潜水艦の防音技術に大きな差があった
ただ……と、竹内さんは言う。
「Uボートと比べると、こちらの潜水艦の技術水準は、はっきりと劣っていました。特にドイツでは、潜水艦が敵の水上艦艇に発見されないよう、防音対策が万全に施されていましたが、向こうの士官に言わせると、日本の潜水艦は太鼓を叩きながら歩いているようなものだと。見てみると確かにそれだけの差があって、がっかりしましたね」
半月の滞在ののち、海の色の明るい大西洋に合わせ、ライトグレーのドイツ軍艦色に化粧直しされた伊三十潜は、ドイツ側から譲渡された電波探信儀(レーダー)をはじめとする兵器や暗号機、個々の乗組員にプレゼントされたカメラや腕時計、洋服地、パリで買い込んだ土産物を満載し、8月22日、ロリアンを出港。順調な航海を経て10月13日、シンガポールに寄港したが、ここで機雷に触れ、まさかの爆沈。日本への帰還を目前に、14名の乗組員が、ドイツから持ち帰った貴重な物資とともに海底に沈んだ。
伊八潜に、「遣独第二艦」として派遣命令が下されたのは、第一艦の伊三十潜の爆沈から約半年後のことだった。
ドイツ行きが決まると、伊八潜は、Uボートの回航員など50余名の便乗者を収容するため、予備魚雷を陸揚げし、下部魚雷発射管室を改装して居住設備を急造。警戒厳重な大西洋を突破するため、呉海軍工廠電気部が苦心の末、つくり上げた電波探知機(敵のレーダーが発した電波を傍受し、その波長と強さを同時にブラウン管上で知る装置)を装備した。
訪独準備が進められていた昭和18(1943)年5月1日付で、内野艦長は大佐に進級。本来、潜水艦長に大佐の配員はないが、内野艦長は、伊八潜のことは隅々まで知悉しているからと軍令部に直談判し、引き続き艦長の職にとどまることになった。大佐の潜水艦長は日本海軍初である。
老練な内野艦長の残留は、結果として伊八潜の訪独成功につながる大きな要因となった。だが、その間にも、山本五十六聯合艦隊司令長官戦死(4月18日)、アッツ島守備隊玉砕(5月29日)と、戦況は、前年に伊三十潜が訪独したときと比較にならないほど、日本にとって不利となっている。ヨーロッパでも、北アフリカ戦線で独伊軍が敗退するなど、状況の悪化は誰の目にも明らかだった。