根井啓を叩く―― 一讀三歎 當世書店主氣質
題名は、福田恆存「羽仁五郞を叩く―― 一讀三歎 當世書生氣質」(昭和47年;文藝春秋版『福田恆存全集』第六卷所收)の單なる猿眞似であり、特に深い意味は無い。根井[ねのゐ]氏は NENOiなる書店の主人との事だが、その彼を何故「叩く」か。先づは以下のリンク先をお讀み戴きたい。
https://nenoi.hatenablog.com/entry/2021/10/06/141404
上記ブログの存在は、或る方からたまたま教へて戴いた。記事自體は比較的新しいものの、内容は2年も前に遡る話である。とにかく自分の知らない所でこのやうな事が祕かに行はれてゐたといふのが只々氣持惡い。かうした惡質極まる行爲は斷じて捨て置く譯にはゆかぬ。それゆゑ以下、ちと手嚴しく且つ丹念に「叩」いておかうと思ふ。なほ引用は、特記無き限り、同記事からのものだ。
講義名はブログでは伏字になつてゐるが、「政治と文學――ジョージ・オーウェルの評論」である。無論、講義擔當者は私、岡田俊之輔。
前後の流れは不明ですが、講義中に愛知トリエンナーレの話になり、その際に同展で展示された慰安婦少女像に言及した上「慰安婦に強制はなかった」旨の発言をし、一人の学生と議論になった。
その際に講師である〇〇氏が「もう、いいから!」と強い語調で一方的に議論を打ち切ったとの事。
同講義に出ていた韓国籍の学生(反論した人とは別人)はその後この授業に出なくなった。
私も「前の流れ」は憶えてゐないが、行き掛り上、その旨の發言はした。そしてこちらが幾ら理詰めで「慰安婦に強制はなかつた」旨を説いても、その「一人の學生」は一切聞く耳を持たず、議論は平行線を辿り、本筋のオーウェル講讀が一向に進まないため「議論を打ち切つた」までの事である。一往註記しておくが、「強制はなかつた」とは、日本が國策として(つまり法的な手續を蹈み正式に)強制徴募したなどといふ事實は無いとの意味であり、從つて國家として謝罪・賠償するのは法理に反するといふ至極當然の見解を述べたものだ。お可哀想にと同情する事と、國家が公式に法的謝罪を行ふ事とは自づと別物である。固より、國策による組織的な強制徴募と、河野洋平らの所謂「強制性」とやらを混同する事など絶對にあつてはならない筈だが、根井氏に限らず、その邊を(知つてか知らずか)曖昧にしたまま、「強制連行は有つたに決つてゐる!」と斷定的にかたる手合が餘りにも多過ぎる。「韓國籍の學生」が不愉快に思はうと思ふまいと、それとは別個に、飽く迄も理を説く事が學者の端くれの務めであると言へよう。私立大學とはいへ吾が早稻田大學は未だ、「お客樣は神樣です」状態には墮してゐないと信じたい。
本講義はジョージ・オーウェルの英文エッセイを基に、政治と文学の関係を読み解く授業であるようですが、英文学の研究者が専門外の「従軍慰安婦」問題について学生の講義の中で行い、かつまた一方的に議論を打ち切るという対応は講師という立場を利用したハラスメントに他ならず、学問のとば口にたつ大学生への態度しては大変問題と認識しております。
根井氏がどう「認識して」をられようと、たとひ「專門外」の事柄であつても、世間の“空氣”に阿る事無く、筋の通らぬ事を筋が通らぬと述べる事こそ「學問のとば口にたつ大學生への態度」として推獎されるべきものと私は考へる。また「打切り」については上述のとほりであつて、それをしも「ハラスメント」呼ばはりされては、講義自體が成り立たない。
また、韓国籍の学生の欠席がこの出来事に起因する出来事であるとした場合、このクラスへの欠席により本講義を履修とならなかった場合、GPAが下がる事が想定されますが、従軍慰安婦というテーマが韓国というバックグランドを持つ学生にとっては大きなものであることは想像に難くなく、プロテストとしての欠席がGPAへの影響をないものとして対応などの検討の必要だと思われます。
これは本講義ならびに同講師の授業を同様の事由により欠席をしている他の学生についても同様であると思います。
不快に思ふのなら「プロテストとしての缺席」はどうぞ御自由に、講義も“切り”たければ切つてくれて結構としか言ひやうが無いが、但し「韓國といふバックグラ[ウ]ンド」等々を持ち出すのは學問的に反則である。そんな事を言ひ出したら、この問題に限らず、批判的考察の對象に何らかの形で屬する者が受講生にゐる場合、眞つ當な議論は一切出來なくなつてしまふ。さういふ恐るべき事態を根井氏は容認・獎勵してゐるも同然だが、その自覺はあるのだらうか。無いのならそれこそ「大變問題」だと思ふし、逆にあるのなら、もはや大變で濟まされるどころの問題ではない。假に「お前の店に置いてある本は氣に入らぬ、撤去せよ」と言はれたとして、あなたは理不盡な客の要求に唯々諾々と從ふか? 少しは己れの身に置き換へて考へてみるがよい。
ところで、かのオーウェルは「[言論の]自由」を定義してかう書いてゐる。
If liberty means anything at all it means the right to tell people what they do not want to hear. The common people still vaguely subscribe to that doctrine and act on it. In our country [...] it is the liberals who fear liberty and the intellectuals who want to do dirt on the intellect [...]
(George Orwell, ‘The Freedom of the Press’, last paragraph)
邦譯は岩波文庫版『オーウェル評論集』361頁にある。かうした良書が果してNENOi書店には置いてあるのかどうか。
もし自由になんらかの意味があるとするならば、それは相手が聞きたがらないことを相手に告げる權利をさすのである。庶民は今でも何となくこの主張に從ひ、それにもとづいて行動してゐる。わが國では[中略]自由を恐れてゐるのは自由主義者であり、知性に泥を塗りたがるのは知識人なのだ。[後略]
(「出版の自由」小野寺健譯;表記を一部變更)
リベラル派知識人の恥部を見事に衝いてゐる。そしてこの状況は、當時のイギリスに限つた話ではなく、どこぞの國に於ては今でも日々お目に掛るお馴染みの光景と言へよう。だが、如何に不快であらうとも、苦い眞實は認めねばならぬ、少なくとも聞く耳くらゐは持たなければいけない。ここで先に登場した例の喰ひ下がり學生の名譽のために一言すれば、知的誠實を重んずべしとのオーウェルの教へを實踐したのか、(不愉快ではあつたらうが)最後まで一度も休まずに出席し、(反抗的な樣子を見せつつも)講義自體は喰らひ附くやうにして聽き、(批判的な内容の)期末リポートも提出して單位を取得した。教師の思想に文句があるなら、このやうな態度を貫くべきなのである。私も學生時代は勿論さうしてゐたし、さもなくば“切”つて、單位はこちらから抛棄したものだ。根井氏の出身校 ICUでは、氣に食はぬ教師の講義を勝手に切つても「GPAへの影響をないものとして對應」してもらへたのであらうか。まさかそんな馬鹿げた話は無いと思ふが、萬一さうだとしたら、學生にとつては正に樂園の如き學園であり、一方、教師にとつては地獄のやうな職場に他なるまい。
Milestone Express2019にて〇〇氏が担当されている「英文演習5(イギリス20世紀以降)」という講義の紹介が記載されておりますが、そこには「P.S.先生の思想はちょっぴり傾いている」と記載があり同種の発言を以前より恒常的に行っていることが類推されます。(Milestone Express2019 P.447)
御存じない讀者のために附け加へておくと、『Milestone』といふのは早大生のサークルが編輯・發行してゐるミニコミ誌で、毎年その時期になると(虚實綯ひ交ぜの)講義情報一覽が載る。嘗て同誌には「ファッショ的發言」をする教師云々と評された事すらあるから、この程度では今更何とも思はぬ。(笑)
同講師については自身のフェイスブックページにおいて、とある記事への批判として記者の学歴を見下す発言を投稿しており(8/15投稿 注:ここに該当投稿のリンクを貼っていました。リンク先の記事はすでに削除されていました)、学歴の一事を持って他者を見下すような人間性の人物が果たして果たして講師としてふさわしいのか疑義が生じます。
私自身、Facebookには不滿があり、何の事前通告も事後報告も無しに消された記事がある。しかしながら、上記の「記事はすでに削除されて」などゐはしない。何やら私に關して惡印象を與へたいのか、或は單に檢索能力に缺けるだけなのか知らないが、いづれにせよ、現存する「該當投稿のリンク」を以下に貼つておく。
https://www.facebook.com/shunnosuke.okada/posts/2387940798146101
私が批判した基記事の見出しは「自衞隊幹部が異樣な低學歴集團である理由」となつてをり、これは編輯部が附けたものかと最初は思つたが、本文の出だしからしても記者本人の意見と看做して差支へあるまい。ならば「さほど威張れる學歴でもあるまいに」との評ぐらゐは甘受して然るべきだと思ふが。この件ばかりでなく、根井氏の記述には文脈無視が相當に目立つ。いや、總てさうだとさへ言つてもよい。事情がはつきりと解らないのなら書くべきではないし、意圖的にやつてゐるのなら實に許し難い鄙劣な行爲である。それにしても、よくもまあ以下のやうな事どもを“御注進”に及べたものだ。
以上を踏まえ、事実の確認の調査、ならびにもし当店にお見えになった学生の話が事実とそう違わない場合、下記3点の対応をお願いしたく存じます。
・アカデミックハラスメントへの毅然たるご対応
・欠席学生への同講座への救済措置のご検討
・〇〇〇〇氏の講師への適性の再検討私自身は残念ながら貴学への卒業生ではありませんが、早稲田にてお店を構えるようになり2年。
お店にお越しになる早稲田生はどなたも大変に聡明で真面目である印象を持っております。
未来ある学生たちに対し、そのような講義のあり方、人間性が当たり前のものだとは思って欲しくないと強く願い今回ご連絡した次第です。
この僞善臭芬々の、當事者でも何でもない「何処の馬の骨ともわからん、店主のメール」には受領通知以外「その後特にご連絡などは」來なかつたらしく、そこで追ひ討ちを掛けるべく、しつこくも再度、店主殿は吾が職場へ次のやうに通報したといふ。何たる執念か。
以前相談受けた学生からは、特に生徒側へのアプローチはなく
逆に
「ユダヤ人がイスラエルに今住んでいられるのはヒトラーのおかげ」
などという発言をしていたという事も伺っております。
今回のご連絡した一連の内容が事実であるなら本講義は講義という名を借りた素人の個人的妄言を垂れ流しているものでないかという疑念が生じてきますが、貴学術院においてはそれが文学の講義と見なされるものなのでしょうか?
オーウェル講讀講座でイスラエル建國の話をしたのは恐らく、最後の數囘で取り上げた ‘Notes on Nationalism’(前掲邦譯書では305~342頁)の中に出て來る「シオニズム」運動に關聯してであつたか。その際、私が或る批評家の名前を擧げ忘れたのか、それとも NENOi常連の「以前相談受けた學生」がその名を聞き逃したのか、今となつては確かめやうも無いけれど、ともあれ「ユダヤ人がイスラエルに今住んでゐられるのはヒトラーのおかげ」云々は私の「個人的妄想」ではなく、先年亡くなつたその批評家 George Steiner の小説 The Portage to San Cristobal of A. H. に登場するアドルフ・ヒトラーのイスラエル觀なのである。この作品のあらましについては、以下の舊稿を參照されたい。
http://okadash.private.coocan.jp/getsuyo/ah.html
拙稿にも記したとほり、作中でヒトラーは徹底したユダヤ批判と自己辯明の大演説を打[ぶ]つのだが、「ヒトラーをして斯くも雄辯に反ユダヤ的言辭を吐かせてゐる作者スタイナー自身、實はナチスの暴政からアメリカに逃れた體驗を有するユダヤ人なのである」。但しスタイナーの手に成るヒトラーのイスラエル觀には紙幅の關係上、拙稿では觸れられなかつたので、本年度秋學期の講義科目「英文學講義 Ideas in Context 6――ジョージ・スタイナーに學ぶ」第14講の音聲ファイルを特別にアップロウドしておくから、そちらでお聽き願ひたい。
http://www.f.waseda.jp/okada/media/IiC6-14.mp3 (87.4 MB, 1時間31分45秒)
因みに、このファイルの 1:28:00 邊りからが當該の箇處である。
テクストは Google Books に頼らう。こちらは講義中に使用してゐるものとは版が異なり、劇作家 Christopher Hampton によつて戲曲化されたものではあるが、ヒトラーの臺詞に殆ど違ひは無い。
Would Palestine have become Israel, would the Jews have come to that barren patch in the Levant, would the United States and the Soviet Union, Stalin’s Soviet Union have given you recognition and guaranteed your survival, had it not been for the Holocaust?
さて、ここまで讀み聽きして來た上でもなほ根井氏は、「文學の講義と見なされ」ぬ「講義といふ名を借りた素人の個人的妄言を垂れ流してゐるもの」と言ふか? 更には私だけでなく、(敢へて虎の威を借りて問はう)大批評家のスタイナーまでをも打ち負かす自信が果しておありか?
そろそろお仕舞ひにしたいから、あと殘つてゐる、例の常連客が革○派(伏字岡田)の學生に勸誘された話だの、學業を疎かにして政治活動ごつこに現を拔かすグレた糞餓鬼だのについては省略する。とにかく他人を告發する文章にしては餘りにもふやけ切つた駄文にかうして長々と附き合つて來た譯であるが、「こちらでもできる範囲で動いてみる事も検討しております」なんぞと大學に搖さ振りを掛け、根據薄弱なままに私を陷れようとした行爲は決して許されるものではない。「疑義が生じます」だの「一連の内容が事實であるなら」だのといつた表現を用ゐて、いざといふ場合の逃道を作つた積りでゐるのだらうが、そんなまやかしが通用するとでも思つてゐるのか。以上の論述により、退路は總て絶たれたものと認識すべきである。
根井啓氏に告ぐ。早大と異なり貴店には「ハラスメント防止室」が無いから、ここに直接勸告する。
- まづ私に對する誹謗中傷を詫び、當該ブログ記事(既にPDFにて保存濟)にその旨を明記すべし。
- 本ブログ記事のURLを上記の記事に附加すべし(コメント欄が閉鎖され、當方からは書込めぬゆゑ)。
最低限これらすらも行へぬ知的に不誠實な人間であるならば、活字を扱ふ業界から潔く足を洗ふ事を強くお勸めする。私の「人間性」を云々する前に、先づは己れの頭の蠅を追ひ給へ。
以上
早稻田大學文學學術院
岡田俊之輔
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コメント
この書店主は暇人だ。店は閑古鳥と想像される。意味の見出せない投稿などして、大学も迷惑だつただらう。
投稿: ワタン | 2022年2月16日 (水) 21時52分