写真に写る回航員は全員、乗組員も大半が戦死
内野艦長の慎重さはきわだっていた。駐独武官からは、決められた地点から報告電報を打つことを求められていたが、それもあえて無視した。一度、督促にやむを得ず電波を出したところ、すぐに翌朝、敵機が飛来し、爆雷攻撃を受けた。
「急速潜航でことなきを得ましたが、それで皆、洋行気分が吹き飛んでピンとしました。電波を出すと必ず敵機がやって来る。ほんとうに怖いことでしたね」
ほどなく、大きな商船と行き違った。そろそろ、輸送任務に飽きてきた乗組員たちは色めきたった。撃沈するつもりでしばらく後を追い、日が暮れると、船の舷側に、電灯で大きな十字マークが描かれているのが見えた。中立国船舶の印である。艦長は雷撃を中止した。数日後、見逃したこの船は日英の居留民交換船であったことがわかった。
喜望峰沖、ローリングフォーティーズの暴風圏も、こんどは追い風になるため無事に突破し、インド洋を北上。マラッカ海峡に敵潜水艦が出没しているとの情報にペナン帰港はとりやめ、スンダ海峡を通って12月5日、シンガポールに入港した。シンガポールに入港してはじめて、次の遣独艦・伊三十四潜がペナン沖で敵潜水艦に撃沈されたこと、その代艦として伊二十九潜が急遽、ドイツへ派遣されることになり、現在、その準備が進められていることを知らされた。伊二十九潜艦長・木梨鷹一中佐は、米空母「ワスプ」を撃沈した歴戦の艦長である。木梨中佐の強い要望で、伊八潜が搭載してきたドイツ製電波探知機を、伊二十九潜に移設した。
12月10日、シンガポールを出港。
「そこから先も、慎重な航海でした。日中は潜航して時間を調整し、夜に浮上してバシー海峡を16ノットの高速で、之字運動(ジグザグ運動)をしながら突っ切りました。通常の航海よりも何日か余計に日数をかけて、12月21日、呉軍港に帰着しました」
6月1日に呉軍港を出港してから約半年、総航程は34000浬(約63000キロ)に達していた。搭載物件はただちに陸揚げされたが、なかでもダイムラーベンツの高速艇用発動機の完成品を持ち帰ったことは、呉工廠造機部の技術者たちを喜ばせた。だが、任務を完遂した乗組員には、すぐさま新たなる戦いが待っていた。桑島さんの回想――。
「伊八潜は修理のため、岡山県の玉野造船所に回航されました。そして、有馬温泉で慰労会が行われることになり、一行は神戸へ向かったんですが、温泉宿に着いたところで、私に『伊号第五十三潜水艦艤装員』の辞令が出て、そのまま宴会に出ることもなく、呉で艤装中の伊五十三潜に着任しました。
伊五十三潜では航海長を務めたあと、潜水学校高等科学生を経て、ふたたび伊五十三潜に水雷長(先任将校―艦長の次のポスト)として乗り組み、昭和19(1944)年10月の比島沖海戦やパラオ方面の回天(人間魚雷)特攻作戦に参加しました。比島沖海戦では、付近の海域に派遣された7隻の伊号潜水艦のうち6隻が撃沈され、伊五十三潜もやられっ放しでかろうじて還ってきました。敵の制圧を受けて38時間もの間、爆雷攻撃を受けながら潜航を続けましたが、あれはきつかった。艦内の酸素が減って気圧が2気圧にまで上昇したんです。やっと敵を振りきって浮上し、信号長がハッチを開けた途端、気圧差で彼は外に吸い出されてしまいました。
――訪独の頃は、ことによると巻き返せるかもしれないと思っていましたが、帰って潜水学校で講習を受けたとき、敵の攻勢に防御線がどんどん狭められている現状を聞かされて、これはどうやっても勝てっこないな、と。だから終戦の玉音放送を聞いたときも、来るときが来た、そんな感じでした」
戦時中、遣独の命を受けた潜水艦は5隻。第1艦・伊三十潜は帰途、シンガポールで爆沈し、第3艦の伊三十四潜は往路、ペナン港外で撃沈され(昭和18年11月13日)、次の伊二十九潜も、シンガポールまでは無事に還ってきながら、日本への帰途、米潜水艦の魚雷で撃沈されている。最後の伊五十二潜は、昭和19年6月23日、大西洋アゾレス諸島北方で『独潜水艦トノ会合ニ成功ス』と打電したまま消息を絶つ(翌24日、敵艦上機の攻撃により撃沈されたことが戦後、明らかになる)。無事に往復の任務を達成したのは、もっとも旧式の伊八潜ただ一隻のみだった。
だが、伊八潜が回航員を運んだUボート「さつき二号」こと呂五百一潜は、昭和19(1944)年3月30日、キール軍港を出港したものの、5月14日、敵艦艇の爆雷攻撃で撃沈され、乗田艦長以下、桑島さんと一緒にパリ見物をした乗組員全員が戦死している。
呂五百一潜にさきがけて、ドイツ海軍の手で日本に回航されたUボート(U-511)「さつき一号」呂五百潜は、昭和18(1943)年5月、ロリアン軍港を出港、90日間の航海ののち、8月7日、呉軍港に無事到着し、その後日本海軍に引き渡されたが、終戦後の昭和21(1946)年4月30日、若狭湾で、米軍により海没処分にされた。今年(平成30年)7月、若狭湾の海底に眠る呂五百潜が発見されたとのニュースは、記憶に新しい。