第4話 産まれ落ちるモノ
がち、がち、と音を立てる牙。錘を粘液で垂らすように溢れる黄ばんだ唾液には赤黒い腐った血が混じる。濁った金色の目が少女を睨む。彼女は全てを受け入れていた。金髪碧眼の少女が手を広げた。妖怪ではない、人間の少女が。非力な子供が、まるで慈愛に満ち溢れる女神のように微笑む。
「産んであげる。あなたのことを、ヒトとして」
ルグレアンが少女を押し倒す。激しい交尾が始まり、ややあって──。
夜明け、霧散する巨体。繭となった少女は、その肉体を内側から捕食する胎児の存在に母性を抱いた。
もっともっと、もっと食べなさい。
そして、大勢を殺すの。
×
甲高い電子音。揚羽はため息をつく。偏頭痛がする。雨だ……昨日晴れてたのに。重く糸を引くような、ずるずると這いずる亡霊が服の裾を握り締めるかのような不快な重みが脈打つ頭を引きずるように持ち上げて、ソファで起き上がる。
ぼうっとする頭を押さえて立ち上がった。どこかにあるはずの頭痛薬を探して、棚のタンスに入っていたそれを手に取った。薬局になら必ずある類のメジャーな頭痛薬を二つ取り出して口に放り込んで、唾液で飲み込んだ。
カーテンを開けると豪雨というわけではないが、ぱらぱらと雨が降っており、空には鉛色の雲が重たく垂れて太陽光を隠していた。
大きく息を吸い込んで、吐き出す。
六月二十六日、土曜日。電子時計に刻まれたその数字は、今日も学校で半ドンで授業があることを示唆している。だが、たった半日の授業のためにこの部屋を出る気などなかった。逡巡というほどのものも起こらないまま、揚羽は休むことを決める。
時間は朝六時半。こんな早くに学校に連絡しても誰も出ないだろう。担任の小沢真衣の携帯電話番号は知っているが、一生徒が個人的に連絡するとあらぬ疑いを生む。ただのビジネスパートナーなのだが、センセーショナルな話題で盛り上がりたい世間一般はなかなかそれを認めてくれない。
腐肉を引きずるゾンビのような足取りで冷蔵庫を開けた。ここまでひどく弱っている自覚はわかっていた。
肉だ。
昨日もらった紙に包装された肉を冷蔵庫から取り出す。どこにあった肉で、何歳くらいで、など書いてある。
まるでスーパーに並ぶ豚肉の細切れのような書き方だ。産地と加工日。
この人物は何を思って死んだのだろう。自殺はある種個人に与えられた特権である。己の人生は一度きり、自分のものという美談がもてはやされるのであれば、自殺だけを後ろ指さして弱者の逃げ場、などと後ろ指を指していいわけがない。汚いものに蓋をする、というだけではさまざまな認識が狂う。それは大人になっていくにつれ、その人物に歪な思考回路を発露させて厄介な場面を増やす羽目になるだろう。マニュアル人間だとか、一時期流行ったゆとり世代だとかもある種のそうした「変な大人たち」で、同時に「身勝手な大人」の被害者であると言える。
手に掴んだ包装紙越しの肉の感触。空腹感でそれがご馳走に思え、同時に己への嫌悪の感情が湧き上がってきた。けれどこれを食べなくては自分の本性を理性で迷彩し続けることができなくなる。今まで必死になって隠し続けたこの恐ろしい本性が崩れ去る。今までの努力が水泡に帰し、これまで食べてきた人間の数が明らかとなれば極刑は免れない。それに事務所もタダでは済まないだろう。
揚羽は震える指で髪を日ぱって剥がした。コンビニのおにぎりを破くような感じ。露わになる赤い肉を見て、唾を飲んで、揚羽はそれにかぶりついた。こんなものを食べる自分への嫌悪感と、美味く感じてしまう口の構造への恨めしさ。食べ始めると止まらない食欲と満たされる空腹感。馬鹿げた矛盾をいくつも抱える、決して欠かすことのできない食事。両親のどちらが妖怪だったのか、それは知らない。ただ自分には
『食事』を終えた揚羽はシャワーを浴びる。ぬるま湯で血を落とし、専用の洗剤で血を落とす。流れ落ちるそれを冷水へ切り替えて頭からかぶり直すと、段々と意識が明瞭になっていく。が、食事の余韻の後で学校に行く気にはなれない。この独特の気だるさと、後少しなら食べられるという欲求は危険だ。
脳味噌の中に脈打つ腫瘍でもできたかのような感覚に苛まれながら着替え、ソファに座り込む。のんびりとシャワーを浴びていたようで、時間はもう八時。途中途中無意味な思考停止と、それで呆然と立ち尽くしていたからか思ったより時間がかかったようだ。
揚羽は
「どうしたの?」
「具合が悪いので休みます」
「そう……
「平気です。多分、普通に風邪だと思います」
「わかったわ。安静にしてなさい」
通話を切る。ミラフォンをはじめとするミラージュ機器は妖力で動く。人間にも微弱に、あるいは個人差によっては膨大な妖力が与えられている。妖怪や汎用もまたしかりだ。基本的には妖力量は妖怪の方が圧倒的に上。けれどこの妖力をよく思わない人間が多いのも事実であり、ミラージュ機器の普及はなかなか進まない。
地下階層では妖怪が多いため──安全圏に嫌われ者の妖怪がいるのも変わった話だが、やはり差別意識は消えないということだ──、下ではミラージュ技術が多く見られるらしいが。
揚羽はミラフォンをポケットに捩じ込んで自室を出た。十二畳半のボロボロの自宅。今の給料ならもう少しマシな場所で暮らせるが、あまり退魔師をしていることを知られたくない。己の思想や行動を知られれば正体がバレる。インターネットで赤裸々に……というよりは、タイムセールのシールが貼られている魚の切り身か豚の細切れのようにプライベートをひけらかす行為に至る心理が、揚羽には理解できない。
一階へ降りて、ガレージを見て歩くことにした。持参した黒い傘を開いて歩道に出る。
芽黎が始まる数年前、だいたい三十年ほど前か。この国は大きな転換期を迎えた。
列島を襲った史上最悪の大震災によって復興さえも困難となった当時の政府は、己の安全しか考えない政策へと舵を切った。その煽りを食う羽目になって怒り狂った国民が各地で暴動を起こし、当時の国防組織と激突。その際、暴動側に助力したのが妖怪だ。結果的に旧来の政治体制は崩壊し、
その際に、大震災を経てもなお減らない人口への対策として、限られた地表面積を有効活用した階層都市構想が生まれた。ここはそんな実験計画都市の最先端である。
日陰が多い街。実験的な試みであるための物理的、心理バイアス的、法的な欠陥。そこに付け入る悪人。自分もまたシステムの穴の中で暮らしている。
適当に駅に入って、ライトレール列車の切符を買う。ああしようこうしようと思考が巡るもののそれらにまとまりはなく、結局惰性に近い流れで列車に揺られていった。
学校をサボることに罪悪感などない。そんな真っ当な正義感や義理人情などとは無縁に生きてきたし、これからも関わりのないものだと思っている。具体的になにがどうとは言えないが、自分は郷愁だとか帰巣本能が薄い。当然、何かを愛することにも興味がない。
駆け抜ける列車が北に隣接する
そうしてようやく気づく。手には、仕事道具が詰まった箱があることに。無意識だったのか……或いは、何かの直感が働いたのか。それはわからないが、揚羽は己の危険予知を信じることにした。何か起きるかもしれない。明確に肉付けされた理由ではないが、ただそう感じた。
そしてそれは、実際に正しかったのである。
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