2019年の5冊
年の瀬である。年の瀬になってしまった。
なんだか一瞬だった気がするけれど、振り返れば、まあいろいろあるんだろう。
だが、あまり楽しくないことも多かったので、それをあえて振り返ろうとは思わない。
代わりに今回は、今年読んだ本を何冊かピックアップして振り返ってみたい。
今年刊行されたんじゃなくて、自分が今年読んだ本を。
ちょうど12月28日の土曜日から年末年始の休暇である人もいることだろう。
その間にの暇つぶしになれば幸いであると思いながら、書いていこう。
読書するよりNetflixで『全裸監督』観るだろ、とか言われそうだなとか思いながら、書いていこう。
ちなみに 以前の記事だと、指向性はこれとおおよそ近い。
ご参考までに。FYIってやつだ。なんだよ、FYIって。ふざけてんのか。
川上未映子『あこがれ』新潮社、2019年
小学生の麦彦とヘガティーがメインの登場人物となる短編小説が2本収められている。
これらの物語は、誰かに「会う」物語だ。
「誰かにあしたまた会えるのは、会いつづけてるからに決まってるじゃん。……人って、いつぽっかりいなくなっちゃうか、わからないんだからね」
このバディの関係性か、小説のテーマか、あるいは言葉か。
うまく説明できないけれど、なんだか雰囲気が良くて、印象に残っている。
2人で映画を見たあとにする「挨拶」がとても好きだ。
(川上未映子なのに今年刊行の大作『夏物語』でないのは、まだ読めていないから)
「人見知り」芸人として売れ、しかしそうも言っていられなってきた、40歳手前(当時)の芸人オードリー・若林のエッセイだ。
この「そうも言っていられない」ことや、昔は噛みつきたかったことも今は分かる、みたいなことを若林はたびたび言葉にしている。天気の話はとりあえず間が持つとか(Instagram)、飲み会が嫌とか言いつつMCだと行かないといけないし挨拶もしないといけなくなる(ライブ「さよならたりないふたり」)とか。
本書には、そういうことを口にするようになるまでの過程がある。
ゴルフにハマったり、車で湘南まで飛ばして花火をしたり、アイスランドに行ったり。
「社会人大学」に比べると、その筆致に、どこか落ち着いた目線が増えたように感じるが、それがなんだか良かった。
町屋良平『しき』河出書房新社、2018年
ちゃんと芥川賞というメジャーな賞をとったあとでわざわざ言うのもダサいかもしれないけれど、今年すごくいいなあ、と思ったのは町屋良平だった。
いくつも素晴らしいセンテンスがあった。
自分の考えとか動きとか、それを描写することは自意識的なのだけれども、それが、イメージどおりに動かせないという身体や運動にまつわる描写であることから、自意識的すぎる域にまで行かないのが良いな、と思った。
それ故に、この作品の文体は、少しだけ舞城的だけれども舞城的な「万能さ」とは異なる色になっている。
また、「踊り手」として踊る人や男子だけの視点でなく女子の視点も交え、多視点的に描かれるのも、どこか客観的で、バランスがとれて良いなと思った。
西口想『なぜオフィスでラブなのか』堀之内出版、2019年
オフィスラブを扱った作品に関する短い批評がいくつか並ぶという構成を取る本だ。
しかし主眼は、作品の読解にあるのではない。
著者が興味を持っていると語るのは、オフィスという公的な空間なのに、そこにラブという私的関係の契機がいつも孕まれているということそれ自体である。
社会の変化や、会社が日本社会において持つ存在感の大きさを、オフィスラブからは推測できる。
「働き方改革」が叫ばれる昨今だが、まず社会がどう変化してきたのか、あるいは会社というものは私たちにとってどのような存在であったのか。
そういったことを考える契機になりうると思った。
『子供はわかってあげない』の田島列島による最新作だ。
高校進学を機におじさんの家に居候することになった直達。
駅に迎えにきてくれたのは26歳OLの榊さんだったが、直達と彼女の間には思わぬ因縁があった……というのが、おおよそのストーリーだ。
しかし、物語自体は、大味では進まない。
おじさんの家に住む5人の男女の会話を積み重ねることで、誰が何を知っていて――という役割を丁寧に作り出していく。
なんだか最近、そういう、複数人が関係する「場」において、ゆるく(言い争わないだけで、バチバチだったりするのだが)行われる会話によって物語が展開されていく作品が、どうにも好きになってきた。
まあ、上記の私の好みの変化を抜きにしても、とても面白い漫画だ。
さて、今回紹介するのは以上だ。
本ならばもっと読んだ気がするのだが、ここで紹介するとなると、なんだか少なめになってしまった。
最後に、これらの本の関連本も少しリストアップして終わりたいと思う*1。
今年もありがとうございました。
来年もよろしくお願いいたします。
(もしかしたら、まだ今年中に更新するかもしれないけど)
青野慶久『会社というモンスターが、僕たちを不幸にしているのかもしれない。』PHP研究所、2018年
読んだことはないけれど、上記『なぜオフィスで~』の関連本として、「会社」という存在の持つ魔力みたいなものを考えるのに有用なのではないかと思い、挙げた。ちなみに著者の青野氏は、Garoonやkintoneなどのグループウェアを開発・販売し最近は電車内で広告を見ることも増えてきたサイボウズ株式会社の社長でもある。
岩井勇気『僕の人生には事件が起きない』新潮社、2019年
芸人のエッセイということで、ハライチ岩井勇気のこの本を挙げたい。
いきなり「ネタを書いているから頼んだんだろ」みたいな言い方をするあたりがとてもよい。
今年角川文庫から刊行された「涼宮ハルヒ」シリーズのどれかの刊に彼が寄せていたあとがきも良かった。併せて読むと、もっと良いと思う。
保坂和志『カンバセイション・ピース』河出書房新社、2015年
「場」と会話で成り立っていて、好きだなあ、と思う小説としてはこれらがある。
長嶋有は『問いのない答え』も素晴らしかった。
小熊英二『日本社会のしくみ 雇用・教育・福祉の歴史社会学』講談社、2019年
上記の『会社というモンスター~』は、社長が書くのだからおそらくビジネス的視点から「会社」について触れられているのだろう*2。
つまり、「慣習(儀式)の束」としての会社が、私たちのビジネスをむしろ邪魔する場面ってない? みたいな視点から「会社」を読み解くのだと思う*3。
『日本社会の~』は、雇用や、そこにつながる教育の現在について、歴史的経緯を以て説明しようとする。「会社はなぜこうなのか」「どう変えられるのか」という視点よりも、「なぜ日本の私たちの住む社会はこのようなのか」という視点で多くのものが語られる。そこには当然、会社のことも入ってくる。
テーマによって優劣があるわけではないが、並べてみると、面白い気付きがあるかもしれない。片方しか読んでことがないから、憶測でしか言えないが。
説明不要。面白い。
ノーベル文学賞予想を外して
先日、私はノーベル文学賞の受賞者を予想した。
べつに金銭を賭けていたわけではない。
ただ戯れに、予想をしてみただけだ。
タイトルの通り、私はこの予想を外した。
2018年度受賞者のオルガ・トカルチュクは名前を出していなかった。
2019年度ペーター・ハントケはリストアップしながら、最後の「予想」に含めなかった。
◎ マリーズ・コンデ
◯ 残雪
▲ アドニス
△ 多和田葉子
今回の記事は反省会だ。
要は、言い訳をつらつらと書いていきたい。
■予想を振り返ってみて
グギ・ワ・ジオンゴを予想に含めたことを、今とて「悪手」だとは思っていない。
自分としては、ポーランドとオーストリアから選出されるつまり、2人ともヨーロッパ圏から選出されることは予想外であったからだ。オルソン委員長の「調和」という言葉が、地域にも適用されると思ったが、そうではなかったみたいだ。
ヨーロッパ以外の地域から選ばれるならばアフリカかアジアだと思っており、「対抗馬」にも中国の残雪を挙げていた。
「本命」でなく「対抗馬」であったのは、記事中でも言及したように、前回のアジア圏からの受賞者が中国の莫言であったことからだ*1。
この点からアフリカの作家を「本命」に含むのは、「妥当」であったと思う。
まあ、この予想は外れたわけだが。
そして、マリーズ・コンデ。
私が彼女を挙げたのは、まあヨーロッパから1人は選ぶんだろう、と思ったからだった。
しかし、この予想は外れた。
検討の過程が、ややジオンゴありきになり、少し強引になった形は否めない。
地域性などと嘯いたくせに、彼女のカリブ地域のルーツにより目を向けてしまった。
そのため彼女を、フランス語圏の作家としてのみ考えてしまった。彼女の「渡り」性や、アフリカでの生活を、半ば「切り捨て」て予想してしまった。
彼女も「本命」のレベルで挙げたこと自体を「誤り」としたいのではないが、あまり良い思考過程ではなかったと思う。
結論ありきの思考は、過程が歪になる。つと反省したい。
■ペーター・ハントケを外した理由
私は、予想記事の中で、オーストリアの作家ペーター・ハントケにも言及している。
ペーター・ハントケは、戦後ドイツ語文学の寵児とも言われた売れっ子である。
また、デビュー当時のマッシュルームカットから、ポップスターとも形容された。
彼の特徴は、小説、戯曲、放送劇など多彩な活動にある。村上春樹が受賞し、ノーベル文学賞候補と取り沙汰されるようになったカフカ賞も2009年に受賞している。
しかし実際には、最後のリストからは外してしまった。
これはこの記事の冒頭でも触れたとおりだ。
では、どうしてそんなことになったのか。
ヨーロッパ圏から1人受賞者が出るだろうと予想していた。
しかし、どこか天の邪鬼な心性が予想の段階で発揮され、あえてそれ以外の地域から主に選出したくなったのだ。
だからハントケは外れた。
そして、なんか「大穴」っぽいし! という短絡的な理由で、多和田葉子が入った。
まあ、日本人向けに書く予想記事だし、という打算もあった。
彼は、私の天の邪鬼と、この記事が書かれる言語そのものの犠牲となったのだ。
まあ、こんな記事中で扱いが良くなかったからとして、彼のキャリアからしてみて、そんなものは大した犠牲ではないし、何も痛くもないだろうけれど。そして、痛いものであれ、とも思わない。
■オルガ・トカルチュクの名を挙げなかった理由
今回のブックメーカーのオッズでは、女性作家が上位に来る傾向があった。
イギリスのブックメーカー「Nicer odds」では、1位にカナダの詩人アン・カーソン、2位にフランスの小説家マリーズ・コンデ、3位にポーランドのオルガ・トカルチュク、4位に中国の残雪があがっていたという*2。
私はこのうち、2位と4位をリストアップしたこととなる。
1位のアン・カーソンを外した理由は明確で、北米大陸の作家だからだ。
2013年のアリス・マンロー、2016年のボブ・ディランが受賞者にいること、2017年のカズオ・イシグロがイギリスの作家であり、英語圏からの受賞者が続いていることから、2018, 2019年の、北米大陸からの受賞はないだろう、と踏んでいたのだ。
問題は、オルガ・トカルチュクをなぜ除外したのかだ。
まず、私は彼女をハンガリーの作家だと誤って記憶していた。
さらにハンガリーの位置を東欧だと誤解していた。
ハンガリーは言うまでもなく中欧の国である。北はスロバキア、東はウクライナ、ルーマニア、南はセルビア、南西はクロアチア、西はオーストリア、スロベニアと接し、囲まれている内陸国だ。
国旗のイメージから、なんとなく東欧だと思っていた。挙げ句、その国旗すら記憶違いしていた。
まあ、赤と白と緑という色はあっていた。私のイメージはこの色に由来したわけだが、これもまた短絡的な思考だし、どこから来たイメージなのか判然としない。なんならイタリアだって同じような色で構成されている。
東欧からの受賞者は、ハンガリー国籍の、2015年のスヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチがいる。
このため、このスパンで東欧からの受賞者はなく、出るとすればフランス、ドイツ以外の西中欧あるいは南欧であろうと思い、オルガ・トカルチュクを除外したのだ。
この勘違いがなければ、私はオルガ・トカルチュクのみをヨーロッパの作家ではリストアップし、「本命」に含めていたことだろう。
あるいは、「大穴」狙いで含めた多和田葉子を外し、そこに保険としてペーター・ハントケを含めたかもしれない。
ただ、今となっては、考えても詮無いことだ。
以上が、今回の予想の反省及び言い訳である。
それにしても、受賞者の予想なんて、本当にろくでもない遊びだな、と思う。
受賞自体が作品の価値を上げるわけでも、損なうわけでもないのに。
ノーベル文学賞を予想する2019
今年もこの季節がやってきた。
ノーベル賞に日本がソワソワする季節が。
日本人はノーベル賞が好きだ。
戦後間もない頃に湯川秀樹が受賞した時の興奮を忘れられないのかもしれない。
また、日本の科学力は世界一ィィィ!!!!! ではないが、「強かった」日本経済の原動力としての「日本の科学力」の素晴らしさを再確認できる、というナショナリズム的な欲望があるのかもしれない。
ただ、ノーベル賞は好きだけれど、科学分野になると、少々騒ぎにくい。
何らかの成果を発表してから受賞までに間が空くため、最先端の科学技術というのではないが、それでも専門性が高いことには変わりがない。
たとえば田中耕一は2002年にノーベル化学賞を受賞したが、その理由となった「ソフトレーザー脱離イオン化法」は、1985年に特許申請されたものだった。
また、2008年に同じく化学賞を受賞した下村脩は、オワンクラゲの緑色蛍光タンパク質(GFP)の発見と開発を受賞理由とされたが、この発見は1960年代になされたものだった。
下村が発見したGFPは、今日の医学生物学の重要な研究ツールとなっており、その点でスリリングな発見なのだが、「テレビ的」には、ちょっと盛り上がりにくい=盛り上げにくい。クラゲを見て騒ぐくらいしかできない。
この点、文学賞は分かりやすい。
それに、その他の賞に比べて、候補者*1の名が世間に知られている。
村上春樹を知っている人は何千万人といるだろうが、受賞以前に梶田隆章を知っていた人はそれほどはいるまい。
だからノーベル文学賞は騒がれるのだ。
今年、村上春樹の受賞はあるのか!? 大変キャッチーだ。
だから、このブログでもやる。
今年、村上春樹の受賞はあるのか!?
◯
まず、ノーベル文学賞を取り巻く環境として、最近の受賞者を眺めてみよう。
スウェーデン・アカデミーはスキャンダルを受け、2018年は受賞者の発表を行わず、2019年に、2018年、2019年の受賞者を発表するとした。
ノーベル文学賞の受賞者は例年1人*2であり、今年は計2名の受賞者が発表されると考えられる。
文学賞の受賞者には、地域のバランスを考慮する傾向がある*3。
たとえば「アジア人」という括りで見れば、1994年に大江健三郎(日本)が受賞して以来、
・高行健(2000年、フランス(中国語で創作。また1990年に亡命し、1998年にフランス国籍取得))
・莫言(2012年、中国)
と、おおよそ6年周期で「お鉢が回って」きていることが分かる。
それを踏まえれば、今回はアジア人作家が受賞する可能性は高いのではないか、と考えられる。
他の地域にも目を向けてみよう。
たとえばアフリカ地域からの受賞者は、2007年のドリス・レッシングまで遡る。彼女はジンバブエで育ったが、1949年に息子と共に渡英し、以降は英国で創作活動をしていた。
国籍で言えば、2003年のJ・M・クッツェー(南アフリカ共和国)まで遡る。
また、人種という面では、アフリカの黒人作家の受賞は1986年のウォーレ・ショインカ(ナイジェリア)まで遡る*5。
なおアフリカからの受賞者は、1988年のナギーブ・マフフーズ(エジプト)以外は、みな英語での創作をしており、言語の多様性という面では、アフリカ民族言語を用いた文学の受賞が待たれる。
アラビア語圏やイスラム圏からの受賞者も、上記のナギーブ・マフフーズや、ウォーレ・ショインカ*6などに限られる。
アジアという観点からは、「中東」という地域も無視できない。
また、ラテンアメリカ文学からの受賞者となれば、2010年のマリオ・バルガス=リョサ(ペルー)以来となるが、その前が1990年のオクタビオ・パス(メキシコ)、その更に前が1982年のガブリエル・ガルシア=マルケス(コロンビア)と遡る。
マルケス以前の、日本でもラテンアメリカブームの起こった頃は10年に一度のペースだが、そこから踏まえると、やや「時期尚早」感が拭えない。
北米大陸は、2013年のアリス・マンロー(カナダ)、2016年のボブ・ディラン(アメリカ)と続いているため、今回は考えにくい。また2017年のカズオ・イシグロ(イギリス)の受賞を踏まえると、こう連続で英語圏から受賞者を出すのは「偏り」があるため、あまり考えられない。
ヨーロッパ圏は、2014年のパトリック・モディアノ(フランス)、2015年のスヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチ(ベラルーシ)と連続して以降、2年の間を空けていることになる。その前が、2008年のル・クレジオ(フランス)、2009年のヘルタ・ミュラー(ドイツ)、その前が2004年のエルフリーデ・イェリネク(オーストリア)と考えると、少々詰まっている感が拭えないとはいえ、2019年度受賞者として選ばえる可能性も多少は考えておいたほうがよいのではないか、と思われる。
選考員会のオルソン委員長は6月、受賞者の「調和」を重視していると説明し、「例えば、同じ分野の文学にならなかったり、男女に分かれたりするなどだ」と語っていた。
なお「分野」とは、小説や詩、戯曲といったジャンルのことを指すと思われる。
詩の受賞者は、2016年にボブ・ディラン(アメリカ)が、2011年にトーマス・トランストロンメルがいるが、1990年代には詩人が4名受賞しているため、これだけが詩人を候補から外す理由としては弱くなる。
なお、劇作家の受賞者は2005年のハロルド・ピンター以来出ていない。
私は、海外の劇作家に詳しいわけではない。
また詩となると殊更、門外漢だ。
そのためここでは、劇作家の受賞が出る可能性に触れるにとどめ、オルソン委員長の警告から目を背け、小説家から受賞予想を挙げたいと思う。
◯
だが、名前を挙げる前に、当初の問いに答えておこう。
「今年、村上春樹の受賞はあるのか!?」。
これは、結論から言えば、難しいのではないか、と思う。
たしかに先述の通り、今年は日本人作家が受賞する可能性は、少なくとも2015年や2016年に比べて高い。
だが、2017年のカズオ・イシグロの受賞が、ここで効いてくるのではないか、と思われるのだ。
カズオ・イシグロは現代イギリス文学を代表する作家である。
出身は日本だが、5歳で渡英して以来イギリスで生活しており、創作も英語で行っている。また帰化しているため、国籍も英国である。
2008年に『タイムズ』紙は彼を「1945年以降の英文学で最も重要な50人の作家」(太字・筆者)に選出している。つまり彼は、英文学の伝統の中に位置する作家である。
だから、彼の名を挙げ、「日本の作家が受賞した」とするのは、本来的におかしな話なのである*7し、「彼のせい」で日本人作家の受賞が遠ざかる、としたいわけではない。
ただこれは、村上春樹には、少々「不利」な条件となるのではないか、と考えられるのだ。
繰り返しになるが、カズオ・イシグロの作品はイギリス文学である。
これが、イギリス出身でない作家の作品でありながら英国文学の伝統に位置づけられるすなわち包摂されている、ということに、文化の担い手と国民や民族が一致しないこと、開かれていることの価値を見出すものもいた。
村上春樹の文章は、アメリカ文学の文体――正確に言えば、リチャード・ブローティガン『アメリカの鱒釣り』などを翻訳した藤本和子の文体――に強く影響を受けている。もちろん、これのみを以て、彼をアメリカ文学の作家であると呼ぶ人はいない。しかし、いずれも、日本文学という枠で文学をしなかったという点では類似する。
村上の初期作品において重要な点は、高度資本主義社会における孤独や諦念であり、これは「デタッチメント」と表現されていた。
ここから『ねじまき鳥クロニクル』以降、――「コミットメント」と表現されるが――日本の歴史に対するまなざしが多く作品に取り込まれていくこととなる。ここが、彼の文学の特長にもなっているが、それでも彼の需要のされ方を見るに、「孤独や諦念」にこそ彼の「魅力」は集約されるように思える*8。
カズオ・イシグロの小説においては、自分の境遇を宿命として受け止め、それを前提として生きていくのである、とする一種の「諦念」とも言える感覚が描かれることが少なくない*9。
これはもちろん、村上の描く「諦念」とは「震源地」の異なるものであろう。
彼のそれは、日本に戻ると思っていたが、両親の都合等もあって戻らなくなったという喪失感が根となっていることが推測される。
だから、「諦念」とくくれても、これは別物であり、彼らの主題は異なる、とも言える。
しかしながら、読まれ方として、環境に対する「諦念」が、現実をひとまず所与のものとして受け止めざるを得ないこととされるならば、そこから1968年以降的なマインドとの共鳴性を感じ取ることは、大きな飛躍とは思い難い。
そして、その1968年以降性こそが、村上が――少なくとも日本人作家としてはかなり早い段階で――描写し、人気の原動力となったものだった。
以上をもとに考えるならば、村上春樹は、カズオ・イシグロと少なからず「かぶる」作家であり*10、村上の受賞はこれにより厳しくなるのではないか、と思ってしまう。
「調和」は何も、2018, 19年の2名の受賞者のみに限定されないだろうことは、地域でバランスを考慮している傾向からも、想像できてしまう。
◯
では、村上春樹の本命度合いが高くないことを確認した上で、誰がノーベル文学賞を受賞するだろうか。
予想することに対して意味などない。
予想が当たったからといって何かがもらえるわけではないし――ブックメーカーの賭けに応じれば別だが――外れたからといって罰があるわけではない。それに、当たろうが当たるまいが、その正否自体が作品の売れ行きを決めるわけでもない。
だからこれは、賞に対してワイワイしているだけの、あまり品の良くないただのゲームである。
ただ、やりたいからやるのだ。
あわよくば、当てて、褒められたいのである。
まず、東アジアから候補を見てみよう。
私は、可能性があるのは以下の人物であると考えている。
・多和田葉子(日本)
・残雪(中国)
多和田葉子は、ドイツに在住し日本語とドイツ語で創作する作家だ。
2019年に、全米図書館賞の翻訳部門を、震災文学の傑作である『献灯使』で受賞している。
世界文学たるためには「フクシマ」を描かねばならない――などというつもりはないが、あの「体験」を、早期に、世界文学たる筆致で描いた(少なくとも、そうとある文学賞で評価された)ことは、特筆に値する。
なお、二ヶ国語で創作する作家が受賞となれば、1969年のサミュエル・ベケット(アイルランド, 英語・仏語で創作)以来となる。
残雪は、中国の女性作家である。
「中国のカフカ」とも形容される彼女の作品は、やはりその不思議さや「分からなさ」が特徴であると言えるだろう。
しかしそれは、明確に分からないとか、不条理な出来事に主人公が翻弄される一種の喜劇性を伴うとかそういうこともなく、ただ淡々と描かれるという空気もまた特徴としている……らしい。読んだことがないため、そう書くことしかできない……。
なお、数年前まで韓国の高銀も候補の筆頭として韓国内で名を挙げられていた。
しかし、2017年に常習的にセクシャル・ハラスメントを行っていたことを女性詩人から告発されるなど批判を集めた。ノーベル文学賞の発表が控えられた理由を鑑みても、彼の受賞は厳しくなったと言わざるを得ない。
続いて、アジアの中でも中東の候補者は以下の通りだ。
・アドニス(シリア)
アドニスはシリアの詩人である。本名をアリ・アフマド・サイード・イスビルと言うが、アドニスの筆名で活動してきた。
彼の特徴は、母語であるアラビア語での創作である。もし彼が受賞すれば、先程も登場した、1988年のナギーブ・マフフーズ(エジプト)以来となる。
「アラビア語文はこの支配的な批評観が示唆するような一枚岩ではなく、多元的で、時に自己矛盾をも含むものである」と述べる彼は、アラビア文学の伝統的な詩のスタイルを破るような、革新的な詩を世に生み出した。
続いて、アフリカの候補者は以下の通りだ。
ジオンゴは、小説、戯曲、批評など様々な「分野」の作品を発表しているケニアの作家である。
彼の特徴は、植民地言語であった英語と決別し、母語であるキクユ語での創作を続けていることだ。これは、先述した「言語の多様性」と対応する。
チママンダ・ンゴズィ・アディーチェという作家も、これまでのキャリアは輝かしい。
しかし、近年の傾向を見るに、受賞者の年齢はおおよそ60代前半や50代後半からそれ以上であり、彼女はまだ「若い」作家であると考え候補からは外した。
ここ数年で彼女に何かノーベル賞が与えられるとするならば、ノーベル平和賞なのではないかと思われる。
最後に、ヨーロッパ圏から作家をリストアップする。
・マリーズ・コンデ(フランス)
ペーター・ハントケは、戦後ドイツ語文学の寵児とも言われた売れっ子である。
また、デビュー当時のマッシュルームカットから、ポップスターとも形容された。
彼の特徴は、小説、戯曲、放送劇など多彩な活動にある。村上春樹が受賞し、ノーベル文学賞候補と取り沙汰されるようになったカフカ賞も2009年に受賞している。
マリーズ・コンデは、カリブ海のフランス領グアドループ出身の女性作家である。
カリブ出身の受賞者となれば、1992年のデレック・ウォルコット(セントルシア)以来となる。
カリブ人念願の「奴隷制廃止記念日」をシラク大統領に制定させるなど「行動する作家」であり、またカリブ、フランス、アフリカといった様々なルーツを持つ彼女*11が著した、西洋文明への違和を表明する作品は、多様性への目配せを促す役割も果たすはずだ。
では最後に、ここに挙げた作家たちから
◎ マリーズ・コンデ
◯ 残雪
▲ アドニス
△ 多和田葉子
残雪は、2012年の受賞者が同じく中国の莫言であるから、避けられるのではないか、と思い順位を下げた。それがなければ、残雪とマリーズ・コンデの位置は入れ替わる。
ちなみに、あるブックメーカーででは1位予想らしいカナダの詩人アン・カーソンは、「地域」の節で述べた理由から外している。
多和田葉子を残雪の位置に入れようかとも迷ったが、上記ブックメーカーの予想で21位らしいし……と日和ってしまった。
村上春樹を徹底的に外したのは、もはや意地である。まあ、好きな作家だ。大好きな作家なのだが、そのくせ受賞予想からは外すのが、なんともひねくれた性格の私らしいではないか*12。
まあ、受賞できずとも、彼が優れた作家であることには変わりがない。
もちろん、他の作家だったそうだ。
ちなみに、上に挙げたペーター・ハントケは、ノーベル文学賞について以下のような苦言を呈している。
まあ、読んだことがないことがバレバレな予想を書いてきた私がコメントできることがすれば、それは「ぐうの音も出ねえ……」である。
*1:厳密には、50年間は候補者が公開されないため、候補者と目されている人。
*2:過去に数度例外はあるが極めて稀であり、また1966年を最後にそのケースはない
*3:これは、たとえば物理学賞や化学賞で、今年はこの分野から、といった傾向があるのとほとんど同じことではないかと考えられる。文学の場合、――これが良い分け方かは別として――地域や言語
が「分野」に当たると見做されているのだろう。
*4:ヨーロッパにも分類されうる
*5:なお、黒人の受賞者には、1993年のトニ・モリソン(アメリカ合衆国)がいる。
*7:彼のアイデンティティの一部として、日本出身という要素がどのような一を占めるにせよ
*8:彼のファン層は、新興国に広がり続けている https://mainichi.jp/articles/20190427/ddm/014/040/011000c
*9:https://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/ichiran/20171011-OYT8T50010/
*10:カズオ・イシグロの受賞理由である「世界と結びついているという、我々の幻想的感覚に隠された深淵を暴いた」など、どこか村上を想起させないだろうか。
【お知らせ】noteでエッセイを始めました
いきなりですが、
noteでエッセイを始めることにして、
始めました。
なぜエッセイなのか。
それは、私が――このブログでは特に告知もしませんでしたが――昨年、文学フリマ東京に出したことと、わずかながら関係しています。
正確に言えば、知り合いが出す同人誌に寄稿したのです。
同人誌のテーマは「経済エッセイ」でした。
経済政策や経済の行く末について論じるような「堅い」ものではなく、ただ自分たちの懐が寒いとか、給料が安いとか、そんな話をするもの。
そこに私は、「AIと経済」みたいな、セルアウトチックなものを書きました。
記事を読んだ知り合いつまりその同人誌の「編集長」であり「発行者」にあたる人から来たLINEを引用します。
次回企画時は、まずエッセイであることから始めてみてください。それから論評になれば最高!
論評としてよくできてるし面白いのだが、なぜAIという題材をXXが取り扱ったのかが見えるとさらに面白い。
後半はともかく、前半を読むだけで、私がオーダーに適さない文章を書いたことだけは容易に理解できます。
どうしてそんなことになったのか。
話は簡単。私はきっと、エッセイが苦手なのです。
エッセイが苦手、というのはやや不正確かもしれません。
正確には、「感情」とか「自分」を込めた文章が苦手なのです。
文章はどこか機械的で、ツイッターアカウントについて「ボットと会話しているような気がする」なんて言われたこともありました。
この特徴はきっと、大学3年生のある時分以来強くなったものなのですが、その話は「書きたい日記」の領分なので、ここでは特に掘り下げません。
そういうわけで「苦手」なエッセイ。
それを書いてみようと、今回、始めました。
冒頭にも書いたように、エッセイはこのブログでなくnoteというサービス上に投稿していきます。
現在このブログは、映画やアニメの感想や、長めの「日記」がメインコンテンツになっています。
いわゆるエッセイ然とした内容のエッセイ然とした長さの文は、このブログにはミスマッチなのではないか、と思いました。
また、インターネット上でエッセイと言えば、はてなブログよりも株式会社ピースオブケイクの運営するサービスのイメージが私のなかで強かったというのもあります*1。
noteに書いていくのは、そんな理由からです。
しかし、「苦手」と自覚しながらなぜ書くのか。
文章力の「弱点」を克服したい、というのは分かりやすいストーリーでしょう。そして、そういう思いも確かにあります。
ですが、エッセイの執筆が本当に「弱点」の克服につながる保証はありませんし、そもそも「弱点」を克服したとして何が嬉しいのか、という話でもあります*2。
白状すれば、「書きたいから書く」これが何よりもの動機です。
最近、エッセイを読むことが増えました。
初めは、ブログを書くにあたって雰囲気などここから得られるものがあれば吸収しよう、といった思いで読み始めました。
何を隠そう。このブログは、1駅間で読める通勤時間帯のお供、というのが当初のコンセプトだったのです。
芳根京子の記事には、そのコンセプトの名残があります。
まあ、その次の記事ぐらいから、早速長文化していくのですが……。
参考になるように、勉強のために、と読んでいるうちに、ゆるさ――物語というエンジンを積まない、緊張感の良い意味での薄さ――に面白さを感じ、色々と手を出すようになりました*3。
星野源『よみがえる変態』
岸本佐知子『ねにもつタイプ』
また、以前の記事で取り上げた若林正恭『ナナメの夕暮れ』もそうです。
そして読むようになれば、自分も書いてみたくなる。これは、多くの本読みかつ文章書きに備わった業であります。
最近、読むようになったエッセイだから書きたい。理由はこれに尽きるのです。
また、小説を書こうとして*4、うまくプロットがまとまらず書けなかった*5、というのも多分ちょっとだけ影響しています。
noteで書いていくエッセイですが、noteの機能である「マガジン」にまとめていこうと思っています。
マガジンには、投稿であるノート=記事を複数まとめることができます。
こうすると、なんだかエッセイ集みたいでかっこいいかな、と思ったので。
そういうわけで、noteでエッセイ始めました。
何回同じことを書くんだよ、という話ですが、今回はこのくらいで。
告知なので、趣向を変えて敬体で書いてみましたが、慣れないことをすると、慣れない感じがして、慣れないなあ、って思いますね。
キングオブコント2019感想(1stラウンドまで)
去る9/21(土)に、キングオブコント2019決勝が開催・放映された。
言うまでもなく、日本で面白いコント師の頂点を決めんとする大会である。
冒頭に私の駄弁を連ねても仕方がないので、さっそく本編に参りたいと思う。言うまでもなく、内容はその感想である。
◯
■うるとらブギーズ 462点
喋っている人と一緒に喋ってしまう人と催眠術師のコント。
設定はシンプルだが、それが普段は催眠術師に注目する状況なのにそれどころじゃない、とか、催眠術どころじゃない、といったところにつなげていたのは面白かった。また、他の観客が喋っていることを「一緒に喋ってしまう人」の口から喋らせる、というやり方も非常に面白かった。
色々と遊べたのは、「一緒に喋ってしまう」という設定のシンプルさの妙であろう。
ただ、ここまでハネるとは思っていなかった。
■ネルソンズ 446点
3人いることを活かしたコントだ。
マネージャーが大学生と遊んでいるらしい、という「ここだけの話」を同級生から聞いた和田まんじゅうが先輩に早速話してしまい、話がこじれていく。この同級生と先輩が揉めている中、それを和田まんじゅうと観客が俯瞰的に見る、という構図。
ここで面白いのは、この話、全面的に和田まんじゅうが悪い、という点だ。
俯瞰ポジションに常識人を置いてツッコミをするのではなく、あきらかな「ヤバイやつ」*1を置くことで、場としてはツッコミが欠けるような形になるが、これを展開だけで笑いに繋げられている、つまり構造が極めてシンプルで笑いやすいというところに、きっとこのコントの凄みはある。
ただ、この和田まんじゅうが、最終的にチームメイトをドン引きさせるに至るほど「ヤバイやつ」になったのがまずかったかもしれない。それまでは、口が軽いヤバイやつだけど、先輩のブチギレ具合が尋常じゃなく、それに怯えている、という《異常性》へのエクスキューズがあり、それこそが人間の弱さみたいな可笑しみになっていたはずだから。
■空気階段 438点
水川かたまりがタクシーに乗ると、運転手である鈴木もぐらが「前も乗せたことありあすよね」と言う。しかし、水川には憶えがない。果たして水川が降りると、すぐさま水川が乗ってくる。鈴木が「さっきも乗せましたよね?」と訊ねると、水川は「え?」と答える。これはいったいどういうことなのか? という怪談チックなコント。
タクシーという空間での不条理なネタは、千鳥のコント漫才「よだれだこ」を思い出させる。
ただし、あちらは終始「よだれだこ」「ポカリがわ」という大吾演じるキャラクターが《異常性》を担っているのに対し、こちらは次第に状況が異常な方に転じていく、という構造を持っている。
当初は、鈴木もぐらの「前にも乗せたことありますよね」からの「トランペットにヘチマがつまってた」や、スタンプカード性からして運転手が「ヤバイやつ」なのだが、ガラッと、鈴木の言っていることは正しく、水川にそっくりなやつが何人も存在している、という《異常性》が前景化する。
鈴木のインパクトある見た目からしてもこの展開に対する「驚き」はすごかったが、しかしこのコントの《異常性》が顕になるまでが長く、少しだれてしまったかもしれない。
ただ敗退時の「お笑いのある世界に生まれてよかった」は最高だった。
■ビスケットブラザーズ 446点
上を見ながら、下を見ながら歩いてきた2人が出会う。実はこの2人、かつて結婚し、しかし生き別れてしまった元夫婦だった! というコント。
すごい面白かったんだけども 、同時に、どこが面白いのかが分からないコントでもあった。具体的にどこが「面白い」をのかをうまく言えないのだ。
照明変化をつけて急に雰囲気が変わるところとか、リフレインとか、掛け合いのフレーズの切り方がだんだんと強引になっていくこととか、面白い個所はいろいろあるんだけども、「これがあるから面白いのだ!」が言えない。
だからどう評せば良いのかが分からない。
悪くないんやけど、うーん、悪くないんですよ、悪くないんやけど――と言う松本人志のスタイルみたいでなんだか気が引けるが、実際そうなってしまう。
好きなんだけどね。
■ジャルジャル 457点
野球部の新人と、その教育係。新人がマウンド(グラウンドの端にある、ブルペンとして使われる場所とかだろうか)に行こうとした途端、教育係はめちゃくちゃな言葉を喋り始める。しかし、本人はちゃんと喋っている、という。果たして? というコント。
ネタバラシをすると、この先輩は声の周波数が特殊で、ある長さ以上離れると日本語で喋った声が英語になるのだという。
このコントは、そんな「一定の距離」「言語の変化」というシンプルなルールに支えられている。しかし、だからこそ様々な遊びを入れても混乱しなかったのだろうし、このシンプルさをうまく使い、アイデア一発ネタにせずコントに仕上げていたのは、設楽が指摘したようにうまかったと思う。
また、元々の英語が、英語と受け取れない言葉だったことで、英語を喋ると日本語っぽくなるが、その日本語が文法めちゃくちゃで気持ち悪い、というのも面白い。
ただ、中国語と中国地方というのは、ちょっとオチとして弱かったなあ、と思う。
■どぶろっく 480点
村の男が、母の病気を治すため何とか薬を手に入れようとし、そこにその心の優しさを見込み、お前の望みを何でも一つ叶えてやろうと神様が現れるというコント。
序盤、江口が持ち前の歌唱力を武器に、それなりにミュージカルっぽく、状況と感情を歌い上げる。しかし、サビで彼が「大きなイチモツをください」と下ネタを発して事態は一変する。
そう。これは、言ってしまえば、彼らがいつもやってきたような、単なる下ネタなのだ。そして所詮は、シンプルな「天丼」なのだ。しかし、これが悔しいぐらいに面白い。
だが、これは単なる下ネタなのだが、同時にちゃんと「芝居」だった。
まず、江口は「母の病を治す」という「まっとうな願望」を持ち、また森演じる神様に諭されて何度も元の願いを思い出すのだが、結局は「大きなイチモツ」を願ってしまう。神様という超常的存在つまり願望を叶える機会を前にして、体面とか、「正しいこと」を放り出してまで、「大きなイチモツ」という己の願望を優先しようとしてしまう、というのが良い。
また、神様が諭すように、「イチモツ」は大きさじゃないのだ。
ペニスを「イチモツ」と言い、大きさにこだわるとき、それは尿を排泄するためとしてではなく、性交に使用することが想定されていると言ってよい。そして、ヒトが性交を行うのは、主に遺伝子の交配のためである*2。
より性交をし子供を残すつまり自分の遺伝子を繋げるには、大事なのはペニスの大きさよりも精子の「元気さ」とか量であり、むしろ変わって嬉しいのは、「イチモツ」よりも睾丸であろう。
しかし、村の男は「大きなイチモツ」を願うのだ。それはもう見栄でしかない。この「くだらなさ」が「人間」以外なんと形容できよう。
この点で、これはたしかに「芝居」でありコントだった。
■かが屋 446点
花束を持って恋人が現れるのを待つ男と、舞台となる喫茶店の店員のコント。
このコントは、設楽が指摘していたように、とても「上手い」。
カレンダーを置くことで、暗転前後が同じ日の出来事であることが明示的になるし、「蛍の光」で、閉店間際なのに……というペーソスを醸し出している。また、男の格好から、これがプロポーズであり、これに賭ける男の気持ちも伝わってくる。だからこそ、先のペーソスがたまらなくなる。
そして最後、「それは遅れたことに対してだよね?」が、彼女が何を言ったのか。そして、もうどんな顔をしていたのかすら立ちどころにイメージさせる。
今回はハネなかったが、あるいはこういう形の賞レースではハネにくいのかもしれないが、このコントを見られたことは幸せだったと自信を持って言える。
男が恋人を追い、しかし戻ってきて会計をしようとする律儀さが好きだ。それに、「いいですから、追って!」と言う店員も。
■GAG 457点
男女コンビと、そのうち女性の彼氏が登場するコント。
男女お笑いコンビはその彼氏に挨拶に行き、その場でネタを披露するが、そのネタがことごとく「ブスいじり」であった、という展開を見せる。
男女コンビで「ブス」ネタをするのはよくあることだが、ここに彼氏というキャラクターを登場させることで、その微妙な空気そのものが笑いになるわけだが、「逆に」でなく「順に」篠田麻里子似である、と憤る彼氏が良い。
ここでは、常識化した「ブスいじり」ネタが相対化されている。
「お笑いって異常な世界やな」とか「市役所では考えられへん」とかのフレーズがとても面白いし、この面白さで「相対化」が前景化していないのがバランスとして良いなあ、と思う。あとコントとして「順に」面白いし。
オチも公務員でいい。いやあ、いいんだよなあ、福井くん。
■ゾフィー 452点
不倫をした腹話術師の謝罪会見のコント。
まあ、人形がとても面白い。にじりにじりとした首の動かし方とか。そして、人形を使って、最終的に腹話術師が「悪くない」ということに行き着くところも最高。
また、反対に人形を使えないと、尋常じゃなく端切れが悪くなるところも。
けれども確かに、松本の言うように、カメラがちゃんと人形に寄っていることで一視聴者である私は「より笑えた」のは否めなかったのかもしれない。
「興奮して立っちゃうやつはバカだ」というセリフは最高。
■わらふぢなるお 438点
バンジージャンプをするとスタッフの人の話。
スタッフがかなり異常で、怖がる人と対照的に、紐を付けずにジャンプするなどの異常性/過剰性を発揮していくという構造であった。
悪口を言って、縄を投げてくれるかのギリギリを楽しむところに至る、という「最後」は面白かったが、なんとなく、自分の中ではハネなかった。
バンジーがそもそもTVのものであり、異常に見えるので、その中で異常なやつがいることを、楽しめきれなかったのかもしれない。
なんとなくサンドウィッチマンに似ていたなあ。「下の名前無いんですか?」ってボケも、「なんだよ、下の名前ないんですか? って」というツッコミも。つまり、ワードセンスが。少しだけ。
◯
本当は、最終決戦まで一気呵成に書こうと思っていたが、長くなったので、ここまでで一旦記事を終えようと思う。
なんたって、ここまででもう4,000文字を超えている。
ちなみに1stラウンドでは、
点数1位、2位のどぶろっく、うるとらブギーズ、
そして3位が2組いるなか決選投票の末ジャルジャルが勝ち上がりとなった。
個人的に1stラウンドのFavoriteは、
水川かたまりの「お笑いのある世界に生まれてよかった」と、
GAGの「市役所では考えられへん」と、
ゾフィーの「興奮して立っちゃうやつはバカだ」である。
では、書く元気があれば、また「最終決戦」の記事で。
アイドル冠バラエティ番組というファンタジー、あるいは加藤史帆のホームランについて
憂鬱で仕方ない日曜日の夜に、テレビ東京でこんな名前の番組が流れている。
「乃木坂工事中」「襷って、書けない?」「日向坂で会いましょう」
みんな、坂道グループの冠バラエティ番組だ。
これらの番組はみな、男性芸人と10~20代前半のアイドルたちが繰り広げるトークバラエティの形式を取る。
立ち位置としては、男性芸人がMCをして、アイドルたちはひな壇を務める。
芸人の年齢が高くなりがちなのは、MCを回せる実力が求められるからだろう。
番組中、アイドルたちは制服を模したような衣装に身を包む。
芸人らは、よくスーツないしビジネスカジュアルライクな服装に身を包む。
だからだろうか。
私はそこに、「理想的なクラス」のようなものを見出してしまう。
MCを務める芸人を担任とし、彼女らが生徒であるような、そんなクラスを。
そのクラスには間違いなく裏がない。
なぜならそのクラスは、あの収録スタジオにしか、そしてカメラが回っているとき=表の時間にしか存在しないからだ。
仮に、メンバー間に仲違いなどがあったとしても、フィクションとして作られた場にしかそもそも存在し得ないクラスには、それは表出しない。
その時空は、まぎれもなくファンタジーだ。
素晴らしい、和気あいあいとしたクラスルームの――。
そしてこの前提において、彼女らのバラエティスキルの低さは、武器になる。
グダグダ感を隠しきれない彼女らのトークや持ち時間は、今にして思えばなにが面白かったのか言語化しがたい、笑い転げたあの頃の時間を想起させる。
それが「クラス」感であり、教室感という物語の強度をむしろ高めるものとして作用するのだ。
また、しかし、そのグダグダな時間もMCが存在するおかげで見られるものつまり番組になる。
そのトークを見て、彼女らはバラエティを学んでいく。
さながら、巣立つ時期に向け餌取りのレッスンをする親鳥とひな鳥のようである*1。
乃木坂46が紅白歌合戦に出たとき、NHKホールの客席側に設けられたブースにいたバナナマンが彼女らに手を振っていた。
彼らを見つけたメンバーは、少し感極まったような顔をして、手を振り返していた。
それはもちろん、「乃木坂工事中」およびその前番組であった「乃木坂って、どこ?」においてバナナマンがMCを務めていたからだ。
番組で共演しているから仲がよい、というだけの話では勿論ない。
彼女らは今の地位に至るまでに、そのバラエティ番組で鍛えられたわけだ。
師弟関係――つまり先生と生徒である*2。
さて、なぜ私がこんなに熱弁をふるうかと言うと、つい先日(6月9日)、「日向坂で会いましょう」を見たからだ。
その回では、メンバーの「意外な一面」を見つけよう、という企画が展開されていた。
デビューし他番組での露出も増えてきたメンバーが、同じ特技ばかり披露して飽きられることがないよう、「2周目」以降もテレビ的に使える武器がなくては――というストーリーだった。
そのなかで富田鈴花が「野球のピッチング」が得意だとアピールし、MCを務めるオードリーの若林とキャッチボールをすることになった。
キャッチングは上手いしそれなりには投げれて、「良い感じ」。
そこで若林は、他にも投げてみたい人いる? とメンバーに問いかける。
すると、高本彩花、柿崎芽実、佐々木久美、東村芽依、加藤史帆が手を挙げる。
この加藤史帆が素晴らしかった。
まず3回連続で、地面に叩きつける殺人投法。
そして、その加藤、「バッティングのほうが得意」と主張し、実際に打席に立たせ春日が投げてみたときの画像が、こちらである。
腰が入り、体の前に壁を作り、バット が身体に巻き付くように回る。
まさしく完璧なホームランだった。
もうこんなの笑うしかない。
殺人投法からのギャップが完全に効いている。
最高だ。完璧に持っていかれた。ボールも、笑いも。
アイドルバラエティはグダグダなことが多い、と先ほどは述べた。
しかしときどき、こういう「完璧」な瞬間が訪れるのだろう。
やっぱりそれは、教室で本当に稀に起こる「化学反応」みたいに*4。
この「完璧」さ、オードリーの2人が腹を抱えて笑い転げていたのも良かった*5。
この「楽しさ」は、何よりのエンタテインメントたりえる。
「こういう番組」の楽しみ方を解した気がした、そんな日曜日の少し楽しい夜だった。
*1:ここでは言うまでもなく、バラエティスキルは、単純な面白さのスキルと、キャリア形成に必要な「必須科目」を兼ねている。
*2:先ほど、「クラス」は当該番組のスタジオにしか存在しない、と述べた。だから厳密には、ここでバナナマンと乃木坂の師弟関係を持ち出すのはやや卑怯ではある。だが、これは紅白という「晴れ舞台」だからあり得たものだとして了解して欲しい。安全で、楽しいクラスと、その晴れ舞台しか存在しない――そんなクラスはやはりファンタジーだ。
*3:「俺的にはね、あと8回被せたい」と笑いながら言う若林も最高。
*4:学校の近くに雷が落ちたとき、爆音がするなり立ち上がり、拳を突き上げ「ドーンッ!」と叫んだクラスメイトを思い出す。字面にすると別に面白くもなんともないが、あの瞬間はとても面白かった。
*5:というか、私は単にオードリーが好きなのである。このままだと、日向坂の最推しがオードリー若林になりかねない。
『プロメア』感想: 堺雅人の口から蒙古タンメン中本のスープ
今石洋之監督、中島かずき脚本、そしてTRIGGER制作の映画『プロメア』を観てきた。
これが良すぎて、とても興奮してしまって、さめやらない。
とても「楽しい」映画だった。
無論、とても面白く観たのだが、感想としては「面白い」より「楽しい」が先に出る。
今回は、そんな『プロメア』について書いていきたいと思う。
なお以降の記述には『プロメア』のネタバレを含む。
『プロメア』の世界には、炎を操る新人類バーニッシュが存在する。
彼らは30年前に現れ、彼らの出現に端を発する世界大炎上により多くの人命が失われた。
プロメポリスでは、放火テロを繰り返す過激派バーニッシュ集団マッドバーニッシュに抗するため、高機動救命消防隊バーニングレスキューが消火活動を行っていた。
バーニングレスキューの新米隊員であり、プロメテウスの司政官クレイ・フォーサイト(堺雅人)に命を救われたこともあるガロ・ティモス(松山ケンイチ)は、火災現場でマッドバーニッシュの首魁であるリオ・フォーティア(早乙女太一)と出会う。
この2人の出会い以降、物語は大きく動き始める――。
あらすじや世界観はこんなところだ。
『プロメア』は様々な「解説」や「批評」を書けうる映画である。
ぐるぐるカメラワークは観ていてワクワクする。
炎が三角形で表現されているところなど、露骨に何か「意図」がある。
「火」「消し」の言葉遊びも、聞いていて心地が良い。
しかしそんなことは、ここではあまり書くつもりはない。
そういったモティーフや技巧について、私が書くよりより上手にしたためられたブログも、もう既に世間には溢れていることだろう。
それに、上に挙げたものに価値がないとは言わないが、映画を観終わったあとの私は完全にそれどころじゃなかった。
堺雅人がヤバかったからだ。
映画では冒頭、世界観がざっくりと語られ、そのまま現代のバーニッシュによる火災テロ事件のシーンへと移る。
このシーケンスが、いきなりの澤野サウンドも伴ってとてもかっこいい。
そこから始まるアクションシーンも、ワクワクさせられる。
この戦闘でガロはリオを捕らえ――身柄はフリーズフォースが連行するが――プロメポリスの司政官であるクレイ・フォーサイトから勲章を受ける。
ここに来て、初めて堺雅人のセリフが聞ける。
堺雅人なんて「有名な」俳優を起用している時点で、クレイは単なる司政官であるはずがない。
だから何か裏のあるキャラクターだという予測は立てていた。
そして堺雅人だし、まあそのあたりは上手に演じるだろう、ぐらいに公開前から思っていた。
公開直後から、堺雅人がヤバいというツイートがたくさんタイムラインを駆け抜けていった*1。
クレイが初めて口を開いたとき、私は「あ、堺雅人だ」と思い、そんな一連のツイートのことを思い出していた。
スタッフの名を並べた時点でそうならないと確信できても良かったような、当初の私の推測を述べさせてほしい。
堺雅人と言うと「リーガル・ハイ」は当たり役だった。毒舌で偏屈で、ひどく早口でまくしたてるように喋る人格破綻者の弁護士・古美門研介。
しかし、彼は当然そんな大味の演技しかできないわけじゃない。むしろ、あまり大きく表情を変えるでなく、何かが感を雄弁すぎるほど語る、そんな演技も魅力なのだ。
それは些細な筋肉の動きか、あるいは声色の変化か。
仔細なことを論じられるほど私は演技には明るくないが、兎角、クレイの糸目を見ていると、そんな繊細な演技が「ヤバい」んだろうと思っていた。
まったく愚かな予想だった。
映画中盤以降、まあ色々紆余曲折を経て、ガロとクレイは対立することになる。
そしてそれ以降の、堺雅人、もうまじでノリノリなんである。
驚くべきほどに順調な出世ルートを歩んできた司政官であり、ガロの命の恩人であるクレイが理事長を務めるフォーサイト財団が、バーニッシュに対し人体実験を行っていることを、ガロはリオの口から聞かされる。
その話は果たして本当であり、彼はマグマの活動が活発し半年後には人の住めない星となる地球に見切りをつけ、10,000人の人類を乗せたノアの方舟たる宇宙船パルナスサス号で、4光年離れた星へと移住するパルナスサス計画を進めていた。
そして、バーニッシュをその宇宙船に不可欠であるワープ装置の動力源とすべく、実験を繰り返していたのだった。
さらにクレイは、プロメテウス博士(古田新太)を殺害し、博士の研究成果を横取りしていた。
まあ、とんでもないクソ野郎だったわけである。
この「クソ野郎」という一方的かつ完全な「悪」という構図が、作中ずっと存在するわけじゃない。
そもそも『プロメア』においては、絶対的な正義なるものは切り崩される。だから、完全なる悪なるものも存在し得ない*2。
しかし、目的のため人命を軽視する者と主人公の対立は少なくとも必至である。
ガロとリオは、プロメテウス博士の開発したデウス・エックス・マキナに乗り込み、パルナスサス計画を実行に移さんとしているクレイを止めにいく。
クレイは、デウス・エックス・マキナ改めリオデガロン*3を妨害すべく、自身もロボット・クレイザーX*4に乗り込み対峙する。
ここからの演技がすごいのである。
まあ、わかりやすく言えば「熱演」につぐ「熱演」、「大熱演」。
あまりの熱演ぶりに、私は思わず笑いそうになり、口を抑えながらスクリーンを見つめた。
べつに演技におかしなところなんかなかった。
ゲスト声優に対してよくある「棒読みで草」なんてことを思ったわけでは全然ない。
むしろ反対に、なんかもうすごすぎて、そして楽しすぎて笑けてきたのだ。
サッカーの試合で、もうわけがわからないゴラッソを見て思わず笑ってしまうみたいに。
そしてこの堺雅人、加減とか全然知らない。
もう全セリフ、全力でこっちのことを殺しにきている。
堺雅人の演技のテンションは昂ぶっていく。
もうこれが全力だろ、と何回も思う。
しかし、セリフを発する度にその「全力」を超え、どんどん勢いを増す。
「もっと頂戴」なんて言葉があるけれど、まじで「もっと」くれるのだ。
サービス精神の鬼。KAT-TUNのライブでいうと、「Real Face」を連チャンでやってくれるぐらいすごい。
「ギリギリでいつも生きていたい」そのギリギリのはずのラインすら更に「思いっきりブチ破」ってくる。
もうやばすぎてこちとら「泣き出す嬢ちゃん」になるしかなくて、田中はJOKER。
KAT-TUNのライブ知らんけど。
ここですごいのが、堺雅人がどこまで行ってもちゃんと堺雅人であることだった。
アニメに合わせてか大仰にやった部分はあるだろう。それが「全力」を感じさせたところがないとは言えないだろう。
しかし、その声はちゃんと堺雅人だった。無理がなかったのだ。
だから、これは最初から最後までキャラクターの延長線上にある声なのだ。
そしてそれでいて、いや、だからこそ、TRIGGERであり中島かずき作品のキャラクターなのだ。
あぁ! 堺雅人がロボットに乗っている!
堺雅人が、彼らの「いつものやつ」をやっている!
めっちゃ見たいやつじゃん!
そんな愉快な気持ちになり、この「凄まじさ」と相まって、とても笑いたくなったのだ。
そんなわけで、堺雅人の演技を前に、私のテンションはぶち上がってしまった。
映画館じゃなければ、その場で拳を突き上げたかった。
「Fuuuuuuuuuuuuuu!!!!!!!」と叫びたかった。
観たいものを見せてくれたことに打ち震え、その喜びを表明したくなったのだ。
したいのは応援上演じゃない。
「Fuuuuuuuuuuuuuu!!!!!!!」と――。
さて、肝心のストーリーや意匠なんかについては書かないと先述したが、正直なところ、 あまり憶えちゃいないのだ。
ちゃんと解説とかしてくれているブログを読むと、ああそうだったね、なんて思い出せる。なかなか手に汗握って観たような記憶もある。
しかし私が途中から、ストーリーとかどうでもいいモードに入ってしまったのだ。
アクションでどっひゃー! って言いてえし、堺雅人は堺雅人だし、もういいじゃん、みたいな。
ラストシーンは澤野サウンドが鳴り響く中、もう「ごっつぁんです」しか言えない。 完全なるK.O劇。
中国人の経営している中華料理店で、もうバカみたいな量の料理が出てくるあの感じ。
演技のテンションも高かったが、アクションシーンのカロリーもなかなかに高い映画だったことは記憶している。
だからまじで胃もたれを起こしかねない勢いではあるのだが、翌日もまた観たいとも思わせてくれる。
これがマジで意味が分からない。
たぶん蒙古タンメン中本に通う激辛好き共もこんな感じ。変な物質がたぶん頭の中で出て、すごいやばかった。
新手のクスリ。大麻よりプロメア。
そんなわけで、堺雅人*5がやべえ映画『プロメア』をよろしくお願いします。
ちなみに映像もやべえし音楽もやべえし、いろいろやべえです。
てか、やべえんで。はい。