の説明をしているだけなんだから『言い訳』言うな」か「それでも言ってほしくなかった、潔くない」の両極で言い争っていたわけです。そしてそれをつかまえて、メディアまでもが「なんで羽生結弦はバッシングを受けなきゃいけないんだ」とこれまた極論で論じようとする。本来は山田真美コーチのように、俯瞰して見ておけばいいんです。「この子はそういう人なんだ」「そういう言い方をする人なんだ」とフラットに受け止める。そして、起きたことには粛々と対応する。それだけです。ファンやメディアが騒ぎ立てるから、行きすぎたことになる。今回のことだけではなく、過去のことも省みて、そう思います(これ以上は書きません)。
たとえば名古屋の山田満知子コーチや、かおちゃんのコーチの中野園子先生も、山田真美コーチのように「教育者」タイプのコーチかもしれないなあと思ったりします。本当にイメージだけですが、ロシアのタラソワ先生もそうかもしれない。
オーサーがどういうタイプのコーチなのかは、私にはわかりかねているところがあります。でも2019年のGPFでオーサーの帯同が直前でキャンセルされた、というあのあたりから、ほかの選手たちに見られるような師弟関係ではもうなくなっているような気がします。
前回の記事の最後と似たようなことですが、もし今後彼が新しいコーチにつくのなら、「はっはー、あの子またなんか大げさに言いよるわぁ」ぐらいのカラッとした教育者タイプのコーチについてほしいものです。


さて、最後に。
ここに書いたことを、鬼の首をとった!みたいに引用されるのは困ります。
それだけはよろしくお願いします。



山田真美コーチのお話が出てくる記事はこちら。
https://news.yahoo.co.jp/articles/4c1cc8a79b02e9d165547140f959d5efb156a3cb?page=1