ルーツを探して

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ルーツ

京都駅から近鉄を乗り継ぎ「伊勢田」という駅に降り立つ。吹きさらしの古びた駅舎、改札に駅員はおらず暗い地下道をそのまま降りて外へ出る。平日だというのに、駅前の商店街は全てシャッターが降りており、よく眺めるとどの店先にも廃業を知らせる張り紙が野ざらしにされている。唯一、立派な佇まいを見せるお茶屋さんが三叉路の角で営業をしていたが、その店の角を曲がり続く一本道に入ってしまうと、人の姿はほとんどなく折からの北風に身をすくめながらその一本道を進んだ。


ここは日本茶で知られる京都府宇治市である。ところどころ、庭先に茶畑を見ることができるが数は減ったらしい。いっしょに歩いているのは、エンターテイナーとして船にも乗ってくれている金唱幸・キムチャンヘンさん。彼が産声を上げそして幼年期を過ごしたウトロという地区を目指しているのだ。ウトロとはこの一帯の朝鮮部落を指す地名。もともとの地名である「宇土口」が変化したもので、現在、在日韓国人200人約60世帯が生活をしているという。


駅前から10分ほど歩くと、ホルモンを売る生肉業者の看板や、「金沢」「高山」などの表札が増えてくる。そして、真っ赤なペンキで日本語と朝鮮語の看板が目に飛び込んできた。ここが部落への入り口だという。第二次世界大戦中、航空飛行場を建設するために強制連行を含む多くの朝鮮人が労働力として集められ飯炊きや肉体労働に従事させられた。敗戦後、祖国へ帰ることも叶わずこの土地で生きる選択をよぎなくされ、そのまま朝鮮部落として現在に至るそうだ。しかし、この土地を所有する地主は立ち退きを要求しており、それら生存の権利を守る闘いは今も続いている。


部落の中に入ると、トタン屋根の家々が所狭しと続いている。チャンヘンが生まれた家は飛行場建設跡地、現・陸上自衛隊大久保駐屯地に面している。彼は幼い頃、コンクリートの壁と鉄条網の向こう側にむかって石を投げて遊んでいたそうだ。現在ここで生まれた人々も地方へ移り住んでいく割合が多いらしく、玄関には転移先を示す張り紙がぶら下がっている。トタン屋根の古びた家々が折からの北風にあおられ音を立てている。歩いているとチャンヘンの知り合いに出会う。安本君子さん(朝鮮名・黄順礼さん)は72歳。「コーヒーでも飲みましょう」と誘われ近くの喫茶店で彼女の話を聞く。


安本さんの人生はそのまま日本の戦後史だ。京都市内で生まれ飛行場建設と同時にこの土地にやってきた。当時、この一帯は一面の湿地帯でハス畑がところどころにある位で何もなかったという。また、空襲も経験した。防空壕に避難したが、朝鮮人は日本人が入った後、入り口あたりにしか入れてもらえなかった。だから、投下される焼夷弾が花火のようにキレイに見えた。また、彼女は生まれながらにして朝鮮語しか話せなかったが、親切な日本人が地面を黒板にして日本語を教えてくれた。部落内で学校ができたのは戦後しばらくたってから。彼女はその学校の一期生だ。


彼女の話はブログなどで書ききれない。淡々と語るその半生は、その穏やかな口調とはうらはらに差別との闘いの歴史でもある。チャンヘンはこの街で生まれた。しかし、よく考えてみると目の前にいるチャンヘンも、この黄さんも先の戦争がなかったらここにはいない。つまり、そのルーツは私たち日本人が引き起こした戦争にある。しかし、その歴史すら知らない私たち日本人。それが良いとか悪いとか以前に、なぜ、私たちは自分の歴史すらちゃんと知らないんだろう。


私たちにとってルーツは、記憶喪失のように失った歴史を取り戻すことから始まると思う。そうでないと、目の前にいるチャンヘンや黄さんと話ができるだろうか。友達になれるだろうか。「多文化共生」、世間ではそんな都合のいい言葉ばかりが氾濫しているが、それも、まずは自分自身のルーツを探さずに何が共生なんだろう。私はそんな都合の良い言葉で目の前の友人との関係を説明したくない。ルーツを探して・・・・。きょうも日本という目的地に向かって私は旅をしている。











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