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第68回:激動の英国車興亡史
散り散りになった栄光のブランド

2020.02.13 自動車ヒストリー かつては世界に冠たる自動車大国だったイギリス。そこにはどのようなメーカーが存在し、どんなクルマをつくっていたのか。かの国における自動車産業興亡の歴史と、散り散りになったブランドの現在を俯瞰(ふかん)する。

同じクルマなのに6モデル

1990年頃、日本の若い人の間でちょっとしたブームになったのが「バンデン・プラ・プリンセス」だった。性能的にはさほど見るところのない、クラシカルな英国車である。当時、日本車はすでに世界をリードする存在になっていて、快適でハイパワーなクルマはいくらでも安く売っていた。しかし、バブルを引きずる空気の中、ユーザーの間には他人とちょっと違ったクルマに乗りたいという欲求があったのだ。

1992年のトレンディードラマ『誰かが彼女を愛してる』では、中山美穂が演じるヒロインの愛車という設定になっていた。オシャレでかわいいというイメージが拡散し、見た目に引かれて購入した女性も多かったという。トラブルや使い勝手の悪さですぐに持て余すケースが頻発したようだが、1960年代のクルマがファッションアイテムとしてもてはやされたのである。

バンデン・プラは本革内装にピクニックテーブルまで付くという豪華仕様だったので、中古でも高価だったのは仕方がない。ちょっと手が届かないという人には、もう少し安く手に入れることのできる、同じような外見のクルマがあった。オースチン、モーリス、MG、ウーズレー、ライレーから出ていた姉妹モデルである。

スタイルとメカニズムは基本的に同じで、グリルやエンブレム、内装の仕立てだけが違う6モデルがあったのだ。これらはすべて「ADO(Austin Drawing Office Project)16」という名のプロジェクトから生まれている。1958年に誕生した「Mini」がADO15で、その成功を受けての企画というわけだ。

1963年秋に登場した「バンデン・プラ・プリンセス1100」。小さな高級車という表現がふさわしいクルマで、ウオールナットと本革でしつらえられた車内には、後席用のピクニックテーブルが設けられていた。
1963年秋に登場した「バンデン・プラ・プリンセス1100」。小さな高級車という表現がふさわしいクルマで、ウオールナットと本革でしつらえられた車内には、後席用のピクニックテーブルが設けられていた。拡大
「バンデン・プラ・プリンセス」より一足早く、1962年に登場した「MG1100」。両者の違いは、内外装の仕様のみだった。(写真:Newspress)
「バンデン・プラ・プリンセス」より一足早く、1962年に登場した「MG1100」。両者の違いは、内外装の仕様のみだった。(写真:Newspress)拡大
1.1リッターエンジンが搭載されたADO16シリーズだが、その排気量では動力性能不足が否めず、後に1.3リッターモデルが登場した。写真は1967年製「ウーズレー1300」。同車にはウーズレーの伝統である電飾付きのフロントグリルが装備されていた。
1.1リッターエンジンが搭載されたADO16シリーズだが、その排気量では動力性能不足が否めず、後に1.3リッターモデルが登場した。写真は1967年製「ウーズレー1300」。同車にはウーズレーの伝統である電飾付きのフロントグリルが装備されていた。拡大

自動車メーカーが合同してBLMCに 

ADO16を開発したのは、ブリティッシュ・モーター・コーポレーション(BMC)である。1952年にイギリスの2大自動車メーカーだったオースチンとナッフィールドが合併してできた会社だ。ナッフィールドはモーリス、MG、ウーズレー、ライレーが連合したもので、オースチンはもともとベルギーのコーチビルダーだったバンデン・プラを買収していた。彼らはADO16の企画に際し、所有していたブランドを活用し、1つのプロジェクトを6つのモデルに仕立てたのだ。

ADO16の登場以降も、イギリスでは経営基盤を固めるために、立て続けに自動車メーカーの合同が行われた。1966年にはBMCにジャガーが加わってブリティッシュ・モーター・ホールディングス(BMH)になり、1967年にはローバーをレイランドが買収。1968年にはそのBMHとローバー・レイランドが合併し、ブリティッシュ・レイランド・モーター・コーポレーション(BLMC)に発展する。傘下にあるブランドの数は、両手の指でも数えきれないほどに膨れ上がっていた。

自動車産業が根付いてこのかた、多くのメーカーが割拠していたイギリスでは、それらの合併は決して珍しいことではなかった。それでも、この数年での統合の流れはあまりに急速だった。イギリスの自動車産業は、それほどの危機にひんしていたのだ。

ADO16の開発を担ったのは、「Mini」と同じくアレック・イシゴニスだった。
ADO16の開発を担ったのは、「Mini」と同じくアレック・イシゴニスだった。拡大
付加価値の高い製品をそろえ、北米市場でも受け入れられているジャガーの加入に、BMC(後のBMH)は大きな期待を寄せていた。
付加価値の高い製品をそろえ、北米市場でも受け入れられているジャガーの加入に、BMC(後のBMH)は大きな期待を寄せていた。拡大
高品質なクルマづくりで人気を博していたローバー。技術力も高く、1963年登場の「P6」は、翌年に開催された第1回欧州カー・オブ・ザ・イヤーに輝いている。(写真:Newspress)
高品質なクルマづくりで人気を博していたローバー。技術力も高く、1963年登場の「P6」は、翌年に開催された第1回欧州カー・オブ・ザ・イヤーに輝いている。(写真:Newspress)拡大

赤旗法撤廃で自動車産業が発展

ガソリン自動車の揺籃(ようらん)期、イギリスはドイツやフランスに後れを取っていた。その原因とされるのが赤旗法である。蒸気自動車を標的にして1865年に制定された法律で、極端な速度規制に加え、走行時にはクルマの60ヤード前で、人間が赤旗を持って触れまわらなければならないことを定めていた。ガソリン自動車にも適用された赤旗法は、その利便性を大いに制限するもので、1896年に撤廃されるまで自動車産業の発展を妨げ続けた。既得権益を守ろうとする、馬車業者による圧力だったといわれている。

ただ、産業革命の先進地として機械工業の基盤が整っていたこともあり、法律撤廃以後のイギリスでは急速に自動車産業が発展した。研究開発のために高速走行ができる場所が必要だと考えたのが、富豪のヒュー・ロック−キングである。ロンドンの西にある領地の中に、高速テストコースを建設したのだ。1907年に完成したコースはブルックランズと名付けられ、世界初の自動車用常設サーキットとなった。

環境が整い、自動車メーカーが産声をあげ始める。デイムラーはドイツのダイムラーからエンジンの製造権を取得した会社で、後にジャガーに合流する。自転車メーカーだったローバーやヒルマン、サンビーム、羊毛刈り機メーカーだったウーズレーなども自動車に参入していった。ロールス・ロイスは資産家のチャールズ・スチュアート・ロールズとエンジニアのフレデリック・ヘンリー・ロイスが、オースチンはウーズレーにいたハーバート・オースチンが立ち上げたメーカーだ。

機械メーカーだったボクスホールはスポーツカーの製造に乗り出したが、1925年に米ゼネラルモーターズの傘下に入り、ドイツのオペルと一体となった。ヒルマンやサンビームなどは、ルーツグループとして集結し、大きな勢力となっていく。第2次大戦後には、BMCに次ぐ大規模な自動車メーカーになった。日本では戦後の自動車産業がノックダウン生産から始まり、日産がオースチン、いすゞがヒルマンと組んで生産技術を学んでいる。日本の復興期には、彼らがお手本だったのだ。

1907年6月17日に完成したブルックランズ。世界初の常設サーキットは大小のバンク付きコーナーを直線でつないだ超高速コースだった。写真は1930年代中頃の様子。
1907年6月17日に完成したブルックランズ。世界初の常設サーキットは大小のバンク付きコーナーを直線でつないだ超高速コースだった。写真は1930年代中頃の様子。拡大
かねて工業基盤のあったイギリスでは、赤旗法の撤廃後、急速に自動車産業が発展した。写真はモーリスのオックスフォード工場(1925年当時)。同工場は、モーリスの設立と同時に1913年に操業を開始した。
かねて工業基盤のあったイギリスでは、赤旗法の撤廃後、急速に自動車産業が発展した。写真はモーリスのオックスフォード工場(1925年当時)。同工場は、モーリスの設立と同時に1913年に操業を開始した。拡大
イギリス最古の自動車メーカーとされるデイムラーは、1893年に独ダイムラーからエンジンの製造権を取得。赤旗法が廃止された1896年に自動車メーカーとなった。写真は1897年製「グラフトン フェートン」。(写真:Newspress)
イギリス最古の自動車メーカーとされるデイムラーは、1893年に独ダイムラーからエンジンの製造権を取得。赤旗法が廃止された1896年に自動車メーカーとなった。写真は1897年製「グラフトン フェートン」。(写真:Newspress)拡大
英国の自動車産業は、日本の自動車メーカーにとってまさにお手本だった。写真は「ヒルマン・ミンクス」。いすゞはルーツと提携して同車をノックダウン生産し、クルマづくりを学んだ。
英国の自動車産業は、日本の自動車メーカーにとってまさにお手本だった。写真は「ヒルマン・ミンクス」。いすゞはルーツと提携して同車をノックダウン生産し、クルマづくりを学んだ。拡大

今日に残る栄光のブランド

こうして一時は世界をリードする存在となったイギリスの自動車だが、1960年代の後半に入ると、開発の遅れや旧弊のつきまとうメーカーの体質などから、次第に市場での競争力を失っていった。

1967年にはルーツグループが、かねて出資を受けていたクライスラーに買収され、1977年に経営破綻する。結果として、超高級車のロールス・ロイスや小規模なスポーツカーメーカーを除くと、すべてのイギリスの自動車メーカーがBLMCに集約される形となったが、それでも台頭してきた日本車との競合に苦しみ、“英国病”と称される非効率な仕組みによる疲弊は免れなかった。多くのメーカーが集まっても苦境を脱することはできず、破産寸前にまで追い込まれたBLMCは、1975年に英国政府によって国有化されることとなる。

今日、現存する英国のブランドを俯瞰すると、ジャガーとランドローバーはフォード傘下の時代を経て、インドのタタ自動車の所有となっている。MINIはBMWのもとで一個のブランドとなった。ロールス・ロイスとベントレーは、それぞれBMWとフォルクスワーゲンの傘下にある。MGのブランドは中国の南京汽車に買い取られ、後に上海汽車に移っている。

一方、消えてしまったブランドも少なくない。1980年代にBLカーズ(旧ブリティッシュ・レイランドおよびBLMC)からジャガーが独立すると、残されたオースチン・ローバーは一時期はホンダとの提携で再生を模索したが、1994年にBMWに買収されてしまう。しかし、BMWは2000年にローバーをわずか10ポンドで売却。残されていたブランドは散り散りとなってしまった。一方、BMWはMINIのみをひとつのブランドとして手元に残し、40年間つくり続けられたモデルを一新した。MINIは今やBMWにとってなくてはならないブランドに成長しているが、その多くのモデルが生産されているのは、現在でもイギリスのオックスフォード工場である。

(文=webCG/イラスト=日野浦剛)

国有化後の1976年にBLMCがリリースした「ローバーSD1」。欧州カー・オブ・ザ・イヤーに輝くなど高い評価を得たが、品質の悪さが大きな問題となり、市場では受け入れられなかった。写真は3.5リッターV8モデルの「3500」。
国有化後の1976年にBLMCがリリースした「ローバーSD1」。欧州カー・オブ・ザ・イヤーに輝くなど高い評価を得たが、品質の悪さが大きな問題となり、市場では受け入れられなかった。写真は3.5リッターV8モデルの「3500」。拡大
1979年にブリティッシュ・レイランド(旧BLMC)はホンダと提携。ローバーグループに改組してからも、同社との提携を軸に生き残りを図ったが、1994年にBMWに買収される。そのBMWも2000年にローバーの再建を断念し、傘下のブランドはフォードや英国の投資会社などに切り売りされた。写真はホンダからOEM提供を受けて販売された「ローバー400」(1989年)。
1979年にブリティッシュ・レイランド(旧BLMC)はホンダと提携。ローバーグループに改組してからも、同社との提携を軸に生き残りを図ったが、1994年にBMWに買収される。そのBMWも2000年にローバーの再建を断念し、傘下のブランドはフォードや英国の投資会社などに切り売りされた。写真はホンダからOEM提供を受けて販売された「ローバー400」(1989年)。拡大
2014年のデリーモーターショーにおける、ジャガー・ランドローバーのブースの様子。ジャガー・ランドローバーは、現在はインドのタタ自動車が所有している。
2014年のデリーモーターショーにおける、ジャガー・ランドローバーのブースの様子。ジャガー・ランドローバーは、現在はインドのタタ自動車が所有している。拡大
前項で紹介したオックスフォード工場では、現在はBMW傘下のブランドとなったMINIのモデルが生産されている。
前項で紹介したオックスフォード工場では、現在はBMW傘下のブランドとなったMINIのモデルが生産されている。拡大
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