訪独を果たした伊八潜は、その後、ふたたびインド洋に出動、通商破壊戦で戦果を挙げたが、昭和20(1945)年3月30日、沖縄沖で敵駆逐艦2隻による爆雷攻撃を受け、損傷を受け潜航が続けられなくなり、翌朝、浮上決戦を挑んだところで、奮戦むなしく撃沈された。
内野大佐から2代あとの艦長・篠原茂夫少佐以下、128名の乗組員が艦と運命をともにした。海に放り出されて人事不省で米軍に救助された唯一の生存者である砲員・向井隆昌二等兵曹の手記によると、2隻の敵艦からの烈しい砲撃を受けながらも、ドイツで装備して持ち帰った4連装20ミリ機銃がいち早く反撃を始め、最後の瞬間まで敵艦に向け火を噴いていたという。
――戦時下のパリで屈託のない笑顔を見せていた日本海軍の若い将兵。Uボート(呂五百一潜)の回航員は全員、生きて再び祖国に還ることはなく、無事に帰還した伊八潜の乗組員も、大半がその後の戦いで戦死した。
連合軍が制空権、制海権を握る大西洋を航破して、伊八潜がヨーロッパへの往復に成功したことは壮挙と言っていい。だが、伊八潜以外の4隻の遣独艦はすべて失敗に終わり、ドイツから譲渡されたUボートの乗組員も併せて400名近くの戦死者を出している。
遣独潜水艦の犠牲の多さを思えば、協同作戦はおろか、戦時下の連絡、交通にこれほど不自由をきたすような同盟関係に、いったいなんの意味があったのだろうかと疑問を抱かざるを得ない。
そもそもなぜ、国内でも反対論の多かった日独伊三国同盟を、米英との対立が尖鋭化するリスクをとってまで締結したのか。ヨーロッパで第二次世界大戦がはじまり、ドイツ快進撃の報に沸き起こった「バスに乗り遅れるな」との熱狂的な世論にも後押しされて締結された日独伊三国同盟。
――日本がそこへ至った経緯は、生きた国際情勢をどう読み、どう動くべきかを判断する上で、いまもなお、多くの示唆に富んでいるように思える。
進むべき道を見誤まった一時の「世論の高まり」や、政治判断の最初の犠牲になるのは、つねに現場の若者たちなのだ。