「全てをここにぶつけるつもりで練習してきたので、80%くらいかな……出し切れたと思います」
サルコー、ループ、トーループ……北京の氷上で魅せた怒濤の3連続4回転で、五輪団体戦銅メダルの立役者となった鍵山優真(18)。最後のジャンプの着氷に成功すると、画面に映し出されたのはコーチで父の正和さん(50)のガッツポーズ。二人三脚で歩んだ苦難の日々が、彼の地で花を咲かせた瞬間だった――。
2003年5月5日に生まれ、富山県で育った優真にとって、父の職場であるスケート場は身近な存在だった。物心ついた時にはスケート靴を履いていたが、姉や友だちと無邪気にリンクを駆け回る、ごく普通の少年だったという。
一方の父・正和さんは92年アルベールビル、94年リレハンメル五輪に2大会連続出場したオリンピアン。全日本選手権では3連覇を遂げ、伊藤みどりらと共に日本フィギュア勃興期を駆け抜けた伝説的選手だ。
「公式戦でこそなかったものの、日本人で初めて4回転ジャンプを成功させ“ジャンプの鍵山”の異名をとった。ただ、選手生活の過酷さを知る正和さんは当初、息子を選手にすることには後ろ向き。楽しそうに滑る姿を見て『いい経験になれば』と指導を始めたそうです」(正和さんの知人)
優真が小学生の頃に軽井沢へ転居。正和さんがコーチを務めるスケート教室では、他の父兄が「そこまでやらなくても」と気圧(けお)されるほど、愛息への指導はいつしか熱を帯びていく。
実は父子には、人知れぬ苦労があった。日本スケート連盟の関係者が明かす。
「正和さんは普段は穏やかなんですが、若い頃は酒を飲むと人格が変わり、周囲との揉め事が絶えなかった。今でも語り草となっているのが、リレハンメル五輪の帰路での“事件”。酔っ払った正和さんが、フィギュア日本代表の杉田秀男監督(当時)に『うるせえ!』と殴りかかってしまい、清水宏保さんら他競技の選手が総出で止めに入る大騒動になりました」
この一件など、酒での失敗が祟り、フィギュア界ではその輝かしい経歴に見合わない“傍流”に追いやられてしまったという。
「私生活では二度の離婚を経験。コーチとして日本各地のリンクを転々としながら、男手一つで優真くんを育て上げたのです」(同前)
しとしとぴっちゃん……、刀の代わりにスケート靴を携えてさすらう、ちゃんと大五郎、ならぬ正和さんと優真。優真が中学に入ると横浜へ活路を求めた。
当時はマイペースに過ごし、同世代の選手に「手が届かない」と漏らしていた優真少年。転機が訪れたのは中学最後の年の18年6月のこと。正和さんが突然、脳出血で倒れたのだ。
「どうしよう」
頭が真っ白になったが、いつしか腹が決まった。
「もう自分でやるしかない」
少年に自立心が芽生えた。
「『お父さんがいないと不安』と語り、朝はお父さんに起こしてもらい、ごはんを作ってもらい、練習では指示を待つ……という生活が一変。お祖母様の支えも得ながら、自分で練習の計画を立て、いま何をすべきか考えるようになったそうです。『それがジャンプの成功率アップに繋がった』と振り返っていました」(スポーツライター)
後の成長は父の目をも見張らせた。同年のアジア杯で国際大会で初出場初優勝したのを皮切りに、翌年の全日本ジュニアも制覇。昨年の全日本選手権では憧れの羽生結弦、宇野昌磨に次ぐ3位に輝き、北京五輪の切符を掴んだ。
長年の知人は目を細める。
「スピードを活かした無駄のない美しいジャンプと柔らかな着氷は、まるでお父さんの生き写しのよう。二人は良くも悪くも“スケートバカ”。スケートへの純粋な愛で固く結びついた親子なんです」
二人の逆転人生はまだ始まったばかりだ。
source : 週刊文春 2022年2月17日号